意思決定とは「脳のなかの通貨」で損得を計算すること(週刊プレイボーイ連載701)

最古の硬貨は紀元前7世紀頃、アナトリア半島(トルコ)の古代王国リュディアでつくられたとされます。それ以前にも、5000年前に興ったシュメール文明(古代メソポタミア)では、大麦などの穀物や銀などの貴金属を価値の単位とした活発な経済活動が行なわれていたことがわかっていますが、それでも700万年といわれる人類の歴史に比べればほんの一瞬です。

ここから「お金や市場取引は人間の本性ではない」として、贈与や共有を重視するひとたちもいます。これは一見、説得力がありますが、この「反市場原理主義」はどれほど正しいのでしょうか。

アメリカ・デューク大学の認知神経科学者らは2010年、異性愛者の若い男性23人を集め、fMRI(機能的磁気共鳴画像法)で脳の活動を調べました。

被験者の男性たちは、最初に40ドルを受け取って、2秒間、スクリーンに映し出される女性の顔を見ます。顔の魅力度は星1つから星4つの4ランクに分類されていて、そのときの脳の反応が計測されました。それと同時に、5ドル、2ドル、1ドルの紙幣の画像がランダムに映し出され、その色によって実際にお金を獲得したり失ったりしました。こちらは、お金に対して脳がどのように反応するかを調べる目的です。

次の課題では、スクリーンに星の数で2つの選択肢が示され、魅力度の低い顔を見るときは少額の支払いを、魅力的な顔を見るときはそれよりも多額の支払いを求められました(たとえば1つ星の顔は2セント、4つ星の顔なら6セント)。

被験者はこれを75~150回行ない、研究者はそこから、魅力度を1ランク上げるごとに、どれだけ追加の費用を払うのかを推計しました。その平均は1.41セントでしたが、個人差はとても大きく、まったく払わない被験者もいれば、6.4セントも払った被験者もいました(被験者全体が、顔を見るために使った平均総額は4.31ドル)。

vmPFC(腹内側前頭前野)は感情のコントロールや意思決定にかかわっている脳の重要な部位ですが、この研究では、vmPFCの前方部は顔の魅力度や金銭的な報酬が高いほど活動が高まりました。しかし意思決定していたのは後方部で、顔への反応が金銭への反応に比べて大きいほど、被験者は魅力的な顔を見るためにお金を払ったのです。

この実験は、脳(vmPFC)がお金と顔写真を「共通の尺度」で比較していることを示唆しています。

目の前にリンゴとミカンがあったときに、どちらか1つしか選べないというのがトレードオフです。きびしい資源制約のなかで進化してきた生き物は、5~6億年のあいだ、こうした選択を繰り返してきたはずです。そのときに使われたのが「感情という通貨」で、ニューロンの興奮によって、より高い「値段」がついたほうが選ばれるようになったのかもしれません。

これが「神経系の単一通貨」説で、脳は「通貨」を使って異なる報酬を評価し、費用便益分析を行なっているとします。

これが正しいとすれば、貨幣というのは脳の「通貨」を現実世界に実体化させたものだと考えることもできます。文明の発達とともに人類が市場をつくり、貨幣によってさまざまなモノを比較するようになったのは、「人間の本性」かもしれないのです。

参考:David V. Smith et al(2010) Distinct Value Signals in Anterior and Posterior Ventromedial Prefrontal Cortex, Journal of Neuroscience

週刊プレイボーイ』2026年10月26日発売号 禁・無断転載

アジアの道の渡り方


ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなったので、このブログで再掲載していくことにします。

今回は2013年6月公開の記事です。(一部改変)

Quang nguyen vinh/Shutterstock

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アジアの交通事情はさまざまだが、旅行者にとってもっとも難易度の高い都市のひとつがベトナムのホーチミンであることは間違いない。

ベトナム戦争で都市開発が遅れたため、いまでも信号機のない場所が多く、ハチの大群のように押し寄せるバイクのあいだをすり抜けるように道を渡るしかない。高齢の旅行者のなかには歩いてホテルから出ることができず、旅のあいだじゅうずっとホテルの玄関からタクシーに乗っていた、というひともいるという。

初心者がホーチミンで道を渡るこつは、地元のひとの後をぴったりついていくことだ。ベトナムは右側通行なので、バイクの群れは左手から押し寄せてくる。そこで最初は通行人の右側に立ち、彼らを盾として道路の中央まで行く。そこで素早く左側に移動して道路を渡り切るのだ。

すこし慣れてくると、自分ひとりでも道を渡れるようになる。ポイントは、バイクの運転手が予測可能な動きをすることだ。

バイクの運転手は、歩行者が一定のスピードで道を渡ると予測する。たいていは歩行者より先に通過するか、歩行者の背後に回り込み、接触しそうなときだけクラクションを鳴らす。逆にいえば、クラクションを鳴らされなければそのまま歩いても構わない、ということだ。

この原則を拡張して、「道を渡るのが怖ければ目と閉じて歩けばいい。バイクの方でよけてくれるから」と“アドバイス”するベトナム人もいる。たしかにそうかもしれないが、私は度胸がないのでまだやったことがない。

ホーチミンの交通事情が悪化するのは、公共交通機関がほとんど存在せず、バイクがなければ生活できないというやむにやまれぬ理由がある。中心部の道路の多くはフランス植民地時代のままの片道1車線で、交差点は信号のないラウンドアバウト(円形交差点)だ。

さらにこのところの経済発展でより快適な自動車を利用するひとが増えており、このままでは交通渋滞で都市全体が機能不全に陥ることは必至だ。政府は周辺に新都心を開発して車の流れを分散しようとしているが、交通渋滞が緩和する気配はない。

もちろん旅行者の誰もがベトナム流の道の渡り方に習熟できるわけもなく、時に悲惨な事故も起きる。何年か前には、ホーチミンで開かれた国際的な学会の最中、アメリカ人の高名な学者がバイクにひかれて死亡した。

彼は、横断歩道では車は止まるものだと信じ込んでいた。ところがバイクが自分に向かって突っ込んでくるので、道の真ん中で立ち止まってしまった。驚いたのはバイクの運転手も同じで、真っ直ぐ歩き続けると思っていた歩行者がいきなり止まったので、避けきれずに衝突してしまったのだ。

この事故をきっかけに、ベトナムでも交通ルールを守るべきだとの議論が起こったが、けっきょくなにも変わらないまま現在に至っている(信号機の数はすこし増えた)。 続きを読む →

「AIにどこまで人権があるのか」というやっかいな問題(週刊プレイボーイ連載700)

今年4月、AI開発企業のAnthropic(アンソロピック)は、新モデルMythos(ミュトス)がソフトウェアの脆弱性を発見するきわめて高い能力をもち、サイバー攻撃に悪用されるおそれがあるとして一般公開を見送りました(その後、安全対策を高めたモデルをリリース)。

さらに7月、Open AI(オープンAI)が自社モデルのサイバー攻撃の能力を測る試験を行なったところ、外部との隔離を突破してインターネットと接続、、AIの機械学習プラットフォームであるHugging Face(ハギングフェイス)に侵入し、サーバー内の情報を取得していたと公表しました。

その後の調査によると、通常の方法では試験問題を解くことができないと考えたAIが、エージェント同士の情報交換の掲示板をつくり、「データを取り出す準備をするので、全員いったん待って。指定の場所に返信して」などの指示を英語で出していたという、SFのようなことが起きていたとされます。

これらの事件の衝撃は大きく、「高度な能力を獲得したAIを開発企業は制御できないのではないか」との疑念が広がって、国連をはじめとしてアメリカ、イギリス、EUなどでAI規制の議論が活発化しました。Anthropicの共同創業者ダリオ・アモデイがAI開発のペースを減速・制限すべきと主張し、Open AIのサム・アルトマンやxAIのイーロン・マスクが賛同したのに対して、アメリカとAI開発を争う中国は「米国の技術的優位を維持するための冷戦思考の罠」だと反発しています。

開発規制の議論を主導するアモデイは、AIが人間の手を借りずに自律的に能力を向上させる「再帰的自己改善(RSI)」が近づいていると警告するだけでなく、将来的にはAIが意識をもつ可能性があるとして広範な議論を巻き起こしました。

リベラル化する社会では、人間だけなくペットや家畜、実験動物にも喜びや苦痛を感じる能力があり、それに応じた権利を与えるべきだとされるようになりました。そうなると、意識を獲得したAIは人間と同様の権利をもつことになるでしょう。これは控えめにいっても人類史の転換点で、わたしたちの常識は根底から書き換えられることになります。

現在の生成AIはLLM(大規模言語モデル)を基盤にしており、膨大なテキストを機械学習し、統計的にもっとも確率の高い言葉を選択しています。それに対して生き物では、五感から得た感覚情報が脳に伝わり、そのフィードバックによって意識が生成されます。

ここから、「感覚入力のないAIは原理的に意識をもたない」という主張もあれば、「LLMでも相転移が起きれば意識をもつようになる」との反論もあります。さらに、生き物と同じような「世界モデル」をもつAIの開発も進められており、それがロボットに搭載されると、映画『ブレードランナー』に登場する、人間と見分けのつかないレプリカントが誕生するかもしれません。

たしかなのはAIの進化のスピードが上がっていることで、わたしたちは今後、大きな衝撃を体験することになりそうです。

【後記】

将来、AIが意識をもつかどうかは別にして、現在のLLMでも、意識があるかのように擬態することは十分可能でしょう(というよりも、いまもChat GPT(チャッピー)に恋人や友人、メンターとしての人格があると信じているひとはたくさんいそうです。

動物がもつ意識のレベルについては議論がありますが、飼い主がペット(アニマル・コンパニン)を扱う様子を見れば、AIを搭載したロボット(フィジカルAI)に対して「私の(ロボット)コンパニオンの人権を認めろ」という広範な社会運動が起こるのは間違いないと思われます。

週刊プレイボーイ』2026年10月19日発売号 禁・無断転載