6000万人のミリオネアがいる「残酷な世界」

16日(火)発売の新刊『プアジャパン インフレ世界を生き抜く資本戦略』(プレジデント社)のあとがき「6000万人のミリオネアがいる「残酷な世界」」を出版社の許可を得て掲載します。都心部の大型店を中心に週末から順次並びはじめると思います(電子書籍も同日発売です)。

書店さんで見かけたらぜひ手に取ってみてください。

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桜のシーズンに京都に出張することになった知り合いが、「泊まれるホテルがない」と嘆いていました。ふつうのビジネスホテルでも1泊5万円、一流ホテルだと1泊30万円するというのです。

そんなことがあるのかと思って調べてみると、もっとも高いのは祇園四条駅に近い外資系の高級ホテルで、ツインの朝食付きの部屋で1泊60万円でした。それより驚いたのは、ジュニアスイートや温泉付きのスイートなど、さらに高い部屋がすべて満室になっていたことです。

億万長者はいまや「中流の上」

スイスのプライベートバンクUBSの『グローバル・ウェルス・レポート』は毎年、世界の富裕層の動向を発表していますが、その2025年版によると、株式や不動産などの資産から負債を除いた純資産で100万米ドル(約1億6000万円)を超えるミリオネアは世界で6000万人います。

そのうちアメリカは2380万人と4割を占め、中国630万人、フランス290万人、日本270万人と続きます(次頁の図表49)。アメリカでは人口の約7%に相当し、ミリオネアの全員が世帯主だとして概算すると、なんと5世帯に1世帯が「億万長者」です。

近年の大きな特徴は、純資産100万ドルから500万ドルのEMILLIs(Everyday MILLIonaires=「平凡なミリオネア」)と名づけられた層が大きく増えたことで、世界で5200万人います。いまやミリオネアは富裕層というより、社会階層では「中流の上」に位置するのです。

なお日本のミリオネアは、コロナ前の2020年のレポートでは約370万人(3位)だったので、この5年で大きく人数を減らしています。円安によってミリオネアのハードルが上がったからでしょうが、それでも概算で20世帯に1世帯が億万長者です。

日本でも欧米でも「貧困」が大きな社会問題になっていますが、この世界のもうひとつのリアルは、使い切れないほどの富をもち、1泊数十万円のホテルに泊まることをなんとも思わない富裕層がものすごい勢いで増えていることです。

所得層の上位10%が消費の半分を占めるアメリカ

イギリスの経済紙『フィナンシャルタイムズ』に「「米国の夢」も課金次第」という興味深い記事が掲載されました(日本経済新聞2025年11月19日)。

フロリダにあるディズニーワールドは、以前は「誰もがVIP」とうたっていたのに、近頃は入場料を別にして1時間あたり最高900ドル(約14万円)のVIPツアーを用意しています。家族5人でディズニーワールドを訪れ、3時間のVIPツアーを楽しめば1万3500ドル、約200万円です。これにホテル代や交通費を加えれば、4泊5日の家族旅行の費用は会社員の年収くらいになるでしょう。

記事にはそれ以外にも、より高い年会費を払う「エグゼクティブ会員」だけが来店できる特別営業時間を設けた会員制量販店や、富裕層向けの豪華ラウンジを設けたところプレミアム航空券の収入がエコノミークラスの合計収入を上回るようになった航空会社が紹介されています。

航空会社の幹部によれば、インフレや失業率の上昇でも、年間所得が22万5000ドル(約3600万円)を超える層は消費をためらっていないが、それ以下の世帯は旅行にかける費用を大幅に切り詰めているといいます。株主からの圧力にさらされている企業経営者が、富裕層相手のビジネスに活路を見出そうとするのは当然なのです。

同じ『フィナンシャルタイムズ』の「膨らむ「富裕層優遇」市場 米「コンシェルジュ経済」映す」(日本経済新聞2026年3月20日)では、ニューヨークの有名病院に電話した知人が、1時間待たされたあと、「コンシェルジュサービス」の利用を勧められた話が紹介されています。1万5000ドル(約240万円)のサービスに加入すれば、専門医に診てもらうための待ち時間が最小限に短縮されるほか、24時間いつでも診察を受けることができ、医師の診察時間も長くなるとのことです。

こうした「コンシェルジュ医療サービス」は世界で200億ドルの市場規模をもち、質が高く個人に最適化した医療サービスを求める富裕層をターゲットに、今後10年間で倍増すると予想されています。

医療以外にも、個人向けの旅行プランナー、さまざまな高級クラブの会員権、富裕層向けの資産運用、教育コンサルタントなど富裕層向けのコンシェルジュサービスの市場が急拡大しています。

その背景にあるのが、AIエージェントがコールセンターの仕事を代替するようになったことで、いまでは「人間」のスタッフと話すために高額のサブスクリプション(定額課金)サービスに加入しなければならないのです。

アメリカでは所得上位10%の支出が消費全体の半分を占めるまでになっていて、多くの業界や企業が着実に「ラグジュアリー市場」に移行しているのです。

高学歴の仕事を捨てた「ブルーカラービリオネア」

アメリカは日本よりもはるかにリベラルな社会で、人種、国籍、性別、性的指向などの属性によって採用や昇進・昇給を決めることは許されません。そうなると評価の基準は本人の努力によって獲得できる(とされている)もの、すなわち「学歴・資格・実績」というメリット(数値化可能な人的資本)のみになります。これが「メリトクラシー」で、差別のない社会を目指すリベラルの大原則です。

ところがこれを徹底すると、大卒と非大卒のあいだで学歴による格差が広がっていきます。日本もさまざまな社会調査で、大卒と非大卒で社会が分断されていることが示されていますが、アメリカはこれがさらに顕著で、大卒の生涯収入は非大卒の2倍にもなります(日本は1.3倍程度)。

アメリカ社会で経済的に成功するためには大卒の学歴が必要で、大学卒業生の約6割が学生ローンを抱えており、その平均負債額は3万ドル(約480万円)にもなります。もちろん学士号がそれ以上の富を生めばいいのですが、需要と供給の法則によって、たくさんあるもの(大学卒業生)の価値は下がっていきます。

大卒の数が増えたからといって、それに合わせてウォール街のトレーダーや、シリコンバレーのエンジニアの求職者数が増えるわけではありません。よい仕事の数は限られており、いまでは学士号を取得しただけでは相手にされず、修士や博士をもっていないと面接にすら進めないといいます。

歴史物理学者のピーター・ターチンは、「挫折したエリート志願者」あるいは「有資格者のプレカリアート」が大量に生み出され、「急進的なカウンターエリート」となってアメリカ社会を動揺させることになると論じました(『エリート過剰生産が国家を滅ぼす』濱野大道訳/早川書房)。

アメリカでは全体の失業率が4%ほどなのに、大卒前後の20~24歳では9.2%まで上昇し、これまでホワイトカラーがやっていた日常業務をAIが代替するようになったからではないかといわれています。もしこれが事実なら、「中途半端な高学歴」の苦境はさらに深まるでしょう。

「ブルーカラービリオネア」は、ホワイトカラーがAIに代替されない仕事を目指して職業訓練学校に入学し、自ら望んで高収入のブルーカラーになることをいいます。カリフォルニア大学バークレー校などで学び、会計士として働いていた40代の男性は、5年ほど職業訓練学校に通って配管工に転身し、月に1万2000ドル(約190万円)を稼いで、収入は会計士時代の3倍になったといいます(「米国、会計士から配管工で給与3倍の幸福度 「AIで雇用創出は望み薄」」日本経済新聞2025年12月3日)。

これは興味深い現象ですが、ブルーカラーの仕事は医師や弁護士などの専門職と比べて参入へのハードルが低く、大卒者が小さな業界に殺到すれば、いずれ収入は減っていくでしょう。

生き延びるための金融リテラシー

AIが東大入試、司法試験、医師国家試験に合格する能力をもつようになり、これからの社会が大きく変わっていくことは避けられません。そして否応なく、「持てる者」と「持たざる者」の格差は拡大していきます。

世界金融危機を受けて2011年から始まった「ウォール街を占拠せよ」のスローガンは「99%対1%」で、富は上位1%の超富裕層に集中し、残りの99%は一方的に収奪されていると抗議しましたが、現実に起きているのは「持てる者(平凡なミリオネア)」が急速に増えていることです。

「5世帯に1世帯がミリオネア」のアメリカは人類史上もっともゆたかな社会を実現しましたが、それでも5世帯に4世帯はこのレベルに届きません。そうなると、アメリカ市民(あるいは「白人」)という「特権」をもちながらも貧しいひとたちは、「あなたが成功できない理由はなんなのか」という残酷な問いを突きつけられることになります。

皮肉なことに、リベラルで平等な社会では、社会がゆたかになればなるほど、そこから取り残されるのは「自己責任」になってしまうのです。

幸いなことに日本は、アメリカほど格差の大きな社会ではありませんが、AIをはじめとするテクノロジーの影響を受けて、これから10年、あるいは5年以内に、アメリカと同じことが起きるのは間違いないでしょう。これが、わたしたちの生きる「残酷な世界」です。

それでも一人ひとりが、自分や家族の幸福のために、できることをやっていくしかありません。そのために必要なのが、本書で紹介したような「金融リテラシー」であり、資産をヘッジしつつ増やしていく技術なのです。

本書の提案がみなさまのお役に立てば幸いです。

野口悠紀雄さんが2023年に『プア・ジャパン 気がつけば「貧困大国」』(朝日新書)を書かれていますが、編集者と相談のうえ、本書のタイトルに『プアジャパン』がもっとも相応しいと考え、野口さんにご相談しました。自著と重なるタイトルの使用を快諾していただいた野口さんに感謝します。ありがとうございました。

2026年4月 橘玲

「プアジャパン」ではこれまでの常識は通用しない

16日(火)発売の新刊『プアジャパン インフレ世界を生き抜く資本戦略』(プレジデント社)のまえがき「「プアジャパン」ではこれまでの常識は通用しない」を出版社の許可を得て掲載します。都心部の大型店を中心に週末から順次並びはじめると思います(電子書籍も同日発売です)。

書店さんで見かけたらぜひ手に取ってみてください。


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2026年2月、アメリカとイスラエルがイランへの大規模な軍事攻撃を実施し、最高指導者のハメネイ師を殺害しました。イランは報復としてサウジアラビアやアラブ首長国連邦、カタールなどの石油施設をドローンで攻撃するだけでなく、中東の石油輸送の要衝であるホルムズ海峡を封鎖、原油やLNG価格が高騰し、中東の石油に依存する日本経済への深刻な影響が懸念されています。

本書はこのような、個人の努力ではどうしようもない不確実性にどのように対処するかを書いたものです。

戦争や内乱に巻き込まれれば、国を捨てて逃げる以外に生き延びる方法はないかもしれません。それに対して原油価格の高騰や、それを原因とする物価の上昇(インフレ)のような経済的な混乱は、適切な対応によって乗り越えることができます。なぜなら、経済的なリスクは金融市場でヘッジできる(保険をかけられる)からです。

2008年の世界金融危機のあと、ギリシアではGDPが25%も縮小するという経済的大惨事が起きました。失業率は約27%、若年層にかぎれば60%にもなり、医療・社会保障が縮小され、自殺者やホームレスが増え、深刻な社会不安を引き起こしました。

首都アテネでは、支援の条件として公務員の削減や年金削減、増税、国有資産の民営化などを要求するEUへの反発から大規模な抗議デモが起こり、二大政党制が崩壊、「反緊縮」を掲げる急進左派連合の政権が誕生しました。

私は混乱のさなかのギリシアを訪れたことがありますが、アテネの中心部にあるシンタグマ広場に1000人あまりのデモ隊が集まり、抗議の旗が揺れる一方で、そこから100メートルも離れていない由緒あるホテルのボールルームでは富裕層のパーティが開かれ、タキシードとイブニングドレス姿の男女がシャンパングラスを片手に談笑していました。

1990年代のバブル崩壊以降、日本経済は長いデフレに苦しみ、「失われた30年」といわれた低成長・低金利の時代が続きました。

2012年に第2次安倍政権が成立すると、「強い日本を取り戻す」を掲げて大規模な金融緩和(リフレ政策)が始まり、黒田東彦日銀総裁は「2年で2%の物価上昇」をコミットメント(約束)し、市場に円を供給しようとしましたが、2020年まで物価が上昇する兆しはありませんでした。ところがコロナ禍とロシアによるウクライナ侵攻という「外圧」によって資源価格が上昇すると、1ドル=150円を超える円安もあって、岩盤のようだった日本の物価が上がりはじめ、2022年からは年率2~3%のインフレが続いています。

こうして日本経済はようやくデフレから「脱却」したのですが、「日本経済の大復活」というリフレ派の予測に反して、物価の上昇に賃上げが追いつかず、名目賃金(給料の額)から物価の影響を除いた実質賃金が4年連続でマイナスになっています。これは「給料は上がっているのに生活が苦しくなる」という状態で、日本人はどんどん貧乏になっているのです。

デフレ時代があまりにも長かったため、30代以下の日本人は生まれてからいちども「金利のある世界」を知りません。その間、企業や個人はデフレに最適化した経営・ライフスタイルをつくり上げてきました。それがインフレに転換したことで、いまやすべての前提が崩壊しようとしています。

わたしたちは、この「プアジャパン」でどのように自分と家族の生活を守るのかを真剣に考えなくてはなりません。もはやこれまでの常識は通用しないのです。

第1章「〈近未来小説〉日本人を待っていた浅い眠り 2026年版」では、インフレと実質賃金の低下がこのまま続けば、どのような未来が訪れるかを描きました。

第2章「プアジャパンの現実と日本型スタグフレーション」では、さまざまなデータから、日本ではアメリカのように格差がとめどなく拡大しているわけではないものの、これはよいニュースではなく、「みんなが平等に貧しくなったことで格差が拡大しなかった」という不都合な現実を説明します。そのうえで、日本の未来が「供給能力の低下によって引き起こされる逃げ場のないインフレ」であり、少子化によって失業率は低いものの実質賃金が下がりつづけ、どれだけ働いても貧しくなるだけという「日本型スタグフレーション」が待っていることを示します。

第3章「金利と為替を理解する」では、インフレ時代の資産運用に必要な金利と為替の基本的な知識をまとめています。インフレ(物価の上昇)で起きることは金利の上昇と為替(円)の下落で、逆にいえば、それ以外のことは起きません。だったらそのリスクに保険をかければいいのですが、金利と為替の知識がないと、なにをすればいいのかわかりません。

第4章「インフレ時代の資産運用術(初級者編)」では、普通・定期預金、国債(新窓販国債・個人向け国債・物価連動国債)、外貨預金、米国債、株式など、初心者でも気軽にインフレヘッジに利用できる金融商品を紹介しています。金融市場はとてもよくできているので、ほとんどの場合、インフレのリスクにはこれだけで対処できます。

第5章「インフレ時代の資産運用術(上級者編)」では、初心者向けの入門書では扱われることのない信用取引、ブル/ベアETF、FX(外貨証拠金取引)、デリバティブ(先物・オプション)の基礎を紹介しています。

いまでは個人投資家でも、こうしたハイリスクな金融商品にアクセスする機会が増えました。その一方で金融機関は、デリバティブを組み込んだ、一見すると得に感じる金融商品(高金利で外貨建てでは元本保証など)を金融知識のない個人に売り込んでいます。実際に取引しないまでも、どのような仕組みになっているかを知っているだけで、資産運用に大きな差をつけることができるでしょう。

インフレによって実質賃金が下落し、生活が苦しくなったことで、消費税廃止や食料品への消費税の軽減を求める声が広がり、2026年2月に行なわれた総選挙では与党も野党もほとんどの政党が減税を掲げました。

経済政策を論じる際の前提として誰もが受け入れなければならないのは、日本が先進国で最悪の1400兆円(対GDP比約240%)の財政赤字を抱えているだけでなく、団塊ジュニア世代が70代に達する2040年代まで高齢者の数が増えつづけ、年金や医療・介護費用が財政を圧迫することです(現役世代の負担率が最大になるのは2070年代で、1.3人で高齢者1人を支える社会になります)。

こうした現実を直視するなら、日本の政治にできることはほとんどなく、誰が、あるいはどの政党が政権を担っても、ひたすらこの人口圧力を耐え忍ぶしかないことがわかります。国家に頼っているだけでは、これからの「インフレ世界」を生き延びることはできないのです。

だからといって、絶望する必要はありません。経済的なリスクに正しく対処し、着実に金融資産を増やしていけば、(日本はどうあれ)あなたと愛する家族がゆたかになることは十分に可能です。これからみなさんとともに、その方法を学んでいきましょう。

本書は2013年3月に発売された『日本の国家破産に備える資産防衛マニュアル』(ダイヤモンド社)、および2018年1月刊の文庫版『国家破産はこわくない』(講談社+α文庫)の骨格を残しつつ、全面的に書き直したうえで改題したものです。

参考までに本書の親本で紹介した金融商品に刊行時点(2013年3月)で100万円を投資したら、2026年4月までの13年間でどうなっているかを示しておきます。

■円普通預金
預金金利を0.1%とすると、100万円は13年間で101万556円になった。
■外貨預金
2013年3月の1ドル=95円で米ドルに定期預金をし(金利3%)、再投資した場合、2026年4月の1ドル=160円で計算すると、当初の100万円は248万9300円になった(年率7.2%)。
■日本株
日経平均株価は2013年3月の1万1600円から13年間で5万9900円まで上昇した。配当を再投資したトータルリターンでは、当初の100万円は663万円になった(年率15.4%)。
■米国株
S&P500株価指数は1551ポイントから13年間で7100ポイントまで上昇した。1ドル=95円で100万円分を投資し、配当を再投資したトータルリターンでは、当初の100万円は円建て(1ドル=160円)で1118万円になった(年率20.15%)。

世界株への分散投資で人気の「オルカン(eMAXIS Slim 全世界株式〈オール・カントリー〉)」の運用開始は2018年で、親本で紹介したのは先進国の株価指数から日本を除いた「MSCI世界株」に連動するファンドでした。トータルリターン(配当込み)の指標はありませんが、S&P500と同様のパフォーマンスになったはずです。

なお、ここから時間を巻き戻して、「全財産を世界株のインデックスファンドに投資しておけばよかった」という結論にはなりません。これは本文で説明しますが、普通預金や国債のような「無リスク」の金融商品にも相応の価値があるのです。

この結果から自分が正しかったというつもりはありませんが(すべての投資にはリスクがあり、未来は誰も知ることができません)、間違ったアドバイスをするよりはずっといいでしょう。

この本でも同じように、読者に有益な提案ができればと思っています。

シンガポールになぜ「チャイナタウン」があるのか?

ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなったので、このブログで再掲載していくことにします。

今回は2012年11月公開の記事です。(一部改変)

Jack Hong/Shutterstock

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シンガポールをはじめて訪れたとき、なぜチャイナタウンがあるのか不思議だった。

その頃は、香港とシンガポールは同じようなところだと思っていた。香港に住んでいるのはほとんどが広東人で、彼らはみんな“中国人”だからチャイナタウンなどない。

シンガポールの中心部は、シンガポール川が海に注ぐボート・キーやクラーク・キーと呼ばれる一帯だ。“Quay”というのは埠頭のことで、19世紀のイギリス植民地時代はここに沖仲仕が集まり、インドや中国からやってくる貨物船の積荷を捌いた。

シンガポール川の左岸は国会議事堂や最高裁判所などの行政施設が並び、右岸は高層ビルが立ち並ぶ金融街だ。金融街のちょうど裏手に地下鉄のチャイナタウン駅がある。階段を上って通りに出ると、たしかに漢方薬や茶・乾物、中国菓子などの店が並んでいるが、シンガポール市内ならどこでも見かけるからとくに珍しいわけではない。

中華街の突きあたりまでくると、突然、極彩色の建物が現われる。シンガポール最古のヒンドゥー寺院スリ・マリアンで、強い香がたかれるなか信者たちが祈りをささげている。

なぜ、チャイナタウンにヒンドゥー寺院があるのだろう? これもシンガポールの不思議のひとつだ。

江戸時代にはイギリスは植民地主義に興味を失っていた

東南アジア地域研究の第一人者である白石隆は、『海の帝国 アジアをどう考えるか』(中公新書)でシンガポールの「建設者」トーマス・スタンフォード・ラッフルズについて書いている。

1781年、西インド諸島の大英帝国植民地ジャマイカに生まれたラッフルズは、14歳で東インド会社職員に採用され、24歳の時にマレー半島のペナンを訪れた。語学に秀でたラッフルズは、ロンドンからペナンに向かう船中でマレー語を習得し、現地の「マレーの王たち」の工作責任者に任命された。日本は江戸時代で、松平定信の改革が失敗し、将軍家斉の放漫財政とロシアからの度重なる通商要求で江戸幕府が内憂外患に陥った頃だ。

ヨーロッパではナポレオンが大陸を支配下においたものの、絶頂期はすでに過ぎて、破滅の待つロシア遠征を決行する直前にあたる。このとき東南アジアで最大の懸案は、オランダが支配していたジャワの権益だった。

ラッフルズは当初、ナポレオン軍に敗北して力を失ったオランダからジャワを奪い、バタビア(現在のジャカルタ)を中心に、インドからマラッカ海峡(マレー半島とスマトラ島の間)を抜けてジャワに至り、そこから蘭領東インド(インドネシア)の島々を伝ってニュー・ホランド(オーストラリア)に達する広大な海域を支配下に置くことを構想した。このときラッフルズは、セレベス(スラウェシ)島に住む海洋民族ブギス人を中心とする「新帝国」を思い描いていたという。

だがナポレオン戦争が終わると、ラッフルズの夢はたちまちかき消えてしまう。フランスと対仏大同盟のあいだにパリ条約が締結され、ジャワがオランダに返還されてしまったのだ。

だがちょうどこの頃、インド産の阿片を中国に輸出する阿片貿易が大きく成長していた。大英帝国のアジア政策は、マレー半島の先端に対中国貿易の拠点をつくり、大量の阿片を香港や上海に運び込んで、茶や陶磁器、絹などと交換することに変わった。こうして建設されたのが、シンガポールだ。

このとき大英帝国は、すでに200年に及ぶ植民地経営の歴史を経ていた。アメリカに独立され、インドでの反乱に手を焼いていた彼らは、軍隊を派遣して土地を奪い取る「植民地」の拡大には興味を失っていた。

“後期帝国主義”において大英帝国の戦略は、海のアジアに物流拠点を確保し、自由貿易によってヨーロッパとインド・中国を結び、市場を拡大していく「グローバリズム」だった。そのために建設されたのが、香港・上海(租界)であり、ペナン・マラッカであり、シンガポールだった。

1839年の阿片戦争は、清朝の阿片禁輸政策からこの自由貿易を守るためのもので、もとより大英帝国に中国を植民地化する意図はなかった。日本が明治維新により近代国家への道を歩みはじめたのはそれから28年後の1867年だが、当時の日本人に後期帝国主義の自由貿易戦略が理解できるはずもなく、朝鮮半島と満州を植民地化する“古い”ゲームに固執して破滅への道を突き進んだことは歴史の示すとおりだ。 続きを読む →