待機児童問題で語られない「ゼロ歳児を預かる費用は月額40万円」 週刊プレイボーイ連載(340)


安倍首相の「側近」とされる政治家が、党員向けの会合で「『パパとママ、どっちが好きか』と聞けば、どう考えたって『ママがいいに決まっている』」と述べました。「生後3~4カ月で、『赤の他人』様に預けられることが本当に幸せなのだろうか」として、「待機児童ゼロ」を目指す政府方針について、「慌てずに0歳から保育圏に行かなくても、1歳や2歳から保育園に行けるスキームをつくっていくことが大事なのではないか」と発言したとのことです。

日本は「先進国の皮をかぶった身分制社会」なので、夫は会社に滅私奉公し、妻は子育てを「専業」にする性役割分業の抑圧がつよく、それが日本人の幸福度を大きく毀損していることは間違いありません。私自身も子どもをゼロ歳から保育園に預けていたので、「こんなに小さいときからかわいそう」という周囲の“善意”がどれほど残酷なものであるかも知っています。そんな日本社会の既得権層を代表する政治家(オヤジ)の、あいもかわらぬ無理解に絶望するひとは多いでしょう。

しかしここは冷静になって待機児童問題の対策を考えると、意外なことに、この「オヤジ」の発言はそれほど間違っているわけではありません。

「男女平等」が徹底された北欧でも、出産後しばらくは家で子育てをし、保育施設に預けて共働きするのは1歳児からというのがふつうです。しかしこれは、「ママがいいに決まっている」からではありません。ゼロ歳児保育のコストがきわめて高いため、育休期間にそれまでの給与の10割を支給するなどして、家庭に保育を代替させているのです。

こうした事情は日本も同じで、もっとも「手厚い」保育が行なわれる認可保育所の場合、ゼロ歳を預かる費用は東京都の平均で月額40万円、年480万円です。それに対して平均的な保育料は月額2万円強で、差額はすべて国や自治体が補填しています。「子どもを産んだ女性に一律毎月30万円払ったほうがマシ」という異常なことになっているのです。

それにもかかわらず、待機児童は高コストのゼロ歳児に集中しています。しかしこれは日本の母親の就労意欲が高いからではなく、ゼロ歳で「保活」に失敗すると1歳児の選考で不利に扱われるからです。

こうして「保育園落ちた、日本死ね」になるわけですが、1人あたり月額40万円もの税を投入する施設を自治体がおいそれとつくれるわけはありません。こうして待機児童対策は口先だけのものとなり、親の不信感はますます募っていくことになります。

こんな理不尽な事態をなくすにはどうすればいいのでしょうか?

それは北欧のように、高コストのゼロ歳児の育児を家庭で行なうよう政策的に誘導するとともに、そこで浮いた予算と人手を使って、「保活」に必死にならなくても1歳児から確実に保育園に入れるようにすることです。それと同時に、利権のかたまりである認可保育園の改革も必要でしょう。

政治は結果責任です。前提が間違っているとしても、そこから出てくる政策が現状をすこしでもよくするのなら、多少の忍耐も必要かもしれません。

参考:鈴木亘『 経済学者、待機児童ゼロに挑む 』(新潮社)

『週刊プレイボーイ』2018年6月11日発売号 禁・無断転載

新刊『朝日ぎらい』のあとがきを公開します


6月13日発売の新刊『朝日ぎらい』の「あとがき」を、出版社の許可を得て掲載します。

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お気づきの方も多いと思うが、『朝日ぎらい』のタイトルは井上章一さんのベストセラー『京都ぎらい』から拝借した。この“パロディ”を快諾していただいたばかりか、大いに面白がってくださった井上さんにまずは感謝したい。

本書を最後までお読みいただいた方はおわかりだと思うが、私の政治的立場は「リベラル」だ。「普遍的人権」という近代の虚構を最大限尊重し、いわれなき差別のない自由な社会が理想だと思っている。

「リバタニア」のなかでは日本では数少ない「リバタリアン部族」に属し、日本は重層的な身分制社会だとして、その根幹にある日本的雇用を批判してきた。「差別」に反対するのはリベラルとしては当然で、奴隷制やアパルトヘイトの廃止を求めるのと同じだ。

社会政策はゲーム理論やビッグデータを駆使して「証拠に基づいて」決定し、功利主義的に社会を最適設計すればいいと考えており、シリコンバレーの「サイバーリバタリアン(右派)」に近い。「国家は国民が幸福になるための道具だ」と思っているから、右翼・保守派(ナショナリスト)とはまったく話が合わないだろう。

だがそれ以上に、日本で「リベラル」を自称するひととはそりが合わない。それは彼らの主張が間違っているからであり、そのきれいごとがうさん臭いからでもある。――少なくとも私は、自分のうさん臭さを自覚している。

安倍政権を批判するひとは「アベノミクスの失敗で格差が拡大した」というが、内閣府の国民生活に関する世論調査では「現在の生活に満足」との回答が73.9%(18~29歳は79.5%)と過去最高になった(2017年)。そのうえ完全失業率は2.5%と過去最低水準で、有効求人倍率は1.58倍と80年代のバブル最盛期を超えた(2018年2月)。さらに2018年春に卒業した大学生の就職率が過去最高の98.0%になり、大卒のほぼ全員が就職できる「全就職」時代になった。

もちろんこれには人口減にともなう人手不足などさまざまな要因があり、アベノミクスの金融緩和の成果だと一概にいうことはできないものの(これは将来の検証に任せるほかないだろう)、国民の7割以上が生活に満足している事実を無視するのは公平とはいえない。――ただし、現在の生活に8割が満足している若者も、その半数以上(53.3%)が「今後の収入や資産の見通しについて」悩みや不安を感じている。

安倍一強の状況がつづくなか、政権批判の論理はおうおうにして「国民(有権者)はだまされている」というものになる。だまされるのはバカだからで、そのことを指摘するのは自分たちエリートの責務だ――。いうまでもなくこの度し難い傲慢さが、リベラルが嫌われる(正当な)理由になっている。

本文でも述べたが、「リベラル化」する世界では、保守派は「リベラルのくせにリベラルではない」というダブルスタンダードを攻撃するようになる。それに対抗するには、自らが徹底的にリベラルになるほかはない。

「女性が輝く社会」を目指す安倍政権は、「2020年までに指導的地位に女性が占める割合を少なくとも30%程度にする」との目標を掲げたが、リベラルな新聞社では女性差別はないのだから、役員や管理職などの男女の比率は半々になっているはずだ。だとすれば、「なぜ3割なのか。目標は5割を目指すべきだ」と社説に書けるだろう。

同じく安倍首相は、「同一労働同一賃金を実現し、非正規という言葉をこの国から一掃する」と施政方針演説で宣言したが、リベラルな新聞社には「正規/非正規」などという身分差別はなく、とうのむかしに同一労働同一賃金を実現しているはずだ。だったらなぜ、「立憲主義を踏みにじる」首相にこんな当たり前のことを先にいわれるのか。――日本で働き方改革がいっこうに進まないのは、「正社員」の既得権を守ることだけを目的としている労働組合が頑強に反対し、「差別」を容認しているからだ。

「親会社/子会社」は日本における身分の典型で、個人が平等な人権をもつ社会では、親会社からの出向というだけで、同じ仕事をしているにもかかわらず子会社のプロパー社員と待遇がちがう、などということが許されるわけがない。リベラルな新聞社はこんな悪弊とは無縁のはずだから、日本社会にはびこるこの差別を徹底的に批判すべきだ。

新卒一括採用は年齢差別そのもので、日本の法律でも違法だが厚労省が適用除外にしている。当然、リベラルな新聞社はひとを年齢で差別などしないのだから、「同期」とか「○期先輩(後輩)」などという軍隊か体育会のような言葉は死語になっているはずだ。

アメリカでは定年は年齢差別として違法で、2010年にイギリスがこれにつづいた。生涯現役社会に向けて、これから世界的に「定年のない働き方」が広がっていくだろう。だとすれば、リベラルな新聞社は率先して定年を廃止し、能力とやる気があれば年齢にかかわらず現役で働けるように模範を示すべきだ。もちろんこれは、「社員全員をずっと雇いつづけろ」ということではなく、能力もやる気もない社員を一定のルールのもとに解雇するのは経営の自由だ。

日本的雇用は(男性)正社員に会社に滅私奉公することを求め、妻は専業主婦として子育てに専念するのを当然としている。だがリベラルな新聞社にこんな前近代的な風習が残っているはずはないから、子どものいる男性社員は(特別な事情がある場合を除き)全員が共働きで、保育園の送り迎えも妻と分担しているはずだ。

こうした男性は最近では「イクメン」と呼ばれていて、たびたび紙面に登場するが、社内にたくさんいるのだから、わざわざ取材する必要などないはずだ。自分たちの職場のイクメンを積極的に紹介し、夫婦が家事も育児も分担するリベラルなライフスタイルを読者に伝えればいい。

政府の進める「働き方改革」を批判するリベラルなメディアは裁量労働制の拡大に反対しているが、そういう自分たちは裁量労働制で働いている。裁量労働制で残業が無制限になり過労死やうつ病が増えるというのなら、まずは自分たちの仕事を時間給に変えるべきだろう。そうでなければ、労働者が働き方を自分で管理でき、生産性も仕事の満足度も高まる理想の裁量労働制とはどのようなものかを積極的に示すべきだ。

国連の「言論と表現の自由」に関する特別報告者デイヴィッド・ケイ氏は、「日本政府がメディアに圧力をかけている」として放送法4条の撤廃に触れたことで「反日」のレッテルを貼られたが、その後の記者会見では日本の報道機関に対し、「先進国では優れた記者が所属媒体を移る、一種の流動性があるが、日本には存在しない。そのため政府からの圧力が記者にも特別な影響を与える」と述べた(「『日本の報道 圧力に弱い』│国連報告者が会見で指摘」朝日新聞2017年10月26日夕刊)。

日本のマスコミの構造的な問題を指摘したこの会見を記事にしたのは朝日新聞だけで、他のメディアは無視を決め込んでいる。リベラルな報道機関とはこうあるべきとの見本だが、さらに一歩進んで、問題の所在がわかっているならそれを改革すべきだ。

欧米のジャーナリストは自分の専門分野を決め、執筆する媒体を変えながらキャリアアップしていくから、専門分野と異なる部署に社内異動するなどということはあり得ない。このような仕組みなら、そのときどきのテーマに合わせてプロのジャーナリストが外部から加わり、さらなるキャリアを求めて別のメディアに移っていく流動性のある職場環境ができるだろう――ケイ氏の暫定報告では、政府・行政との癒着の温床だとして「記者クラブ制度」の廃止も提言されている。

リベラリズムは普遍的な原理なのだから、「リベラル」を自称するのなら当然、こうした職場が実現されているはずだ。ジャーナリストを目指す若者だけでなく、百戦錬磨のプロもこんな職場で働いてみたいと思うだろうから、日本だけでなく世界じゅうから優秀な人材が集まってくる。そうなれば、旧態依然とした日本的雇用にしがみつく「保守」メディアなど競争相手にもならないだろう。

これを皮肉と受け取るかもしれないが、そうではない。「リベラル」を名乗る組織は、リベラルがどのようなものかを身をもって示す責任を負っている。多くのひとがそれを見て、「自分もあんなふうになりたい」と思うことで社会は前に進んでいくのだ。

「朝日」はかつては憧れだったが、いまでは毛嫌いされる対象になってしまった。そこに社会の「右傾化(アイデンティティ化)」という要因はあるものの、「憧れ」を失った理由はそれだけではないだろう。

重層的な差別である日本的雇用を容認しながら、口先だけで「リベラル」を唱えても、誰も信用しなくなるのは当たり前だ。リベラリズムを蝕むのは「右(ネトウヨ)」からの攻撃ではなく、自らのダブルスタンダードだ。

日本のリベラルにいま必要なのは、保守化した「リベラル高齢者」の既得権を破壊する勇気だ。年金も健康保険も終身雇用も年功序列もなにひとつ変えないまま、若者に夢を与える未来を描くことなどできるはずはない。

だが残念なことに、「朝日的」なるものはいまや「リベラル高齢者」「シニア左翼」の牙城になりつつあるようだ。自分たちの主張が若者に届かないのは、安倍政権の「陰謀」ではない。

とはいえ私は、希望を捨てたわけではない。「日本的リベラル」を批判する本書が朝日新聞出版から出ることが、朝日新聞の勇気と良識を示したものと考えたい。

2018年5月 橘 玲

新刊『朝日ぎらい』のまえがきを公開します


6月13日発売の新刊『朝日ぎらい』の「まえがき」を、出版社の許可を得て掲載します。

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「買って損した」と文句をいわれないように最初に断っておくと、本書は朝日新聞を批判したり擁護したりするものではない。私の関心は、インターネットを中心に急速に広がる“朝日ぎらい”という現象を原理的に分析してみることにある。「原理的」という意味は、「右」と「左」の善悪二元論の不毛な対立(罵詈雑言の醜い争い)から距離を置くということでもある。

もちろん“朝日ぎらい”には、過去(ないし現在)の朝日新聞の報道・論説に由来するものもあるにちがいない。そういう批判は巷に大量に出回っており、私はそのすべてを否定するつもりはないが、だからといって同じことをここで繰り返しても意味はない(ネットを検索すればいくらでも見つかるだろう)。文筆家の仕事は、他人がいわない主張を紹介し、言論空間にゆたかな多様性を生み出すことだと思うからだ。

本書のテーマは「リベラル化」と「アイデンティティ化」だ。

「リベラルが退潮して日本は右傾化した」と当たり前のようにいわれるが、私はこれには懐疑的だ。これから述べるように、世界でも日本でもひとびとの価値観は確実にリベラルになっている。リベラルが退潮しているように見えるのは、朝日新聞に代表される日本の「リベラリズム(戦後民主主義)」が、グローバルスタンダードのリベラリズムから脱落しつつあるからだ。

日本の「右傾化」の象徴として“ネトウヨ(ネット右翼)”が取り上げられるが、彼らのイデオロギーは保守=伝統主義とは関係がない。これも詳細は本文に譲るが、ネトウヨが守ろうとしているのは日本の伝統や文化ではなく、「日本人」という脆弱なアイデンティティで、「嫌韓」「反中」と結びつかない保守派の言論はどうでもいいのだ。

興味深いのは、「朝日ぎらい」が日本だけの現象ではないことだ。アイデンティティをめぐる衝突は欧米を中心に世界じゅうで起きており、その最大の戦場はトランプ大統領を生み出したアメリカと、移民問題で「極右」の台頭に揺れるヨーロッパで、いずれも「リベラルぎらい」の嵐が吹き荒れている。世界史的な視点に立てば、日本は欧米から半周遅れで同じ体験をしているということになるだろう。

民進党の分裂・消滅によって、日本では「リベラル」と「保守」の定義をめぐる喧喧囂囂の論争が起きている。本書で(おそらく)もっとも論議を呼ぶのは、「リベラル」と「保守」には遺伝的な基礎があるとの主張だろう。進化論的にいうならば、ひとはリベラル的ないしは保守的な生得的傾向をもって生まれてくる。そして知識社会化した現代では、リベラルに生まれたほうが社会的・経済的により成功しやすい。――にわかには信じがたいだろうが、私の他の著作と同じく、こうした主張には科学的な証拠(エビデンス)があることを示すつもりだ。

本書でデモクラシーを「民主主義」ではなく「民主政」としているのは、それが神政(テオクラシー/Theocracy)や貴族政(アリストクラシー/Aristocracy)と同じく政治制度のことで、Democracyを「民主主義(Democratism)」とするのは明らかな誤訳だからだ。リベラルデモクラシーは「自由民主主義」と訳されるが、正しくは「リベラルな民主政」で、「自由な市民による民主的な選挙によって国家(権力)を統制する政治の仕組み」のことだ。

これが些細な問題でないのは、デモクラシーを主義(イズム)にしてしまうと、リベラルデモクラシーという枠組みのなかで異なる「主義」が対立する政治論争の基本的な構図がわからなくなるからだ。その結果、政治思想(イズム)のひとつであるリベラリズムと、デモクラシーという政治制度が混同されてしまう。

民主的な選挙で選ばれた議員に対して、国会前で「民主主義を守れ」というデモが行なわれるのは日本でしか見られない奇観だ。現代の日本に蔓延する不毛な対立は、この単純な誤訳と、それを一向にただそうとしない(政治学者など)アカデミズム+マスメディアに大きな責任がある。

本書は「国難」を掲げた2017年10月の総選挙で小池百合子東京都知事の「希望の党」が惨敗し、“安倍一強”が盤石になってから執筆をはじめたが、朝日新聞のスクープによって森友学園への国有地売却をめぐる財務省の決裁文書が改ざんされていたことが明らかになり、この「まえがき」を書いている時点では、加計学園問題に財務省事務次官のセクハラ問題や防衛省、厚労省の不祥事なども加わって政権の基盤が大きく揺らいでいる。安倍晋三首相の悲願である憲法改正はもちろん、このままでは2018年9月に予定されている自民党総裁選での3選すら危うくなりそうだ。

だが安倍政権がどうなろうとも「安倍的」なものは生き残り、「朝日的」なリベラルをはげしく憎悪する構図は変わらないだろう。政治状況が大きく動くなかで本文をほとんど書き直す必要がなかったのは、ここで述べているのが「ヒトの本性」についてだからだ。

なお本書では、従軍慰安婦問題や南京事件などの「歴史問題」については詳しく扱わない。日中および日韓の歴史問題はナショナリズムの衝突という以上に、奴隷制や植民地主義などの近現代史の全面的な見直しという、いま世界のあらゆるところで勃発している「アイデンティティ闘争」の先行例だと考えているからだ。

そのことを論じるには、別に一冊の本が必要になるだろう。