「政治家は選挙に落ちたら「ただのひと以下」」の法則(週刊プレイボーイ連載657)

政治家という職業はなんの保証もない自営業で、選挙に落ちたら「ただのひと以下」です。誰もそんなことにはなりたくないので、任期途中での解散がある衆議院の場合、選挙に強い一部の有力者を除けば、議員の本音は「できるだけ長くいまの地位にとどまりたい」「選挙は再選できる可能性が高いときにやりたい」になります。このことを前提に、参院選の敗北から石破首相の退陣表明までを振り返ってみましょう。

2024年9月27日に自民党総裁に選出された石破茂氏は、10月27日の衆院選で50議席以上を減らし、与党で過半数割れの敗北を喫しました。翌25年7月の参院選でも改選前の52議席が39議席になる惨敗で、衆院につづいて少数与党になりました。

石破氏は自民党の傍流で、もともと弱かった政権基盤がこの連敗でさらに弱体化したことで、読売新聞と毎日新聞は「石破首相退陣へ」の号外まで出しました。ところがここから思わぬ粘り腰が発揮され、各社の世論調査で政権支持率が上昇する奇妙な現象が起きます。

石破氏は、選挙で負けたのは「裏金」問題などの政治不信が原因で、不祥事になんらかかわっていない自分が、「裏金議員」に辞任を求められるいわれはない、と思っていたのでしょう。この理屈はそれなりに筋が通っており、だからこそ「石破辞めるな」デモが首相官邸前で行なわれました。

この事態を選挙に強くない議員から見ると、自民党の支持率は低迷し国民民主や参政党に追い上げられる一方で、解散総選挙がなければ最長で2028年10月まで3年間、いまの地位にとどまれます。こうした事情は野党第一党の立憲民主も同じで、選挙になれば議席を失いそうな議員がたくさんいます。与党と野党で「選挙だけはなんとしても避けたい」という思惑が一致しているのだから、石破氏側に足元を見られたのも当然です。

ところが自民党の有力議員からすると、石破政権がつづいても党勢が退潮する一方なら、自らの政治生命にかかわります。そこで「国政選挙で2回も負けた以上、結果責任を取るべきだ」と、こちらもかなりの説得力がある理屈を持ち出しました。すると石破氏側は、「総裁選の前倒しを要求するなら署名・押印した書面を提出せよ」と圧力をかけ、総裁選前の解散をちらつかせたことで党内に動揺が広がります。――当初、これはたんなるブラフ(はったり)と見なされましたが、その後の報道で、首相がこの選択肢を真剣に検討していたことが明らかになりました。

そうなると、解散覚悟で総裁選の前倒しを求める議員と、いまの地位を失うくらいなら石破総裁でいいという議員のあいだで党が分裂してしまいます。このことに危機感を抱いた菅義偉元首相が小泉進次郎氏とともに官邸に駆けつけ、退陣を説得したというのが今回の経緯のようです。

今後、10月4日に総裁選が行なわれ、国会での首相指名は10月中旬以降になりそうです。多くの議員が怖れるのは、ここで混乱が生じ、新首相が信任を問うために解散総選挙に打って出ることでしょう。そのように考えると、野党と協調できる候補者に議員票が集まると予想しておきましょう。

参考:「退陣表明2日前 D案「→解散」」朝日新聞2025年9月11日

『週刊プレイボーイ』2025年9月22日発売号 禁・無断転載

第二次世界大戦の東欧が2600万人の血で染まった理由

ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載していくことにします。

今回は2018年12月公開の記事です。(一部改変)

roamer.rat/Shutterstock

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ポーランド、クラクフ郊外のアウシュヴィッツ、ベルリン郊外のザクセンハウゼン、ミュンヘン郊外のダッハウ、プラハ郊外のテレジーンの強制収容所を訪れて、ホロコーストについてはなんとなくわかったつもりになっていた。だがアメリカの歴史家ティモシー・スナイダー(イェール大学教授)は、『ブラックアース ホロコーストの歴史と警告』(池田年穂訳/慶應義塾大学出版会)で、「アウシュヴィッツがずっと記憶されてきたのに対し、ホロコーストのほとんどは概ね忘れ去られている」という。アウシュヴィッツを「見学」したくらいでは、20世紀のこの驚くべき出来事の全貌はほとんどわからないのだ。

強制収容所を強調することがホロコーストを矮小化している

「ガス室はなかった」とホロコーストを否認する「陰謀論者」の系譜は、映画『否定と肯定』のモデルとなったアメリカのホロコースト研究者デボラ・E・リップシュタットが詳細に検討している。

参考:ホロコースト否定論者と戦うということ

そこでも述べられているが、ホロコースト研究の初期には「強制収容所」と「絶滅収容所」は区別されていなかった。

絶滅収容所はヘイムノ、ルブリン、ソボビル、トレブリンカ(以上、ポーランド)とベウジェツ(ウクライナ)の収容所で、第二次世界大戦の独ソ戦においてドイツ軍のモスクワへの電撃侵攻作戦が失敗し、長期戦の様相を呈した1941年末から建設が始められた。これらの収容施設の目的は端的に「ユダヤ人を絶滅させること」で、そこに送られたユダヤ人は生き延びていないから証言者もいない。

それに対してザクセンハウゼンやダッハウなどドイツ国内の強制収容所は、戦場に送られたドイツの成人男性の代わりにユダヤ人や共産主義者などを使役するための施設で、劣悪な環境から大量の死者を出したとしても、その目的はあくまでも労働だった。

そのなかでアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所だけは、労働を目的とするアウシュヴィッツ(第一収容所)と、絶滅収容所としてつくられたビルケナウ(第二収容所)が併存していた。アウシュヴィッツの入口に掲げられた有名な「ARBEIT MACHT FREI(働けば自由になる)」の標語はナチスの「皮肉」ではなく、そこが強制労働施設だったからだ。

「死の収容所」アウシュヴィッツからの生存者の多くは労働要員で、ガス室の存在は伝聞でしか知らなかった。なかには「ゾンダーコマンド(労働部隊)」としてガス室や焼却施設で死体処理に従事したユダヤ人もいたが、彼らは秘密保持のために数カ月でガス室に送られ生存者はきわめて少ない。――その貴重な証言として、ギリシアのユダヤ人(セファルディム)で戦争末期にアウシュヴィッツに送られ、奇跡的に生き残ったシュロモ・ヴェネツィアの『私はガス室の「特殊任務」をしていた』 (鳥取絹子訳/河出文庫)がある。

戦後、ホロコーストについての見解が混乱した理由に、絶滅収容所がソ連支配下の東欧圏にあり、研究者が収容所跡を検証したり、資料を閲覧できなったことがある。ソ連の公式見解では、大祖国戦争(独ソ戦)はファシストと共産主義者の戦いで、ナチスが虐殺したのは共産主義者であってユダヤ人ではなかった。ソ連がホロコーストを認めなかった背景には、ヒトラーに先んじたスターリンによる虐殺を隠蔽する目的もあった。

アウシュヴィッツというと、フランクルの名著『夜と霧』のように、人間性を根こそぎ否定される過酷な状況から「生還」した物語を思い浮かべるだろうが、絶滅収容所に送られた者たちはそもそも「生還」できなかった。これが、「アウシュヴィッツはホロコーストを矮小化している」という第一の理由だが、スナイダーの批判はこれにとどまらない。彼は、「(絶滅収容所を含め)強制収容所を強調することがホロコーストを矮小化している」というのだ。 続きを読む →

証券口座の乗っ取り、「進化の軍拡競争」いつまで(日経ヴェリタス連載123回)

証券口座の“乗っ取り”が大きな社会問題になっている。私が利用しているネット証券でもこの数カ月、立て続けにさまざまなセキュリティ強化策が導入されたが、正直、戸惑うことも多い。

「電話番号認証」は、証券会社に登録してある電話番号から電話をかけて本人認証するシステムだ。ところがスマホから指定された番号に電話してみると、「確認できました。3分以内にログインをして下さい」というアナウンスが流れるものの、ログインできない。

あれこれ調べてみると、これはたんに発信番号を「確認」したという意味で、どんな番号からかけても同じアナウンスをするらしい。そうなると正しい(登録した)電話番号を調べなければならないが、そのためには口座にログインしなければならない。これではまるで『キャッチ=22』のような話だ。

ジョセフ・ヘラーが1961年に発表したたこの小説では、第二次世界大戦中、地中海の小島の米軍基地に駐留するパイロットたちの不条理な体験が描かれる。

「キャッチ=22」はとてつもなく大きな影響力をもつが、じつはどこにも存在しない軍規だ。それによれば、狂気と判断されると出撃が免除されるが、狂気を理由として出撃免除を申請すると、正気と見なされて申請は却下される。私が遭遇した不条理は、「登録電話番号がわからないとログインできない」にもかかわらず、「ログインしないと登録電話番号がわからない」というものだ。

カスタマーサービスに電話すれば調べてもらえるのだろうが、サイトのトップには「大変混み合っています」という表示が出ている。けっきょく、自宅に戻って固定電話からかけてみて、無事ログインできた(その後、登録電話番号をスマホに変更した)。

同じようなトラブルが多いからか、証券会社のホームページには登録電話番号を照会するフォームがあるが、そのためには口座番号が必要で、口座番号を知るにはログインしなければならない……。こうした面倒を避けるには、登録した電話番号を設定変更時に確認できるようにすればいいだけだと思うのだが、そんな余裕もなかったのだろうか。

さらに困惑するのは、その頃からネット証券を騙って「【至急】電話番号認証が未確認のままです」というフィッシングメールが大量に送りつけられるようになったことだ。

文面を読むと、「安全性強化」のために電話番号を用いた本人確認の導入を進めていて、期日までに対応しないと一部サービスが利用停止になるとして、「電話番号認証」の画面でアカウント情報を入力するよう指示している。「電話番号が未登録の場合も上記より手続きが可能です」とあるので、ログインできなくなったひとが試してみようと思うかもしれない。

セキュリティが複雑になると、利用者が理解できなくなって、それが詐欺の新たな材料になってしまう。かといって放置するわけにもいかないので、これは難しい問題だ。

人間よりも賢いAIの登場で、フィッシングの手口はますます“進化”している。それにともなって金融機関のセキュリティも強化していかなくてはならないのは当然だが、この「進化の軍拡競争」にいつまでついていけるのか、正直不安しかない。

橘玲の世界は損得勘定 Vol.133『日経ヴェリタス』2025年8月30日号掲載
禁・無断転載