『笑ゥせぇるすまん』と「公正世界信念」 週刊プレイボーイ連載(518)

漫画家の藤子不二雄A(本名・安孫子素雄)さんが88歳でお亡くなりになりました。このコラムをまとめた単行本『不愉快なことには理由がある』のカバーに喪黒福造(もぐろ ふくぞう)のイラストを使わせていただいたことは大切な記念です。

『笑ゥせぇるすまん』(当時は『黒ィせぇるすまん』)を知ったのは高校生のときで、クラスの友人が持っていたものを読んで衝撃を受けました。登場人物はサラリーマン、学生、老人などさまざまですが、共通するのは小さなこころの「きず」を抱えていることで、それを喪黒福造がグロテスクなまでに拡大し、(ほとんどの場合)破滅へと追い込まれていきます。

10代の頃は理解できませんでしたが、いまなら「どんなに幸福に見えても、ひとはみな転落の縁を歩いている」という「不愉快」な事実が、このダークなキャラクターが長く愛された理由であることがわかります。「人間はこんなにこわれやすいんだよ」というメッセージに、逆に安心感を覚えた読者も多かったでしょう。

もうひとつ、初期の作品を読み返して気づいたのは、その巧妙な設定です。

わたしたちは無意識のうちに、世界は「公正」であるべきだと思っています。「悪は滅び、最後には正義(善)が勝つ」ことは、神話・宗教からハリウッド映画まですべての物語の本質で、もちろんマンガも例外ではありません。

因果応報は「善行は正当に評価され、悪行は報いを受ける」ことで、これも「公正さ」の重要な要素です。仏教(正しくはヒンドゥー教)の輪廻とは、いちどの人生で因果応報が達成されない矛盾を解消するために、時間軸を過去と未来に引き延ばしたものです。

なぜここまでして「公正さ」にこだわるかというと、「不公正な世界」がものすごく不安だからです。悪がはびこり、どれほど正しい行ないをしても裏切られるだけなら、そんな社会は苦しくて誰も生きていくことはできないでしょう。――これは社会心理学で「公正世界信念」と呼ばれます。

『笑ゥせぇるすまん』のなかにも、因果応報の話はたくさんあります。競馬で一発当てて借金を返そうとしたり、売れはじめた役者が水商売の女と縁を切ろうとしたり、そんな弱さを喪黒福造は見逃しません。

しかしより印象に残るのは、こうした因果応報では説明できない物語です。

最初期の「ともだち屋」では、内気で人見知りのため彼女はもちろん友だちさえないない22歳の独身サラリーマンが、喪黒福造に絶世の美女の写真を見せられ、彼女とつき合えるかもしれないという希望に胸をふくらませます。「化けた男」では、29歳の妻子のいる真面目なサラリーマンが、通勤電車で読む週刊誌の記事でちょっとした非日常(アバンチュール)を空想し、息抜きにしています。

どちらも本人になんの非もありませんが、それでも喪黒福造の「いたずら」によって闇へと堕ちてしまいます。「人生は不条理で、世界は公正につくられているわけではない」のです。

誰もが夢を求めていた1960年代に、マンガでこの「真実」を描いたのは途方もない慧眼でした。ご冥福をお祈りいたします。

『週刊プレイボーイ』2022年4月18日発売号 禁・無断転載

平手打ち事件をポリティカル・コレクトネスで考える 週刊プレイボーイ連載(517)

アカデミー賞授賞式で、俳優のウィル・スミスが司会をしていたコメディアンのクリス・ロックを平手打ちしたことで、百家争鳴ともいえる論争が起きています。この椿事が注目を浴びるのは、近年、大きな影響力をもつようになった「ポリティカル・コレクトネス/PC」のさまざまな矛盾が集約されているからでしょう。

まず、表現の自由と差別・偏見の問題。スミスの妻ジェイダ・ピンケットは脱毛症を公表していますが、ロックは映画『G.I.ジェーン』でデミ・ムーアが頭髪を剃っていたことにひっかけて、「愛しているよ、ジェイダ。『G.I.ジェーン2』で君を見るのを楽しみにしている」と、彼女の短髪をからかいました。

この発言に会場が笑いに包まれたように、出席者の多くはジョークと思ったのでしょう。ところがスミスは、妻の病気を笑いものにされたと激怒したのです。

PCのルールでは、「弱者を傷つけるような言動は許されない」とされます。その一方で、コメディアンは笑いをとるのが仕事です。ロックはこれを許容範囲内のジョークだと思い、スミスはそう思わなかったわけですが、だとしたらその境界線は誰がどのように決めるのでしょうか。

今年の作品賞は、聴覚障害の家族を描いた『コーダ あいのうた』に与えられました。障がい者を揶揄するロックの発言は、「病気とは知らなかった」で免責されるようなものではなく、アカデミー賞にとって重大な問題です。

次に、正義と暴力の問題。妻を侮辱されたと思ったスミスは、彼女をかばうために、自らの手で「正義」を執行しました。法治国家では、紛争解決の方法としての暴力は、法によるもの以外はすべて否定されます。ところがハリウッド映画は、むかしもいまも、主人公の私的な暴力が悪を打ち負かす物語ばかりをつくってきました。その結果、アカデミー賞の場でハリウッド映画のヒーローのように振る舞う俳優が登場したのです。

それ以上にやっかいなのは、人種とジェンダーの問題です。PCの世界観は、マジョリティ(アメリカでは白人/男性/健常者など)を「加害者」、マイノリティ(黒人/女性/障がい者など)を「被害者」としてきました。この事件が、白人の司会者が黒人女性の障害をジョークのネタにしたり、妻を侮辱された(と思った)白人俳優が黒人のコメディアンを平手打ちにしたのなら、話はよりシンプルだったでしょう。ところが、関係者全員が(マイノリティである)黒人であることで、誰を批判し、誰を擁護していいのかわからなくなってしまったのです。

とはいえ、「黒人だから」という理由で扱いを変えるとしたら、それは「人種主義(レイシズム)」そのものです。アカデミー賞事務局の対応はまだ決まっていないようですが(その後、スミスが自主的に会員資格を辞退したのに加え、受賞式を含む会員向けイベントへの参加が10年間禁止された)、人種にかかわらず、今回の基準をこれから起きるすべての事例に平等に適用しなければなりません。

最後にもうひとつ。ウクライナではいまだに残酷な戦争が続いていますが、セレブリティのスキャンダルは、大衆の関心を一挙に変えてしまう効果があることもよくわかりました。

『週刊プレイボーイ』2022年4月11日発売号 禁・無断転載

経済破綻しても政権が崩壊するとはかぎらない 週刊プレイボーイ連載(516)

【3月24日執筆のコラムです。状況は刻々と変わっていますが、記録のためアップします】

ウクライナのゼレンスキー大統領が日本の国会で演説し、国民の苦境を訴え、一日も早い平和の実現のためにロシアへのより強力な経済制裁を求めました。武力介入が核戦争(第三次世界大戦)に直結する以上、国際社会の圧力で戦争を終わらせる以外の方途がないのは明らかですが、問題は、経済制裁がどこまで実行でき、どれほど効果があるのかわからないことです。

サハリン2は日本が参加するLNG(液化天然ガス)プロジェクトで、輸入価格は単位熱量当たり10ドル前後とされています。この事業から撤退すると、一時60ドルまで上がったスポット価格でLNGの不足を補わなくてはならず、その追加負担は1.8兆円と試算されています。

日本人は(当然のことながら)ウクライナに同情していますが、電気・ガス料金が大幅に値上げされても経済制裁を支持できるでしょうか。さらには、日本が撤退すれば、この利権は中国がそのまま引き継ぐことになるでしょう。とはいえ、各国がそれぞれの事情で「裏口」を設けていれば、ロシアは戦争を継続できるかもしれず、扱いを間違えれば日本はきびしい批判を浴びかねません(その後、岸田首相が「わが国として撤退はしない方針だ」と述べました)。

国際社会の圧力が実を結んだ最大の成功例が、南アフリカのアパルトヘイト廃止です。ネルソン・マンデラという偉大な政治家の存在もあって、いまもひとびとに強い印象を残していますが、南アが人種隔離政策を批判されるようになったのは1960年代で、民主的な選挙で平和裏にマンデラ政権が誕生するまで30年かかりました。国連による経済制裁の要請は1985年で、それを起点にしても5年以上たっています。

それ以外では、キューバ、イラン、北朝鮮、ベネズエラなどに経済制裁が行なわれましたが、期待されたような成果は得られていません。その最大の理由は、ロシアや中国が政治的思惑から制裁に参加しなかったからで、今回も、中国を引き込めなければ「一人勝ち」を許す可能性があります。

もちろん、経済制裁になんの効果もないということではありません。しかしさらなる疑問は、経済が破綻しても政権が崩壊するとはかぎらないことです。

「反米」を掲げたベネズエラのチャベス独裁政権は、アメリカを中心にきびしい経済制裁を受けました。その結果、チャベス病死後のマドゥロ政権では、戦争や内乱、革命が起きたわけでもないのにGDPはわずか3年で半減し、1000億円が1円になるハイパーインフレが起きました。

しかしこの異常事態にもかかわらず、政権交代の試みはすべて失敗し、マドゥロは10年ちかく政権を維持しています。なぜこれが可能かというと、独裁時代に不正に富を得た政治家、軍幹部、実業家らが、ひとたび政権交代すると、既得権を奪われるだけでなく、投獄・処刑の危機に直面するからです。事態があまりに悲惨になると、その状態を維持する以外に選択肢がなくなってしまうのです。

プーチンと取り巻きのオリガルヒ(新興財閥)にとっても、政権を失うことは「確実な破滅」です。現時点(3月24日)では、残念なことにいまだに出口は見えません。

参考:坂口安紀氏『ベネズエラ 溶解する民主主義、破綻する経済』中公選書

『週刊プレイボーイ』2022年4月4日発売号 禁・無断転載