作家・橘玲(たちばなあきら)の公式サイトです。はじめての方は、最初にこちらの「ABOUT THIS SITE」と橘玲からの「ご挨拶」をご覧ください。また、自己紹介を兼ねた「橘玲 6つのQ&A」はこちらをどうぞ。
ヒトラーを傷つけるようなことをしてはいけないのか (週刊プレイボーイ連載688)
アドルフ・ヒトラーは1945年4月30日、ソ連軍が迫るなか、ベルリンの総統地下壕で妻のエヴァ・ブラウンとともに、頭部を拳銃で撃ち抜いて自殺しました。2人の遺体は遺言により、側近たちが庭に運び、ガソリンをかけて焼却されました。
その数日後、米軍の将校が、ヒトラーが自殺したとされるソファについていた血痕の部分を切り取り、戦利品として持ち帰りました。この布の断片は2014年にオークションに出され、1万6000ドルでアメリカの歴史博物館が購入しました。
2025年、博物館から血痕のDNAを提供されたイギリスの研究チームが、ヒトラーの親族のDNAと比較した結果、間違いなくヒトラー本人の血液であることが確認されたとして、その解析結果を発表しました。
これはイギリスのテレビでドキュメンタリー番組として放映され、大きな反響を呼びました。このDNA解析で、ヒトラーについての俗説の真偽が明らかになったからです。
ヒトラーはユダヤ人絶滅政策を遂行しましたが、じつはヒトラーにもユダヤ人の血が混じっているのではないかといわれてきました(手塚治虫の『アドルフに告ぐ』はこれがテーマです)。その根拠はヒトラーの父が私生児で、祖父の身元が謎だったからですが、Y染色体を調べた結果、ヒトラーにはユダヤ系の祖父がいなかったことがわかりました。
もうひとつの噂は、ヒトラーが男性器に障害をもっていたというものです。第1次世界大戦中、前線で戦った戦友たちから、生殖器の小ささを理由にからかわれたり、いじめられたりしたという噂はイギリスにも伝わり、兵士たちのあいだで「金玉が1つしかない」とヒトラーを嘲笑する替え歌が大流行しました。
DNA解析では、ヒトラーには「カルマン症候群」を引き起こす遺伝的な変異があったことがわかりました。これは男子の場合、ペニスの形状がきわめて小さくなる症状が生じることがあるとされます。
じつは2015年に、ヒトラーがクーデター未遂で投獄された際の医療記録が発見され、そこには右側停留精巣(精巣が陰嚢に降りてこない状態)が記載されていました。今回のDNA解析結果は、こうした資料とも整合的です。――ここまでは前振りで、本題は以下です。
これは現代史においてきわめて重要かつ興味深い事実なので、この研究結果が報じられたとき、その概要をSNSに投稿しました。
驚いたのは、この投稿に対して、「誰かを傷つけるようなことはしないほうがいい」という反応があったことです。いうまでもなく、この「誰か」とはヒトラーです。
このとき思ったのは、最近の日本社会では、他者のコンプレックスを指摘することはものすごく嫌われるということです。たとえそれが、6000万人のユダヤ人を死に追いやった人物だとしても。
「傷つくこと」や「傷つけること」をこれほど怖れているのなら、ささいなことで「傷つけられた」と感じ、SNSで炎上騒ぎが起きるのも当然です。とはいえ、こういう風潮に抗ってもしかたないので、波風立てないようにやっていくしかないのでしょうが。
参考:「ヒトラーのDNA解析で驚くべき発見、英研究チームの発表がドキュメンタリーに」CNN2025年11月14日
『週刊プレイボーイ』2026年6月29日発売号 禁・無断転載
巨大な「近世帝国」としての中国
ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなったので、このブログで再掲載していくことにします。
今回は2013年1月公開の記事です。(一部改変)

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2012年11月の中国共産党大会で習近平(Xi Jinping)が総書記に選出され、次期首相に指名された李克強(Li Keqiang)との新指導部が固まった。ここに至るまでには共産党中央政治局員で重慶市トップの薄熙来(Bo Xilai)が失脚した激しい権力闘争があり、今年に入ってからは広東省の週刊紙『南方週末』をめぐる記事差し替え問題で広範な抗議行動が起きるなど、中国が政治的・社会的な変動期を迎えたことを示す事件が相次いでいる。
チベットなど少数民族の人権問題やリベラルデモクラシーを求めるひとたちへの政治弾圧、尖閣諸島(中国名:釣魚島)への度重なる領海侵入や南シナ海の南沙諸島をめぐるベトナム、フィリピンとの領有権争いなど、国際社会の懸念を募らせる問題も数多い。
私たちは、この巨大な隣人とどのようにつき合えばいいのだろうか?
ポスト中国はやはり中国
2012年9月の反日デモや、沿海部を中心とする人件費の高騰によって日本企業はチャイナリスクを意識せざるを得なくなり、ベトナムやカンボジア、ミャンマーなど「チャイナプラスワン」が注目されるようになった。日本の大手企業が東南アジアに工場を建設するほか、中産階級の台頭を見越して流通業や飲食チェーンの進出計画も相次いだ。
こうした報道を読むとき、私たちは無意識のうちに、中国とベトナム、カンボジア、ミャンマーを「同じ」国としてイメージしている。
もちろん、中国が15億の巨大な人口を抱えていることは誰もが知識としては知っている。だがその数を具体的にイメージできるだろうか?
下のグラフを見ていただきたい。東アジア、東南アジアの国々と、中国の省・自治区・直轄市の人口を並べたものだ。

中国を除けば、このなかでもっとも人口が多いのはインドネシア(2億3000万人)だが、その国境は帝国主義時代に欧米列強によって決められたもので、言語、宗教、民族の異なる多数の島が集まった多民族国家として長く軍事独裁がつづき、97年のアジア通貨危機でスハルト政権が崩壊して、いまようやく民主制国家として歩みはじめたばかりだ。日本に次ぐ人口を持つフィリピン(9400万人)も同じく多民族国家で、1986年にマルコス政権が倒れるまではやはり軍事独裁だった。 続きを読む →
75歳への年金繰り下げ、本当は大損(日経ヴェリタス連載128回)
65歳から支給される年金を繰り下げ受給した場合は、最長75歳まで、月額0.7%が増額され、最大84%多く年金が受け取れる。月額0.7%は年率に換算すると8.4%だから、これはものすごくお得に思える。
もちろん寿命には限りがあるので、受給開始年齢を繰り下げれば、当然、年金を受け取る期間が短くなる。一般にはこれは、「何歳まで生きたら得なのか」で論じられる。たとえば75歳まで繰り下げると、「損益分岐点」は87歳で、それ以上長く生きた場合は、生涯に受け取る金額が多くなるのだという。
この試算に違和感があるのは、死後の損得を論じているからだ。75歳まで繰り下げたひとが80歳で死亡した場合、「65歳から年金を受け取っておけばよかった」と悔やむだろうか。
「損益分岐点」説は、肉体が死んだあとも魂が残っていて、あの世で「損した」とか「得した」とか議論していることを暗黙の前提にしている。こうした宗教を信じるのは自由だが、それを客観的な判断とはいわないだろう。
年金を金融商品と考えるならば、繰り下げはそれぞれの年齢の平均余命から利回りを計算して比較すべきだ。
男性の平均余命を例にとると、65歳は19.47年、70歳は15.6年、75歳は12.08年になる(2024年)。65歳時点の年金受給額を年100万円とすると、(平均余命までの)期待受給総額は1947万円。70歳に繰り下げれば年142万に増えるので、期待受給総額は約2215万円、75歳に繰り下げれば年184万円に増えるので、約2223万円になる。
ところで、ここでおかしなことに気づいたのではないだろうか。65歳から70歳まで繰り下げるとの期待受給総額が268万円増える。ところが75歳までの繰り下げは、70歳で2215万円、75歳で2223万円なのだからなら、5年間受け取りを延ばしても、受給総額がわずか8万円しか増えないのだ。
このようなことになるのは、繰り下げの利率の計算が単利で、受給期間が短くなるほど不利になるからだ。
70歳への繰り下げを、国に(65歳から69歳まで)5年間、毎年100万円を積み立て(積立総額500万円)、平均余命の15.6年間、年42万円の増額分を受け取る債券と考えてみよう。この金融商品の投資利回りをExcelのIRR関数で計算するとは年2.72%になる。
同じ計算を75歳への繰り下げで行なうと、10年間、国に総額1000万円を積み立て、平均余命の12.08年間、年84万円の増額分を受け取ることになるが、この場合の利回りは、わずか年0.13%になってしまう。
このように年金の繰り下げは、70歳まではそれなりに有利だが、それ以降はほとんど意味がなくなる。本来は複利にすべきものを、単利にしたことで、金融商品としての設計が破綻しているのだ。
日本経済がインフレ基調になったことで金利が上昇し、個人向け国債の利回り(5年)は年1.86%になっている。これなら、70歳から受給を開始し、それを国債で運用したほうがずっとマシだ。
こうした逆ザヤは、市中金利が上昇するほど大きくなっていく。厚労省は、本当は大損する75歳への繰り下げを、あたかも得をするように宣伝するのをやめ、金融商品として合理的な設計をすべきだ。
橘玲の世界は損得勘定 Vol.128『日経ヴェリタス』2025年6月27日号掲載
禁・無断転載