リベラルは成功したからこそ失敗した(週刊プレイボーイ連載674)

世界的に「リベラルの失敗」が議論されています。しかしこれは、「リベラルズムが間違っていた」ということではありません。それとは逆に、「リベラルはあまりに成功したからこそ、失敗した」のです。

リベラリズムを「自分らしく生きるのは素晴らしい」という価値観と定義するならば、「私は自分らしく生きるが、あなたにはその権利がない」ということはできません。こうしてリベラルは、性別や人種、性的志向など自分では変えることのできない属性による差別を否定し、すべてのひとに平等な機会を与え、理不尽な差別に苦しんでいた多くひとたちの人生をよいものに変えました。

これはもちろん素晴らしいことですが、女性や有色人種、同性愛者などマイノリティの法的権利が次々と認められるにつれて、運動は行き詰まってしまいます。低い枝に実った果実を収穫してしまえば、あとは高い枝に手を伸ばすしかありませんが、それは簡単ではないのです。

そこでリベラルは、大きく2つの戦略に頼ることになりました。

1つは「マイノリティ探し」で、社会のなかで差別されている新たな集団を見つけて、それを運動の核にしようとしました。こうして「発見」されたのがトランスジェンダ―ですが、その割合は多く見積もっても人口の0.5%程度で、(その運動が無意味とはいいませんが)大衆の広い共感を得ることはできませんでした。

もう1つは、法律以外のさまざまな「制度的差別探し」で、そうした問題が残っているのは間違いないとしても、自分たちを「目覚めた者(ウォーク)」として、白人や男性などマジョリティの「無意識の差別」を上から目線で批判する態度に強い反発が生じたのは当然です。

しかしより本質的な困難は、リベラルな社会がメリトクラシーを土台としていることです。

日本では「能力主義」と訳されますが、「メリット」の本来の意味は、学歴・資格・経験(職歴)のような「客観的に評価できる人的資本」のことです。リベラルな社会では属性にもとづく選別は許されませんが、それでも組織を維持するには、入学や採用・昇進などで個人を評価することが必要になります。このとき唯一公正な評価基準が、「努力によって獲得できる(とされている)メリット」なのです。

しかしいうまでもなく、これは机上の空論です。メリットは知能に強く依存しており、知能のばらつきの大半は環境ではなく遺伝によってほぼ決まるからです。こうして、メリットをもてないひとたちが知識社会から「脱落」し、怨嗟の声をあげるようになりました。

しかしリベラルは、この事態にまったく対応できません。平等な社会では、成功できないのは「自己責任(努力が足りないから)」になるしかないのです。

だったら、メリトクラシーを廃止すればいいのでしょうか。でもこれでは、個人を身分によって差別する前近代の社会に戻ってしまいます。メリトクラシーが問題であることはわかっていても、誰もその代案を出すことができないのです。

ひとつだけ確かなのは、これがリベラルが嫌われる理由だとするなら、この状況を変えるのはほとんど無理ということです。

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エチオピアとジャマイカを結ぶラスタファライの数奇な歴史

ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載していくことにします。

今回は2019年9月公開の記事です。(一部改変)

Loredana Sangiuliano/Shutterstock

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アディスアベバなどエチオピアの都市では、タクシーやトゥクトゥク(オート三輪タクシー)の車体や窓にボブ・マーリーのステッカーが貼ってあるのをよく見かける。

ボブ・マーリーはジャマイカが生んだミュージシャンで、1970年代のレゲエブームを牽引し、脳腫瘍のため1981年に若干36歳で世を去った。しかし、この不世出の大スターとエチオピアにどんな関係があるのだろうか。

今回はアメリカの音楽ジャーナリストで、ボブ・マーリーとも親交の厚かったスティーブ・デイヴィスの『レゲエ・ブラッドライン 第三世界ジャマイカ、その音楽、風土、文化、時代の変遷』(中江昌彦訳/クイックフォックス)にもとづいて、カリブ海に生まれた「ラスタファライ(ラスタファリ)」という宗教とレゲエミュージックの数奇な歴史について紹介したい。

「奴隷の子孫」である黒人をアフリカに帰還させる

マーカス・ガーヴェイは1887年、ジャマイカ北部の都市セント・アンに生まれた。ラスタファライの歴史は、この黒人運動家から語りはじめなくてならない。ちなみにそれから60年後の1945年、同じセント・アンでボブ・マーリーが生まれている。

15歳でジャマイカの首都キングストンに出たガーヴェイは、アフリカ帰還運動に大きな影響を受けた。

19世紀初頭からアメリカの黒人のあいだで、「たとえ奴隷制が廃止されても人種差別が激しいアメリカでは自由で幸福な人生は手に入らない」として、「故郷」であるアフリカに帰還すべきだという主張が唱えられるようになった。これがアフリカ帰還運動で、1816年に結成されたアメリカ植民協会(American Colonization Society)が西アフリカに「リベリア(Liberia/自由)」という植民地をつくって自由黒人を移住させた。

20世紀を迎える頃には、アフリカやアジアで反植民地主義の独立運動が勃興した。ガーヴェイが体験した「アフリカ帰還運動」はこの第二波で、アフリカをアフリカ人の手に取り戻して「黒人国家」を独立させ、そこに奴隷として全世界に散らばった黒人のディアスポラ(追放者)が帰還する夢が語られた。――ここからわかるようにアフリカ帰還運動は、「故郷」であるパレスチナにユダヤ人国家を建設するというシオニズム(シオン運動)の黒人ヴァージョンでもあった。

ガーヴェイは20歳のときに印刷所の工員のストライキを指導したのち、説教師、町の事業家としてキングストンの名士になっていく。その後、29歳でアメリカに渡ったガーヴェイは、1917年に全米黒人地位協会(UNIA)を創立、当初は会員の相互扶助を目的としていたが、第一次世界大戦後の民族自決の熱気のなかで、アフリカ帰還を通して黒人救済を目指すようになった。

ガーヴェイはニューヨークで『ニグロ・ワールド』という新聞を発行し、「ひとつの目的、ひとつの国家、ひとつの運命」を掲げた。「目的」とはアフリカに黒人の国家をつくることであり、すべての「奴隷の子孫」たちが故郷に帰還することだった。

UNIAは本部をニューヨークのハーレムに構え、アメリカ、カリブのみならずアフリカにまで支部を置き、一説によると600万人もの会員が集まった。ジャマイカ生まれの無名の黒人は、わずか数年でアメリカの黒人運動の立役者に成り上がったのだ。

アメリカ中でアフリカへの帰還を布教したガーヴェイは、訪れる町の黒人コミュニティから救世主のごとく歓迎された。それはまさに、「ガーヴェイ教」という新たな黒人宗教の誕生だった。 続きを読む →

「失われたアーク」を探すエピオピアへの旅(3)

ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載していくことにします。

今回は2019年10月公開の記事です。(一部改変)

参考:「失われたアーク」を探すエピオピアへの旅(1)
            「失われたアーク」を探すエピオピアへの旅(2)

ラリベラの岩窟教会(Vadim_N/Shutterstock)

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エチオピアを旅したことをきっかけに何回かにわけてこの魅力的な国について書いてきたが、最後に、エチオピアの興味深い宗教と歴史についてまとめておこう。

なお、以下の記述はアルヴァレス『エチオピア王国誌』( 池上岑夫訳/岩波書店)所収の長島信弘氏による「解説」および長島氏らによる「補注」、石原美奈子編『せめぎあう宗教と国家 エチオピア神々の相克と共生』(風響社)所収の石原氏による「国家を支える宗教―エチオピア正教会」「国家に抗う宗教―イスラーム」に拠っている。

エチオピアの歴史をつくってきたのは北部の「アクスム地方」と、エリトリア、ジブチの紅海沿岸部で、古来「アビシニア」と呼ばれていた。大地溝帯にあるエチオピア北部は標高2000メートルの高原地帯を形成しており、それが浸食によって深くえぐられたことで、台形上の孤立した平地がいくつも生まれた。この特異な地形がエチオピアを多言語、多民族国家にし、数奇な歴史をつくりだしたのだ。

エチオピアは古代地中海世界の一部

エチオピアの歴史は、建国伝説によれば紀元前10世紀まで遡ることができる。この頃、イスラエル王国のソロモン王と、エチオピアの女王マケダが出会い、エチオピア初代の王でソロモン王朝を創始するメネリク1世が生まれたとされるからだ。

考古学的史料によって確認できるのは紀元前4世紀の先アクスム期からだが、それ以前になんの文明もなかったということではない。東アフリカにはナイル川上流(現在のエジプトとスーダンのあいだ)にクシュ、アラビア半島南端にシバ(サバ)という古代国家が存在したことがわかっている。クシュ国は、メロエ(スーダンの首都ハルツームの北東)に残されたピラミッドが示すようにエジプト文明から強い影響を受けていた。

地図を見ればわかるが、エチオピア北部の高地アクスムはナイル川の源流にあたり、タカゼ川を北に下ればクシュ国のあるスーダン東部に達し、東に向かうと紅海とアラビア海をつなぐマンデブ海峡だ。紅海を渡るとアラビア半島南端のシバ国に至る。

とりわけ興味深いのはシバ国で、旧約聖書に「シバの女王」がソロモン王に会いにエルサレムを訪問する記述があるように、この一帯は紀元前10世紀にはユダヤ教が伝わっていたらしい。ユダヤ教は現在思われているようなユダヤ人=選民の宗教ではなく、積極的に布教されていたのだ。

エチオピア人の祖先については諸説あるものの、この頃にはアラビア半島南部のユダヤ教徒がマンデブ海峡を渡って冷涼なエチオピア高地に移住するようになり、そこで原住民(クシュ語系住民)と交わったと考えられている。この移住によって紀元前にはエチオピアにユダヤ教が伝わり、それとともに「シバの女王」伝説が換骨奪胎されて、「マケダ(エチオピアの「シバの女王」)」がソロモン王との間に子をもうけた」という建国神話になったのだろう。

ソロモンとマケダの子どもであるメネリク1世がエルサレムからモーゼの十戒の刻まれた石版を納めた聖櫃(アーク)を持ち出し、それがアクスムの教会にいまも保管されているという伝説は、イギリスのジャーナリスト、グラハム・ハンコックの『神の刻印』(田中真知訳/凱風社)で広く知られることになった。

エチオピアの最初の王国である「アクスム王国」は紀元前1世紀頃に成立し、ギリシア人の旅行家が1世紀後半に書いた『エリトリア海周航記』にその名がしるされている。興味深いのは、3世紀のものと思われるアクスム国の戦勝碑にゼウス、ポセイドン、アレースの名が見られることだ。これは初期のアクスムの王が、ギリシアの神々を信仰していたことを示している。

このようにエチオピアは、紀元前後には早くもユダヤ教(ヘブライズム)とギリシア文明(ヘレニズム)の強い影響を受けていた。エチオピアは「アフリカの国」と思われているが、紛れもなく古代地中海世界の一部だったのだ。 続きを読む →