【アクセス8位】不平等の原因は「経済格差」ではなく「ネットワーク格差」

ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなってしまったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載していくことにします。

アクセス8位は2021年4月8日 公開の「”類は友を呼ぶ”「経済格差」よりやっかいな「ネットワーク格差」」です(一部改変)。

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わたしたちは言葉を介して社会のなかでコミュニケーションする。同様に市場は、貨幣と商品・サービスを交換する複雑系のネットワークだ。このように現在では、世界を単純な数式で記述するのではなく、ネットワークとして把握しようとする試みがあらゆる分野で行なわれている。

「アメリカは人種によって分断されている」といわれるが、それはいったいどういうことなのか。ネットワークの科学はそれを明快に説明できる。

多様な人種の生徒が通うアメリカの高校の友だちネットワークを描くと、白人グループと黒人グループで2つの大きな島ができる。そこから計算すると、人種が同じ生徒同士では、人種がちがう場合よりも15倍以上、友だちができやすい。

友だち関係には濃淡があるだろう。そこで「放課後に街に出かける、週末いっしょに遊ぶ、電話で話す」などの「強い友だち関係」だけを抜き出すと、人種をまたぐ友だち関係はほぼすべて消えてしまう(この学校には255人の生徒がいるが、白人と黒人の「強い友だち」関係は数本しかない)。これが同類性(homophily)、すなわち「類は友を呼ぶ」効果だ。

社会的・経済的なつながりを研究する経済学者マシュー・O・ジャクソン(スタンフォード大学教授)の『ヒューマン・ネットワーク ヒトづきあいの経済学』(依田光江訳、早川書房)は、こうしたネットワークの科学のわかりやすい入門書になっている。

ひとはみな、自分と似たひととつき合いたがる性質をもっている

分断と同類性はコインの裏表の関係にある。ひとはみな、自分と似たひととつき合いたがる性質をもっている。こうして似た者同士が集まると、「自分たちと似ていない」集団とのあいだに分断が起きる。同類性は、ジェンダー(性別)、民族、宗教、年齢、教育レベル(大卒/非大卒)、婚姻関係、職業、現在の雇用状況(働いているか、失業者か)など、社会のあらゆるレベルで現われる。

ドイツの婚活サイトで10万人以上を対象に行なった調査では、女性利用者の初回のコンタクトメッセージは、学歴の似た男性に送る可能性が平均より35%高く、自分より学歴の低い男性に送る可能性は41%低かった。男性は年齢(若さ)など別の要素に注目するため学歴にはさほどこだわらないとされるが、それでもメッセージを送った割合は自分と同程度の学歴の女性が15%多く、自分より低い学歴の女性は6%少なかった。

一方、アメリカではオンラインデートの利用者は100万人にのぼるが、異性愛者でも同性愛者でも人種に強い同類性を示すことがわかっている。学歴など他の要素を補正したあとでもこの傾向は変わらない。

ひとはなぜ同類に惹かれるのだろうか。その理由のひとつは、同じ境遇を経験したひとの方が役に立つからだ。歯が痛いときは、盲腸の手術をした知人よりも、虫歯で歯医者に通っている知り合いにアドバイスを求めた方がいい。同様に(思春期前の)子どもたちは、同年齢で性別が同じ相手と友だちになろうとする。

もうひとつの理由は、同類といっしょの方が安心できるからだ。わたしたちはつねに他者の反応を予測しようとしているが、このとき予想外の反応をされると大きな不安を覚える。「わけのわからないことをする相手」は生存への最大の脅威なのだ。

それに対して同じ環境を共有している相手なら、どのようなふるまいをするか予測しやすい。家族や親せき、中学・高校の同窓生などとのベタな共同体から出たがらないひとがいるのは、見知らぬ他者が不安を与えるからだろう。

同類を好むのは保守的なひとたちだけではない。シリコンバレーのパロアルト(アップルの本社所在地)では住人の13%が博士号をもっており、しかもこの数字は、教授などが多く住むスタンフォード大学周辺は入っていない。

シリコンバレーの同類性はイノベーションの源泉でもある。地元のカフェで最新のテクノロジーについての会話が聞こえてくればつねに刺激を受けるし、会話に入って新しい知り合いができるかもしれない。こうした「知的ネットワーク」があると、伝手をたどって会社から会社へと転職できるから一種の雇用保障にもなる。

シリコンバレーは家賃がとてつもなく高く、公共交通機関も歓楽街もなく、けっして住みやすいとはいえないが、それでも世界じゅうから天才たちを引きつけるのはこのネットワーク効果があるからだ。

同類性の「負の外部性」が社会を分断する

同類性にはポジティブな影響(正の外部効果)があるが、同時にそれが分断をも引き起こす。とはいえ、ヒトはみな「差別主義者」というわけではない。

2005年にゲーム理論でノーベル経済学賞を受賞したトーマス・シェリングは、自分と異なる人種が隣にいることを嫌う「差別」ではなく、たんに自分と同じ人種の世帯が最小限いることを願っているだけで、ホワイトフライト(白人の郊外への転出)のような社会の分断が起きることを証明した。

「近所(隣接する8世帯)のすくなくとも3分の1は自分と同じ人種であってほしい(自分が圧倒的な少数派にならなければいい)」というかなり寛容な基準を用いても、異なる人種が半分になると2つのグループに「分断」されてしまう。現実には、黒人の転入者が5~20%のあいだで白人たちは出ていってしまった。

外部性は「ある人のふるまいが他者の幸福に影響すること」で、ネットワークでは正の方向にも負の方向にも強い外部性が生じる。みんながワクチンを接種するのが「正の外部性」で、基本再生産数が1を下回れば感染は収束する。それに対して「負の外部性」では、もともとは小さな好みの偏りがネットワーク効果によって増幅され、共同体を分断してしまう。

近年では、インターネットやSNSによって負の外部性がさらに強力になっている。研究によれば、インターネットに接続されていないときと、完全に利用可能になったときとを比べると、その地域の政治の二極化が22%拡大した。インターネットアクセスの増加は偏ったニュースの追随者を増やし、社会の分極化につながるのだ。

インターネットの利用が増えるほど投票率が高まり、政党の力関係を変化させるが、ふつうのひとが「極右」や「極左」に変貌するわけではない。SNSは、「すでに強硬な意見をもっている人たちを勢いづける」ようなのだ。どうやら、「ほかの人も自分と同じような考え方をしていると、人は自信を得て、その考えを共有している人がほかにもおおぜいいると過大評価する傾向がある」らしい。

経済格差の根源にあるネットワーク効果

経済格差の拡大(不平等)は、ネットワークの科学では「非移動性」で説明される。これは、「本来なら大きな生産性を発揮できたであろう人が非生産的な役割に閉じ込められ、社会全体の生産性を落としてしまう」ことだ。

非移動性の指標が「世代間所得弾力性」で、親の優位性が世代を超えてどれだけ受け継がれるかを示す。0だと「完全な移動性」で親の所得と子どもの所得になんの関係もなく、1は「完全な非移動性」で親の所得と子どもの所得は同じになる。すべての社会は0から1のあいだのどこかに位置する。

データを見ると、世界でもっとも不平等なのはペルーで、世代間所得弾力性は0.7だ。アメリカの弾力性は0.5を少し下回り、日本はドイツ、ロシアなどと同じ0.3~0.4程度で中の下くらいに収まっている。もっとも弾力性の低い(格差が少ない)のはデンマーク、ノルウェー、フィンランドなど北欧諸国だ。

アメリカンドリームは成功の機会がすべてのひとに開かれていることだが、現実のアメリカ社会は所得、教育、資産のどれをとっても、寿命ですら親子の相関関係が非常に高く、日本よりも努力による成功が難しい国になっている。

経済格差の指標として使われるジニ係数では、0が完全平等(全員の富が同じ)、1が完全不平等(1人がすべての富を独占する)だ。横軸に非移動性(世代間所得弾力性)、縦軸に不平等(ジニ係数)をプロットすると右肩上がりの分布になり、非移動性が高いほど格差が大きいことがわかる。

スコット・フィッツジェラルドの小説『グレート・ギャツビー』では、卑しい身分に生まれたものの若くして大きな富を得たギャツビーが、初恋の女性で上流階級出身のデイジーと結ばれようと苦闘する。ここから、社会階層を超えることの難しさを表わすこのグラフは「グレート・ギャツビー曲線」と呼ばれている。

小さくて同質的な国(デンマーク)と大きくて同質的でない国(アメリカ)を比較すると、他のすべての条件が同じであれば、小さくて同質的な国の方がおおむね不平等も非移動性も低い(格差が小さい)。アメリカの経済格差の一部は、人種的な多様性とGDPの大きさから説明できる。これも「不都合な事実」だろうが、「経済が多様化するほど、非移動性と不平等もともに高くなる」のだ。

ゆたかな家に生まれた子どもが社会的・経済的に成功するのは、相続などで富が世代を超えて移転するというよりも、遺伝、教育、友だちネットワークなどの効果の方がはるかに大きい。ジャクソンは、不平等(経済格差)はさまざまな社会問題の原因ではなく結果だという。真の原因は「同類性によってかたちづくられ固定された情報や規範のネットワーク」が機会や行動を制約することであり、「非移動性の背後にある同類性への圧力」こそが根源なのだ。

ジニ係数は非常に平等な社会で0.25、極端に不平等な社会で0.7の範囲に収まるが、狩猟採集社会でもジニ係数は高い。

カナダ、ブリティッシュ・コロンビアのインディアンでは、良質の漁場や狩場を支配する一族は、少し離れた場所に住む一族よりも多種類の食物をふんだんに貯蔵し、寝る場所も広く、料理や暖房に使う炉も大きかった。さまざまな牧畜社会を調査した人類学者によると、土地と家畜の保有から見たジニ係数は平均でも0.4から0.5とある程度高く、全体では0.3から07の範囲に広がっていた。不平等は何千年も前からあったのだ。

人気者がもっているネットワークのパワー

ネットワークの科学が進歩することで、中央集権型や分散型など複雑な人間関係をプロットし「見える化」できるようになった。そこで重要になるのが「次数中心性」「固有ベクトル中心性」「拡散中心性」だ。

次数中心性は「友だちの人数によるパワー」で、たくさんの友だちをもっているほど高くなる。いわば「人気度」で、学校でも会社でも彼ら/彼女たちの次数中心性は高い。

固有ベクトル中心性は「間接的な友だちによるパワー」で、人気のある友だちとつながっているかどうかだ。あなたに次数中心性が極端に高い友だちがいると、それだけで大きな影響力をもてるかもしれない。これは一般に「フィクサー」と呼ばれる。

拡散中心性は「噂を拡散するパワー」で、3次の友だち(友だちの友だちの友だち)の人数で測られる(それ以上遠い友だちは噂に関心をもたなくなる)。拡散中心性が大きいほど、強力な「メディア」として機能する。

「フレンドシップ・パラドクス」とは、どんなコミュニティでも、そのなかで「友だちの人数によるパワー」が強い人気者が突出して大きな(不均衡な)存在感と影響力をもつことだ。

「みんな自分よりたくさん友だちがいる」と思ったことはないだろうか? だがこれは事実ではなく、あなたがたんに(友だちがたくさんいる)人気者とつながっているだけのことだ。友だちが10人いれば、友だち5人より2倍多く友だちとして数えられる。たくさん友だちがいる人気者は、集団の人数に占めるより何倍も多く友だちリストに登場し、強い存在感を放つのだ。

子どもはよく、「学校ではみんなもってるのに……」「友だちはみんな親が認めてくれているのに……」と文句をいう。だがこれも統計的な事実ではなく、一部の人気者を基準にしている可能性が高い。同じ学年でもクラスの雰囲気がまったくちがうのは、生徒たちが周囲の考えや行動に従う傾向をもっているからで、ネットワーク効果によって、多数派の生徒は自分たちの行動を人気者に合わせるようになる。

中学校では、友だち関係が増えるたびに、生徒が喫煙しはじめる可能性が5%増え、自分を友だちだといってくれる生徒が5人増えると飲酒の確率が30%上がる。

わたしたちは無意識のうちに、もっとも社交的な仲間から突出して強い影響力を受けている。典型がSNSのインフルエンサーで、フォロワー数の多い一部のユーザーの嗜好に過度に合わせた意見や考え方が形成される。だが高い人気をもつ彼ら/彼女たちの行動は、一般ユーザーとは大きくちがう可能性がある。

聖書『マタイによる福音書』には「持てる者はますます富み、持たざる者は持っているものまで取り上げられるだろう」とのことばがある。この「マタイ効果」はネットワーク理論では、「優先結合」と呼ばれ、最初に友だちの数が多いと誰よりも早く「友だちの人数によるパワー」を獲得できるし、それによってネットワークの中心を確保すれば、集団のメンバーにとって「もっとも会いやすいひと」となり、新しい友だち関係を築きやすい。

このマタイ効果によって、人気者は「友だちの人数によるパワー」だけでなく、「間接的な友だちによるパワー」「噂を拡散するパワー」さらには「仲介者としてのパワー」まで獲得し、ネットワーク(学校や会社のコミュニティ)を支配することになる。これは乗数効果ともいい、それによって集団のなかの「友だち格差」が急速に拡大していく。

ネットワークのパワーと影響力は、学校の生徒同士のような、同等の仲間という環境でもっとも純粋に発揮される。こうして子どもたちは、学校内での「評判」で序列が決まる理不尽なゲーム(スクールカースト)に放り込まれることになる。

友だちの数が多いのはほとんどの場合よいことだが、ときには裏目に出ることもある。感染症(パンデミック)の研究では、集団のなかでもっとも感染しやすいのは(友だちの多い)人気者であることがわかっている。

不平等を拡大するのは資本格差(ピケティ)ではなく、労働所得の格差

ここまで述べてきたように、人間のネットワークには格差を拡大させ、社会を分断させる傾向が内包されている。これにテクノロジーの進歩やグローバリゼーションなどの要因が重なり、社会活動から脱落してしまうひと(その多くは低学歴の中高年男性)が増えてきたことが世界的に大きな問題になっている。

同じ作業をするのに、現代では1980年代後半のわずか40%の労働しか必要とされない。アメリカの農業従事者は、19世紀初頭の人口の約70%から現在の2%付近にまで減少した。だがこれは、自由貿易(グローバル資本主義)が引き起こしたわけではない。1999年から2011年のあいだにアメリカの製造業で失われた職のうち、中国からの輸入増加によるものは10%から20%にすぎず、大部分はテクノロジーの変化によるものだった。

アメリカでは大卒と非大卒の収入格差は1950年代で50%だが、現在ではおよそ100%(2倍)に広がった。大卒就労者の所得が増加し、高い学歴をもたない就労者の所得が低下したのだ。中間層が担ってきた仕事が失われる一方で、設計やマネジメントなど高レベルのスキルを必要とする業務と、高い教育や経験が備わっていなくても働ける日常業務の両極端で労働需要が伸びている。

トマ・ピケティは『21世紀の資本』( 山形浩生、守岡桜、森本正史訳、みすず書房)で資産効果による不平等を指摘したが、これは多額の株式や不動産を保有するトップ1%の話で、その下の層の「格差」は労働所得のちがいからきている。トップ1%の賃金は1970年代初頭の2.5倍以上に増え、トップ5%は倍増、トップ10%では4.5倍以上に増えた。しかし下位60%では、同じ時期の賃金上昇率は3割程度にとどまっている。不平等の拡大は、人口の大きな部分を占めるグループの相対賃金の変化から説明できるのだ。

20代後半の大学卒業者の割合は、アジア系が72%と驚くほど高く、白人54%、アフリカ系32%、ヒスパニック27%となる。この大きな差を生むメカニズムは複雑で、「家庭の所得、民族、親の学歴、文化、コミュニティの雰囲気」などが互いに関連している。

ここで興味深いのは、「低所得層の子どもは貧しいから大学に行けないわけではない」との指摘だ。アメリカの高等教育のコストがきわめて高いのは間違いないが、これはいわば「店頭表示価格」で、これをそのまま支払っているのはすべての学生の3分の1に過ぎない。さまざまな助成金や研究補助金、奨学金その他の支援制度があるからで、アメリカの4年生私立大学の平均見積もり費用(生活費を含む)は年4万4000ドルだが、実際に支払われた平均額は2万6000ドルだった。

こうした支援制度は、世帯所得が低い学生ほど手厚くなる。4年生公立大学では、所得の高い方から4分の1の層が実際に支払った授業料および諸経費の平均は年6330ドルだが、所得の低い方から4分の1の層では「マイナス」2320ドルだった。この「マイナス」は、低所得層では授業料や諸経費を上回る助成を受けて、年25万円(月額2万円)程度を生活費に回していることを示している。

その結果、所得によって大学の選択が制限されるのはアメリカの家庭の8%以下にすぎない。問題は「経済格差」ではなく、それを生み出すネットワーク効果のちがいなのだ。

ネットワーク環境を変えれば子どもは変わる

「時代遅れになった機械は捨てたりリサイクルしたりできるが、時代遅れになった労働力を社会はどうすればいいのだろう」とジャクソンは問う。元凶がネットワーク効果である以上、富裕税やMMT(現代貨幣理論)などお金の分配方法ばかり議論しても意味がない。重要なのは「非移動性と不平等を拡大再生産しかねない基本的な社会構造」を改善することだ。

そこで最後に、「家庭の幸福が地域にどう影響するか」を調べるために1990年代に行なわれた「機会への移住実験プログラム」を紹介しよう。

実験に参加したのはアメリカ各地(ボルチモア、ボストン、シカゴ、ロサンゼルス、ニューヨーク)の公共住宅に住む4600家族で、次の3つのグループにランダムに割り振られた。

  1. 家賃補助券を受け取るが、それはより貧困度が小さい(いまよりもゆたかな)地域でしか使えない。このグループは、家賃補助を受けるためにはもうすこし富裕な地区に引っ越さなければならない。
  2. どこでも好きなところで使える家賃補助券を受け取る。同じ地域にとどまることができたので、ほとんどは家賃を節約するだけで引っ越さなかった。
  3. 家賃補助券を受け取れない対照群。

その後、アメリカ国税庁による納税データと合わせて、子どもの育った場所が収入や人生にどう影響するかが追跡調査された。それによると、条件付き家賃補助券をもらって引っ越したグループの(転居時点で13歳以下だった)子どもは、20代半ばに達したときの収入が、補助券をもらえなかった対照群の子どもより約3分の1以上高くなっていた。転居時点で8歳だった子どもが受けた利益は、生涯収入で30万ドルと見積もられている。同様に、大学に進む確率が6分の1高く、通う大学のランクは大幅に上がり、貧しい地域に住んだり、子どもの誕生時にひとり親になる確率は小さかった。

それに対して、どこでも使える(より有利な)家賃補助券を受け取ったグループでは、なにももらえなかった対照群と比べてさほど大きな利益は得られなかった。より正確には、対照群より改善はしたのだが、そのプラス面のほとんどはわざわざ富裕な地域への引っ越しを選択した世帯の子どもたちがもたらしたものだった。子どもの将来に影響を及ぼしたのは経済的支援ではなく、子どものネットワーク環境を変えることだったのだ。

「ネットワーク格差」についての議論は始まってもいない

ひとはみな、住んでいる地域やコミュニティから大きな影響を受けている。どの大学に進んだかを考慮に入れない場合、低所得家庭と高所得家庭の卒業生の所得の中央値には25%の開きがあるが、同じ大学、同じ科目で比較するとこの差は10%に縮まる。

ダートマス大学では、学生の就職は、新入生のときからの寮友の就職率と相関していた。寮友たちが無職から就職済みに変わると、本人の就職率は平均的な学生と比べて24%上がる。寮友たちが1ドル多く稼ぐごとに、本人の収入は26セント増えた。寮友たちの状況が変わると、これに呼応して、就職や給与の約4分の1に変化が見られた。

転職にあたっても、よいネットワークをもっていることはきわめて重要だ。なぜなら雇用者にとって、いまいる従業員の友だちこそが探している種類の人物だから。ジャクソンは、「特定の種類のソフトウェアを設計できるプログラマーを見つけるのに、現在すでに関連ソフトウェアをつくっているプログラマー以上にあなたに役立つアドバイスができる人がいるだろうか」と述べる。

さまざまな社会問題が「ネットワーク格差」から生まれるとしたら、どのような政策が考えられるだろうか。

誰もが思いつくのは「ネットワークの機会を平等にする」だろう。たしかにイスラエルのキブツ(生活共同体)のようなコミューンで子どもを育てれば、強制的に格差は縮小するだろう。だが、マルクス主義的なコミューンの理想がうまくいかないことは歴史によって証明されている。

一部のリベラルに人気のあるベーシックインカム(最低所得保証)も、非移動性の根底にある不公平で非生産的な機会格差には対応できない。理想主義者は同意しないだろうが、「社会を望みどおりの方向へ動かそうとする大規模なソーシャル・エンジニアリングには大失敗の歴史が満ちているし、みなを同じように機会に向かって進ませることはできない」のだ。

こうしてジャクソンは、「人のネットワークを理解してこそ私たちは、接続性の向上を、社会を分断させる災難ではなく、集合知と生産性の向上に役立つ恩恵として活用していけるのだ」というきわめて穏当な提言で本書を締めくくる。「経済格差」については議論百出だが、よりやっかいな「ネットワーク格差」についての議論はまだ始まってもいないのだ。

禁・無断転載

リベラルがリベラルと対立する時代 週刊プレイボーイ連載(541)

リベラリズムとは、簡単にいえば、「誰もが自分らしく生きられる社会をつくるべきだ」という価値観ですが、それが世界を覆うにつれて利害が複雑に対立し、あちこちで紛争が起きるようになりました。性犯罪をめぐる刑法の規定の見直しも、そうした事例のひとつです。

現行の刑法では、被害者の抵抗が「著しく困難」でないと罪に問えないと解釈され、「必死に抵抗した形跡がない」などの理由で無罪判決が相次ぎ、社会問題になりました。法制審議会の部会に提示された法務省の試案では、従来の「暴行・脅迫」に加え、「アルコール・薬物を摂取させる」「予想と異なる事態に直面させて、恐怖・驚愕させる」など処罰対象となる8項目を例示し、性犯罪により厳しく対処する方針が示されました。

議論が分かれたのは、「意思に反して」だけを構成要件とした「不同意性交罪」の扱いです。被害者団体などは、「相手を「拒絶困難」にさせて性交する」という要件が残れば、これまでと同様に、被害者が「拒絶」したかどうかを争うことになるだけだと主張しました。

それに対して刑事弁護を手がけてきた弁護士などは、「内心そのものを処罰要件にすると冤罪リスクはさらに高まる」「「意思に反し」という要件だけで性犯罪が成立するとなると、本来は同意があったのに、結婚の破断後に「同意していなかった」と訴えられるケースが考えられる」などと反論しています。

今回の見直しのきっかけとなったのは、「極度の恐怖」を抱かせる暴力は受けていなかったなどとして、同意のない性行為が無罪になる判決が続いたことで、リベラルなメディアはこうした司法判断を強く批判してきました。それと同時に、警察・検察の強引な捜査に対しては、「冤罪は一件たりとも許されない」と主張しています。

いずれももっともですが、問題は、性行為のような密室性の高い事件では、おうおうにして客観的な証拠を提示するのが困難なことです。その結果、「疑わしきは被告人の利益に」という刑法の原則を徹底すると、性犯罪の被害者が泣き寝入りすることになってしまいます。とはいえ、「疑わしきは罰する」では、こんどは冤罪の温床になりかねません。

よりやっかいなのは、小児性犯罪の扱いです。子どもを性愛の道具として弄ぶことが言語道断なのはもちろんですが、その一方で、子どもが親や大人の誘導によってたやすく記憶を変容させてしまうこともわかっています。アメリカでは1980年代に、子どもたちの証言だけで保育士を「悪魔崇拝」で逮捕し、長期刑に処した冤罪事件が起きました。

小児性犯罪は現代社会でもっとも忌むべきものとされ、その烙印を捺された者は、殺人と同等かそれ以上のスティグマを負わされ、生涯にわたって社会的に抹殺されます。その影響を考えれば「冤罪はぜったいに許されない」はずですが、欧米では「児童虐待を厳罰に」という世論に押され、警察はあいまいな子どもの証言だけで容疑者を逮捕し、裁判所もそれを追認していると人権団体などから批判されています。

このようにして、社会のリベラル化が進めば進むほど、リベラル同士が対立するようになるのです。

参考:朝日新聞10月25日「「不同意性交罪」は見送り」

『週刊プレイボーイ』2022年11月14日発売号 禁・無断転載

【アクセス7位】人類は暴力を抑制すると同時に、殺しを楽しむように進化した

ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなってしまったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載していくことにします。

アクセス7位は2021年2月25日 公開の「「人類は見知らぬ敵を殺して楽しむように進化した」「自己家畜化」したヒトの道徳性と邪悪さ」です(一部改変)。

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リチャード・ランガムはハーバード大学生物人類学教授で、ウガンダで長くチンパンジーを観察した行動生態学者でもある。『善と悪のパラドックス ヒトの進化と〈自己家畜化〉の歴史』(依田卓巳訳、NTT出版)はそのランガムが、「自己家畜化」をキーワードに、ヒトの道徳性と邪悪さの進化的起源に迫った野心作だ。原題は“The Goodness Paradox: The Strange Relationship Between Virtue and Violence in Human Evolution (善のパラドックス ヒトの進化における徳と暴力の間の奇妙な関係)“

本書の冒頭でランガムは、「もし人間が善良に進化したのなら、なぜ同時にこれほど卑劣なのだろうか。あるいは、邪悪に進化したのなら、なぜ同時にこれほど親切なのだろうか」と問う。そのうえで人間には「反応的攻撃性(reactive aggression)」と「能動的攻撃性(proactive aggression)」という2種類の攻撃性があり、前者を抑制することで社会的寛容を獲得する一方で、後者をより巧妙・残酷に発達させたと論じている。

ヒトのオスは攻撃性が抑制されている

「#MeToo」運動などによって性暴力やドメスティックバイオレンスなど「毒々しい男らしさ(toxic masculinity)」が大きな問題となっている。殺人や暴行などの犯罪統計を見ても、そこに歴然とした性差があることは間違いない。

2013年のWHOの調査では、身体的または性的暴力のどちらかを受けた女性の割合の平均は、主要10カ国の都市部で41%、都市部以外では51%だという。これは驚くべき数字だが、『男の凶暴性はどこからきたのか』(デイル・ピーターソンとの共著/山下篤子訳、三田出版会)の著書もあるランガムは、それにもかかわらず、男(ヒトのオス)の暴力性は他の霊長類と比べるときわめて抑制されているという。

野生のチンパンジーでは、成熟したメスの100%がオスから日常的に暴力をふるわれている。その目的は「目をつけたメスをおびえさせて、将来交尾の要求を容易に受け入れさせる」ためで、「いちばん数多く攻撃することで、ほかのオスと自分を区別させるのだ」という。

この胸の悪くなるようなやり方でほんとうにうまくいくのだろうか。だがランガムの観察では、「メスをもっとも攻撃したオスがもっとも頻繁な交尾相手となった」。進化の目的がより多くの子孫(利己的な遺伝子)を後世に残すことだとすれば、愛情などどうでもよく、「メスをおびえさせて性交を強要する戦略」はきわめて効果的なのだ。――チンパンジーは乱婚で、オスが子育てに参加しないのも大きいだろう。

このような例をあげながらランガムは、問うべきは男の凶暴性ではなく、「ヒトのオスではなぜメスへの攻撃性が大きく抑制されているのか」だという。このとき参考になるのは、チンパンジーの類縁種であるボノボだ。

ボノボ(ピグミーチンパンジー)はチンパンジーとの共通祖先から90~210万年前(人類の祖先が分岐したあと)に分かれ、異性だけでなく同性同士でもセックスを介して親密なコミュニケーションをとることで知られている。チンパンジーとは外見も社会行動(20~30頭の小集団で暮らし、メスが思春期になると群れを離れる)もよく似ているが、社会性には顕著なちがいがある。

チンパンジーが攻撃的で、ボノボが温和になった理由は「生息地の動物学上の差異」だとランガムはいう。同じアフリカの熱帯雨林でも、チンパンジーはコンゴ川の北寄り、ボノボは南寄りに暮らしている。更新世(約260万年~1万年前)の乾季にコンゴ川の水量が大きく減少したとき、北側で暮らしていた類人猿の一部が川を渡って南側に移動した。その後、水量が増えて彼らは南側に取り残されてしまった。

コンゴ川の北と南の生態学的なちがいは、ゴリラがいるかどうかだ。南側には山地がないため、たとえ川を渡ったとしてもゴリラは生きていくことができなかった。

チンパンジーとゴリラは、食べ物をめぐって競合している。そのためコンゴ川の北に生息するチンパンジーは、熟した果物や葉、茎を探すために長距離を移動しなければならず、子連れの母親とは別々になる。野生のチンパンジーの基本は単独行動なのだ。

それに対してコンゴ川の南では、ゴリラがいないために、豊富な食べ物を独占することができる。これが親密な社会の成立を可能にし、メスが安定した結びつきを築くことで「(オスに対する)防衛的な協力体制」をとるようになった。こうなると狂暴なオスは嫌われるから、メスの選好に合わせて攻撃性の低下や性的なコミュニケーションを進化させたのだという。

ランガムは、突き詰めれば「すべての生き物は環境に適応しているのだ」と述べる。オオカミの一部はヒトに家畜化されることで攻撃性を大きく減らしてイヌになった。同様にウマやウシ、ヒツジなども家畜化によって温和な性格に変わった。だがボノボはヒトの家畜になったわけではない。このように、なんらかの環境の変化で家畜のような特徴をもつようになることを「自己家畜化」という。

チンパンジーとボノボの共通祖先から500~600万年前に分岐した人類も、同様の「自己家畜化」によって攻撃性を低下させたのではないか。だとしたら、その進化を促した「環境」とはいったいなんだろう?

人類は「自己家畜化」されてきた

人類が自己家畜化の産物だと最初に唱えたのは18世紀末のドイツの人類学者ヨハン・フリードリヒ・ブルーメンバッハだとされる。1795年にブルーメンバッハは「ヒトはほかのどんな動物よりはるかに家畜化され、最初の祖先から進化している」と記した。

だがこの卓見は、20世紀に入ると不穏な気配を帯び始める。人類学者のオイゲン・フィッシャーは1914年の論文「家畜化の結果としての人種的特性」で、「アーリア人はほかの人種より家畜化されているので優れている」と主張した。金髪や白い肌に対するなかば無意識の嗜好が、すぐれたアーリア人の特徴の人為的な選択につながったというのだ。

次いで1921年、歴史家のマルティン・ブリュネーがフィッシャーの自己家畜化(自然淘汰)説を受け継いで、「もう一度自然淘汰の法則が成り立つように」不妊手術の合法化と福祉施設の廃止を提唱した。

それに対して、1973年にノーベル医学生理学賞を受賞した動物学者コンラート・ローレンツは、1940年の論文「種固有の行動の家畜化が引き起こす無秩序」で、「文明の影響で人間は過度に家畜化されたせいで魅力に欠け、幼児退行して成長できなくなった」とまったく逆の主張をした。この著名な動物学者は、「高度に家畜化された集団」を自然の理想形の劣化版と考えたのだ。

だが問題は、いずれの立場でもナチスの優生学に行きつくことだった。自己家畜化をより進化した人類への自然淘汰だと考えても、人類を劣化させるものだと考えても、国家が人種政策によって「交配」に介入することを正当化するのだ。

こうして第二次世界大戦後、自己家畜化論は人種主義につながるとして嫌悪され顧みられなくなった。それを復権させたのがロシア(旧ソ連)の遺伝学者ドミトリ・ベリャーエフだ。

スターリンの粛清によって家族を失ったベリャーエフは、1959年からシベリアの細胞学・遺伝学研究所でギンギツネを使った画期的な実験を行なった。ベリャーエフの興味は、数千匹のキツネのなかから大人しい個体だけを選んでかけ合わせると、従順さが増大するだけでなく、家畜化の他の特徴も現われるのではないかというものだった。そこで、エサをやりながら身体をなでても嫌がらない子ギツネを選び、交配させてみた。

結果は驚くべきものだった。わずか3世代で攻撃性やおびえた反応を示さない個体が出現し、第4世代では何匹かの子ギツネがイヌのように尾を振って近づいてきた。第10世代になると、注意を引くためにクンクン鳴き、研究者に近づいてにおいを嗅いだりなめたりする個体が子ギツネの18%に及び、その割合は第20世代で35%、第30~35世代で70~80%になった。

そればかりではなく、選択的交配から10年目に白ブチのオスのキツネが生まれた。次に、ある種のイヌと同様に垂れ耳と丸まった尾という特徴が現われ、15~20世代後には尾や四肢が短く、(下の前歯が上の前歯より前に出る)反対咬合や(上の前歯が被りすぎる)過蓋咬合のあるキツネが出現した。さらに、家畜化されたキツネは農場のキツネよりも頭蓋骨が小さくなっていることも確認された。

繁殖周期にも大きな変化があった。選択交配の開始から3年目には、メスの6%が夏だけでなく春と秋にも子を産むようになった。10年目にはメスの40%が1年に3回出産した。これらはいずれも家畜化の特徴だ。

ダーウィンは、体毛が白く目の青い猫は耳が聞こえなくなる傾向があることに頭を悩ませた。自然淘汰が環境への適応だとするならば、生物学的に不利な特性が進化するとは考えられないからだ。

だがベリャーエフの実験は、この謎を見事に解明した。なんらかの特徴(従順さ)を基準に選択的に交配すると、それ以外のとくに意味をもたない(あるいは好ましくない)一連の身体的な変化が付随的に生じるのだ。

「家畜化症候群」には大きく以下の4つの特徴がある。

  • 野生種より小型になる
  • 野生の祖先より顔が平面的になり、前方への突出が小さくなる傾向がある
  • 家畜ではオスとメスのちがいが野生動物に比べて小さい
  • 家畜は哺乳類であれ鳥類であれ、野生の祖先より顕著に脳が小さくなる傾向がある

人類の化石にもこうした家畜化の特徴ははっきり現われている。ホモ・サピエンスはネアンデルタール人など先行する人類より小型で平面的な顔貌をし、男女の骨格のちがいが小さい。より興味深いのは頭蓋容量(脳の大きさ)で、過去200万年間の人類史で着実に増大してきたが、3万年ほど前に方向転換が生じて脳が小さくなりはじめた。現代人の脳は2万年前の古代人より10~30%も小さいという。

とはいえ、脳が縮小することで認知機能がかならずしも低下するわけではない。家畜化されたモルモットの脳は野生種の祖先より体重比で約14%小さいが、より早く迷路のゴールにたどり着き、関連性を習得し、逆転学習の成績が向上している。家畜化するとなぜ脳が小さくなるのかは不明だが、ヒトの脳が小さくなっているからといって「退化」しているわけではないようだ。

平等主義の根底には暴力(処刑)がある

ヒトの「家畜化症候群」はいつ始まったのか? これを確定するのは困難だが、ランガムは「30万年前」との説を提唱する。その頃にヒトが高度な言語能力をもつようになったと考えられるからだ。

道徳性の根拠として「評判仮説」がある。「有益な人として知られることが人生の成功に大きな影響力を持ち、善行が報われ、美徳が「適応」になる」というのだ。

認知心理学者ジャン・エンゲルマンはこの仮説を確認するために、「チンパンジーは評判を気にするか?」を調べた。「被験者」となったチンパンジーは、「仲間の食べ物を盗むことができるが、それをときどき別のチンパンジーに見られる」という状況に置かれた。評判を気にするなら、見られているときに食べ物を盗む回数が減るはずだが、そのようなことはなかった。ほかのチンパンジーを手助けする実験でも同じ結果が得られた。

チンパンジーは個性のちがいを認識しており、協調性がある個体は好かれ、そうでない個体は避けられる傾向にある。それにもかかわらず、仲間から協調的に見られるように意識することはない。なぜなら彼らは話せないから。噂話をするための高度な言語・コミュニケーション能力がなければ、他人からどう思われようが関係ないのだ。

エンゲルマンは次に、就学前の5歳児でチンパンジーと同じ実験をした。すると5歳児は、チンパンジーとちがい、誰かが見ているときは盗む回数が減り、仲間を手助けすることも多くなった。ヒトは言語を獲得したことで評判を意識するように進化し、それが脳のプログラムに組み込まれているらしい。

これは「評判仮説」の有力な証拠になるが、ランガムは、これだけではヒトの攻撃性が大幅に低くなったことを説明できないという。誰でも心当たりがあるだろうが、社会には一定数のきわめて暴力的な男(女もいるかもしれないがごく少数)が存在するからだ。圧倒的なちからをもち、暴力で相手を思いどおりにできるなら、評判など気にする必要はないだろう。たんなる噂話では「暴君」に対抗できないのだ。

そこでランガムは、「処刑仮説」を提起する。高度な言語能力を獲得したことで(成人の)男たちが結託できるようになり、自分たちにとって不都合な「過剰な暴力」を排除した。暴君は個人対個人では圧倒的に優位でも、相手が徒党を組めば対抗する術はない。こうして乱暴者は処刑され、ベリャーエフのキツネと同じように、従順な個体だけが残って家畜化が進んだというのだ。

「処刑仮説」の傍証としてランガムは、ナミビアの狩猟採集民に巨大な雄牛を贈って驚かせようとした人類学者リチャード・リーの体験を紹介している。喜んでもらえるとばかり思っていたリーは、男たちから「この雄牛は痩せこけている、ただの骨の袋だ、肉がないから角を食べなければならない」などと侮辱されてショックを受けた。やがて、年長者がリーにこう語った。

「若者がたくさんの獲物をしとめると、自分をリーダーか重要人物と考え、ほかの人びとを使用人か劣った者として見るようになる。それを受け入れることはできない。いつか彼の自尊心がほかの人間の命を奪うことになるので、われわれは自慢する男を拒絶する。だからいつも、その肉には価値がないと言うのだ。そうして彼を冷静にさせて、威張らせない」

狩猟採集民の社会は「平等主義」で成り立っていて、過度に目立つ(共同体の和を乱す)者は危険視される。だからこそ、一線を越えて冗長しないように、傲慢に思える行為は徹底的に抑え込まれる。

格差社会への批判として、昨今、狩猟採集民の平等主義が再評価されているが、ランガムによれば、こうした手放しの称賛は平等主義の根底に暴力(処刑)があることを見逃している。「支配的な行為がないことが取り得の平等主義が、人間がなしうるもっとも支配的な行為によって維持されているというのは、皮肉で不穏な結論」なのだ。

もうひとつランガムの指摘で重要なのは、狩猟採集民が実現したのが「男たちの平等」であることだ。

結託して暴君を処刑する能力を得たことで大きな利益を得たのは下位の男たちだった。彼らには、その権力を女たちと分かち合う理由はない。こうして「男の連合」が女や子どもを支配し、社会を統制する仕組みがつくられた。ボス(リーダー)が下位の男性連合に支配されることは「逆支配階級制(反支配階級制)」と呼ばれるが、それは成人男子が自分たちの共通利益を守るためのネットワークで、「家父長制」の起源でもあるのだ。

「道徳」は仲間による非難から自分を守る盾

狩猟採集民は通常、1000人ほどのメンバーからなり、独自の共通言語(または方言)と、葬儀などの文化的習慣を共有する。だが食料確保の制約のため、全員が同じ場所で暮らすことはできず、平均50人以下の「バンド」という集団で生活する。

バンドにも集団の決定を主導するようなリーダーシップがあり、その範囲においては名声が重要な基準になる。リーダーは称えられ、尊敬されるが、自分の考えを押しつけることはできないし、地位を利用してバンドの構成員から何かを受け取ることもできない。「他者に命令できないということは、狩猟採集民にはボスの地位がないということだ」。

こうしたルールは、食料を保存する手段がなく(富が蓄積できない)、すべての男が働いて自分の食べ物を獲得しなければならないという制約のなかで、共同体を成立させる必要性から生まれたのだろう。そのため農耕によって富の蓄積が可能になり、下位の男による「平等の専制」が崩壊するにつれて階層性(ヒエラルキー)が現われた。リベラルな知識人のなかには、狩猟採集社会こそが人間の本性で、農耕(穀物)が社会を邪悪なものにしたと主張する者もいるが、これは話が逆で、階層性が「ヒトの本性」であり、狩猟採集社会の物理的な制約によってそれが表に出るのを防いでいたのだろう。

【参考】わたしたちは文明化によって不幸になったのか

狩猟採集社会の「平等主義」というのは、要するに「男たちの専制」のことだった。ランガムは触れていないが、一夫一妻制というのも、男たちに女を平等に「分配」する仕組みとして定着したのではないだろうか。

傲慢や自慢が「処刑」につながる社会では、「道徳」は仲間による非難から自分を守る盾になる。わたしたちが善悪に敏感なのは、悪と判定されると殺されてしまうからなのだ。

こうして、ヒトは社会的なあやまちを指摘されると赤面するように進化したのだとランガムはいう。赤面は口先だけの謝罪よりも自責の表明として効果的で、顔を赤くしたり涙を流したりする相手をそれ以上責めようとは思わないのだ。

規範心理は「文化規範を身につけるために進化した仕組み」のことで、「誰もが従うことを期待されるルール」でもある。すべての文化は、社会化を通して子どもたちに道徳をしつけている。規範心理すなわち道徳は、「社会的な落とし穴」から身を守るために進化した。

「評判」と「処刑」の圧力によってヒト(男)は家畜化され、攻撃性を減らして同じ社会のメンバーに対して寛容になっていった。これがヒトの“善(ジキル)”の側面だとするならば、“悪(ハイド)”は何だろう?

人類は見知らぬ敵を殺して楽しむように進化した

言語という強力なツールを獲得したヒトは、男たちが共謀することで共同体内の暴力を抑制し、「反応的攻撃性」を減らしていった。だがその一方で、男たちの連合は「共謀した暴力行使」すなわち「徒党を組んだ攻撃」の大きな威力を他の社会に向けるメリットに気づいた。

狩猟採集では、「縄張り」が大きければ大きいほどより多くの食料を獲得できる。とはいえ、同じ社会のメンバー同士で殺しあっていては、他の社会から侵略を受けて全滅してしまう。ヤクザは内部抗争(内輪揉め)をきびしく禁じる一方で、できるだけ組織を大きくして、隙があれば他の組の縄張りを奪い取ろうとする。これは狩猟採集民と同じで、『仁義なき戦い』も植民地主義も、何百万年ものあいだ人類がやってきた「縄張り獲得」ゲームの繰り返しなのだ。

他の社会への徒党を組んだ攻撃は「連合による能動的攻撃性」と呼ばれるが、これは「反応的攻撃性」とはちがって認知能力が重要になる。これもヤクザの抗争と同じで、強大な敵に戦いを挑めば自滅するだけだ。「戦争」を仕掛けるのは、相手がじゅうぶんに弱く、こちらが確実に勝てる(算段がある)ときだけにしなければならない。戦争(社会と社会の闘争)は高度に知的なゲームなのだ。

「連合による能動的攻撃性」は利他主義の由来を説明する。「戦闘における自己犠牲」のような美徳は、他の社会を殲滅するために内部の結束を強めるよう進化したなかから生まれた。この適応は群淘汰(集団選択説)のように思えるが、「利己的な遺伝子」説でも利他的戦略が一定の割合で生じることが説明でき、いまだ論争が続いている(群淘汰の弱点は、自己犠牲ばかりの高潔な集団では利己的な戦略が圧倒的に有利になることだ)。

高い認知能力を獲得したヒトは、社会のなかで寛容になると同時に、異なる社会(敵)に対してはかぎりなく残酷に振る舞うよう進化した。

「なぜ殺すのか」の問いに対してランガムは、おそらく本書でもっとも議論を呼ぶであろう回答をする。「不穏ではあるけれども生物学的に意味をなす答えは、殺しを楽しんでいるからだ」というのだ。

セックスをするとき、「自分の遺伝子の複製を最大化しよう」と考えるひとはいない。異性に惹かれ、セックスを求めるのは、それが快楽と強く結びついているからだ。その「おまけ」として子どもが生まれ、遺伝子が後世に引き継がれていく。

同様に「殺し」をするときに、生存・性愛の利益を最大化するという進化論的な効果を意識する必要はない。他者(異なる社会のメンバー)を殺すのが快楽になるように脳のプログラムを「設計」しておけば、敵を皆殺しにして縄張りを拡張し、結果として適応の恩恵を受けるようになる。すなわち、「人類は見知らぬ敵を殺して楽しむように進化した」のだ。――これがおそらく、ネアンデルタール人などヒト(ホモ・サピエンス)に先行してユーラシア大陸で暮らしていた人類が絶滅した理由だろう。

ランガムの不穏な説が正しいとすると、協調や共感力、道徳心がどこまで役に立つのかは心もとない。それは本来、社会のなかで「反応的攻撃性」を引き下げる環境圧力によって進化してきた。それが社会の外にまで届いていないのなら、道徳教育は内集団びいきを強めるだけで、他者(敵)への憎悪や残酷さがより苛烈になるかもしれない。

だったらどうすればいいのか。この難問についてランガムは多くを語らず、本書の最後でこう述べているだけだ。

人類が探求すべき重要なことは、協調の促進ではない。その目標はむしろ単純で、家畜化と道徳感覚によってしっかりと基礎づけられている。それより困難な課題は、組織的な暴力が持つ力をいかに軽減させるかだ。

私たちはその道を歩きはじめたが、まだ先は長い。

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