ジャカルタの場末のホテルで聞いたショパンのノクターン

ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなったので、このブログで再掲載していくことにします。

今回は2012年11月公開の記事です。(一部改変)

Toggy Marciano/Shutterstock

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ジャカルタでそのピアニストに出会ったのは、飛行機に乗り遅れたからだ。予定していた便に間に合わなかったのは、金曜の夕方にゴールデントライアングルのホテルから空港に向かおうとしたためだ。

だからこの話は、ゴールデントライアングとはいったい何か、というところから始めなくてはならない。ピアニストが登場するまでずいぶんと回り道になるが、しばしおつき合い願いたい。

スラムに飲み込まれるバタビア

インドネシアの首都ジャカルタ北部のコタ地区は植民地時代にバタビアと呼ばれ、中国とインドを結ぶ海上交通の要衝として、17世紀には東南アジア最大の国際都市だった。オランダ人は街を城壁で囲み、その内側に運河を巡らせ、故郷アムステルダムを模した石造りの街並みを築いた。

何年か前、ジャカルタを訪ねた折に思い立って旧バタビアを見に行ったことがある。

タクシーの運転手に行き先を告げると、「なんでそんなことろに行くんだ?」と怪訝そうに訊かれた。「ただの観光だよ」とこたえると、勝手にしろ、というように肩をすくめた。

チャイナタウンにあるコタ駅から港に向かって歩くと、タクシーの運転手がなにをいいたかったのかすぐにわかった。

ギリシア風の壮麗な円柱が目を引く旧市庁舎から、ゴッホの絵画に出てくるような跳ね橋を渡り、東インド会社の倉庫跡を通りすぎて、港に面した魚市場まで足を延ばす。これが定番の観光コースだが、いまは観光客の姿を目にすることはめったにない。旧市街全体が巨大なスラムに飲みこまれてしまったからだ。

往時には各国の商船が停泊した港は無数のビニール袋が浮かぶゴミ捨て場と化し、どす黒い水が流れる運河からはメタンガスの泡が噴き出していた。橋の下には色とりどりのハンモックが吊られ、半裸の男たちが午睡をむさぼっている。路上に敷かれたビニールシートには、安物の衣類やニセブランド品のほか、空のペットボトルや缶ジュースのプルトップなど、なにに使うのかわからないガラクタが並べられている。ホテルはかろうじて営業していたが、その向かいの石造りのレストランは廃墟と化し、建物のなかまでスラムが侵食していた。

人口1500万人を超える巨大都市ジャカルタの中心は、スラムに押されるように、南へと移動しつづけている。

大統領官邸や最高裁判所などの行政施設があるのは旧バタビアから南に5キロほど下ったムルディカ広場の周辺で、独立記念塔やモスク、カテドラルなどの観光名所もこの近くに集まっている。ジャラン・ジャクサという繁華街もあるが、ここは以前はバックパッカー向けの安宿街で、今は地元のひとたち相手の商店や飲食店が並んでいる。

現在のジャカルタの中心は、そこから大通り(ジャラン・タムリン)をさらに南に下った一帯で、高速と幹線道路が三角形をつくっているため、「黄金の三角地帯(ゴールデントライアングル)」と呼ばれている。高級ホテルや外資系企業の入居する高層ビルが林立する“変貌するジャカルタ”の象徴で、今回の旅ではその中心にある米系ホテルに泊まることにした。

このホテルは2009年7月にイスラム過激派のテロの標的となり、死者9名と50人以上の負傷者が出た。そのためセキュリティはきわめて厳しく、車はトランクだけでなくエンジンルームや運転席のグローブボックスまで調べられ、ホテルの入口には空港と同じ金属探知機が備えつけられている。

ホテルの周辺には高級コンドミニアムが集まっていて、スターバックスなどのカフェのほか、レストランやパブもある。インドネシアはイスラム国家ではないものの、一般のレストランは酒類を出さないのがふつうだが、ここは別世界で、ビールやワイン、ウイスキーやカクテルなど、ありとあらゆるアルコールが供され、週末の夜は予約がなければ入れないほどの大人気だ。

クニンガンシティ(Kuningan city)はゴールデントライアングルのランドマークで、ブランドショップの集まるショッピングモール、高層のオフィス棟、レジデンス用のコンドミニアムからなる大規模複合施設だ。まだショップは入居を始めたばかりだが、写真を見ただけではここが六本木ヒルズだといわれてもわからないだろう。

クアラルンプールでも感じたが、宗教や文化にかかわらず世界の繁華街はどこもほとんど同じになってきている。シンガポールからクアラルンプールのブッキ・ビンタン、ジャカルタのゴールデントライアングルへと移動しても、青山・六本木から銀座へ行くようなもので、国境を越えて旅をしている感じはまったくしない。

だが金曜の夜にゴールデントライアングルから空港に向かおうとすると、ここがジャカルタだと思い知らされることになる。 続きを読む →

「憲法があったから戦争に巻き込まれずに済んだ」という自虐史観(週刊プレイボーイ連載683)

アメリカとイスラエルがイランを武力攻撃し、ホルムズ海峡が封鎖されて以降、全国で改憲反対のデモが起きています。4月には国会前に3万人が集まり、「戦争反対」「高市政権は憲法を守れ」などと声をあげました。

「戦争が近づいている気がする。憲法9条があるから、日本は戦争に巻き込まれずに済んだ」という声が、参加者の気持ちを代弁しているでしょう。ホルムズ海峡に自衛隊を派遣しろというトランプの要求を断ることができたのは、憲法9条で戦争を放棄しているからだ、というのです。憲法改正に反対するリベラルなメディアや知識人も同様の論理を述べていますが、これには違和感があります。

そもそもトランプに要求されて軍隊を派遣した国は、ただの1カ国もありません。イギリスやフランス、カナダなどは、憲法の制約なしに自国の軍隊を海外に派遣できますが、「われわれの戦争ではない」としてタンカーの護衛を断っています。だとしたらなぜ日本だけが、憲法がないと同じようにできないのでしょうか。これは「日本人はバカだから欧米のようにはできない」という典型的な「自虐史観」です。

一方、イラクのクウェート侵攻を機に勃発した1991年の湾岸戦争では、アメリカの呼びかけで28カ国が軍隊を派遣しましたが、日本は憲法の制約で自衛隊を参加させられず、その代わりに約130億ドル、当時のレートで2兆円の支援を行ないました。ところが、主権を回復したクウェートがアメリカの新聞に掲載した感謝広告に日本の名前がなかったことで、日本政府は大きな衝撃を受けます。

この歴史が示すのは、「憲法の制約」によって憲法の前文に書かれた国際社会での「名誉ある地位」が得られなかったことですが、この事実も都合よく無視されています。

高市首相は日米首脳会談で「ドナルド」とファーストネームで呼びかけ、繰り返しハグを交わす姿が「アイドルを前にする少女のよう」と揶揄されました。しかしこれは、高市首相だけでなく、戦後日本の外交はずっと同じようなことをしてきたのです。

敗戦で焼け野原になり、米軍に占領された日本は、朝鮮戦争の特需で息を吹き返すと、戦争という「汚れ仕事」をアメリカに丸投げし、金儲けに専念すればゆたかになれることに気づきます。

1966年、第一次佐藤栄作内閣で外務大臣を務めた椎名悦三郎は、日米安全保障条約にもとづいて米軍が駐留するのは「アメリカは日本の番犬」だからだと説明し、野党から批判されると「番犬さまでございます」と言い直しました。これが、戦後日本の本音だったのでしょう。

しかし、番犬を飼っておくためには機嫌をとらなくてはなりません。そこでひたすらお金という“エサ”を与えてきたのですが、これではアメリカに対して毅然とした態度など取れるはずがあるません。

「憲法は都合の悪い要求を断る方便に使えて便利だ」というだけでは、たんなる利己主義です。自立した国家というのは、「正しくない戦争」には参加できないと、はっきり伝えることをいうのでしょう。

そう考えれば、トランプに抱き着いた女性首相の姿は、わたしたちのグロテスクな戯画なのかもしれません。

参考:「日米会談 憲法に触れた首相」朝日新聞2026年5月3日

『週刊プレイボーイ』2026年5月18日発売号 禁・無断転載

華僑財閥の孫はデラシネとデカダンの任侠だった

ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなったので、このブログで再掲載していくことにします。

今回は2012年11月公開の記事です。(一部改変)

onapalmtree/Shutterstock

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マレーシア最大の金融機関メイバンクの創業者、邱德拔(Khoo Teck Puat)は東南アジアの華僑を代表する経済人の一人で、シンガポールとロンドンに高級ホテルを所有し、スタンダード・チャータード銀行の最大の株主でもあった。推定資産は43億シンガポールドル(約3000億円)といわれ、生前はシンガポール一の大富豪だった(2004年に87歳で逝去)。アンソニー・クーは、この大富豪の孫にあたる(実名では差しさわりがあるので仮名にする)。

クアラルンプールに行くといったら、香港の知り合いに「アンソニーを紹介してあげるよ」といわれた。といっても、本人に会うまでは華僑財閥の御曹司だとはまったく知らなかった。

よくわからないまま「話を聞かせてくれないか」とメールを送ると、「いいよ。で、どこで会うの?」とものすごくカジュアルな返事が来た。「いっしょに夕食でもどう?」と書いて宿泊予定のホテルを教えると、チェックインしたとたんに部屋に電話がかかってきた(後で考えると、その前にも何度か電話をかけていたのだろう)。まだ夕方5時前だというのに、ホテルの近くまで来ているという。

ロビーで待っていると、巨大なSUVから若い男が降りてきた。長い鎖をあしらった細身のジーンズに皮のブーツ、Tシャツにサングラスといったいでたちで、軍人のように頭髪を短く刈り上げている。一見すると30歳前後だが、実年齢は40代半ばだった。信じられないくらい若く見える。

ブッキ・ビンタンは高級ショッピングセンターや外資系ホテルが集まったクアラルンプールの繁華街で、東京でいうと六本木みたいなところだ。「マレーシアの伝統的なコーヒーショップに行こう」と誘われて、車で連れていかれたのはパビリオンという巨大ショッピングモールだった。ホテルからは歩いて2~3分で、そんな距離なのにわざわざ車で迎えに来たのだ。

ローカルのコーヒーは、ロブスタ豆(粉コーヒー)にコンデンスミルクを入れて甘くした、ベトナムコーヒーによく似た味だった。それを飲みながら、アンソニーは1時間以上にわたって自分の生い立ちを語った。

ようやく話が途切れたので「そろそろホテルに戻るよ」というと、不思議そうな顔で「夕飯を食べるんじゃなかったの?」と訊く。私はすっかり勘違いしていて、夕食にはつき合えないから早く迎えに来たのだと思っていたのだ。

けっきょくその夜は、客家料理のレストランでビールを飲みながら、閉店までアンソニーの話を聞くことになった。彼と出会って、私はようやく「華僑」という生き方をすこし理解できたような気がした。

1万ドルで親から勘当される

ジョホールバルはシンガポールとの国境に近いマレーシア第二の都市で、アンソニーの父親はそこで広大なゴムのプランテーションを経営していた。大銀行の創業者の息子といっても、母親のちがうきょうだいがたくさんいるらしく、銀行経営にかかわっていたわけではない。

アンソニーの子ども時代はまだシンガポールがマレーシアから独立(1965年)したばかりで、国境の周辺は荒くれ者が跋扈していた。プランテーションを管理する父親は常に巨大な拳銃を腰に差していて、子どもの喧嘩にも拳銃を持ったまま相手の家に乗り込み、しばしば警察に通報されたという(拳銃の携行許可は取得していた)。

その当時、祖父はすでにメイバンクを経営していたから一家は相当に裕福だったはずだが、父親は質素と倹約を旨とする厳格なひとで、30年も前に買ったボロボロのベルトを死ぬまで手放さなかったという。もちろん父親は、家族にもいっさいのぜいたくを許さなかった(中国人の子育ては体罰が当たり前だが、子どもに手を上げることはなかったという)。

アンソニーは、兄と姉の3人きょうだいの末っ子だった。父親は教育熱心で、3人とも小学校から、シンガポールの親戚の家に寄宿させられた。

シンガポールの高校を出ると、きょうだい全員がカナダの大学に進学した。超エリートが集まるシンガポール国立大学に入れなければ、アメリカやイギリス、カナダ、オーストラリアなどに留学するのが当たり前だったのだ。

カナダには中国系市民が多く、香港移民が集まるバンクーバーは“ホンクーバー”とも呼ばれるが、それ以外の都市にも必ずといっていいほどチャイナタウンがある。アンソニーが入学したのは、西部カナダでもっとも古い歴史を誇る名門大学だった。
親や親戚の監視から逃れ、自由を手に入れたアンソニーは大学4年間をひたすら遊び暮らした。

大学で知り合った不良グループは、代々伝わる秘密の「鍵」を持っていた。どこの教授室にも出入りできるマスターキーで、試験前になるとこの鍵で教授の部屋に忍び込み、試験問題を盗み出してコピーし、学生に売りつけるのだ。アンソニーの自慢は、同期の遊び人仲間のなかでただ一人、この鍵の管理を任されたことだ。

卒業が間近に迫った頃、シンガポール人の女子学生と同棲していることが親にバレて、父親がカナダにまでやって来た。激怒した父親は、アンソニーに申し渡した。
――マレーシアとシンガポールに戻ってくることは許さない。1万ドル(当時のレートで約150万円)をくれてやるから、後は一人で生きていけ。これが、私からお前への生涯で最後の援助だ。 続きを読む →