フランスが植民地問題を謝罪しない理由(後編)

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今回は2016年3月31日公開の「最後発の日本と違い、大航海時代から始まった植民地支配をいまさら「反省・謝罪」をしない欧州・フランスの事情」です(一部改変)。

参考:「フランスが植民地問題を謝罪しない理由(前編)」

hapelinium/shutterstock

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2016年3月22日、ベルギーでIS(イスラム国)による同時テロが発生し、空港と地下鉄で30人以上が死亡する惨事となった。世界でもっとも安全なはずのヨーロッパでテロが頻発するようになった理由はさまざまだろうが、私の理解では、その深淵には長い植民地支配の歴史がある。

近現代史をみれば明らかなように、日本は最後発の「帝国」で、最初の帝国主義戦争は1894年の日清戦争、朝鮮半島を植民地化したのは1910年だ。それに対してヨーロッパ列強がアフリカ、南北アメリカ大陸を侵略し、奴隷制で栄えたのは15世紀半ばの大航海時代からで、イギリスが東インド会社を設立してインドなどを次々と植民地化したのは1600年代だ。フランスのアルジェリア支配も1830年から1962年まで130年に及ぶ。日本とはその規模も影響力も桁ちがいだ。

私見によれば、これが日本が中国・韓国などから過去の歴史の反省と謝罪を求められる一方で、欧米諸国が植民地時代の歴史を無視する理由になっている。日本の場合は謝罪や賠償が可能だが、ヨーロッパの植民地支配は現代世界の根幹に組み入れられており、いまさらどうしようもないのだ――イスラエルとパレスチナの対立はヨーロッパのユダヤ人差別と第二次大戦中の場当たり的なイギリスの外交政策が引き起こしたが、だからといって過去を「反省・謝罪」したところでまったく解決できないだろう。

そのためヨーロッパでは、「植民地時代の過去」は日本とはまったく異なるかたちで現われる。

前回は、2005年にフランス国民議会で与野党の圧倒的多数で可決された「(アルジェリアからの)引き揚げ者への国民の感謝と国民的支援に関する法(以下、引揚者法)」を紹介した。私たち日本人が驚愕するのは、この法律の第4条1項で、「大学などの研究において、とりわけ北アフリカにフランスが存在したことについてしかるべき位置を与える」と定め、さらに第2項で、(高校以下の)学校教育において「海外領土、なかでも北アフリカにフランスが存在したことの肯定的な役割」を認める、と明記したことだ。

この第4条2項はその後、紆余曲折を経て廃止されることになるのだが、今回は平野千果子氏の『フランス植民地主義と歴史認識』(岩波書店)と、高山直也氏(国立国会図書館海外立法情報室)のレポート「フランスの植民地支配を肯定する法律とその第4条第2項の廃止について」に拠りながらその経緯を見てみたい。

2000年のアルジェリア大統領の訪仏で起きた「歴史問題」

フランスとアルジェリアの1世紀におよぶ支配と抵抗の複雑な歴史については前回述べたが、2005年引揚者法が制定される直接のきっかけになったのは2000年6月のブーテフリカ・アルジェリア大統領の訪仏だった。

フランス国民議会での演説でブーテフリカ大統領は、フランスが植民地時代に行なってきたことに対する「悔悛」を求めた。またテレビ出演した際に、アルキ(アルジェリア戦争をフランス側で戦ったアルジェリア人。戦後、約5万人がフランスに逃れたとされる)をヴィシー政権時代のナチ協力者と同じ「対敵協力者(コラボ)」と断じ、彼らの里帰りを拒否した。

アルジェリア大統領の訪仏に合わせるように、高級紙『ル・モンド』(2000年6月20日)の一面に、アルジェリア戦争中にフランス軍に逮捕・拷問されたというFLN(アルジェリア民族解放戦線)闘士の女性の証言が掲載された。その2日後、こんどは拷問を指揮したと名指しされた将軍が事実を認めるとともに、遺憾の意を表明する記事が掲載されるのだが、同日の別の紙面では、同じく名指しされたもう一人の将軍が告発の内容を全面的に否定し、「彼女には会ったこともないしこれは詐術にすぎない」と反論した。

さらに翌日の紙面で、ポール・オサレスという別の将軍が、拷問に自ら手を下したことを認めたうえで、それを正当化した。オサレスは翌年、アルジェリア戦争を回顧した『特別任務』を刊行するのだが、「拷問でアルジェリア人から情報を得てテロを未然に阻止し、無実の人たちを救ったのであり、拷問は効率的で正当であった」と述べたのだ。この著作刊行後、オサレスは人権団体から「人道に対する罪」で提訴されている(オサレスはさらに、アルジェリア側についたフランス人の共産党活動家の拷問死に関与したとして訴えられた)。

アルジェリア戦争を「汚い戦争」として見直すこうした動きに対し、ピエ・ノワール(黒い靴)と呼ばれるアルジェリアからの引揚者やアルキたちが反発し、それに右派・保守派の議員たちが呼応して、彼らの名誉を守るための法律制定が模索されるようになる。

「植民地国の和解や協力のためには「感謝」が先行すべきだ」

その最初の試みが、2003年に100人以上の保守派(UMP国民運動連合)議員によって国民議会に提出された「フランスが存在した期間、アルジェリアで生活していたわが同胞のすべての肯定的業績を認めることを目的とする法案」で、この法案は次の単一条文からなっていた。

第1条 フランスが存在した期間アルジェリアで生活したすべてのわが同胞の肯定的業績は公に認められる。

この法案は、その趣旨説明で以下のように述べている(高山氏前掲論文)。少し長いが、フランスの「植民地意識」がよく現われているので全文を引用しよう。

フランスは1830年から1847年にアルジェリアを征服して植民地としてから1962年にアルジェリアが独立するまで、科学・技術や行政についてのノウハウや文化、言語をこの地にもたらした。

アルジェリアが発展したのは大部分は入植者たちの勇気と進取の精神のおかげであり、フランスとアルジェリアの両国が苦しみと誤解、惨劇、身内同士の殺し合いにもかかわらず、文化的に、また深く結ばれているのは、大部分は彼らのおかげである。

シラク、ブーテフリカ両大統領によって2003年が「フランスのアルジェリア年」とされたこのような機会に「アルジェリアにおけるわが同胞の肯定的業績」を思い起こさないとすれば、それはアルジェリア戦争で大きな犠牲を払った兵士やアルキを讃え、感謝を表明しないことが過失となるのと同じように、歴史的誤りとなるであろう。

「記憶と感謝の時が和解と尊敬と協力の時に先行する」。

だからこそ、フランスとアルジェリアが両国を深く結びつける絆を強化し、深めることができるためには、国民の代表である国民議員がこれら多くの男女の業績を認めることが望ましいし、また正当でもあるように思われる。

前回、フランスの歴史家ジャック・マルセイユが「旧宗主国はおしなべて植民地から感謝されるべきであり、日本も韓国から感謝してもらってはどうか」と日本での講演で述べたことを紹介したが、これを読むとマルセイユの主張がフランスでは奇異なものでないことがよくわかる。ここでは、旧宗主国と植民地国の和解や協力のためには「(被植民地の)感謝」が先行すべきだとはっきり述べられているのだから。

2003年提出の法案はけっきょく成立しなかったが、それを受けてUMPのラファラン首相はミシェル・ディーフェンバッハ国民議会議員に、引揚者関係法の分析と今後の対応についてまとめるよう要請した。2005年引揚者法は、このディーフェンバッハ報告に基づいている。

この報告書は、「学校教育」の項で次のように述べている(高山氏前掲論文)。

アルジェリア戦争のように最近の、感情がからむ事件の記述に非の打ち所のない客観性を求めることはむつかしいとしても、「引揚者高等評議会」が数種の学校教科書から抜粋した記述を読むと、暴力を振るったのはフランス側だけのような書き方がしてある。その一方でアルジェリアが(アルジェリア戦争の終戦を定めた)エビアン協定を守らなかったことやこの休戦協定に続いておこったアルジェリアにおける虐殺や行方不明についてこれらの教科書が黙っていることは疑問を呼んでいる。

さらにディーフェンバッハ報告は、「奴隷売買及び奴隷制が人道に対する罪であることを認めることを目的とする2001年5月21日の法律」の第2条が「学校の教科及び歴史若しくは人文科学の研究科目は、奴隷売買及び奴隷制に対してそれにふさわしい重要な位置づけを与えなければならない」としていることを根拠に、出版社の自由や学問の世界の独立は絶対の基準ではないと主張してもいる。歴史教科書への介入は、この時点ですでに予定されていたのだ。

「アルジェリア系の若者たちを社会に統合するためには、植民地化の肯定的な側面を学校教育で教えるべきだ」

2005年引揚者法は与野党の圧倒的多数で国民議会で可決されたが、その直後から、(歴史教育を定めた)第4条2項に対して歴史学者などから強硬な反対が起こる。彼らは『ル・モンド』紙に「植民地化――公的な歴史にノン」と題する声明文を寄せ、この法律が学校教育の中立性および思想の自由に反して公式の歴史を強制し、植民地化の否定的な側面(虐殺、奴隷制、人種差別など)を隠蔽し、過激なナショナリズムの分離主義を引き起こすと批判した。

こうした批判に対し、アムラウイ・メカシェラ退役軍人担当相は次のように反論した(高山氏前掲論文)。

もしわれわれが引揚者やアルキの苦しみを和らげようと思うならば、われわれはまず彼らがしてきたことや耐え忍んだことの現実を認めるべきである。植民地化の肯定的な面を認めることは、それがもっていたかもしれない暗い面を否定することではない。

またアルジェリア出身の若者たちを統合しようと思うなら、20世紀の戦争において彼らの先輩たちが重要な役割を果たしたことを教えなければならない。アルジェリアとの関係についても、もしわれわれがわれわれのパートナーであり友人となった国々と強力で持続的な新たな関係を築こうと思うならば、歴史を直視しながら、アルジェリア出身の若者たちにそのことを教えなければならない。

2003年提出の法案は、「旧宗主国と植民地国の和解や協力のためには「(被植民地の)感謝」が先行すべきだ」との論理に基づいていた。2005年の引揚者法ではそれに加えて、「フランス国内に暮らすアルジェリア系の若者たちを社会に統合するためには、植民地化の肯定的な側面を学校教育で教えるべきだ」との論理が登場したのだ。

2005年引揚者法の4条2項はけっきょく削除されることになるのだが、それは歴史学者たちの批判が世論の支持を集めたというよりも、同年11月に勃発した大規模な暴動と、その余波の影響が大きい。暴動のきっかけは警官に追われた移民の若者2人が変電所の電線に触れて感電死したことで、サルコジ内相が郊外の若者たちを「ラカイユ(社会のくず)」と呼んだことが火に油を注いだ。

暴動を沈静化させるために政府は第4条を削除する法案を提出するが、与党議員らによって否決されてしまう。するとそれに反発してカリブ海のフランス海外県マルティニークで抗議デモが広がり、サルコジの訪問が拒否される事態にいたった。こうした混乱でシラク大統領は第4条2項の廃止を決めるが、ふたたび国民議会で否決されるのを避けるために法案を憲法評議会に付託し、条文が憲法に反するという判断を得て削除されることになったのだ。

フランスでは左派も植民地主義に肯定的

ここまで平野千果子氏と高山直也氏の著作に基づいてフランスの2005年引揚者法が引き起こした騒動を紹介してきたが、なぜこのような、われわれ日本人の「常識」からはとうてい考えられないことが起きたのだろうか。

ひとつは、ピエ・ノワールやアルキといった“故郷を追われた”ひとたちがフランス現代史の暗部であり、国家と歴史の被害者であるという認識が広がってきたことだろう。とりわけアルキは軍の施設などに隔離され、フランス国内ですらその存在はほとんど知られていなかった。“国家の恥部”として隠蔽され、差別に苦しんできた彼らの名誉を回復し、補償すべきだという主張は、保守派だけでなくリベラルのひとたちにもじゅうぶんな説得力を持つものだった。

アルキが在日韓国朝鮮人と異なるのは、“アルジェリア人”のアイデンティティを喪失した彼らが完全な“フランス人”になることを望んでいることだろう。フランスの同化主義からすれば、兵士として国家に貢献し、完璧なフランス語を話し、フランス革命の普遍的な価値を認めるひとびとを拒む理由はない。そのうえ彼らは「フランスのアルジェリア支配はよい時代だった」と、フランス人の耳の心地いい“歴史観”を語ってくれるのだ。

だがそれ以上に興味深いのは、フランスの露骨な(と日本人からは思える)植民地肯定論に、かつての植民地から表立った批判が聞こえてこないことだ。これが日本と中国・韓国との関係の際立ったちがいで、「日本の植民地支配は野蛮で残酷だが、欧米の植民地政策は文化をもたらした」とのステレオタイプが生まれる理由となっている。

これについて平野千果子氏は、それぞれの旧植民地ごとに異なる事情を説明している。

もっとも古いカリブ海の植民地では、ハイチは1804年にフランスから独立したが、マルティニークやグアドループ、フランス領ギアナはいまもフランスの海外県のままだ。インド洋のレユニオンや海外準県であるフランス領ポリネシアもそうだが、これらはそもそも国家として独立するには小さすぎる島や地域で、フランスに属して財政的な援助を受ける以外に生きていく方途がない。

そのため彼らの要求は、「フランスの一部」として、フランス人と平等な権利を獲得することになる。もちろん彼らのなかにも、有色人種であることで差別されているという不満はあるだろうが、それが「植民地支配」への批判につながることはない(カリブ地域では、ドゴールは奴隷を解放した共和主義の正統な後継者として神格化されている)。

フランスは東南アジアにも植民地を持っていた。「インドシナ」と呼ばれるベトナム、カンボジア、ラオスで、ハノイやホーチミン、プノンペン、ビエンチャンなどの都市は植民地時代のフランス風の街並みがいまも残されている。

だがこれらの地域にはベトナム戦争やポルポトの独裁のような、フランスとの独立戦争よりはるかに大きな影響を与えた現代史の出来事がある。さらにベトナムの場合、喫緊の課題はアメリカとの“戦争の記憶”ではなく、強国化する中国との安全保障上の対立だ。

「敵の敵は味方」の論理によってベトナム国民の対米感情はすっかり好転し、フランス植民地時代にいたっては「古きよき日々」になった(同様に第二次世界大戦中の日本の支配もまったく問題にされず、対日感情はきわめていい)。これではフランス側に、インドシナでの植民地支配を「反省」する理由があるはずはない。

それでは、フランスがもっとも広大な領土を支配したアフリカの国々はどうなのだろうか。これについては話が長くなるので、次回、紹介することにしたいが、その前にフランスのひとびとが植民地時代をどう考えているのか見ておきたい。

2005年12月に行なわれた世論調査では、フランス国民の64%が2005年引揚者法の(アルジェリア植民地時代の肯定的な役割を中学・高校の歴史で教えるという)第4条に賛成している。支持者別の内訳は、右派である国民運動連合(UMP)79%、フランス民主同盟55%のほか、左派の社会党55%、緑の党59%、共産党68%となっている。フランスでは「リベラル」もまた、植民地主義の肯定的な評価を法制化すべきだと考えていたのだ。

禁・無断転載

こうして「民主主義」は進化していく 週刊プレイボーイ連載(609) 

小池百合子氏が三選を決めた7月の東京都知事選は、56人が立候補するという“お祭り”状態になりました。ポスターを貼る権利を販売するという奇策によって特定の政党から24人が立候補していますが、それを除いても32人もの候補者がそれぞれの思想信条や政策を訴えて選挙に臨みました。

都知事選の供託金は300万円で、有効得票数の1割に達しないと没収されますが、全国的に話題になる選挙ではそれを上回る宣伝効果があると考えるため、この程度の金額では歯止めにはなりません。

そうかといって、供託金を引き上げると、真面目に政治家を目指すひとが立候補できなくなってしまいます。そもそも日本の供託金は世界的にもきわめて高く、フランスでは20年以上前に憲法違反として供託金が廃止されています。

それでは、「泡沫候補」たちが300万円を失ってまで訴えたいことはなんなのでしょうか。候補者名簿をざっと見ると、「ポーカー党(日本でポーカーを流行らせる)」や「ゴルフ党(ゴルフをもっと身近に楽しめるようにする)」のようにわかりやすいものもあれば、「ラブ&ピース党」「覇王党」「忠臣蔵義士新党」のように、その政治的主張がいまひとつ理解しづらいものもあります。

「泡沫」とはいえない候補者のなかには、日本を誇りのもてる国にするという保守派(あるいは排外主義者)もいれば、テクノロジーによって社会を変えることを目指すベンチャー起業家、反ワクチン派で精神医学を否定する医師など、さまざまな政治的主張があります。

デモクラシー(民主政)とは、多様な意見をもつひとたちが自由闊達に議論し、“集合知”によってよりよい解決策を見いだしていくことですから、本来であれば、立候補者が多いのは喜ばしいことのはずです。

今回の選挙では、候補者とはまったく関係のないポスターが大量に貼られるということが起きましたが、これも「選挙掲示板には意味がない」という政治的主張をするためのパフォーマンスだそうです。

リベラルを自称するメディアはこの事態を「民主主義の危機」と報じましたが、話は逆で、デモクラシー(市民による統治)が大衆化すれば必然的に起きることで、いわば「民主主義の進化」でしょう。

4月に行なわれた東京15区の衆議院補選では、他候補の選挙演説を妨害し、その様子を動画で撮影してYouTubeに投稿、再生回数を増やすとともに寄付を受け取る政治団体が現われ、公職選挙法違反容疑で幹部らが逮捕されました(この党の代表は勾留中に都知事選に立候補しました)。

この事件で興味深かったのは、これまでSNSを使って支持を広げてきたインフルエンサーが炎上のターゲットにされたことです。この行為が「妨害」なのか、それとも「議論」を求めているのかは主観の問題なので、容易に答えを出すことができません。

ただひとつわかっているのは、裁判によって違法の基準が示されれば、「違法でない」範囲で同じことが繰り返されることです。こうして「民主主義」の大衆化・液状化が進み、やがて「リベラル」が目指した理想の社会が実現するのでしょう。

『週刊プレイボーイ』2024年7月8日発売号 禁・無断転載

フランスが植民地問題を謝罪しない理由(前編)

ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載していくことにします。

今回は2016年3月16日公開の「日本とはまったくちがう歴史認識 フランスでは植民地支配は肯定的に評価する!?」です(一部改変)。

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2015年1月にパリの風刺雑誌シャルリー・エブドの編集部を襲撃したのはアルジェリア系フランス人の兄弟だった。だがフランスの人類学者エマニュエル・トッドは、『シャルリとは誰か? 人種差別と没落する西欧』(堀茂樹訳/文春新書)のなかで「移民」や「イスラム」について論じるものの、実行犯の出自についてはいっさい言及していない。

参考:「エマニュル・トッドの家族人類学はどこまで正しいのか?」

もちろんこれには理由がある。ある社会のなかでマイノリティが差別されているとして、マイノリティの一人が起こした犯罪について過度に出自を強調すれば、多数派による暴力的な行動を誘発しかねない。歴史を振り返れば、アメリカの黒人差別やヨーロッパのユダヤ人差別はもちろん、日本においても在日朝鮮韓国人や被差別部落出身者を対象にこうした事態が繰り返し起きてきた。だからこそメディアは、テロリストの出身国など具体的な属性に言及せずに「移民」問題を論じることになるのだろう。

だがフランスにおける一連のテロを見れば、そこに一貫した傾向があることは否定しがたい。

シャルリー・エブド襲撃事件に呼応してパリ郊外のユダヤ食品店に立てこもり、客や従業員4人が死亡した事件では、犯人は西アフリカのマリ系フランス人だった。世界を震撼させた2015年11月のパリ同時多発テロ事件では、首謀者はIS(イスラム国)メンバーのモロッコ系ベルギー人で、バタクラン劇場を襲撃したのはアルジェリア系ベルギー人やフランス人、スタッド・ド・フランス(国立競技場)付近の自爆犯はシリアから難民にまぎれて渡航したとされる。ここに挙げた国名――アルジェリア、マリ、モロッコ、シリアはすべてフランスの旧植民地だ。

だが“差別への配慮”によって、彼らはすべて「移民」「ムスリム」という一般名詞に還元されてしまう。それによって隠されるものとはなにか。それは、フランスの移民問題が「植民地問題」でもあるという事実だ。

日本の植民地支配がもっとも過酷だった?

フランスにおける植民地経済史の大家ジャック・マルセイユは2005年2月に来日、講演した。近年の経済史では、植民地支配は必ずしも本国に経済的利潤をもたらしたわけではなく、近代の植民地経営はほとんど本国の持ち出しであったというのが定説になっている。

日本での講演でも「フランスは植民地を搾取したのではなく、植民地の赤字を埋めた」との自説を開陳したあと、マルセイユは、旧宗主国はおしなべて植民地から感謝されるべきであり、「日本も韓国から感謝してもらってはどうか」と述べた――。

この驚くべき発言はフランス植民地史を専門とする平野千果子氏の『フランス植民地主義と歴史認識』(岩波書店)に出てくるが、マルセイユは右翼の歴史修正主義者の類ではなくパリ第1大学教授というれっきとしたアカデミズムのメンバーであり、彼の講演を聴いた日本の歴史家たちのあいだでもとりたてて奇異な発言とは受け止められていないようだ。

平野氏は、近現代の植民地研究には「旧植民地支配国のなかで、日本の支配がもっとも過酷であった」とのステレオタイプがあるという。こうした見解は、「真摯に日本の過去の過ちを問いただそうとする“アジアに寄り添う「良心的」立場”のひとたち」に顕著だが、このことが逆に、ヨーロッパ諸国の植民地支配が日本より「紳士的」だったという思い込みにつながっている。

植民地支配の残虐さを比較することが歴史学の目的ではないにもかかわらず、「日本の支配が最も過酷であったことが研究の前提となっている状況」を批判して平野氏は次のように述べる。

日本が最も非道であったという前提に立つならば、たとえばフランスに植民地化された人たちは日本の支配を受けるよりましだったという、別の無意味な前提にもつながりかねない。それはフランスの支配を受けた人びとの苦しみを軽んじることにもなるのではないか。

もちろんこの指摘は、日本の植民地支配を免責するためのものではない。だがここから、ジャック・マルセイユの発言の背景が見えてくる。

日本の“リベラル派”が(正義感と欧米崇拝から)「日本の植民地支配の残虐性」を強調することは、西欧の保守派にとってきわめて好都合だった。「日本人は文化程度が劣っているから植民地経営も野蛮で残酷だったのであり、西欧諸国の文化的な植民地経営とはまったく別だ」という自己正当化に使えたからだ。だが近年になってヨーロッパ諸国でも近現代史の見直しが進み、イギリスやフランスの植民地支配の実態が批判されるようになってきた。

マルセイユのような“まっとうな”歴史家は、「日本=悪、西欧=善」という二分法自体が人種差別的な発想だということは当然わかっている。だがここで、「日本の植民地経営が残虐だったようにフランスも残虐だった」とは考えない。逆に、「フランスが旧植民地国から感謝されて当然なように、日本も韓国から感謝されるべきだ」という理屈になるのだ。このように、過去の「植民地問題」におけるフランスと日本の歴史認識にはとてつもない距離がある。このことを話の前提としてまず押さえておきたい。

世界初の”奴隷解放”の理想と現実

ここではフランスの特異な歴史認識を象徴する出来事として2005年の「引き揚げ者への国民の感謝と国民的支援に関する法(以下、引揚者法)」をめぐる騒動を取り上げたいのだが、その前にフランスとアリジェリアとの1世紀におよぶ支配と抵抗の歴史を概説しておく必要がある。ここでいう「引揚者」とは、1962年のアルジェリア独立にともなって“故国”を追われた「アルジェリアのフランス人」のことだからだ。

同じく平野千果子氏の『フランス植民地主義の歴史 奴隷制廃止から植民地帝国の崩壊まで』(人文書院)によれば、フランスでは「奴隷制」と「植民地主義」はまったく異なるものとして扱われている。それを象徴するのが人道主義者として知られた文豪ヴィクトル・ユーゴだ。

フランスが奴隷貿易を開始したのは絶対王政期で、17世紀前半にはサン=ドマング(ハイチ)などカリブの植民地のサトウキビ・プランテーションから莫大な利益がもたらされた。だが1789年にフランス革命が起こると、革命政府は5年後の1794年にサン=ドマングの奴隷制廃止を宣言する。

このことが「フランスは世界に先駆けて奴隷を解放した」とする根拠になるのだが、平野氏によると事情はかなり異なる。

フランス革命で王政を倒したあと、新政権は「革命の輸出」を警戒するヨーロッパ諸王国から次々と宣戦を布告される。これがサン=ドマングをめぐって革命政府に深刻な矛盾を突きつけた。

プランター(サトウキビ・プランテーション経営者)は王党派で、彼らはイギリスと結んで革命政府に対抗しようとした。一方、黒人奴隷は解放を求めて島の東部を支配していたスペインに近づいた(カリブ海のイスパニョーラ島はフランスとスペインで東西に分割され、東部をスペイン領の現ドミニカ共和国、西部がフランス領の現ハイチ)。サン=ドマングのフランス革命軍は、イギリスとスペインを同時に敵に回す危険にさらされたのだ。

このうち革命政府にとってより脅威だったのは、反革命派のプランターだった。「カリブの女王」と呼ばれたサン=ドマングがイギリスの手に落ちるようなことになれば、革命そのものが破綻しかねない。革命政府には奴隷制を廃止して奴隷たちをフランス側に取り戻し、反革命派と対抗する以外に道はなかったのだ。

“奴隷解放”が便宜的なものでしかなかったことは、権力を掌握したナポレオンがたちまち奴隷制を復活させ、1801年に2万の大軍をサン=ドマングに派遣したことからも明らかだ。ところがこの派遣軍は、士気旺盛な奴隷勢力の前に大敗を喫してしまう。こうしてフランスはサン=ドマングを諦めざるをえなくなり、七月王政時代の1836年、プランターへの補償と引き換えにハイチ独立を認めることになった。

“奴隷解放”をめぐるこうした経緯は、ルイ・ナポレオンによる第二帝政を批判してフランスを離れていたヴィクトル・ユーゴなど(フランス革命の理念を擁護する)共和派にとってきわめて都合がよかった。彼らの“歴史認識”では奴隷制を廃止したのは共和派で、王党派など革命を否定する勢力がそれを覆した。イギリスが奴隷貿易を廃止したのは1807年、英領植民地で奴隷制が廃止されたのが1833年なのだから、「人種差別撤廃」のさきがけとしての栄光はフランスの共和主義にこそ与えられるべきなのだ。

ところがこの時期、フランスによる北アフリカへの侵略が着々と進められていた。ナポレオンによるエジプト遠征は失敗に終わったものの、フランス軍がアルジェを占領したのは1830年、アルジェリアに3県が設置されて植民地化が完了したのが1848年で、この年、二月革命によって第二共和政が成立している。だが共和政政府は植民地を解放するのではなく、逆にアフリカへの侵略を拡大していく。

奴隷制を人道に反するとして弾劾したユーゴは、この植民地化政策を熱烈に擁護する。こうした政治的立場は彼だけのものではなく、当時の知識人には当然とされていたらしい。『アメリカの民主政治』で知られる政治思想家アレクシ・ド・トクヴィルも同様に植民地政策を強く支持していた。

奴隷制に反対した共和派(リベラル)はなぜ、植民地主義者になったのか。その謎を解くキーワードが「文明化」だ。

フランス革命は「自由・平等・友愛」の“普遍”の原理を人類にもたらした。普遍というのは、「時代や地域を超えていついかなるときも適用される」ということだ。奴隷制は革命の理念に反するからこそ否定されなくてはならないが、それはフランス国内にとどまらない。当時のアフリカでは奴隷制の風習が根強く残っており、こうした前近代的・反人道的な悪習も正すべきなのはいうまでもない。フランス(共和政政府)こそが、人道主義の文明の光を「暗黒大陸」にもたらす責務を担っているのだ。――こうして、「奴隷解放が植民地化につながる」という奇妙な逆説が成立することになる。

「アルジェリアは“フランス”だが、アルジェリア人は“フランス人”ではない」

フランスの植民地はマルチニークなどカリブ海諸島、北アフリカ(アルジェリア、チュニジア、モロッコ)、サハラ以南の仏領西アフリカ・仏領赤道アフリカ、インドシナ(ベトナム、カンボジア、ラオス)などに大別され、第一次大戦の戦勝国として旧ドイツ領を併合したことで戦間期に大英帝国に匹敵する「フランス植民地共和国」を形成した。それぞれの地域によって植民地化の経緯や事情が異なるため一概に論じることはできないが、そのなかでもアルジェリアは別格だった。

第二次世界大戦後、民族自決の流れのなかで、フランスもまた植民地支配の見直しを迫られることになる。だがそのときもアルジェリアは「植民地」ではなかった。なぜならそこは、フランスの一部だったのだから。

フランスの植民地経営は、フランス人の大規模な入植をともなうものではなく、「原住民」を“文明化”してフランスに従属させることを目的としていた。これはフランスが、西欧諸国のなかでは唯一19世紀に人口の増加が止まり、自国の貧困層を海外の植民地に“輸出”する必要がなかったからだ。

だが地中海をまたぐアルジェリアだけは、フランスの「生命線」として、フランスに「同化」することが当然とされた。この同化はアルジェリア人を“フランス化”するのではなく、フランス人(白人)がアルジェリアに入植することで達成されることになっていた。

そのためフランス政府はアルジェリアの土地を没収し、それを無償供与することで入植者を募った。だが実際にはフランス人だけでは応募を満たせず、イタリアやスペインなどからの入植者も受け入れた。彼らはやがてアルジェリア社会の主流層と融合し、フランス語を話す「フランス人」になっていく(アルベール・カミュは1913年にフランス領アルジェリアに生まれているが、父親はフランス人、母親はスペイン人だった)。

次にフランス化したのは、アルジェリアに住むユダヤ人だった。「白人」人口を増やしたいフランス政府が彼らに積極的に市民権を与えて懐柔しようとしたためだが、ドイツ占領期のヴィシー政府によってその市民権は剥奪されることになる。

アルジェリアのフランス人(白人)は、「ピエ・ノワール(黒い靴)」と呼ばれた(最初にこの地を訪れた白人が黒の革靴をはいていたからだといわれるが、これ以外にも諸説ある)。アルジェリア独立戦争が始まった1954年時点で、1000万の人口のうち100万人(10%)がピエ・ノワールで、そのうち79%が現地生まれだった。彼ら「フランス人」にとっては、アルジェリアが唯一の“故国”だった。

フランス政府は同化政策によって一部のアルジェリア人にも市民権を与えたが、高等教育を受けて完璧なフランス語を話すだけでなく、イスラームを捨てて世俗化することが条件とされたためその数は多くはなかった。

カトリック教徒でも「フランス人」でいられるのだから、棄教を帰化の条件とするのは理不尽だ。フランスには、当初からアルジェリア人に無条件で市民権を与えるつもりなどなかった。フランス革命の敵は王党派と旧態依然たるカトリック(教会)で、「ライシテ(非宗教性)」が共和主義の理念になったのだが、それを植民地に適用することで、「アルジェリアは“フランス”だが、アルジェリア人は“フランス人”ではない」という都合のいい差別政策が可能になったのだ。

だがそれでも「フランス化」したアルジェリア人はいたし、補充兵としてフランス軍に徴用されるなどしてフランス側でアルジェリア独立戦争を戦ったひとたちもいた。彼らはアルキと呼ばれている(フランス軍のアルジェリア人補充兵「アルカ」からきている)。

アルジェリアとの「汚い戦争」が膠着状態に陥り戦死者・戦傷者が増えたことでフランス第四共和政は崩壊し、“英雄”ドゴールが保守派によって担ぎ出された。ドゴールは当初、連邦制による植民地の維持を考えていたが、民族自決の潮流に抗するのは不可能と見ると一転してアルジェリアとの講和を目指すことになる。

こうしてアルジェリアは1962年に独立を果たすのだが、その後、難民の流入を恐れたフランス政府がアルジェリア人の本国への渡航を禁じたことで、アルキの多くがアルジェリア民族解放戦線(FNL)によって裏切り者として処刑された。それでもアルキの一部はフランス軍兵士などの手引きによってフランスに移住したが、彼らの存在は長らくフランス社会のタブーとされ、フランス軍の駐屯地や過疎地の住宅に「隔離」されて暮らしてきた。

アルキについての統計記録はほとんどないが、戦後フランスに逃れたのが5万人で、現在、その子孫40万人が国内に暮らしているとされている。アルジェリアに置き去りにされたアルキは15万人程度で、FNLによる処刑の規模は3万人から15万人まで諸説ある(15万人説によるとアルジェリアのアルキは根絶やしにされたことになる)。こちらはアルジェリア現代史の暗黒面で、FNLが政権を担っている以上、客観的な調査は不可能だろう。

アルジェリア独立戦争におけるもうひとつの暗部は戦争末期の1961年に結成されたOAS(秘密軍事組織)で、彼らはアルジェリア独立の容認に猛反発し、フランス国内で講和派の政治家を標的としたテロを繰り返し、公職追放や拘禁刑、死刑に処せられる者もいた(フレデリック・フォーサイスの傑作『ジャッカルの日』では、OASに雇われたプロの殺し屋がドゴール暗殺を企てる)。だがアルジェリア独立後、国論が二分することをおそれたフランス政府はなし崩し的に彼らへの恩赦を連発して「戦争責任」の議論を封じた。

このようにフランスにおける「植民地(アルジェリア)問題」とは、日本のような「かつての植民地に対する謝罪と賠償」ではなく、ピエ・ノワールやアルキなど引揚者への補償や名誉回復、OASへの恩赦を議論することだった。なぜなら彼らは「フランス」に暮らしていた「フランス人」で、フランス政府がアルジェリア(FNL)との講和で一方的に「国土」を放棄したために安住の地を失うことになったのだから。

植民地支配に対して「肯定的な役割」を与える

失意のピエ・ノワールに最初に手を差し伸べた政治勢力は左派だった。アルジェリアとの講和を進めたのがドゴールの共和派だったためで、「敵の敵は味方」の論理で1966年には社会党を中心にOASの元メンバーの復権を求める法案が提出された。ドゴールが69年に引退すると共和派もアルジェリア問題で宥和政策に転じ、左派以上に寛大な補償を認めていく。こうしてピエ・ノワールは、保守派から左派までフランス政界で隠然たるちからを行使するようになった。先に述べた2005年「引揚者法」は、ピエ・ノワールからの「歴史の見直し」の一環として実現したものだ。

引揚者法は第1条で、「アルジェリアの県、モロッコ、チュニジア、インドシナ、さらにかつてフランスの主権下にあった領土において、フランスがなし遂げた仕事に参加したフランス人に国民は感謝を表明する」としている。このような法律を日本が韓国、台湾、満州などからの引揚者に対して制定することを考えれば驚き以外のなにものでもないが、さらなる驚愕は第4条だ。

第4条1項では、「大学などの研究において、とりわけ北アフリカにフランスが存在したことについてしかるべき位置を与える」と定め、さらに第2項では、(高校以下の)学校教育において「海外領土、なかでも北アフリカにフランスが存在したことの肯定的な役割」を認める、と明記したのだ。

周知のように歴史教科書問題では、大日本帝国時代の現代史をどのように記述すべきか、「侵略」の定義などをめぐってはげしく争われた。それに対してフランスでは、植民地主義の「肯定的な役割」を学校教育で教えるよう法制化しようとし、保守派のシラク政権が提出したこの法案は、左派政党からもさしたる異論が出ずに議会であっさり可決されている。唯一の批判らしきものは、上院で共産党議員が第4条に関して、「自身も含め、各人にはそれぞれの歴史的事実があるのであり、議論自体はきわめて正当であるとする一方で、この条項の「新植民地的かつ修正主義的な文言」には深く衝撃を受けた」と述べたことだけだという。

日本はずっと、「中国や韓国から繰り返し歴史認識を批判されるのは、過去の反省と謝罪の気持ちが足りないからだ」といわれてきた。私はこうした主張がすべて不当だとは思わないが、だからといって「欧米を見習え」というのは明らかにおかしい。

近現代史の歴史家のあいだではすでに常識になっていることのようだが、ヨーロッパ諸国の「歴史認識」は日本とはかけ離れている。もし日本がフランスを「見習え」ば、「韓国・台湾の植民地化や満州国建国にも“肯定的な役割”がある」と学校で教えるべきだ、という法律をつくることになるだろう。“進んだ”欧米諸国と比較して日本の戦争責任を論じるひとたちは、この事実を知っているのだろうか。

次回は、(私たちからみて)驚天動地のこの法案がフランス社会でなぜ受け入れられたのかを考えてみたい。

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