世界の終末を信じる億万長者たち(『テクノ・リバタリアン』未使用原稿)

『テクノ・リバタリアン』の未使用原稿があることを思い出したのでアップします。当初の予定ではこれを「はじめに」の冒頭にする予定だったのですが、ここに出てくるプレッパー(世界の終わりに備えて「準備する者」)の億万長者はテクノ・リバタリアンとは言い難いので、最終的には削除することにしました。

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ダグラス・ラシュコフの肩書をひとつに決めることは難しいが、あえていうならば「サイバーカルチャーの専門家」だろうか。

1961年にニューヨークに生まれ、プリンストン大学を卒業後、西海岸に移ってカリフォルニア芸術大学で演出を学んだラシュコフは、早くからインターネットの可能性に魅了され、サンフランシスコのレイヴカルチャーを紹介し、晩年のティモシー・リアリーと交流してテクノ・ユートピア論を唱えたものの、やがて商業化されたサイバー空間に幻滅し、距離を置くようになった。

そのラシュコフが、(アリゾナかニューメキシコだと思われる)「どこかの超豪華なリゾート」に招待され、講演を依頼されたときの興味深い体験を書いている。講演料は、「公立大学教授としての私の年収の約3分の1に達するほど」だった (ダグラス・ラシュコフ『デジタル生存競争 誰が生き残るのか』堺屋七左衛門訳、ボイジャー。

ビジネスクラスで指定の空港に着くと、そこにリムジンが待っていたが、目的地のリゾートまではさらに砂漠のなかを3時間もかかる。忙しい金持ちが会議のためにこんな辺鄙なところまでやってくるのかと不思議に思っていると、高速道路に平行してつくられた飛行場に小型ジェットが着陸するのが見えた。

ようやくたどり着いたのは、なにもない土地の真ん中にあるスパ&リゾート」だった。砂漠の果てしない景色を背景に、現代的な石とガラスの建物が点在し、専用の露天風呂がついた個人用「パビリオン」にたどり着くのに、地図を見なければならなかった。

翌朝、ゴルフカートで会議場に連れて行かれると、控室でコーヒーを飲みながら待つようにいわれた。ラシュコフは聴衆の前で講演するのだと思っていたのだが、そこに5人の男たちが入ってきた。全員がIT投資やヘッジファンドで財をなした超富裕層で、そのうち2人は資産が10億ドル(約1500億円)を超えるビリオネアだった。

男たちはラシュコフに、投資するならビットコインかイーサリアムか、仮想現実か拡張現実か、あるいは量子コンピュータを最初に実現するのは中国かGoogleかなどと質問したが、あまり理解できていないようだった。そこで詳しく説明しようとすると、それを遮って、本当に関心のあることに話題を変えた。

大富豪たちがテクノロジーの専門家をわざわざ呼んでまで知りたかったことは、「移住するべきなのはニュージーランドか、アラスカか? どちらの地域が、来るべき気候危機で受ける影響が少ないのか?」だった。

「気候変動と細菌戦争では、どちらがより大きい脅威なのか? 外部からの支援なしに生存できるようにするには、どの程度の期間を想定しておくべきか? シェルターには、独自の空気供給源が必要か? 地下水が汚染される可能性はどの程度か?」などの質問もあった。

最後に、自分専用の地下防空壕がまもなく完成するという男が、「事件発生後、私の警備隊に対する支配権を維持するにはどうすればいいでしょうか」と訊いた。
警備隊が必要なのは、核戦争や致死性ウイルスの蔓延のような「事件」が起きたあと、飢餓に陥った群衆がゾンビの群れのように、自分の敷地に押し寄せてくると考えているからだ。

だが警備隊を常駐させたとしても、大富豪は安心できない。外は死の世界だが、シェルターには大量の食糧と石油が備蓄されている。だったら警備隊員たちは、雇い主である大富豪をさっさと始末して、それを自分たちのものにしてしまうだろう。

反乱を防ぐために大富豪が考えたのは、食料倉庫に自分だけが開く方法を知っている特別なダイヤル錠を設置することだった。たしかにこれなら反乱を起こしても警備隊は食料を手に入れられないが、たんに「殺されない」ことの保証にしかならない。

そこで、警備員に「しつけ首輪」のようなものを装着させる(ボタンを押すと電流が流れてのたうち回るような装置を想定しているのだろう)とか、警備員や作業員をすべてロボットにするなどのアイデアも出たという……。

アメリカには、黙示録的な世界の終末を信じるカルトがいる。彼らが「サバイバリスト」と呼ばれるのは、「世界の終わり」を生き延びればキリストの再臨に立ち会い、自分たちだけに天国への扉が開かれると信じているからだ。

「ドゥームズデイ・カルト(Doomsday Cult)」とも呼ばれるサバイバリストは、政府は陰謀組織(ディープステイト)によって支配されていると信じているので、医療や社会保障のようないっさいの公共サービスと納税を拒否し、子どもを学校に通わせようともしない 。

自給自足の貧しい暮らしをするサバイバリストは、ビリオネアとすべての面で対極にあるが、ラシュコフは自分を呼びつけた大富豪たちの頭のなかが、終末論を信じるカルトと同じであることを思い知らされたのだ。

フランスとアフリカの旧植民地との複雑骨折したような歴史

ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載していくことにします。

今回は2016年4月14日公開の「現代フランスはアフリカから生まれた!? なぜ北アフリカ出身の移民だけがフランスへの「同化」を拒否するのか?」です(一部改変)。

MartinTrama/Shutterstock

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前回の記事で、「世界でもっとも安全なはずのヨーロッパでテロが頻発するようになった理由はさまざまだろうが、私の理解では、その深淵には長い植民地支配の歴史がある」と書いた。

参考:「フランスが植民地問題を謝罪しない理由(前編)」
   「フランスが植民地問題を謝罪しない理由(後編)」

これが私の独断でないことは、たとえばフランス近現代史の本に次のように述べられている(N.バンセル、P.ブランシャール、F.ヴェルジェス『植民地共和国フランス』 平野千果子、菊池恵介訳/岩波書店)。

今日の「フランスの若い世代」の約三人に一人は、旧植民地出身である。その彼らのアイデンティティを植民地共和国の歴史に立ち戻らずに作り上げようとしても、破綻は目に見えており、ルサンチマンや憎しみが増幅される結果にもなりかねない。このままでは、フランス本国と海外領土の双方において、新たな緊張が生まれるだろう。

この予言的な一文はパリ同時多発テロが起こるずっと前、2003年のものだ。その頃からすでに移民出身の若者たちの暴動が社会問題になっていたが、歴史家たちはその理由を、「フランスが過去の植民地の記憶を否認し、歴史を修正して美化しているからだ」と批判したのだ。

もちろん私はこのことで、「テロの標的になるのはフランス側にも非がある」など主張するつもりはない。ただ日本だけなく(あるいは日本以上に)欧米諸国でも、「歴史問題」は深刻だということは押さえておく必要があるだろう。

それではフランスはなぜ、これまで植民地時代の「負の歴史」を直視せずにすんできたのだろうか。そこにはフランスとアフリカの旧植民地との奇妙な共依存がある。

アフリカこそが“現代フランス発祥の地”

南アフリカで長らくアパルトヘイトが続き、ジンバブエのムガベ大統領がブレア政権と激しく対立したように、イギリスとアフリカの大英帝国の旧植民地との関係は緊張をはらんでいる。それに対して、仏領西アフリカや仏領赤道アフリカが「植民地問題」で旧宗主国と対立することはこれまであまりなかった。これがフランス人にとって、「自分たちはイギリスとはちがう」という植民地神話の根拠になっている

*近年、フランスとアフリカの旧植民地国との関係は急速に悪化しているが、本稿はそれ以前に執筆した。

だがその一方で、イギリスがかつての植民地から軍事的に手を引いたのに対し、フランスはオランド政権になってもマリや中央アフリカに派兵している。これにはもちろん資源獲得などの思惑もからんでいるのだろうが、『フランス植民地主義と歴史認識』(岩波書店)で平野千果子氏は、「アフリカこそが“現代フランス発祥の地”」だという歴史がその背景にあると指摘する。

1940年6月22日にフランスはドイツに降伏し、パリ南東のヴィシーに傀儡政権が誕生した。これに反対してロンドンからフランス国民に徹底抗戦を呼びかけたのがドゴールであることは広く知られているが、当初、連合国では彼の存在はまったく評価されていなかった。共和政の正当な後継者を自称するものの、国家の本質である「領土」と「国民」をまったく持っていなかったからだ。

そこでドゴールは、ドイツとの休戦協定で植民地の主権がフランスに残されていた(対ソ戦を見込んだヒトラーの懐柔策とされる)ことを利用し、ヴィシー政権を揺さぶるために、植民地の総督たちに働きかけていく。

ヴィシー政権の国家元首ペタン元帥は軍人のあいだに圧倒的な支持があったし、開戦当初はヒトラー率いるドイツの勝利が確実視されていたこともあって、最大の植民地であるアルジェリアもヴィシー派で、ドゴールの側についたのは南太平洋やインドの仏領の都市など数少なかった。

ところがここで、仏領赤道アフリカのチャド総督をしていたフェリクス・エブエがドゴールに呼応する。エブエはカリブ海(南米北端)の仏領ギアナ出身で、フランスで教育を受けて植民地行政官となり、チャドでフランス植民地史上初の黒人総督となった。

カリブ海ではフランス革命の共和主義が黒人奴隷を解放したと信じられており、共和政こそが「真のフランス」だった。エブエは他の植民地総督に働きかけ、その尽力によって4カ月で仏領赤道アフリカの4カ国(チャド、中央アフリカ、コンゴ、ガボン)とカメルーンをドゴールの指揮下に入れることに成功した。

これによってドゴールは、248万2000平方キロの「領土」と600万を超える「国民」を持つことになり、自由フランスの首都をコンゴのブラザヴィルに構えた。翌41年9月にはフランス国民委員会がロンドンに発足するが、ヴィシー政権に代わる共和政の「正統政府」はアフリカから始まったのだ。

その後、米英連合軍の北アフリカ進攻を経て43年6月にはアルジェリアの首都アルジェにフランス国民委員会(CFLN)が発足し、これがパリ解放後の臨時政府の母体となる。

エブエは対独レジスタンスの功績を認められ、ドゴールのもとで仏領赤道アフリカ総督の地位にまで上りつめた。1944年にカイロで客死すると、植民地出身者・黒人としてはじめて“国家英雄”を祀るパリのパンテオンに埋葬されている。

これが、「現代フランスはアフリカから生まれた」という歴史だ。

アフリカ人エリートは「エヴォリュエ(進化した者)」

フランス革命の時代から、サブサハラ(サハラ以南)のアフリカでは、白人と黒人の混血を中心に、フランスへの「同化」によって社会的地位の上昇を目指すエリート層が誕生していた。

アフリカのもっとも古い植民地のひとつであるセネガルでは、ダカール、サン=ルイ、ゴレ、ルフィスクの4都市で黒人にも選挙権が与えられた。こうした都市部にはフランス革命以前から2世紀以上にわたってフランス文化に馴染み、自らを「フランス人」と考える黒人(混血も含まれる)のエリートがいて、彼らは「同化した者(アシミレ)」と呼ばれた。

だが現地の総督府は、イスラームを棄教することがフランス市民権を得るための条件としたために、フランス流の高等教育を受けたもののイスラームの伝統をも守ろうとする黒人エリートたちの反発を招いた。彼らは「進化した者(エヴォリュエ)」と呼ばれた。

エヴォリュエたちは第一次世界大戦が始まると積極的に兵役に応じ、「血の税金」を払うことで、ムスリムのまま「フランス人」に同化することを求めた。彼らの主張を支えたのは「自由・平等・友愛」のフランス革命の理念で、もしそれが(共和主義者のいうように)普遍的な価値ならば、皮膚の色にかかわらず、完璧なフランス語とフランス文化を身につけ、フランスのために血を流す覚悟を示した者を「フランス人」から排除する理由はないはずだからだ。

「進化した者」という呼び名には、一般のアフリカ人(黒人)を「進化以前の者」すなわちサルに近い存在だとする含意がある。しかしその一方で、黒人エリートが「エヴォリュエ」と呼ばれることに反発せず、「完全なフランス人」になることを求めたのも事実だ。

ここにフランス(西欧)とアフリカの特殊な関係がある。列強によるアフリカ侵略と植民地化が始まった当時、両者の文化や知識の差は圧倒的だったから、アフリカ人のエリートは従属的な立場から脱するために、まずは支配者であるフランス人と同じ立場を目指すほかなかったのだ。

「エヴォリュエ」がアフリカ人エリートの特権的な呼称になったことからわかるように、第二次世界大戦後もブラックアフリカの指導者たちのあいだに親仏的な傾向が残り、それが今日までつづいているのだと平野氏は述べる(『フランス植民地主義の歴史 奴隷制廃止から植民地帝国の崩壊まで 』人文書院)。

アフリカとヨーロッパの融合「ユーラフリカ」

戦後、「ユーラフリカ(ヨーロッパ+アフリカ)」なる概念をアフリカの指導者層が提唱することになるが、これも植民地時代のアフリカの歴史的背景を知らないと理解できない。

セネガルの初代大統領となったレオポール・セダール・サンゴールは、第二次世界大戦でフランス軍に志願し、捕虜から釈放されたのちはレジスタンス運動に身を投じた。サンゴールは白人の人種主義を批判し、被抑圧民族である黒人の文化運動ネグリチュードを提唱したことで知られるが、彼はまたフランス語の詩人としても著名でアカデミー・フランセーズの正会員になり、独立にあたっては「アフリカなしにヨーロッパを創るな」と主張した。

サンゴールの理想は、ヨーロッパとアフリカのフランス領植民地が融合した「ユーラフリカ」で、この連邦制こそが「唯一危険なナショナリズムに対抗する砦となる」と考えたのだ(「ユーラフリカ」という言葉自体はヨーロッパ起源)。

平野氏によると、サンゴールは第二次世界大戦直後に著した「ブラックアフリカ展望――同化されるのではなく同化すること」において、「植民地の側が意思をもって主体的に外来の要素を取り入れることこそが「同化」なのであり、それが精神的な豊かさにつながる」との立場を表明している。

サンゴールは、フランスのものを押しつけられるのではなく、アフリカ自身が自ら取り入れることを目標に掲げ、これを「原住民による同化」と呼んだ。こうした立場からは、人種差別への批判はあっても植民地支配の全面的な否定は出てこないだろう。

EU(欧州連合)の構想は1951年にフランス、西ドイツ、イタリア、ベルギー、オランダ、ルクセンブルクが設立した欧州石炭鉄鋼共同体から始まるが、この時点でヨーロッパはまだ植民地を抱えており、それをどのように扱うか決まっていなかった。とはいえ、西側世界の「超大国」となったアメリカが民族自決を求めている以上、旧来の植民地支配をつづけることができるわけもなく、アフリカ諸国にも独立の気運が高まっていた。ブラックアフリカのフランス植民地のエリートたちは、ヨーロッパ統合を「ユーラフリカ」に拡張することによって、独立後の経済発展と「国民」の統合を目指したのだ。

この「ユーラフリカ」構想は英仏の思惑のちがいなどから自然消滅するのだが、それはフランス語圏において「フランコフォニー」の運動として残った。

「フランコフォニー」は旧フランス植民地やカリブ海のハイチなどフランス語圏、一部でフランス語が使われるベルギー、スイス、ルクセンブルク、カナダ(ケベック)などによって設立された。その目的は「各メンバーの文化の促進と普及」「相互の文化・技術についての協力関係」で、要はフランス語の普及だ。

フランコフォニーは(形式上は)フランスの発案ではなく、創設者として名を上げられているのはセネガルのサンゴールのほか、チュニジア、ニジェール、カンボジア(シハヌーク)など旧植民地の指導者たちだ。

フランスがドイツの占領から解放されたあと、植民地は「フランス連合」として再編されるが、アルジェリア独立戦争の混乱で第四共和政が崩壊し、政界復帰したドゴールによって(紆余曲折はあるにせよ)独立を認められていく。

その過程のなかでフランス留学経験を持つアフリカ人エリートたちは旧宗主国と対立するよりも結びつきを保持し、ドゴールの権威とフランスからの経済援助によって自らの権力を維持しようとした。その後、英語が「世界共通語」になると、東アフリカや南アフリカなど「英語のアフリカ」に対抗して「フランス語のアフリカ」を意識するようになったこともあるだろう。

こうした歴史的経緯が「暗黒大陸に文化をもたらした」との植民地神話を温存させ、フランスはレジスタンス時代のアフリカ諸国の貢献に「感謝」し、アフリカ諸国は植民地時代の文明化に「感謝」するという、ある種の互恵関係が生まれた。これが、フランス国民がアフリカの旧植民地国の内戦に軍事介入することを当然と考え、アフリカ側もそれを拒まない理由なのだろう。

だがフランスと「フランス語のアフリカ」との“共依存”にも例外があった。それがアルジェリアだ。

移民の若者に浸透する「IS(イスラム国)」の歴史観

ここでフランスのアルジェリア支配について詳述する余裕はないが、他のアフリカ諸国と比べてもっとも大きなちがいは、そこが「植民地」ではなく「フランスの一部」だったことだ。戦前の日本における満州と同様に、地中海をはさんだ対岸にあるアルジェリアはフランスの「生命線」で、そこはフランス人(白人)が移住する土地と見なされた。

そのためアルジェリアの植民地支配は、アフリカの他の地域と比べてもさらに過酷だった。本国から遠く離れ環境もきびしいブラックアフリカでは、「文明化」の使命は現地のひとびと(原住民)を教育し、エリートを植民地官僚として取り立てていくほかなかった。それに対してアルジェリアでは、白人の移住者たちが原住民に権力を移譲したりフランス市民権を与えることにはげしく抵抗したため「進化した者(エヴォリュエ)」すら生まれず、抵抗や反乱は武力(拷問と虐殺)によって抑え込まれた。

8年におよぶ泥沼の戦争の末に1962年にアルジェリアが独立すると、この「特別な植民地」での出来事は「フランスの栄光の歴史」の闇として隠蔽されていく。「ピエ・ノワール(黒い靴)」と呼ばれるアルジェリアからの引揚者や、「アルキ」と呼ばれるフランス軍に協力したアルジェリア人の存在に光が当たったのは1970年代になってからで、本格的な補償が始まったのは90年代、シラク大統領が「フランスはこれまで彼らにふさわしい地位を与えてこなかった」としてアルキ顕彰の式典を開いたのは2001年だ。日本では「過去の戦争」は歴史の領域に入っているが、フランスは日本からほぼ20年遅れており、それはまだなまなましい現在の出来事なのだ。

アルキはアルジェリア出身者だが、彼らがフランス社会に受け入れられたのは祖国を捨て(アルジェリアでは彼らは「裏切り者」とされている)フランスに完全に「同化」する道を選んだからだ。しかしその一方で、フランスは経済成長期に多数のアルジェリア移民(ムスリム)を労働者として受け入れてきた。彼らは当初、仕事がなくなれば帰国すると思われていたが、母国にも仕事がないのだからよりゆたかなフランスでの暮らしを望むのは当然で、家族を呼び寄せて定住するようになった。

だが彼らには、アルキとちがってムスリムのアイデンティティを捨てる理由はない。学校で「自由・平等・友愛」の普遍的な理念を学んだとしても、それだけでフランスを「偉大な国」と思うこともなければ、フランス革命の理念に誇りを持つこともないだろう。かえって、高らかに掲げられた理想と自分たちの(被差別者としての)現実との落差に絶望するだけかもしれない。

フランスは移民に対して「同化」政策をとっているが、その前提には、「フランスは植民地を文明化したのであり、それは(全体としては)よいことだった」という「植民地神話」がある。移民の子弟たちは「フランスという理想」を目指すのが当然であり、フランク王国最盛期のシャルルマーニュ大帝や「人類に啓蒙の光をもたらした」フランス革命を「自分の歴史」として学ぶことを要請されているのだ。

第一次世界大戦中の1916年、イギリス、フランス、ロシアの3国がオスマン帝国を分割する密約を結び、現在のシリアがフランス領、イラクがイギリス領とされた。これがサイクス・ピコ協定だが、これによってクルド人の居住地域は分断され、イラクではシーア派とスンニ派のムスリムが混住することになった。さらにシリアでは、多数派のスンニ派住民を抑えるためにフランスが少数派のアラウィー派を重用したことで今日の混乱の種をまいた。

IS(イスラム国)は、このサイクス・ピコ協定を廃止し、国境線を引き直して欧米の植民地主義の「悪」を清算すると宣言している。フランスに住む北アフリカ出身の若いムスリムにとって、どちらの「歴史」がより真実だと感じられるだろうか。

その一方でフランスの(白人)主流層には、ブラックアフリカなど他の地域からの移民たちが「フランス」という理念を(まがりなりにも)受け入れているのに、なぜ北アフリカ出身のムスリム移民だけが「同化」を拒絶するのかがわからない。ここから「イスラームには問題がある」との偏見が生まれたとしてもなんの不思議もない。

これはもちろん、フランスの「正史」よりもISが正しい、ということではない。だが、次のようにいうことは許されるだろう。

フランスの「テロとの戦い」は“歴史(記憶)をめぐる戦争”でもあり、その苦い事実がヨーロッパにおいていまようやく浮上してきたのだ。

禁・無断転載

フランスが植民地問題を謝罪しない理由(後編)

ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載していくことにします。

今回は2016年3月31日公開の「最後発の日本と違い、大航海時代から始まった植民地支配をいまさら「反省・謝罪」をしない欧州・フランスの事情」です(一部改変)。

参考:「フランスが植民地問題を謝罪しない理由(前編)」

hapelinium/shutterstock

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2016年3月22日、ベルギーでIS(イスラム国)による同時テロが発生し、空港と地下鉄で30人以上が死亡する惨事となった。世界でもっとも安全なはずのヨーロッパでテロが頻発するようになった理由はさまざまだろうが、私の理解では、その深淵には長い植民地支配の歴史がある。

近現代史をみれば明らかなように、日本は最後発の「帝国」で、最初の帝国主義戦争は1894年の日清戦争、朝鮮半島を植民地化したのは1910年だ。それに対してヨーロッパ列強がアフリカ、南北アメリカ大陸を侵略し、奴隷制で栄えたのは15世紀半ばの大航海時代からで、イギリスが東インド会社を設立してインドなどを次々と植民地化したのは1600年代だ。フランスのアルジェリア支配も1830年から1962年まで130年に及ぶ。日本とはその規模も影響力も桁ちがいだ。

私見によれば、これが日本が中国・韓国などから過去の歴史の反省と謝罪を求められる一方で、欧米諸国が植民地時代の歴史を無視する理由になっている。日本の場合は謝罪や賠償が可能だが、ヨーロッパの植民地支配は現代世界の根幹に組み入れられており、いまさらどうしようもないのだ――イスラエルとパレスチナの対立はヨーロッパのユダヤ人差別と第二次大戦中の場当たり的なイギリスの外交政策が引き起こしたが、だからといって過去を「反省・謝罪」したところでまったく解決できないだろう。

そのためヨーロッパでは、「植民地時代の過去」は日本とはまったく異なるかたちで現われる。

前回は、2005年にフランス国民議会で与野党の圧倒的多数で可決された「(アルジェリアからの)引き揚げ者への国民の感謝と国民的支援に関する法(以下、引揚者法)」を紹介した。私たち日本人が驚愕するのは、この法律の第4条1項で、「大学などの研究において、とりわけ北アフリカにフランスが存在したことについてしかるべき位置を与える」と定め、さらに第2項で、(高校以下の)学校教育において「海外領土、なかでも北アフリカにフランスが存在したことの肯定的な役割」を認める、と明記したことだ。

この第4条2項はその後、紆余曲折を経て廃止されることになるのだが、今回は平野千果子氏の『フランス植民地主義と歴史認識』(岩波書店)と、高山直也氏(国立国会図書館海外立法情報室)のレポート「フランスの植民地支配を肯定する法律とその第4条第2項の廃止について」に拠りながらその経緯を見てみたい。

2000年のアルジェリア大統領の訪仏で起きた「歴史問題」

フランスとアルジェリアの1世紀におよぶ支配と抵抗の複雑な歴史については前回述べたが、2005年引揚者法が制定される直接のきっかけになったのは2000年6月のブーテフリカ・アルジェリア大統領の訪仏だった。

フランス国民議会での演説でブーテフリカ大統領は、フランスが植民地時代に行なってきたことに対する「悔悛」を求めた。またテレビ出演した際に、アルキ(アルジェリア戦争をフランス側で戦ったアルジェリア人。戦後、約5万人がフランスに逃れたとされる)をヴィシー政権時代のナチ協力者と同じ「対敵協力者(コラボ)」と断じ、彼らの里帰りを拒否した。

アルジェリア大統領の訪仏に合わせるように、高級紙『ル・モンド』(2000年6月20日)の一面に、アルジェリア戦争中にフランス軍に逮捕・拷問されたというFLN(アルジェリア民族解放戦線)闘士の女性の証言が掲載された。その2日後、こんどは拷問を指揮したと名指しされた将軍が事実を認めるとともに、遺憾の意を表明する記事が掲載されるのだが、同日の別の紙面では、同じく名指しされたもう一人の将軍が告発の内容を全面的に否定し、「彼女には会ったこともないしこれは詐術にすぎない」と反論した。

さらに翌日の紙面で、ポール・オサレスという別の将軍が、拷問に自ら手を下したことを認めたうえで、それを正当化した。オサレスは翌年、アルジェリア戦争を回顧した『特別任務』を刊行するのだが、「拷問でアルジェリア人から情報を得てテロを未然に阻止し、無実の人たちを救ったのであり、拷問は効率的で正当であった」と述べたのだ。この著作刊行後、オサレスは人権団体から「人道に対する罪」で提訴されている(オサレスはさらに、アルジェリア側についたフランス人の共産党活動家の拷問死に関与したとして訴えられた)。

アルジェリア戦争を「汚い戦争」として見直すこうした動きに対し、ピエ・ノワール(黒い靴)と呼ばれるアルジェリアからの引揚者やアルキたちが反発し、それに右派・保守派の議員たちが呼応して、彼らの名誉を守るための法律制定が模索されるようになる。

「植民地国の和解や協力のためには「感謝」が先行すべきだ」

その最初の試みが、2003年に100人以上の保守派(UMP国民運動連合)議員によって国民議会に提出された「フランスが存在した期間、アルジェリアで生活していたわが同胞のすべての肯定的業績を認めることを目的とする法案」で、この法案は次の単一条文からなっていた。

第1条 フランスが存在した期間アルジェリアで生活したすべてのわが同胞の肯定的業績は公に認められる。

この法案は、その趣旨説明で以下のように述べている(高山氏前掲論文)。少し長いが、フランスの「植民地意識」がよく現われているので全文を引用しよう。

フランスは1830年から1847年にアルジェリアを征服して植民地としてから1962年にアルジェリアが独立するまで、科学・技術や行政についてのノウハウや文化、言語をこの地にもたらした。

アルジェリアが発展したのは大部分は入植者たちの勇気と進取の精神のおかげであり、フランスとアルジェリアの両国が苦しみと誤解、惨劇、身内同士の殺し合いにもかかわらず、文化的に、また深く結ばれているのは、大部分は彼らのおかげである。

シラク、ブーテフリカ両大統領によって2003年が「フランスのアルジェリア年」とされたこのような機会に「アルジェリアにおけるわが同胞の肯定的業績」を思い起こさないとすれば、それはアルジェリア戦争で大きな犠牲を払った兵士やアルキを讃え、感謝を表明しないことが過失となるのと同じように、歴史的誤りとなるであろう。

「記憶と感謝の時が和解と尊敬と協力の時に先行する」。

だからこそ、フランスとアルジェリアが両国を深く結びつける絆を強化し、深めることができるためには、国民の代表である国民議員がこれら多くの男女の業績を認めることが望ましいし、また正当でもあるように思われる。

前回、フランスの歴史家ジャック・マルセイユが「旧宗主国はおしなべて植民地から感謝されるべきであり、日本も韓国から感謝してもらってはどうか」と日本での講演で述べたことを紹介したが、これを読むとマルセイユの主張がフランスでは奇異なものでないことがよくわかる。ここでは、旧宗主国と植民地国の和解や協力のためには「(被植民地の)感謝」が先行すべきだとはっきり述べられているのだから。

2003年提出の法案はけっきょく成立しなかったが、それを受けてUMPのラファラン首相はミシェル・ディーフェンバッハ国民議会議員に、引揚者関係法の分析と今後の対応についてまとめるよう要請した。2005年引揚者法は、このディーフェンバッハ報告に基づいている。

この報告書は、「学校教育」の項で次のように述べている(高山氏前掲論文)。

アルジェリア戦争のように最近の、感情がからむ事件の記述に非の打ち所のない客観性を求めることはむつかしいとしても、「引揚者高等評議会」が数種の学校教科書から抜粋した記述を読むと、暴力を振るったのはフランス側だけのような書き方がしてある。その一方でアルジェリアが(アルジェリア戦争の終戦を定めた)エビアン協定を守らなかったことやこの休戦協定に続いておこったアルジェリアにおける虐殺や行方不明についてこれらの教科書が黙っていることは疑問を呼んでいる。

さらにディーフェンバッハ報告は、「奴隷売買及び奴隷制が人道に対する罪であることを認めることを目的とする2001年5月21日の法律」の第2条が「学校の教科及び歴史若しくは人文科学の研究科目は、奴隷売買及び奴隷制に対してそれにふさわしい重要な位置づけを与えなければならない」としていることを根拠に、出版社の自由や学問の世界の独立は絶対の基準ではないと主張してもいる。歴史教科書への介入は、この時点ですでに予定されていたのだ。

「アルジェリア系の若者たちを社会に統合するためには、植民地化の肯定的な側面を学校教育で教えるべきだ」

2005年引揚者法は与野党の圧倒的多数で国民議会で可決されたが、その直後から、(歴史教育を定めた)第4条2項に対して歴史学者などから強硬な反対が起こる。彼らは『ル・モンド』紙に「植民地化――公的な歴史にノン」と題する声明文を寄せ、この法律が学校教育の中立性および思想の自由に反して公式の歴史を強制し、植民地化の否定的な側面(虐殺、奴隷制、人種差別など)を隠蔽し、過激なナショナリズムの分離主義を引き起こすと批判した。

こうした批判に対し、アムラウイ・メカシェラ退役軍人担当相は次のように反論した(高山氏前掲論文)。

もしわれわれが引揚者やアルキの苦しみを和らげようと思うならば、われわれはまず彼らがしてきたことや耐え忍んだことの現実を認めるべきである。植民地化の肯定的な面を認めることは、それがもっていたかもしれない暗い面を否定することではない。

またアルジェリア出身の若者たちを統合しようと思うなら、20世紀の戦争において彼らの先輩たちが重要な役割を果たしたことを教えなければならない。アルジェリアとの関係についても、もしわれわれがわれわれのパートナーであり友人となった国々と強力で持続的な新たな関係を築こうと思うならば、歴史を直視しながら、アルジェリア出身の若者たちにそのことを教えなければならない。

2003年提出の法案は、「旧宗主国と植民地国の和解や協力のためには「(被植民地の)感謝」が先行すべきだ」との論理に基づいていた。2005年の引揚者法ではそれに加えて、「フランス国内に暮らすアルジェリア系の若者たちを社会に統合するためには、植民地化の肯定的な側面を学校教育で教えるべきだ」との論理が登場したのだ。

2005年引揚者法の4条2項はけっきょく削除されることになるのだが、それは歴史学者たちの批判が世論の支持を集めたというよりも、同年11月に勃発した大規模な暴動と、その余波の影響が大きい。暴動のきっかけは警官に追われた移民の若者2人が変電所の電線に触れて感電死したことで、サルコジ内相が郊外の若者たちを「ラカイユ(社会のくず)」と呼んだことが火に油を注いだ。

暴動を沈静化させるために政府は第4条を削除する法案を提出するが、与党議員らによって否決されてしまう。するとそれに反発してカリブ海のフランス海外県マルティニークで抗議デモが広がり、サルコジの訪問が拒否される事態にいたった。こうした混乱でシラク大統領は第4条2項の廃止を決めるが、ふたたび国民議会で否決されるのを避けるために法案を憲法評議会に付託し、条文が憲法に反するという判断を得て削除されることになったのだ。

フランスでは左派も植民地主義に肯定的

ここまで平野千果子氏と高山直也氏の著作に基づいてフランスの2005年引揚者法が引き起こした騒動を紹介してきたが、なぜこのような、われわれ日本人の「常識」からはとうてい考えられないことが起きたのだろうか。

ひとつは、ピエ・ノワールやアルキといった“故郷を追われた”ひとたちがフランス現代史の暗部であり、国家と歴史の被害者であるという認識が広がってきたことだろう。とりわけアルキは軍の施設などに隔離され、フランス国内ですらその存在はほとんど知られていなかった。“国家の恥部”として隠蔽され、差別に苦しんできた彼らの名誉を回復し、補償すべきだという主張は、保守派だけでなくリベラルのひとたちにもじゅうぶんな説得力を持つものだった。

アルキが在日韓国朝鮮人と異なるのは、“アルジェリア人”のアイデンティティを喪失した彼らが完全な“フランス人”になることを望んでいることだろう。フランスの同化主義からすれば、兵士として国家に貢献し、完璧なフランス語を話し、フランス革命の普遍的な価値を認めるひとびとを拒む理由はない。そのうえ彼らは「フランスのアルジェリア支配はよい時代だった」と、フランス人の耳の心地いい“歴史観”を語ってくれるのだ。

だがそれ以上に興味深いのは、フランスの露骨な(と日本人からは思える)植民地肯定論に、かつての植民地から表立った批判が聞こえてこないことだ。これが日本と中国・韓国との関係の際立ったちがいで、「日本の植民地支配は野蛮で残酷だが、欧米の植民地政策は文化をもたらした」とのステレオタイプが生まれる理由となっている。

これについて平野千果子氏は、それぞれの旧植民地ごとに異なる事情を説明している。

もっとも古いカリブ海の植民地では、ハイチは1804年にフランスから独立したが、マルティニークやグアドループ、フランス領ギアナはいまもフランスの海外県のままだ。インド洋のレユニオンや海外準県であるフランス領ポリネシアもそうだが、これらはそもそも国家として独立するには小さすぎる島や地域で、フランスに属して財政的な援助を受ける以外に生きていく方途がない。

そのため彼らの要求は、「フランスの一部」として、フランス人と平等な権利を獲得することになる。もちろん彼らのなかにも、有色人種であることで差別されているという不満はあるだろうが、それが「植民地支配」への批判につながることはない(カリブ地域では、ドゴールは奴隷を解放した共和主義の正統な後継者として神格化されている)。

フランスは東南アジアにも植民地を持っていた。「インドシナ」と呼ばれるベトナム、カンボジア、ラオスで、ハノイやホーチミン、プノンペン、ビエンチャンなどの都市は植民地時代のフランス風の街並みがいまも残されている。

だがこれらの地域にはベトナム戦争やポルポトの独裁のような、フランスとの独立戦争よりはるかに大きな影響を与えた現代史の出来事がある。さらにベトナムの場合、喫緊の課題はアメリカとの“戦争の記憶”ではなく、強国化する中国との安全保障上の対立だ。

「敵の敵は味方」の論理によってベトナム国民の対米感情はすっかり好転し、フランス植民地時代にいたっては「古きよき日々」になった(同様に第二次世界大戦中の日本の支配もまったく問題にされず、対日感情はきわめていい)。これではフランス側に、インドシナでの植民地支配を「反省」する理由があるはずはない。

それでは、フランスがもっとも広大な領土を支配したアフリカの国々はどうなのだろうか。これについては話が長くなるので、次回、紹介することにしたいが、その前にフランスのひとびとが植民地時代をどう考えているのか見ておきたい。

2005年12月に行なわれた世論調査では、フランス国民の64%が2005年引揚者法の(アルジェリア植民地時代の肯定的な役割を中学・高校の歴史で教えるという)第4条に賛成している。支持者別の内訳は、右派である国民運動連合(UMP)79%、フランス民主同盟55%のほか、左派の社会党55%、緑の党59%、共産党68%となっている。フランスでは「リベラル」もまた、植民地主義の肯定的な評価を法制化すべきだと考えていたのだ。

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