エチオピアとジャマイカを結ぶラスタファライの数奇な歴史

ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載していくことにします。

今回は2019年9月公開の記事です。(一部改変)

Loredana Sangiuliano/Shutterstock

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アディスアベバなどエチオピアの都市では、タクシーやトゥクトゥク(オート三輪タクシー)の車体や窓にボブ・マーリーのステッカーが貼ってあるのをよく見かける。

ボブ・マーリーはジャマイカが生んだミュージシャンで、1970年代のレゲエブームを牽引し、脳腫瘍のため1981年に若干36歳で世を去った。しかし、この不世出の大スターとエチオピアにどんな関係があるのだろうか。

今回はアメリカの音楽ジャーナリストで、ボブ・マーリーとも親交の厚かったスティーブ・デイヴィスの『レゲエ・ブラッドライン 第三世界ジャマイカ、その音楽、風土、文化、時代の変遷』(中江昌彦訳/クイックフォックス)にもとづいて、カリブ海に生まれた「ラスタファライ(ラスタファリ)」という宗教とレゲエミュージックの数奇な歴史について紹介したい。

「奴隷の子孫」である黒人をアフリカに帰還させる

マーカス・ガーヴェイは1887年、ジャマイカ北部の都市セント・アンに生まれた。ラスタファライの歴史は、この黒人運動家から語りはじめなくてならない。ちなみにそれから60年後の1945年、同じセント・アンでボブ・マーリーが生まれている。

15歳でジャマイカの首都キングストンに出たガーヴェイは、アフリカ帰還運動に大きな影響を受けた。

19世紀初頭からアメリカの黒人のあいだで、「たとえ奴隷制が廃止されても人種差別が激しいアメリカでは自由で幸福な人生は手に入らない」として、「故郷」であるアフリカに帰還すべきだという主張が唱えられるようになった。これがアフリカ帰還運動で、1816年に結成されたアメリカ植民協会(American Colonization Society)が西アフリカに「リベリア(Liberia/自由)」という植民地をつくって自由黒人を移住させた。

20世紀を迎える頃には、アフリカやアジアで反植民地主義の独立運動が勃興した。ガーヴェイが体験した「アフリカ帰還運動」はこの第二波で、アフリカをアフリカ人の手に取り戻して「黒人国家」を独立させ、そこに奴隷として全世界に散らばった黒人のディアスポラ(追放者)が帰還する夢が語られた。――ここからわかるようにアフリカ帰還運動は、「故郷」であるパレスチナにユダヤ人国家を建設するというシオニズム(シオン運動)の黒人ヴァージョンでもあった。

ガーヴェイは20歳のときに印刷所の工員のストライキを指導したのち、説教師、町の事業家としてキングストンの名士になっていく。その後、29歳でアメリカに渡ったガーヴェイは、1917年に全米黒人地位協会(UNIA)を創立、当初は会員の相互扶助を目的としていたが、第一次世界大戦後の民族自決の熱気のなかで、アフリカ帰還を通して黒人救済を目指すようになった。

ガーヴェイはニューヨークで『ニグロ・ワールド』という新聞を発行し、「ひとつの目的、ひとつの国家、ひとつの運命」を掲げた。「目的」とはアフリカに黒人の国家をつくることであり、すべての「奴隷の子孫」たちが故郷に帰還することだった。

UNIAは本部をニューヨークのハーレムに構え、アメリカ、カリブのみならずアフリカにまで支部を置き、一説によると600万人もの会員が集まった。ジャマイカ生まれの無名の黒人は、わずか数年でアメリカの黒人運動の立役者に成り上がったのだ。

アメリカ中でアフリカへの帰還を布教したガーヴェイは、訪れる町の黒人コミュニティから救世主のごとく歓迎された。それはまさに、「ガーヴェイ教」という新たな黒人宗教の誕生だった。

アメリカでもっとも力をもち、もっとも恐れられる黒人

マーカス・ガーヴェイは預言者であり、詐欺師だった。すくなくとも、異常な事業欲にとりつかれていたことはまちがいない。

1919年に「商業と産業を通じて世界の黒人をひとつのまとめる」ためにブラック・スター・ラインという船会社を設立したガーヴェイは、株主を黒人だけに限定し、黒人の誇りと救済を信じる信者たちに1株5ドルで株券を売って莫大な資金をかき集めた。政府やニューヨーク当局の圧力にもかかわらず、1隻の古い綿花運搬船を購入し、船名をフレデリック・ダグラスと改名して、1920年にニューヨークとジャマイカの交易を開始した。

同年、世界的規模のUNIA総会が開かれ、数千人のガーヴェイ教徒が色とりどりの服装でハーレムをパレードし、ニューヨーク中を驚かせた。マジソン・スクウェア・ガーデンで開かれた本会議にはアフリカの各部族長が正装で出席し、ガーヴェイは「我々は苦しめられた人民の子孫である。だが、我々は、もうこれ以上苦しまないことをここに決意する」と反植民地主義とアフリカ民族主義を宣言した。

この時期がガーヴェイの絶頂期で、ハーレムの煙草屋では顔写真を巻きつけたガーヴェイ葉巻が売られ、“ブラック・スター・ライン”というレイス・レコード(Race Record/黒人を対象とした黒人音楽のレーベル)まで登場し、ニューヨーク、シカゴ、セントルイスなどの黒人街ではUNIA讃歌「祖国エチオピア」が響き渡ったという。

UNIAは西アフリカのリベリアに黒人の居留地を設けようと試みたが、リベリア政府に拒絶された。しかしそのメッセージはケニアに伝わり、独立運動の主導者で初代首相にもなったジョモ・ケニヤッタのような若者のこころを強く打った。「いつの日かアフリカをアフリカ人の手に取り戻そう」という民族主義運動は、ガーヴェイの教えから生まれたものだ。

30代半ばにしてガーヴェイは、アメリカでもっとも力をもち、もっとも恐れられる黒人となった。1922年にはルイジアナのクー・クラックス・クラン(KKK)の幹部と面会し、アフリカ帰還に援助を求めている。アメリカを白人だけの共和国にしようとするKKKと、アメリカの黒人をアフリカに帰還させようとするUNIAは、政治的立場はまったく逆でも利害関係が一致していたのだ。

だが翌年、ずさんな経営によってブラック・スター・ラインが倒産すると、ガーヴェイは郵便詐欺と脱税で裁判にかけられてしまう。1925年に有罪を宣告されて連邦刑務所に送られたが、27年、大統領恩赦で刑期の短縮と引き換えにパナマに追放されることになった。

こうしてふたたびジャマイカに戻ったガーヴェイは故国でUNIAを復興し、布教活動を再開する。アメリカ黒人への影響力は失ったものの、説教壇から「1960年までにアフリカ帰還を達成し、黒人の新国家が誕生するであろう」と予言するガーヴェイにジャマイカの黒人たちは熱狂した。

ジャマイカのイギリス植民地政府がこうした黒人ナショナリズムを好むはずもなく、ガーヴェイは徐々に活動を制限され、最後にはイギリスに追放されて、1940年、アフリカの土をいちども踏むことなく53歳で肺炎のため他界した。

1927年のある日曜日、キングストンのとある教会でガーヴェイはこう予言した。

「アフリカを見よ。黒人の王が誕生するであろう。その時、解放の日がやってくるのだ」

「黒人の王」ハイレ・セラシエ

マーカス・ガーヴェイがアメリカから追放され、故国ジャマイカでアフリカへの帰還を説いていた1930年、東アフリカのエチオピアでザウディトゥ女帝の摂政をしていたマコンネン将軍が第111代皇帝に即位した。ソロモン王とシバの女王の血を引くと称する王の称号は「キング・オブ・キングス」「ロード・オブ・ローズ」「ユダヤ支族の獅子王陛下」「神の選民」というものだったが、一般には“三位一体”を意味する「ハイル・セラシエ」として知られている。ハイレ・セラシエ1世はエチオピア中部ショワ州のタファリ族の出身で、「ラス・タファリ(タファリ侯)」とも呼ばれていた。

エチオピア新皇帝の写真を新聞の一面で見たジャマイカのガーヴェイ信者たちは、これこそが予言された「黒人の王」だと沸き立った。こうしてキングストンの説教師のなかから、ハイレ・セラシエを生き神(ジャー/Jah)として崇める者が次々と現われた。ガーヴェイ教徒から「セラシエ信者」に乗り換えた彼らは、自らを“ラス・タファライ”“ラスタマン(ラスタ)”と名乗るようになった。

ガーヴェイがイギリスで客死した1940年、ラスタの説教師L.P.ハウエルがキングストン郊外の山奥に土地を確保し、1500人の信者を引き連れて移住した。ハウエルは自らをジャマイカにおけるセラシエの代理人と名乗り、数人の妻と“エチオピア戦士”と呼ばれる親衛隊に囲まれて暮らしていた。この原始コミューンの主な収入はマリファナの栽培で、これをラスタは「ガンジャ」と呼んだ。

ラスタのシンボルは赤、黄、緑のラスタカラーで、これはエチオピアの国旗だ。「忠実なる者は、刃を自らの頭にあてるべからず」という旧約聖書の教えに従い、初期の頃から、ラスタは髪と髭を伸ばしていた。東アフリカのマサイ族とソマリ族の兵士の写真を見たハウエルのラスタたちはその髪型を真似て、伸ばした髪を房に編んで垂らした。これがドレッドロックス(ドレッド)で、ラスタ独特のヘアスタイルになっていく。

1954年、警察がラスタのコミューンを急襲して閉鎖すると、これによって多くのラスタがキングストンへと逃亡し、ラスタ運動はさらなる広がりを見せていく。

ラスタを結びつけているのは、ハイレ・セラシエ1世(ラス・タファリ)が生き神であるということと、黒人の救済はアフリカ帰還によって達成されるという2つの信念だった。

ほとんどのラスタは菜食主義で、肉や魚介類は食べない。豚肉が禁忌とされているのは、ユダヤ教(旧約聖書)や初期のキリスト教に忠実だからだ。加工食品を使用せず、穀物や果物、根菜、野菜などのアイ・タル・フード(真実の食べ物、自然な食べ物)を好んだ。コカインやヘロインなどの化学物質は忌避したが、ガンジャ(マリファナ)は「自然」のものであり神(ジャー)と交流する秘薬と見なされた。

ラスタの世界観では、白人世界に奴隷として売られてきた黒人はバビロンに虜囚されたかつてのユダヤ人と同じだ。「バビロン」は植民地主義と白人文明のことで、悪の象徴とされた。迷えるイスラエルの民がいつかシオン(エルサレム)の地に帰り着くように、ラスタも自分たちのシオンであるアフリカに帰還するのだ。

1945年に生まれたボブ・マーリーは、キングストンのゲットーであるトレンチタウン(トタン屋根の町)で暮らしながら音楽に夢中になった。最初はピーター・トッシュ、バーニー・ウェイラーとともにR&Bのようなブラックミュージックをやっていたが、70年代に入る頃には独特のアップビートのレゲエを採り入れ、熱烈なラスタファライへと変わっていった。

王がジャマイカを訪れた日

1935年、ムッソリーニによってエチオピアを追われたハイレ・セラシエは、イギリスの後押しを受けて「ファシスト戦争」に勝ち、1941年に凱旋した。その頃には、自分がカリブの名も知れぬ島で「生き神」になっていることに気づいたようだ。

1950年代の終わり、いくつかのラスタの家族がエチオピアに渡り、ハイレ・セラシエが用意した荒れ地に移住した。数年後、教義上の対立が起こり、エチオピア政府は何人かのラスタをジャマイカに送還しなければならなくなった。その後、ラスタのエチオピア移住を検討する委員会で、ハイレ・セラシエは「エチオピアを救う最後の切り札と思っていたものは、税金も払わない、怠け者の麻薬常習者であった」と述べた。

1966年、セラシエはジャマイカの大物政治家の息子で、後に首相になるマイケル・マンリーの招待でジャマイカを公式訪問した。この一大イベントについては、『レゲエ・ブラッドライン』からそのまま引用しよう(適宜改行を加えた)。

1966年4月21日、キングストンのパリセイド空港に、何千ものラスタとドレッドが集まった。彼らはジャマイカ全島からやって来て、もう何週間もここで待ち続けているのである。

ラスタの伝説によれば、その朝、穏やかな雨のシャワーに祝福されながら、一羽の孤高の白鳩がラスタの上に飛んでくるはずだった。すると、夜明けの東空に一機のジェット機が現われた。

機体に描かれた聖ライオンがはっきり見えてくると、群衆の中から喝采が湧き起こる。やがて飛行機が停止すると、数千人のドレッドが、警察のガードを破って機体に殺到した。そして、聖なる翼の影の中に、数百人がひざまずき、聖杯に火をともした。聖杯、それは山羊の角でつくられた極彩色の水パイプで、中にはガンジャが詰まっていた。

飛行機の扉を開けて出てきたセラシエが見たものは、機体のまわりに群がり、ガンジャを吸い、彼の名を唱え続ける、1万ほどのドレッドの姿であった。そして彼の姿を認めたドレッドたちは、一斉にひれ伏した。セラシエは、さっと見渡すと、機内に消え、再び扉は閉められた。それから1時間、皇帝は外に出ることを拒んだ。

そこで、ドレッドたちは、政府の公式の歓迎団を追い払い、“儀式の生贄”とした。さらに、皇帝が歩むことになっていた赤い縦断(かつて、エリザベス女王の歓迎時に使用された)を、“植民地主義者のボロ布”として、剥がした。そして、ラスタの指導者、モーティマー・プラナーが、機体の扉まで進み出て、ようやく皇帝を説き伏せたのである。

再び、セラシエの姿を見たドレッドたちは、熱狂し、高らかに歌い始めた。そして、その歌声は、1日中続いたという。

あるラスタの長老が語る。「あの日は、本当に、解放の日だった。みんな、愛にあふれていた。聖なる翼の下に、仲間と座り込んで、マッチをすり、パイプに火をつけたんだ。あの日、みんなの聖霊は、聖なる時間を共有したのさ。恐れることは何もなかった。あの日は、ジャーの愛で、セラシエの威厳も恐ろしくはなかった。まったく至福の時だった」

ジャー(神)は生きている

1974年2月、エチオピアで軍による反乱が起こり、ハイレ・セラシエは実権を実務家に明け渡した。だが同年9月、改革が実を結ぶ前にメンギスツら若手将校を中心とするクーデターが起き、アディスアベバの宮殿内で拘束され翌75年に死去した(暗殺とされる)。

セラシエの死によってラスタは嘲笑され、神は死んだと皮肉られた。しかしラスタはその死を信用せず、以前と変わらぬ態度をつづけた。ボブ・マーリーの「Jah Live(神は生きている)」はこのときにつくられた。

ラスタファライは、黒人にとってのユートピア(アフリカ)への帰還を目指す“夢”だったのだから、ハイレ・セラシエが死んだとしてもジャーが生きているのは矛盾でもなんでもない。ラスタにとって致命的だったのは、アフリカから多くの黒人たちが欧米を目指して「脱出(エクソダス)」していることだろう。こうして“夢”が潰えると同時にレゲエは思想を失い、海辺のリゾートに流れるBGMになっていった。

ハイレ・セラシエの遺体は長らく行方不明だったが、メンギスツ政権崩壊後の1992年に旧宮殿敷地内から発掘され、現在はアディスアベバの至聖三者大聖堂内に棺が安置されている。

末端黒子型黒色腫(悪性黒色腫)という皮膚がんが全身に転移し、1981年に死去したボブ・マーリーの葬儀は生まれ故郷のジャマイカ、セント・アンで行なわれた。

葬儀場には、ギターを抱えたボブの大きな肖像画が、マーカス・ガーヴェイとハイレ・セラシエの引き伸ばしたセピア色の写真とともにステージに立てかけてあったという。

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