ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載していくことにします。
今回は2018年9月13日公開の「黒人保守派のソーウェルが アファーマティブ・アクションを否定する理由」です。(一部改変)

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2018年8月30日、アメリカ司法省はハーバード大学の入学選考でアジア系の学生が不当に排除されているとの意見書を提出した。
ハーバード大が2013年に行なった学内調査では、学業成績だけならアジア系の割合は全入学者の43%になるが、他の評価を加えたことで19%まで下がった。また2009年の調査では、アジア系の学生がハーバードのような名門校に合格するには、2400点満点のSAT (大学進学適性試験)で白人より140点、ヒスパニックより270点、黒人より450点高い点数を取る必要があるとされる。
米司法省の意見書は、「公平な入学選考を求める学生たち(SFA)」というNPO団体が、ハーバード大を相手取って2014年にボストンの連邦地裁に起こした訴訟のために提出されたもので、同団体は白人保守派の活動家が代表を務めている。トランプ大統領に任命された共和党保守派のジェフ・セッションズ司法長官も、「誰も、人種を理由に入学を拒否されるべきではない」と述べた。こうした背景から、今回の意見書は、白人に対する「逆差別」として保守派が嫌悪するアファーマティブ・アクション(積極的差別是正措置)撤廃に向けての布石ともいわれている(「「ハーバード大、アジア系を排除」米司法省が意見書 少数優遇措置に波及も」朝日新聞2018年9月1日)。
「アンクル・トム(白人に媚びを売る黒人)」と呼ばれて
奴隷解放宣言100周年の1963年、マーティン・ルーサー・キングは「私には夢がある(I Have a Dream)」の有名な演説のなかで、「肌の色でなく人格の中身によって」認められる社会を目指そうと訴えた。これが「カラー・ブラインド主義」で、当たり前のことだと思うかもしれないが、その後、アメリカ社会に大きな混乱をもたらすことになる。なぜならアファーマティブ・アクションでは、公的機関の雇用や公共事業の入札、大学への入学枠などで、「肌の色」による優遇(差別是正)が行なわれているからだ。
これに対して「逆差別」される側の白人やアジア系から不満が出るのは当然だが、じつは黒人のなかにも「アファーマティブ・アクションを廃止すべきだ」と主張する一派がいる。彼らは「黒人保守派」と呼ばれ、アメリカ政治のなかでは特異な地位を占めているが、その根拠はキングの「私には夢がある」の一節だ。「肌の色でなく人格の中身によって」国民を平等に評価するのなら、大学への入学も人種に関係なく(カラー・ブラインドで)得点のみで決めるべきだ、となるほかない。
黒人保守派としては、日本ではシェルビー・スティールの『黒い憂鬱 90年代アメリカの新しい人種関係』(李隆訳/五月書房)などがよく知られている。
スティールは1946年に、シカゴでトラック運転手をしていた黒人の父親と、ソーシャルワーカーだった白人の母親のあいだに生まれた。大学で政治科学や社会学を学んだあと、ユタ大学で英語学の博士号を取得し、サンノゼ州立大学で英文学を教えたのち、フーバー研究所のフェローとなった。双子の兄弟のクラウド・スティールも学者で、スタンフォード大学教育学部長などを務めた。
こうした経歴からもわかるように、「肌の色を気にせずにすむ社会」を目指す黒人保守派は典型的なエリートで、白人保守派から支持される一方、黒人活動家やリベラル派の白人からは「アンクル・トム(白人に媚びを売る黒人)」の蔑称で毛嫌いされている。
経済学者のトーマス・ソーウェルはスティールと並ぶ黒人保守派の代表的な論客だが、日本ではほとんど知られていない。唯一『入門経済学 グラフ・数式のない教科書』 (加藤寛監訳、堀越修訳/ダイヤモンド社)が翻訳されているが、これは「専門用語を使わず、さらに関数もグラフも登場しないため、経済学に必須の数学が苦手な人でも十分理解できる」経済学の入門書で、手に取ったひとはソーウェルの政治的立場はもちろん、黒人であることもまったく気づかないだろう。
黒人保守派はなぜ、公民権運動で勝ち取った黒人の権利を放棄するような主張をするのだろうか。それを知りたくて、ソーウェルの自伝“A Personal Odyssey(私の人生航路)”を読んでみた。以前紹介した“The Idealist”と同様にとても面白い本だが、本書も同様に翻訳されることはなさそうなので、この機会に紹介してみたい。
参考:ジェフリー・サックスの「ミレニアム・ヴィレッジ・プロジェクト」はどうなったのか?
第二次世界大戦は人生のささいなエピソード
ソーウェルは1930年にノース・カロライナの小さな町に生まれた。父親はソーウェルが生まれる前に病死し、母親にはすでに4人の子どもがいた。そこで父は死ぬ間際に、新しく生まれてくる子どもの世話をおばに頼んだ。おばの子どもたちはすでに成人しており、養子を迎えようとして断られたばかりだったため、ソーウェルは彼女の手で育てられることになった。
大おばの家には20代の2人の娘がおり、ソーウェルは彼女たちにも可愛がられて幸福な少年時代を過ごした。黒人しかいない南部の田舎で、女性の多くは裕福な白人家庭のメイドとして働いていたが、黒人の子どもが白人と接触する機会はなく、人種を意識したこともないという。
ソーウェルが9歳のとき、大おばは一家でニューヨークのハーレムに移ることを決める。
理由のひとつは、実の母親や兄姉が暮らす街では、ソーウェルがいずれ出自を知ることは避けられないと思ったからだ。彼女はあくまでも、ソーウェルを自分の子どもとして育てたかったのだ(そのため子どもの名前も、BuddyからThomasに変えた)。実の母親はそれからしばらくして、6人目の子どもを妊娠中に死亡した。
第二次世界大戦前の北部は軍需産業を中心に人手不足で、当時は南部から北部に黒人が移動することは珍しくなかった。ハーレムはそんな黒人たちによってつくられた街で、ソーウェル一家もアメリカ現代史でいう「大移動(Great Migration)」の一部だった。
大おばがニューヨークに引っ越したもうひとつの理由は、ソーウェルによりよい教育を受けさせることだった。
転入したのはハーレムの公立小学校で、生徒はすべて黒人だったが、校長以下教師のほとんどは白人だった。そこでの成績が優秀だったため、中学(ジュニア・ハイ・スクール)はハーレムではなく、中流白人の地域にある学校に進学することになった。1942年のことで、すでに第二次世界大戦は始まっており、中学校にはユダヤ人やプエルトリコ人などに加えてヨーロッパからの多数の難民の子どもたちがいた。
ソーウェルがもっとも得意な科目は数学で、中学3年間はずっと最優秀のクラスで、高校はイースト・ヴィレッジにある名門男子高のスタヴィサント(Stuyvesant)に進んだ。ここまでは順風満帆だが、ソーウェルは高校で挫折しドロップアウトしてしまう。
理由のひとつは通学だった。ハーレムからイースト・ヴィレッジに地下鉄で通うには1時間かかり、朝と夕方のラッシュ時にタイムズ・スクウェアとグランド・セントラルで乗り換えなくてはならず、それだけでくたくたになってしまうのだ。それでも大量の宿題をこなすため、夕食前に仮眠をとるとたいていは早朝まで勉強した。それに加えて、交通費と昼食代を稼ぐために、土曜日は近所の食料品店で働かなくてはならなかった。
とうとう身体を壊して1週間学校を休んだことで、ソーウェルは勉強についていけなくなってしまう。その代わり黒人やヒスパニックの友だちと野球チームをつくって、夢中になって練習した。なんとか2年生には進級したものの、その頃には学業をつづける気力はなくなっていた。
通学や勉強よりもソーウェルをさらに消耗させたのは、育ての親である大おばとの関係だった。孫のような養子を溺愛するあまり、彼女は私生活のすべてを支配しようとした。思春期になったソーウェルには、この干渉が耐えがたかった。
大おばの意に反して退学を決めると、関係はさらに悪化した。ソーウェルを引き留めるために非行行為をでっちあげて警官を自宅に呼んだこともあれば、家庭裁判所にソーウェルを訴えることまでしたという(ちょっと信じられないが実話だ)。
この大おばから逃れ、ウエスタン・ユニオンの配達人としてフルタイムの職を得てソーウェルが独立したのは17歳のときだった。――このとき、「この世界に自分以外に頼る者は誰もいない」と肝に銘じたという。
こうしてソーウェルの子ども時代は終わるのだが、印象的なのは、そこに戦争の陰がまったくないことだ。
第二次世界大戦の開戦は1939年で、ソーウェルがハーレムに引っ越した年だ。41年には真珠湾攻撃で日本との戦争が始まり、45年には広島と長崎に原爆が投下されている。映画『この世界の片隅で』で描かれたように、すべての日本人が戦争によって運命を翻弄されたが、同じ時期にニューヨークの中学生だったソーウェルの記憶には、戦争のことはいっさい出てこない。家族が従軍していないこともあるだろうが、ニューヨークの黒人の子どもにとって、第二次世界大戦は人生のささいなエピソードのひとつですらなかったのだ。
ミルトン・フリードマンとの出会い
名門高校を中退し家を出たソーウェルは、なんとか自立しようと試行錯誤する。イラストレーターになろうと絵の勉強をしたこともあるし、ライターの才能があるのではと思って短文を新聞に投稿したりもした。プロ野球選手になることを考えて、ブルックリンを本拠地にしていたドジャースのトライアウトを受けたこともある。
だが現実は、ソーウェルが思っていたよりずっと厳しかった。機械工の仕事とウエスタン・ユニオンの配達をかけもちして働いたものの戦後の一時的な景気後退で失業してしまい、ホームレスの少年のための施設で暮らし、一張羅のスーツを質に入れ、新しい趣味として夢中になったカメラも手放さざるを得なかった。「子どものときは賢かったのに、差別と貧困に負けて零落していく黒人」というよくある話の典型だ。
だがここで、ソーウェルの人生に大きな転機となる事件が起きる。1951年に勃発した朝鮮戦争だ。
ホームレスの瀬戸際まで追い詰められた黒人の若者には、軍隊に入るくらいしか選択肢は残されていなかった。ところが、きびしい訓練に耐えて海兵隊の一員になったソーウェルに幸運が訪れる。一人暮らしを始めてから趣味で写真を撮っていたのだが、そのことを経歴に書くと、当時はカメラを扱える軍人が少なかったこともあって、写真班に配属されたのだ。これによって、本来なら「黒人兵」として最前線に送り込まれるはずにもかかわらず、戦場を体験しないまま終戦を迎えることができた。
22歳で海兵隊を名誉除隊したあとはワシントンD.C.の行政機関で経理事務をするかたわら、高校卒業資格を取得し、黒人学生のために設立されたハワード大学に入学した。そこできわめて優秀な成績だったことで、2人の教授の推薦を受けてハーバード大学に転入する道が開けた。
ハーバードではマルクス経済学を専攻し、「マグナ・クム・ラウデ(成績上位10%)」で経済学部を卒業、コロンビア大学大学院に進んだ。ここで師事したのがのちにノーベル経済学賞を受賞するジョージ・スティグラーで、そのスティグラーがシカゴ大学に移ったことで、ソーウェルもいっしょに転学することになった。そのシカゴ大学で、生涯の“メンター”となるミルトン・フリードマンと出会うことになる。
新自由主義のイデオローグであるフリードマンの授業をソーウェルは大学院で受講し、優秀な成績を収めるが、自伝ではこの伝説的な経済学者について多く語られているわけではない。フリードマンは学問にはきわめて厳しく、黒人だからという理由でソーウェルを特別扱いすることはいっさいなかった。ソーウェルの思い出は、シカゴ大学が敷地拡張のために貧しい黒人居住区を地上げしていることを学生新聞で批判したときのことで、フリードマンはその記事を読んで「君の意見に同意する」とわざわざ伝えたという。
フリードマンとスティグラーから新古典派の経済学を徹底的に叩き込まれたこともあって、この頃にはソーウェルはマルクス経済学に否定的になっていた。そのいちばんきっかけは、労働省の依頼でプエルトリコの最低賃金規制と失業率の関係を分析したことで、データは、最低賃金を大幅に引き上げると失業者が増えることをはっきりと示していた。
フリードマンとスティグラーという2人の大物経済学者に師事してシカゴ大学大学院を卒業したソーウェルは、ワシントンでの行政官の仕事を断って、女子教育のために設立されたニュージャージのダグラス・カレッジで経済学を教えることにする。フリードマンはこのまま大学院に残って博士論文を完成させるよう勧めたが、ソーウェルはすでに30歳を過ぎており、生活のために働かなくてはならなかったのだ。
もうひとつの理由は、ソーウェルが自らの経験から、教師こそが天職だと思っていたからだ。教育によってこそ、女性も黒人も貧困や差別に屈せず、人生の可能性を切り開いていくことができるのだ。
アファーマティブ・アクションという“災厄”
1965年、ソーウェルはアイビーリーグの名門コーネル大学で経済学を教えることになる。
ベトナム戦争が泥沼化したことで、全米の大学では徴兵忌避の学生運動が盛んになり、ヒッピー・ムーヴメントやフラワー・ジェネレーションの全盛期が訪れた。マーティン・ルーサー・キングのワシントン大行進が1963年8月、ケネディ暗殺後にジョンソン大統領によって公民権法が制定されたのが1964年7月で、アメリカ社会は騒然としていた。まさにこの時期(1965~1969年)に、ソーウェルはコーネル大学で教鞭をとることになった。
教師としてのソーウェルは学生たちに高い水準を要求し、安易に単位を与えることを頑として認めなかった。その講義は、最初の数回で出席者の半分が姿を消すが、最後まで残った学生からは「人生を変えた体験」と感謝されるものだったようだ。
当然のことながら、ソーウェルの厳しさは、落第させられた学生たちの怨嗟の的となり、事あるごとに大学当局と衝突することになった。そのたびにソーウェルは、「大学を卒業して実社会に出ればさらに厳しい現実が待っている」と、学生に優しくするよう陰に陽に圧力をかける管理者を撥ねつけた。
だが公民権法が成立すると、アメリカの大学教育はさらにやっかいな問題を抱えることになった。黒人学生たちが、アファーマティブ・アクションで入学してくるようになったのだ。
ソーウェルは大学の入試データを閲覧し、黒人学生がアメリカ社会の平均よりは高い学力を有しているものの、コーネルの一般学生よりずっと低い得点で合格していることを見出した。ソーウェルによれば、「黒人学生の約半数は学問的な困難を抱えており、どのような意味でも(コーネルで学ぶ)資格がない」のだ。
こうした学生たちは、自分たちを低く評価する教師を「人種主義者(レイシスト)」とはげしく攻撃し、それに対して白人のリベラルな大学教授たちは無力だった。ソーウェルだけが、人種にかかわりなく基準に満たない学生を容赦なく落第させ、黒人学生を特別扱いすることに強硬に反対した。黒人のソーウェルに対しては、誰も「レイシスト」のレッテルを貼ることができないからだ。
こうしてソーウェルは否応なく、アファーマティブ・アクションをめぐるアメリカ社会の衝突の最前線に突き出されることになった。
当時の雰囲気は、次の場面によく表われている。
1968年秋のニューヨークで、「黒人学生のためのスペシャルプログラム」について大学関係者の会合が行なわれた。そこではさまざまな大学から集まった参加者(大半が白人)が、「資格に満たない」黒人学生を入学させるための努力について滔々と語った。
それを聴いていたソーウェルは思わず質問した。「“資格”のある黒人学生についてはどうなんですか?」
そのひとことで会場は凍りついた。
会合が終わったあと、有名医学大学の学長がソーウェルのもとにやってきた。
「先ほどは感銘を受けました」と学長はいった。「私一人ではないとわかったので」
どういうことかソーウェルは訊いた
「キング牧師が暗殺(1968年4月)されてから、何人かの理事会メンバーが、“この秋学期から何十人かの黒人学生を入学させなければ大変なことになる”といいだしたんです。そこで私が、“もう5月なのに、これからこの大学に入れるような優秀な黒人学生をどうやって探すのか”と訊いたら、“そんなことを心配する必要はない。とにかく入学させて、卒業させればいいんだ”といわれました」
この話を聞いてソーウェルは驚いた。
「あなたの大学の理事たちは、そうやって卒業した黒人の医者に、自分の子どもを手術させるんですか?」
「まさか」と、学長はこたえた。
「だったら、なぜ私の子どもの生命をその医者に託さなければならないんですか?」
黒人は日系アメリカ人より恵まれていた
1969年4月、ショットガンやライフルで武装した黒人学生の過激派がコーネル大学のホールを占拠し、アフリカ研究センターの設立や逮捕された活動家の釈放などを求めた。大学当局は黒人活動家の要求を受け入れたものの、教授会はその決定を拒否した。ところが、武装グループが特定の教授を名指しで「生命は保障しない」と脅すと、教授会は前言を撤回して活動家に屈した。最後まで反対を貫いたのはソーウェルともう一人だけで、彼も黒人の教員だった。
アメリカ社会を揺るがせたこの事件についてソーウェルは、1970年12月の『ニューヨーク・タイムズ・マガジン』に寄稿し、「黒人優遇策は優秀な黒人学生の利益を無視することで成り立っている」と批判した。
この記事は大きな反響を呼び、ソーウェルのところには何百通もの読者からの手紙が届いた。その多くは白人からのものだったが、黒人からの感謝や励ましの手紙もあった。彼らは専門職としてプライドをもって仕事をしてきたが、「どうせ裏口なんだろ」と陰口を叩かれ、患者や顧客の信頼を失いつつあったのだ。
こうして、「公民権運動の偉大な成果」であるアファーマティブ・アクションを否定する“黒人保守派”トーマス・ソーウェルが誕生した。
ソーウェルは、アメリカ社会において、同じマイノリティでも日系は黒人よりはるかに経済的に成功していると指摘する(2016年のデータでは、日系を含む東アジア系の平均世帯年収は8万1431ドル/約896万円で、黒人の3万9490ドル/約434万円の約2倍)。
黒人がアメリカ社会で差別されてきたのはまちがいないとしても、日系アメリカ人も第二次世界大戦中は「敵性民族」として全財産を没収され強制収容所に閉じ込められた。終戦直後の社会的・経済的地位は、日系人より黒人の方がはるかに恵まれていた。だったらなぜ、こんなことになるのか。
ソーウェルは、黒人が過去の奴隷制の歴史を盾に進学や就学で「特権」を手に入れたことで堕落し、「負け犬の文化」を身につけたたからだという。現在の逆境から抜け出そうと思うなら、すべての「特権」を返上し、(日系アメリカ人と同様に)公平な条件で競争し富を獲得していかなくてはらないのだ(Thomas Sowell(2013) Intellectuals and Race, Basic Books)。
これは極端な主張に思えるかもしれないが、黒人の知識人としてきわめて論理的でもある。
ソーウェルは個人間に知能の遺伝的なちがいがあることは認めるが、それを人種間に拡張することには否定的だ。だがそうなると、アファーマティブ・アクションを半世紀もつづけたにもかかわらず黒人の経済的な地位が向上しない理由を説明できなくなる。
「黒人の患者が、黒人ではなく白人の医師を指名するのはなぜか?」とソーウェルは問う。それは必要な知識や技量に達していないのに「裏口から」医師になったのではないかと疑われているからだ。
このようにしてソーウェルは、「黒人が尊厳を保つためには、白人やアジア系と対等に競争して成功を手にする以外にない」と同胞を叱咤するのだ。
アファーマティブ・アクションの犠牲者は黒人
コーネルを辞めたソーウェルはUCLAで教鞭ととったのち、(シルビー・スティールと同じく)保守系のシンクタンク、フーバー研究所の研究員となった。レーガン大統領の熱心な支持者で、フリードマンの愛弟子でもあることから、労働長官の有力候補とも報じられたが、政治にかかわるつもりはなかったという。
“A Personal Odyssey”の最後でソーウェルは、自らの半生を振り返って、ふたつの幸運に恵まれたと語っている。
ひとつは、遺伝的に数学の才能があったこと。後年、じつの兄姉と再会することになるが、兄の1人は大学には進めなかったものの高校は総代で、独力で郵便物の仕訳システムを開発し、ベンチャー起業家として成功していた。彼には2人の息子がおり、1人は数学教師、もう1人はプリンストン大学で計量経済学の博士号を取得した。それ以外の一族にも、コンピュータやロケット工学の専門家になった者がいた。
ソーウェルの息子は6歳になっても言葉を話すことができず、発達障害と見なされたが、ばらばらにしたチェス盤を完璧に再現するなど、驚異的な記憶力と数学能力をもっていた。いまでいうアスペルガー(高機能自閉症)に近く、高校ではチェスのチャンピオンになり、大学で統計学とコンピュータサイエンスを専攻した。
もうひとつの幸運は、アファーマティブ・アクションが始まる1960年代半ば以前に高等教育を終えたことだという。その当時は黒人学生への特別扱いはなく、フリードマンやスティグラーがソーウェルを高く評価したのは、彼が優秀だったからだ。だがいまでは、大学が「人種差別とのたたかい」や「多様性」の美名のもとに学力の満たない学生を優遇したことで、優秀な黒人が犠牲になっているとソーウェルは嘆く。
あるとき、姪の1人がソーウェルを訪ね、「わたしもおじさんと同じ大学で勉強したい」といった。
それに対してソーウェルはこたえた。「同じ大学はもうない。同じ建物があるだけだ」
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