ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載していくことにします。
今回は2014年5月公開の記事です。(一部改変)

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私が高校で世界史を学んだ頃は、ヨーロッパ中世は暗黒の時代とされ、そのなかでもビザンティン帝国というのはよくわからないものの筆頭だった。
古代ローマ帝国は紀元1世紀から2世紀にかけて即位した5人の皇帝(五賢帝)の時代に最盛期を迎えたのち、混乱と分裂に陥る。これを収束させたのがコンスタンティヌス1世で、ササン朝ペルシアの侵略に備えるため330年に首都を東西交易の要衝だったビザンティウムに移すとともに、キリスト教を公認した。これがヨーロッパ史の古代と中世を分ける画期となった。
ローマ帝国の新首都ビザンティウムは、コンスタンティヌス1世の死後、コンスタンティノポリス(コンスタンティヌスの都)と改名されたが、その後も帝国の混乱はつづき、テオドシウス1世の死後、395年に東西に分裂することになる。
西ローマ帝国は4世紀後半から始まったゲルマン民族の大移動に耐えられずに476年に滅亡し、その領土からイギリス、フランス、ドイツ、スペイン、イタリアなど西ヨーロッパ諸国が生まれた。それに対して後世、ビザンティン帝国と呼ばれるようになった東ローマ帝国は、オスマン帝国の侵略に苦しんだあげく最後には領土がコンスタンティノポリスの城壁の中だけになり、1453年にメフメト2世率いる10万のオスマン軍に攻められ滅亡した。
最盛期のビザンティン帝国の領土は現在のトルコ(アナトリア半島)を中心に、バルカン半島から黒海周辺(ブルガリア、ルーマニア)、地中海東岸(シリア)まで広がっていたが、近代の成立とともに“世界の中心”となった西ヨーロッパに比べて影が薄く、第一次世界大戦の原因になるまで世界史の教科書にもほとんど登場しない。
「ギリシア正教」の首座はアテネではなくイスタンブール
「ビザンティン帝国って何だろう」と疑問に思ったのはギリシアの首都アテネを訪れたときだった。
西ローマ帝国(西ヨーロッパ)と東ローマ帝国(ビザンティン帝国)は、キリスト教を国教としながらも、カトリックと正教のいずれを正統とするかで分かれることはよく知られている。正教の代表はギリシア正教なのだから、アテネにはローマ(バチカン)のサン・ピエトロ大聖堂に匹敵する壮麗な教会があるにちがいないと思っていた。
アテネの街の中心にはたしかに正教の教会があったが、たまたま外壁の修復工事中ということもあって外観は思いのほかみすぼらしく、教会の壁にはイコン(聖像)が描かれステンドグラスが嵌められていたものの、サン・ピエトロ大聖堂の威容とは比ぶべくもなかった。
その後、トルコのイスタンブールを訪れて、自分がとんでもない勘違いをしていたことに気がついた。
イスタンブールのシンボル、ブルーモスク(スリタンアフメト・モスク)の隣にアヤソフィア博物館がある。ビザンティン建築の最高傑作とされる建物で、天井が巨大なドームになっており、漆喰や大理石の壁がはがれた部分からキリストのモザイク画が覗いている。
ここはもともとキリスト教の教会で、オスマン帝国時代にモスクとして使われていたため、壁に上塗りしてキリストのイコンを隠していたのだ。
イスタンブールはいうまでもなくコンスタンティノポリスのトルコ名で、ブルーモスクのある中心部はかつてはビザンティン帝国の宮殿が建ち並んでいた。その当時、アヤソフィア聖堂は正教の首座(カトリックにおけるバチカン)で、主教(同じくローマ教皇)はここにいたのだ。考えてみれば当たり前だけれど、正教はビザンティン帝国の国教なのだから、信仰の中心はコンスタンティノポリスだったのだ。
コンスタンティノポリスが陥落してビザンティン帝国が滅亡すると、首座を失った正教はロシアや東ヨーロッパ各地へと散っていく。
ロシアをモンゴルの支配(タタールのくびき)から解放したイヴァン3世(大帝)は、ビザンティン帝国の滅亡を見て「正教の正統はロシアの地に移された」と宣言した。それに対抗して、ギリシアもまたアテネの地を正教の首座にしようとしたのだろうか。
だが歴史を見れば、これもまた間違っていることがわかる。ギリシアがオスマン帝国の支配から逃れたのは1827年だから、それまでは堂々と正教を奉じることはできなかったのだ(オスマン帝国でもキリスト教徒であることは認められていた)。
トルコのアナトリア高原に地下教会をつくったキリスト教修道士たち
トルコ中央部のアナトリア高原にあるカッパドキアは侵食によってつくられた広大な奇岩地帯で、キノコや煙突のような巨岩に無数の洞窟が穿たれている。
火山岩は柔らかく、洞窟をつくって教会や住居にするのが容易だった。こうした洞窟の一部は現在は改装されてホテルになっているが、もともとは(キリスト教が公認されれう前の)ローマ帝国の弾圧を逃れて移り住んだキリスト教の修道士たちが隠れ住んだ場所だった。なかでももっとも有名なのがギョレメ国立公園で、洞窟内部にはいまもキリストを描いた壁画が多数残されている。
ところで、ここで暮らしていた修道士とはいったい誰だろう?
洞窟教会の装飾は正教に特有のイコンで、そこに書かれた文字はラテン語ではなくギリシア語だ。カッパドキアの洞窟で神に祈りを捧げていたキリスト教の修道士はギリシア人だったのだ。
カッパドキアのもうひとつの観光名所は、1965年に発見された巨大な地下都市カイマクルだ。
岩盤層を穿ってつくられた都市は地下8階、深さ65メートルに及び、地下1階にワイン製造所、その下に食堂や居間、寝室などがつくられ、最下層は十字架の形に掘られた教会になっている。まだ発見されていないものを含めれば、カッパドキア周辺にはこうした地下都市が数千あり、10万人以上が暮らしていたと考えられている。
こうした都市も最初は地下教会としてつくられたのだから、キリスト教がローマ帝国に公認されれば不要になるはずだが、この地はペルシアやアラブ、トルコなど異民族の侵略に常に晒されており、外敵の脅威が深刻になるにしたがってギリシア人の正教徒たちは逆に地下を掘り進めていった。ワイン製造所が真っ先につくられたのは、それが聖餐に必要だからというよりも、水に毒を入れられることを恐れたからだと考えられている(彼らは井戸を使わずブドウから水分をとったのだ)。
アナトリア半島の東岸はエーゲ海をはさんでバルカン半島と向いあっており、アテネを発ってエーゲ海を北上し、マラルメ海からボスポラス海峡を抜ければ黒海に至る。古代ギリシア・ローマ時代には、この一帯に海洋民族であるギリシア人の植民都市が次々とつくられた。
わたしたちはギリシアというと古代都市アテネのあったバルカン半島南端を思い浮かべるが、アテネとスパルタが覇を競った紀元前5世紀のペロポネソス戦争でポリスは荒廃し、ギリスア文明の中心はシチリアや南イタリア、地中海東岸、黒海南岸などに点在する植民都市に移っていった。
黒海とエーゲ海を結ぶ海の要衝であるボスポラス海峡に都市が建設されたのは紀元前667年で、彼らの王ビュザンタスにちなんでビュザンティオンと名づけられた。コンスタンティヌス1世の遷都は紀元後330年だから、およそ1000年にわたってここはギリシア人の土地だったことになる。
476年に西ローマ帝国が滅亡すると、コンスタンティノポリスのひとびとは当然のごとく、自分たちがローマ帝国の正統だと考えた。ところで、そう考えたのはいったい誰だろう。それはいうまでもなく、帝国の首都の住人であったギリシア人だ。だからこそ東ローマ帝国の国教として彼ら(ギリシア人)が奉じていた宗教を「正教(Orthodox)」と呼ぶようになった。
東ローマ帝国はギリシア人の国、というか、ギリシアそのものだった。彼らは最後まで自分たちの国を「ローマ帝国」だと考えていたが、西ヨーロッパにはローマ法王がおり、法王から戴冠を受けた神聖ローマ帝国の皇帝がいたのだから、ギリシア人の国が「ローマ」では都合が悪い。それで15世紀以降、西ヨーロッパの学者たちがローマ帝国と区別するために、東の帝国を「ビザンティン」と呼ぶようになったのだ。
ビザンティン帝国の「ギリシア人の皇帝」
歴史家・井上浩一氏の『生き残った帝国ビザンティン』(講談社学術文庫)によれば、最盛期のビザンティン帝国は高度に発達した官僚国家で、国民の教育レベルもきわめて高かった。
教会や修道院には初級学校が置かれ、そこでは読み書き算盤が徹底的に教え込まれた。中等教育に進めば、生徒はホメロスの詩でギリシア語の正しい綴りを学んだ。ホメロスはビザンティン教養人の常識で、官僚であれば誰でもホメロスの詩を暗唱できた。
ギリシア語の勉強は紀元前1世紀の文法書を使って行なわれたから、彼らはプラトンやアリストテレスなど古代ギリシアの哲人たちと同じ文章を書いた。高等教育になると、算術・幾何・天文学・音楽などの一般教育科目が教えられた。中世の西ヨーロッパでは読み書きできるのは教会の司祭などごく一部にかぎられていたから、彼我の文明の差にはすさまじいものがあった。
古代ギリシア・ローマの文化や芸術は、ビザンティン帝国と、その跡を継いだオスマン帝国に伝えられた。15世紀なかばに大航海時代が始まり、それにともなって地中海貿易が活発化してフィレンツェなどイタリアの海洋都市が勃興すると、彼らがビザンティンやイスラムの文化に触れたことでルネサンスの時代が幕を開けたのだ。
ビザンティン帝国がギリシア人の国であることは中世ヨーロッパの常識だった。
962年にローマ教皇から戴冠を受けたのち、ドイツ王オットー1世はビザンティン帝国に使節を送ったが、その目的は自分も「ローマ皇帝」の名称を使いたいというものだった。それ以前にフランク王カール(大帝)も「皇帝」を名乗ったが、当時はまだビザンティン帝国の皇帝こそが真の「ローマ皇帝」だと考えられていたのだ。
西ヨーロッパには複数の王がいたが、ビザンティン帝国は神政一致の専制国家で皇帝は全能の神によって選ばれるのだから、「ローマ皇帝は地上にただ1人」だとしてオットー1世の申し出を断わった。ビザンティン側が激怒して交渉が決裂したのは、ローマ教皇の親書に、ビザンティン皇帝ニケフォロス2世のことを「ギリシア人の皇帝」と書いてあったからだ。
1400年、オスマン帝国の圧迫で滅亡寸前に追い詰められたビザンティン皇帝マヌエルは、西ヨーロッパの君主たちの支援を受けるべくフランスとイギリスを訪れた。フランス王シャルル6世も、イングランド王ヘンリー4世も、遠路はるばるやってきた「ギリシア人の皇帝」を大歓迎した。オットーの戴冠から500年を経て西ヨーロッパとビザンティンの力関係は完全に逆転し、マヌエルは自分が「ギリシア人の皇帝」であることを黙って受け入れたのだ。
コンスタンティヌス1世の遷都からビザンティン帝国滅亡までの1000年間、ギリシアの首都も正教の首座もコンスタンティノポリスにあった。アテネのあるバルカン半島南端はギリシアの辺境で、その中心はアナトリア半島だった。
ビザンティン帝国ではギリシア語が公用語で、ひとびとは自分たちが古代ギリシアの後継者だと考えていたのだから、ヨーロッパ人が彼らのことを「ギリシア人」と呼ぶのは当たり前だ。だがそれにもかかわらず、そこは「ローマ帝国」で、支配者は「ローマ皇帝」だった。
ビザンティン帝国がギリシアだとわかって、ようやくいろんな謎が解けたのだ。
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