純粋な「掛け捨て年金」はどうだろうか?

橋下徹大阪市長が「維新版・船中八策」のなかで、年金の積み立て方式への移行と「掛け捨て年金」を組み合わせる新しい年金制度を主張している。具体的な内容は詳らかになっていないが、年金はじゅうぶんな老後資金がないときのための保険であり、資産家や高所得者には支給しないということらしい。

「船中八策」には首相公選制や参院の廃止など大胆な項目が並んでいて、新自由主義/市場活用型の改革モデルになっている。政党としてはもちろんすべての項目で実現を目指しているのだろうが、議論をすること自体にも意味があると思うので、この耳慣れない年金制度について私見を述べてみたい。

まず原理的にいって、すべての保険は「掛け捨て」だ。もっと簡単にいうと、保険の仕組みは宝くじと同じで、賭けに外れたひとから当せんしたひとに富が移転する。当然、外れを引けば宝くじの購入代金は“賭け捨て”になる。

生命保険というのは「不幸の宝くじ」で、たとえば20年という保険期間を無事に過ごした幸運なひとが「外れ」を引き、事故や病気で死亡したら「当たり」だ。保険料は掛け捨てになるが、誰もが「当せんしないこと」を願っているわけだから、「外れることに意味がある宝くじ」といってもいい。

それに対して積み立て型の年金というのは貯蓄/投資商品の一種で、掛け捨ての保険とは仕組みがちがう。民間保険会社の個人年金は、毎月一定額を積み立てて、規定の年齢(60歳とか)になったらそれを定額で引き出していく。終身年金では途中で死亡しても保険料は掛け捨てにはならず、払った分くらいは戻ってくるのがふつうだ(保険の設計でいろいろな種類がある)。

掛け捨ての年金と積み立て型の年金というのは商品設計が根本的にちがうので、分けて考えたほうがいいだろう。

よく知られているように現行の年金制度は賦課方式で、現役世代が退職世代の年金を支払うかたちになっている。最近は「ねんきん定期便」にこれまで納付した保険料の総額が記載されているが、これは個人財産ではなく、将来の世代が払ってくれるはずの年金のヴァーチャルな原資にすぎない。

少子高齢化がこのまま進めば年金制度は破綻して、このヴァーチャルな原資が消えてしまうのではないかと、多くのひとが心配している。年金制度に対するこの不安が、日本の閉塞感の大きな原因のひとつだ(生活防衛を優先して預貯金を増やそうとするから消費市場も萎縮する)。

年金を積み立て型に変えるのは年金不安への抜本的な解決策で、ヴァーチャルな原資がリアルな資産(法によって所有権の確定した資産)になれば、80歳になってから、「お金がないので年金は払えません。あとは自分で生きていってください」といわれることはなくなる。

だが積み立て型への移行にはひとつ大きな問題があって、現役世代の保険料を個人資産にするには、退職世代が受け取る分の年金(彼らが払った保険料はさらに上の世代の年金として使われてしまった)を新たにファイナンスしなければならない。すでに1000兆円も借金があるのに、年金資金として新たに何百兆円も国債を発行すれば、財政は破綻してしまうだろう。

この問題はずっと前からわかっていたのだから、まだ財政に余裕のあった80年代か、せめて90年代のはじめに年金を積み立て方式に移行しておくべきだった。しかし日本の政治は「決められない」のだから、いまさらいっても詮無いばかりだ。

積み立て型への移行を可能にするためには、少しでもファイナンスの額を減らさなければならない。そこで出てきたのが「掛け捨て」年金なのだろうが、正直、これにはいろいろと疑問がある。

国民年金の未納が問題になっているが、これは制度上、納付するかどうかを保険加入者が選択できるようになっているからだ。そこで、たとえば「65歳時点で資産1億円以上のひとには年金を支給しない」と決めたとすると、親から1億円以上の財産を相続する予定のあるひとは最初から年金に加入しないだろう。それ以外でも、65歳までに1億円を貯める目処がついたひとは順次、制度から脱退していくだろうから、保険加入者は貧しいひとばかりになって制度は破綻してしまう(いわゆる「逆選択」の問題だ)。

それを避けるには、丸損だとわかっているひとからも強制的に保険料を徴収する仕組みが必要だ。これはジョージ・オーウェルの『1984』のような世界だが、「維新の会」はこんな未来を目指しているわけではないだろう。

現実的な方法は、年金保険料を消費税で徴収して、一定の資産/収入以下のひとだけに支給することだろう。これなら年金と生活保護は一体化して行政の効率は上がるだろうが、これまで保険料を納めたひとを納得させるのはきわめて難しい。年金と生活保護を合体させるのは、保険料の納付者(そのなかで一定以上の所得のあるひと)から年金の受給権を取り上げて、保険料を払ってこなかったひとに分配することを意味するからだ。

それではいっそのこと、年金を本来の「掛け捨て」にしてしまったらどうだろう。

純粋な「掛け捨て年金」では、国民は、平均寿命よりも長生きしたときに「当たり」を引く宝くじに参加することになる。この方式では、資金は平均寿命に達する前に死亡したひとから、平均寿命を超えた長寿のひとに移転する。これが掛け捨て年金の最大のメリットで、お金は世代ごとに右から左に移動するだけなので、将来の人口動態にかかわらず絶対に破綻しない。そのうえ掛け捨てだから、保険料は大幅に安くできるだろう。

高齢者の最大の不安は、自分が予想以上に長生きして、お金が尽きて誰にも面倒を見てもらえなくなることだ。長寿が罪悪のようになってしまう社会は、どう考えても間違っている。「掛け捨て年金」は、長寿のリスクに完璧な保険をかけることができるのだから、健康なお年寄りはなんの不安もなく人生を楽しむことができる。

ただしそのためには、すべての国民が、平均寿命までは自己責任で生きていかなければならない(年金保険料が安くなる分、リタイアから平均寿命までは自分で老後資金を積み立てる)。それでも、破綻することが明らかな年金制度に老後を託すよりはるかにマシだと思うのだが、どうだろうか。

PS 高齢になれば病気やケガで働けなくなるひとも増えるだろうから、そのための保険も付加するべきかもしれない。それでも、年金全体を積み立て方式にするより移行費用はずっと安くできるだろう。

「言語明瞭意味不明」の世界で生きるということ 週刊プレイボーイ連載(38)

主張が一貫しないひとは信用されなくなる、という話を前回しました。「前の話とちがうじゃないか」といわれると、私たちは返す言葉がなくなってしまいます。

だとしたら、議論に負けない最強の方法は約束をしないことで、これを「言質をとられない」といいます。

国会審議で、首相や閣僚がのらりくらりと答弁をするのを見ると、この戦略がいかに有効かわかります。かつて「言語明瞭意味不明」といわれた首相がいましたが、日本では相手に言質を与えないことが政治的才能なのです。

それに対して欧米社会では、まったく異なるやり方でこの問題に対処しています。

ひとつは、約束を破ったときにどうするかを、あらかじめお互いが合意しておくことです。契約のなかにキャンセル条項があれば、話がちがっても無用なトラブルが起きるのを防ぐことができます。

もうひとつは権限と責任を一対一で対応させることで、それぞれが責任の範囲で最善を尽くすことを約束します。これはつまり、「私の責任外のことで君が不利益を被っても知らないよ」ということです。

欧米のビジネスマンは、自己紹介のあとにまず、自分はどのような仕事に責任を負っているのかを説明をします。この原則は組織の末端まで貫徹していて、だれもが自分の担当をはっきりと意識しています。

以前、シアトルのホテルにチェックインしたら、部屋にはまだ前の客がいて、出発の準備をしていた、ということがありました。彼らの荷物を運ぶポーターがいたので事情を説明すると、いきなり「それは私の責任ではない」といわれました。「君の責任の話をしているのではなく、どうしたらいいか聞いているんだ」というと、「そんなことはフロントにいってくれ」との返事です。その拒絶の仕方に驚きましたが、ポーターの仕事は荷物の管理で、それ以外のトラブルは自分には関係のないことなのです。

日本では、こういうことはちょっと考えられません。全従業員が、ホテルのすべての出来事に責任を負うのは当然とされているからです。すくなくとも、フロントに電話して対処を依頼するくらいのことはするでしょう。こういうとき、アメリカ人が私たちとまったく異なる原理で行動していることに気づきます。

もちろんこれは、アメリカ人が不親切だということではありません。逆に彼らは、自分の仕事に関しては過剰なくらい親切です。ただ、権限のないことをしないだけなのです。

個人ごとに責任と権限が確定した社会は、私たちから見れば、ぎすぎすとしたイヤな社会かもしれません。いちいち契約書を交わすのは、相手を信用していないようで水臭い感じがします。

だからもちろん、日本的な美風にも意味はあります。

責任や権限をあいまいにしておいたほうが、いろんなことに柔軟に対応できて、うまくいくことも多々あるでしょう。口約束なら、あとで状況が変わってもかんたんに修正できます。

これはきわめて快適な社会ですが、ただそのかわり、あらゆる組織が「言語明瞭意味不明」になって、だれひとり責任をとらなくなってしまうのです。

 『週刊プレイボーイ』2012年2月13日発売号
禁・無断転載 

GKB47のイタさについて

野田政権による自殺対策強化月間のキャッチフレーズ「GKB47」が、あまりの不評のため撤回された。自殺予防に取り組むゲートキーパー(門番)を47都道府県で増やそうというキャンペーンだが、自殺対策に取り組む民間団体などから「自殺問題をバカにしている」「GKBは若者言葉でゴキブリの意味だ」などの批判が噴出したのだという。

一連の騒動についてはアイドルに対する蔑視を感じるひともいるだろうから、ここで私見を述べるつもりはない。私が書きたいのは、「GKB47」をはじめて目にしたときの、「このイタさはどこかで見た覚えがある」という既視感のことだ。

昨年末に、「内閣府大臣官房政府広報室」というところからFAXが送られてきた。タイトルは、「『守る力を』ネットワーク サポーター参画のお願いについて」というものだ。

ほとんどのひとが知らないだろうが、「守る力を」ネットワークというのは、「災害弱者とも言われる独居老人や、幼い子供たち、また、うつ病から自殺に至ってしまうような方など、社会的に弱い立場の人々を、公共の仕組みや相談窓口を使ってもらうことで解決に導いていこうとするためのもの」で、①減災(災害が起こったときに、いかに被害を減らせるか)、②児童虐待防止、③自殺対策、の3つのテーマについて、Facebookに特設ページをつくり、「発信力のある各界の方々」にサポーターとして参画してもらって、国民の側から議論を盛り上げていこうという試みだという。

このように説明してもよくわからないと思うので、実物を見ていただこう。

「守る力を」ネットワーク

昨年8月にスタートし、著名人がサポーターとして登録しているが、半年以上経っても「議論」らしきものはほとんどなく、月に数件のコメントがつく程度だ。

Facebookを活用したこの政府広報のどこがイタいのか、あらためて「サポーター参画のお願い」を読み直してみた。

  • FAXの文面が、明らかに名前の部分を変えるだけで誰にでも送れるようになっていること。私は減災や児童虐待についてはなんの知識もなく、唯一、意見があるのは自殺対策だが、内閣府の政府広報室はこのような議論をしたいわけではないだろう。ようするに、誰彼かまわずFAXを送りつけているのだ。
  • 依頼の文面に報酬についての言及が一切ないこと。ボランティアでやってくれ、ということなのだろうが、そうであれば、その旨を明記するのが社会人にものを頼むときの最低限のルールだ。ここから伺えるのは、「政府の活動に参加できるのだから、ただ働きでもいいだろう」というお上感覚だ。このひとたちは、「橘玲(「守る力を」ネットワーク・サポーター)」という肩書きに価値があると信じてるのだ。
  • そしていちばんイタいのは、SNSのことをまったく理解していないことだ。Facebookのページを見ればわかるように、ここに登場する著名人は月に1回意見をいうだけであとはなにもしない。それにコメントをつけたとしても「議論」とはいわないだろう。こんな退屈な仕組みでは、誰も参加しない(というか、その前に誰も気づかない)のも当然だ。

端的にいって、この「お願い」はかなり不愉快だ。これが(おそらく)私だけの感想ではないことは、いくらFAXを送りつけても「サポーター」がほとんど増えていないことから明らかだろう。

なぜこの政府広報はこんなにイタいのか。その理由は、「守る力を」ネットワーク事務局が大手広告代理店の「パブリックリレーションズ」なる部署に置かれていることからわかる。すなわちこれは、代理店企画なのだ。

私は内情を知っているわけではないが、「GKB47」もおそらくは代理店企画で、だからイタさ(というか、チャラい感じ)が共通しているのだ。

お役人にとってもっとも重要なのは予算は使い切ることだが、かといって最近では、無意味なことにお金を使うと「仕分け」で政治家から吊るし上げられてしまう。そこで代理店にコンペをやらせて、政治家にもわかりやすく、マスコミにも取り上げられそうな企画を選ぼうとした。

そう考えれば、政府広報にFacebookを使ったり、AKB48を起用しようとする発想がとてもよくわかる。広報の効果で自殺者が減るかどうかなど、どのみち検証のしようがない。だったら、そこそこ話題になって、予算の使い方を突っ込まれたときにうまく説明できることがすべてなのだ。

広告代理店の「パブリックリレーションズ」部には、コンペに勝ったことで相応の広報予算が支払われているだろう。自殺対策や児童虐待防止などの美名を利用して、他人をただ働きさせて自分たちが儲けようとするのは、控えめにいっても品性として下劣だ(と私は思う)。「GKB47」に同じいやらしさを感じた関係者が怒ったのも無理はない。

もちろん、こんなことを書いてもカエルの面に小便だということはわかっている。

今回のトラブルで広告代理店も学習して、次はもうちょっとチャラくない企画(演歌歌手や重厚な俳優を使うとか)でコンペに臨むだろう。こうして自殺対策にはなんの役にも立たず、税金だけが無駄に使われていくのだ。