ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載していくことにします。
今回は2014年5月公開の記事です。(一部改変)

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前回は、キリスト教の歴史にローマ(カトリック)史観とは別に、コンスタンティノポリスからモスクワに至るビザンティン史観があることを書いた。
参考:「キリスト教の中心はバチカンではなくモスクワ」という歴史観
わたしたちは無意識のうちに、キリスト教を欧米(アメリカと西ヨーロッパ)の宗教だと考えている。カトリックにしても、わたしたちが思い浮かべるのは中世のそれではなく、ルネサンス以降のキリスト教だ。
しかしヨーロッパの東にはもうひとつのキリスト教がある。それが正教(オルソドックス)だ。これがギリシア正教とも呼ばれるのは、信仰の中心であった東ローマ=ビザンティン帝国が「ギリシア人の国」だったからだ。
それでは、正教とはどのような宗教なのだろうか。もちろん私は宗教の専門家ではないから、ここでは日本で数少ない正教の司祭であり、『ギリシャ正教』(講談社学術文庫)などの本で啓蒙活動を行なっている高橋保行氏の著作からその特徴をいくつか紹介してみたい。
そもそもなぜ「正教」なのか?
ギリシア語の「オルソドックス」は「オルソス(正しい)」と「ドクサ」からなり、ドクサには「教え(意見、主張)」のほかに「神を賛美する」という意味がある。オルソドックスとは「神の正しい教え」であるとともに、「正しく神を賛美する」教会を表わしている。伝統的(オーソドック)とは、この「正しさ」を保守し後世に伝えていくことだ。
こうした考え方が出てきたのは、当然のことながら、キリスト教のなかに「正しくない」教えが現われ、それが影響力を増してきたからだ。これらの異端に危機感を抱いた教会は各地の代表者を集め、正しい教えを定める「公会議」を開いた。
第1回のニケヤ公会議(325年)ではイエスが神(創造者)なのか人(被造者)なのかが争われ、イエスを被造者のなかの最高の存在だとしたアリウス派が異端とされた。第2回のコンスタンティノポリス公会議(381年)では、これを受けて「父」「子」「聖神(精霊)」の「至聖三者(三位一体)」のキリスト教の神概念が確立した(用語は正教で使われるもの)。
第3回のエフェソス公会議では、コンスタンティノポリス総主教のネストリウスと、アレクサンドリア総主教のキリルが、イエスのなかの「神性」と「人性」をめぐって論争した。ネストリウスはイエスに「神」と「人」という別個のものが同居していると主張したが、公会議はこれを異端として、イエスは神であると同時に人であり、完全に二つのものが一体であるとした。
ところがそうなると、イエスの内面がどうなるのかが問題になる。これについてコンスタンティノープルの修道院長ユティカスは、「ひとつの身体のなかに神の性質と人の性質があるのは矛盾だから、人間性は神の性質に飲み込まれ融合した」という単性(質)論を唱えた。第4回から第6回までの公会議は単性主義と、その余波としての単意主義(性質がひとつなら意志もひとつ)をめぐる教義論争で、公会議はこれも異端と見なし、イエスには全き人としての意志と全き神としての意志が矛盾なく存在するとした。
聖書が偶像崇拝を禁じていることはよく知られているが、熱心なクリスチャンだったビザンティン帝国皇帝レオ3世は726年、その教えを理由にイコンを禁止した。イコンに祈ることはキリスト教徒の宗教生活に根づいていたから、これは大問題だった。第7回の第2ニケヤ公会議(787年)ではこの難問が討議され、「クリスチャンはイコンに描かれている者に祈るのであり、イコンを崇拝するのではない」というかなり苦しい理屈でイコンが容認された。
カトリックが第21回の第2バチカン公会議(1962~65年)まですべての公会議を認めているのに対し、正教は第7回の公会議までを正統とする(これが全地公会議で、それ以降はカトリックの地方会議)。
第8回の第4コンスタンティノポリス公会議(869年)は、学者からコンスタンティノポリス総主教となったフォティオス1世の罷免をめぐるビザンティン帝国の内紛にローマ教皇が介入して紛糾し、1054年にはローマ教皇とコンスタンティノポリス総主教が互いを破門して東西教会は分裂した。
もっともローマ教皇には政治的/軍事的実力がなく、神政一体のビザンティン帝国もイスラームからの圧迫にさらされるなかでは互いに争う余裕はなく、7回の全地公会議で定めた「キリスト教の真髄」を共有しているという危うい安定が続いた。
東西教会の分裂よりも決定的な影響を与えたのが第4回十字軍(1202~04年)で、ローマ教皇インノケンティウス3世の呼びかけに応じたフランス諸侯とヴェネティアはビザンティン帝国の皇位争いに加わってコンスタンティノポリスを攻撃し、約束した金品が支払われないと略奪・暴行のかぎりをつくした。これによって東(オリエント)と西(カトリック)の関係は悪化し、東西世界の不信と対立は現在まで続く。
2000年間変わらないキリストのイメージ
司祭でもある高橋保行氏によれば、正教にはキリスト教誕生当時の習慣がよく残されている。
ギリシア正教の聖職者が髪や髭を伸ばすのは、中近東では髪や髭に神秘的なちからが宿ると考えられていたからだ。初期のキリスト教においても髪と髭は信仰を守るためのもので、髪を切るのは異教徒の印だった(こうした伝統はアラビア半島で興ったイスラームにも残されている)。
十字の描き方も、カトリックは親指を折って額、胸、左肩、右肩の順だが、正教は親指、人差し指、中指を合わせ、薬指と小指を折り、額、胸、右肩、左肩の順で十字を切る。三本の指は父・子・聖神を、折り曲げた2本の指はキリストの神性と人性を表わす。右肩を優先するのは、聖書によれば、よみがえったイエスは神の右手に座したからだ(ちなみに結婚指輪を薬指にはめるのは、親指、人差し指、中指が父・子・聖神を表わし、指輪は神に対する誓約の証だからだ)。
正教といえばイコンと呼ばれるイエスや聖人の絵(聖像)で知られるが、どれもすべて同じように見える。これはカトリック(とりわけルネサンス期)とちがって、衣服から表情に至るまで描き方が厳密に定められているからだ。正教では、キリストの像(イコン)は2000年前とまったく同じように描かなければならない。
イコンではキリストには必ず特別な後光があり、後光のなかに十字架を表わす線が描かれ、そこに神の名(ヤーウェ)を示すギリシア文字が入っている。聖人の後光はその反映なので、十字も神の名もない。
聖人のポーズや着ているものの色も決まっていて、手を挙げているのは神から恩恵をいただく姿、巻物を持っているのは神の啓示を明らかにする姿、十字架を手にしているのは殉教者の姿だ。
これは、印刷物としての聖書がなかった時代には、イコンこそが信徒にとっての聖書だったからだ。文字を読めない信徒たちも、大伽藍の壁一面に描かれた豪華絢爛なモザイクや壁画(フレスコ)イコンから聖書の教えを知ることができた。イコン(ギリシア語で「イメージ」)とは思いや考えを託す器のことで、器を壊してしまえば中身も失われてしまうから、正教ではすべてがオーソドックス(伝統的)であらねばならないのだ。
復活祭は8週ごとに繰り返される
正教の特徴を表わすものに暦がある。
天体の名称を使った西欧由来の曜日は、キリスト教以前にアレクサンドリアからローマに伝えられたものだ。それに対してオリエントでは、キリスト教起源の曜日がいまも使われている。
日曜日は週の第一の日で、主イエスキリストの日という意味から「主日(キリアキ)」と呼ばれる。
日曜を基準にして、月曜は「二日目(デフテラ)」、火曜は「三日目(トリティ)」、水曜は「四日目(テタルティ)」、木曜は「五日目(ペムプティ)」で、金曜が「準備の日(パラスケビ)、土曜が「安息日(サバト)」となる。旧約聖書では神は天地創造の後、7日目を安息したとあるから、週の7日目(土曜日)が「安息日」で、その前日の金曜が「準備の日」になったのだ(日曜が安息日とされるのは後世になってから)。
日曜はローマ帝国時代には太陽神の日で、キリスト教が国教になった後、真の太陽はキリストだということで4世紀から主日(主の日)とされるようになった。
日曜は週のはじめ(第一日)であると同時に、第八日すなわち週末でもある。「主の日」というのは、キリストが復活した日のことだ。それが週の最後の日になるのは、神が復活するのは世界の終わりの日だからだ。
「8」というのは聖書のなかで特別な数字で、永遠、来世、天国、神の国という意味を持っている。天地創造によりこの世が完璧であることを示す「7」に、唯一の神を表わす「1」を加えたものでもある。神(1)がこの世(7)に降臨したのだから、数字の「8」はキリストの化身なのだ。こうして正教では、キリストが復活する「八の日」に特別な聖体礼儀(復活祭)が行なわれることになった。
金曜が「準備の日」とされるのは、復活祭に向けて斎(ものいみ)すなわち断食が行なわれるからだ。信徒は日没まで絶食し、晩に行なわれる聖体礼儀に参加して(パンと葡萄酒を食する)領聖してから食事をとる。古くは金曜のほかに水曜にも斎が行なわれた。
「8」は特別な数字であるから、1週間が8回めぐった第8週が復活祭の成就の週となり、その前の第7週が断食を行なう大斎(おおものいみ)になる。8週ごとの復活祭を繰り返し、春のはじめ(春分の日の後の最初の満月の次の日曜)に盛大な復活大祭が祝われる。
正教徒の一生は宗教行事をこなすだけで終わってしまう
復活大祭はイースターとして知られているが、正教では「バスハ」と呼ばれ「すぎこし」のことだ。ユダヤ教の「過越(すぎこし)」の祭りは死の天使がユダヤ人の家を過越してエジプト人だけに訪れたという旧約聖書の出エジプト記に由来するが、正教では1日、1週、8週、1年をキリストの復活を祝いながら過越していく意味に変わった。
正教には1年に4回の大祭があり、復活大祭はそのなかでもっとも重要なものだ。あとの3回は聖ペテロ・パウロ祭、生神女(聖母マリア)就寝祭、降誕祭(クリスマス)で、こうした大祭の前にはその準備として大斎が行なわれる。
4世紀以降、厳格な断食は修道院でしか行なわれなくなり、斎は肉や魚、乳製品などを食べない節制の期間とされるようになった。大祭の準備は8週間に及び、最初の4週間で徐々に食べるものを減らしていき、斎に入った第1週は菜食と貝類の食事だけが許され、3週目で肉を、4週目で乳製品を絶つ。
このように復活祭だけでも、毎週日曜の小復活祭、8週にいちどの中復活祭、春に行なわれる復活大祭があり、そのたびに斎や大斎が求められるのだから、正教徒の一生は宗教行事をこなすだけで終わってしまう。
正教では1日を3時間ごとに8つに分け、各課ごとに祈りが決められている。夕暮れには一日が無事終わったことを感謝し、夜には一日を反省し神の許しを乞う。クリスチャンにとって夜は死を意味するから、深夜にはキリストの再来を瞑想し、明日のよみがえりを祈願する。朝は午前3時に始まり、安眠に感謝し、新しき日の祝福を願う。修道僧や敬虔な信徒には1日に8回の礼拝が課されていたのだ。
正教司祭である高橋保行氏は、「人生は、この世から、来世に向かっての大きなバスハ(すぎこし)」だという。正教徒はこうした過越しとしての生を「8」を中心とした周期とし、準備と成就(祭)を繰り返しながら来世へと向かっていくのだ(正教の祭儀は宗派によって違いがある)。
イスラームは正教に対する「宗教改革」
アラビア半島のメッカに生まれたムハンマドは、一族の者たちとともにシリアとの隊商交易に従事した。当時のシリアはビザンティン帝国の領土で、国教であるキリスト教が厚く信仰されていた。ムハンマドが出会った宗教はギリシア正教だった。
ムハンマドはメッカ郊外のヒラー山で瞑想にふけっていたとき、大天使ジブリール(ガブリエル)から唯一神の啓示を受ける。いうまでもなくこの神(アッラー)は、ユダヤ教やキリスト教の神と同一のものだ。
イスラームでは夜明けから夜まで1日5回の礼拝が行なわれ、ラマダーンという断食月がある。こうした戒律はイスラームに特有のものと思われているが、礼拝の日課(サラー)も、断食(サウム)も、喜捨(ザカート)や巡礼(ハッジ)や信仰告白(シャハーダ)もすべて正教で行なわれていたものばかりだ。
ムハンマドは、合理的な解釈によってキリスト教の矛盾を解決した。すわなち、イエスは預言者の1人ではあるが人であり、神ではない。これならイエスの神性と人性で紛糾した公会議のスコラ的な議論も必要ない。マリアは処女のままイエスを生んだのではなく、ごくふつうに出産した。
それと同時にムハンマドは、偶像崇拝の禁止を神の教えとして徹底した。キリスト教はイコンを「聖書」として布教したが、イスラムでは信徒がコーランを朗誦する。これによって、神の偶像なしで信仰が可能になる。イスラームから見れば、キリスト教は処女が懐妊し、人が神になり、信徒は神の偶像を拝む荒唐無稽な宗教なのだ。
伝統を重んじ古来の祭儀を固守する正教は、ルネサンス期に大きく変容したカトリックよりも初期キリスト教の形式をよく残している。正教の祭儀を見れば、それがユダヤ教から強い影響を受けていると同時に、イスラームが7世紀初頭にオリエントで起きた「(ギリシア正教に対する)宗教改革」だという側面も見えてくるはずだ。
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