作家・橘玲(たちばなあきら)の公式サイトです。はじめての方は、最初にこちらの「ABOUT THIS SITE」と橘玲からの「ご挨拶」をご覧ください。また、自己紹介を兼ねた「橘玲 6つのQ&A」はこちらをどうぞ。
「韓国のデパートはなぜ日本のデパートによく似ているのか」問題
ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなったので、このブログで再掲載していくことにします。
今回は2013年2月公開の記事です。(一部改変)

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いまの若いひとには信じられないだろうが、私が20代の頃は韓国旅行など考えられなかった。日本の旧植民地だとか、軍事独裁体制だとか、そういうことはいっさい関係ない。理由はただひとつ。「韓国に行ってきた」などといおうものなら、まわりから蔑みの目で見られたからだ。
当時は東京・赤坂を中心に妓生(キーセン)クラブと呼ばれる風俗店がたくさんあった。妓生は李氏朝鮮の時代に宮廷で歌舞音曲を供した女性たちのことだが、日本統治時代に芸者や遊女と同じく置屋や遊郭で一般客の相手をするようになった。そうした女性の一部が日本に渡り、風俗店で働くようになったのが妓生クラブだ。
1970年代から日本人の海外旅行が本格化すると、朴正煕政権は外貨獲得を目的にソウルなどに大規模な国営娼館をつくり、日本人の団体客を迎え入れた。これが「妓生旅行」で、韓国に行くことは買春の同義語だったのだ。
妓生旅行から「身近な異文化体験のできる国」へ
私が大学生活を送ったのは70年代末から80年代初頭だが、その当時、すくなくとも“知的”な学生の間では妓生旅行は「醜い日本人(セックスアニマル)」の象徴で、アメリカやヨーロッパ、あるいはインドやロシアを旅することはあっても韓国旅行など許されないとされていた。沢木耕太郎のベストセラー『深夜特急』(新潮文庫)の旅が韓国ではなく香港から始まるのも、これが理由ではないかと思っている。
だからこそ、1984年に関川夏央の『ソウルの練習問題 異文化への透視ノート』(新潮文庫)が世に出たのは衝撃的だった。出版社は椎名誠をデビューさせ、藤原新也の『東京漂流』(新潮文庫)を刊行するなど、当時、飛ぶ鳥を落とす勢いだった情報センター出版局で、民主化闘争と金大中事件と妓生旅行でしか語られなかったステレオタイプの韓国像を打ち壊した関川の登場は時代の必然でもあった。
関川は『ソウルの練習問題』で、「ハングル酔い」について書いている。
ソウルの街は日本の街並みによく似ているが、看板だけがハングルで書かれている。だからソウルの街に迷い込んだ日本人旅行者は、日本の地方都市にいるかのように錯覚し、しかし看板は一文字も読めず、一種の酩酊状態に陥るのだという。
この俊逸な語り口によって、それまでたんなる地図上の点にすぎなかったソウルは魅力的な非日常の街へと変貌し、多くの若者たちが「ハングル酔い」を体験すべく韓国に渡った。妓生旅行の悪弊は90年代までつづくが、それと同時に韓国は、香港などと並んで、「身近な異文化体験のできる国」になったのだ。
その後、1988年のソウルオリンピックが近づくと、NHKの韓国語講座が大人気を博し、最初の韓国ブームが訪れる。その5~6年前まで「韓国旅行」など口にすることすらできなかったのだから、この頃、日本人の韓国観が劇的に変わったのだ。
関川はその後、『海峡を超えたホームラン』(双葉文庫)で、韓国プロ野球の黎明期に身を投じた在日朝鮮・韓国人のプロ野球選手たちの苦闘を描いて、タブーとされていた在日問題に一石を投じた(当時は、プロ野球選手の出自が在日だということは隠さなければならなかった)。いまでは在日コリアンが通名(日本名)ではなく本名を名乗るのが当たり前になったが、これまで「日本人」だと思っていたプロ野球の有名選手が、韓国名で韓国プロ野球でプレイするのは、やはり衝撃的な(エポックメイキングな)出来事だった。 続きを読む →
人権を侵害して治安を急回復させたエルサルバドルの「不都合な成功」(週刊プレイボーイ連載689)
中米エルサルバドルは、マラスと呼ばれるギャング組織の抗争により、2015年には人口10万人あたりの殺人発生率が100件を超え「世界でもっとも危険な地域」と呼ばれていました。国際的には殺人発生率が10万人あたり10件を超えると「深刻な治安問題」とされますから、これは戦争が起きているのと同じで、住民が安心して暮らすのはとうてい不可能でした。
2019年に37歳でエルサルバドルの大統領に選出された起業家のナジブ・ブケレは、わずか3日間で一般市民87人がギャングに殺害される事件が起きると、全国に非常事態を宣言し、突貫工事でテロリスト拘禁センター(CECOT)を建設しました。
中南米のギャングには、顔や全身に刺青を彫って組織への忠誠を誓う文化があります。いったん刺青をいれると、組織を抜けたり、別の組織に所属を変えたりすることができなくなるのです。
ブケレはこれを利用して、刺青をしている者を令状なしで片っ端から逮捕し、開設から3年たらずで2万人をこの巨大刑務所に送り込みました。裁判も判決もないにもかかわらず、現在まで1人の釈放者もいないとされ、「事実上の終身刑」といわれています。
当然のことながらこの暴挙は、誤認逮捕や性的暴行を含む人権侵害として国際社会から強く批判されましたが、これをきっかけにエルサルバドルの犯罪率は大きく低下します。
ブケレが大統領に就任したとき10万人あたり36件だった殺人発生率は、25年末には1.3件と先進国並み(フランスとほぼ同じ。アメリカは5.8件)になり、治安は劇的に改善しました。
これを受けてブケレの支持率は9割を超え、プーチン(支持率65%)などを超えて、世界でもっとも人気のある指導者になりました。この世論調査の結果は、ブケレを批判する欧米の人権団体も認めています。エルサルバドルでは大統領の任期は1期5年に制限されていましたが、ブケレは圧倒的な支持を背景に憲法解釈を変更して24年に再選され、その後、憲法を改正して長期政権を可能にしました。
中南米の国はどこも麻薬の利権をめぐって争うギャングの抗争で治安が悪化し、メキシコでは2014年に、教員養成学校の学生約100人が乗った長距離バスが武装勢力に襲撃され、43人の学生が連行され、そのまま行方不明になるという衝撃的な事件が起きました。しかしこれは氷山の一角で、戦闘員を確保するための若い男性の誘拐が日常的に起きているのです。
ブケレの「実験」は、民主国家の失敗を強権によって解決したとして、移民問題に悩むトランプや、イーロン・マスクなどのテック右派から熱烈に支持されています。この「成功」を見て、コスタリカなど近隣諸国も巨大監獄を建設しはじめました。
日本のメディアの取材に、エルサルバドルの首都サンサルバドルに住む女性は、「以前は危険過ぎて夜に外出しようなどとは夢にも思わなかった。今は夜も外に出られる。それがすべてよ」と話しています。
エルサルバドルは、治安・安全とリベラルの理念(自由・人権)が衝突したとき、なにを優先すべきなのかという重い問いを突きつけているのです。
参考:「エルサルバドル、殺人発生率が急減 ブケレ大統領独裁は安全の代償か」日本経済新聞2026年1月17日
『週刊プレイボーイ』2026年7月6日発売号 禁・無断転載
金門島で福建と台湾の関係について考えた
ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなったので、このブログで再掲載していくことにします。
今回は2013年2月公開の記事です。(一部改変)

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船戸与一の『金門島流離譚』(新潮文庫)を読んでから、ずっと金門島を訪ねたいと思っていた。
この小説の主人公は元敏腕商社マンの藤堂義春で、今は落ちぶれて金門島で密貿易のビジネスをしている。なぜ金門島かというと、そこが「現代史のなかでぽっかり開いた空白の島」だからだ。
金門島は、中国・福建省の港町アモイからわずか2キロほどしか離れていない。この島が特別な理由を藤堂は、作中でおよそ次のように説明する。
「日本統治時代の台湾とは、台湾本島と澎湖島のことで、金門島や(同じく福建省の沿岸にある)馬祖島は含まれていなかった。だが国共内戦に敗れた蒋介石軍が台湾に落ちのびるとき、人民解放軍の追撃に備えて金門と馬祖に兵力を残したため、いまも台湾の実効支配が続いている。中国共産党は、1949年の上陸作戦と58年の砲撃戦でこの2つの島を奪還しようと試みたが果たせなかったのだ。
とはいえ、台湾国民党が受け継いだのは旧・日本の版図だけだから、国際法上、金門と馬祖が台湾領だという根拠はどこにもない。金門島では台湾ドルが流通し、台湾の教育が行なわれているが、島民にはここが台湾領で、自分たちが台湾人だという自覚があまりない。かといって、中華人民共和国の領土だとも考えておらず、どこにも帰属意識のない奇妙なことになっている。
中国共産党はもちろん、金門島を自国の領土と見なしている。金門島の住人は「中国国民」になるから、金門島の戸籍を持っていればアモイの入管は査証なしで通過できる。すなわち、彼らは中国と台湾をビザなしで自由に行き来できるのだ。
そのため金門島は、煙草や高級ウイスキー、ブランデー、音楽CDやゲームソフト、高級ブランドの衣類やバッグ、時計などのコピー商品の一大集積地になった。たとえばブランド品のバッグは、タイから送られた原材料を広東省の山のなかの秘密工場で加工したもので、鑑定士でなければ偽物と見破られないくらい完成度が高い。そんなコピー商品が、現代史の空白を利用してこの島に集まってくるのだ……」
軍事的要衝からパチモノの島へ
1958年に台湾海峡を挟んだ砲撃戦が勃発すると、金門島は軍事的要衝として一般人の立入りが厳しく制限され、島内には台湾軍の精鋭部隊が展開された。1996年の台湾総統選挙で独立派の李登輝が優勢に立つと、「一つの中国」を国是とする中国共産党政府は大規模な軍事演習を行ない、それに対抗して米軍が台湾沖に空母を派遣したことで、東アジアの軍事的緊張は一気に高まった。
しかしその一方で、中国が改革・開放政策で市場経済と外資導入に大きく舵を切るにつれて、両国の関係は大きく変わっていった。
もともと台湾人(本省人)の多くは福建省の出身で、台湾語は閩南(ビンナン)語(福建語)とほとんど同じだから、彼らは異なる国の国民というより同郷人だ。東南アジアで成功した華僑財閥の多くも福建の出身で、彼らが台湾人の企業家や投資家とともに故郷の町や村に工場を建て、積極的に投資したことで、かつては中国でも貧しい省のひとつとされた福建は大きく発展した。
こうして、台湾海峡の危機から10年も経たないうちに、アモイ(福建)と台湾は急速に経済的に一体化していく。
軍事の最前線だった金門島は、92年に戒厳令が解除された後、多くの台湾人が訪れる観光名所になった。その後、中国が台湾人の渡航を緩和したため、金門島経由でアモイを訪れるツアーが大人気になった。金門島の商店は台湾人旅行者のために中国本土の(コピー商品を含む)安い物産を並べ、アモイの町には金門島経由で台湾の物産が流れ込んだ。これが、『金門島流離譚』の背景だ。 続きを読む →