ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載していくことにします。
今回は2019年10月公開の記事です。(一部改変)
参考:「失われたアーク」を探すエピオピアへの旅(1)
「失われたアーク」を探すエピオピアへの旅(2)

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エチオピアを旅したことをきっかけに何回かにわけてこの魅力的な国について書いてきたが、最後に、エチオピアの興味深い宗教と歴史についてまとめておこう。
なお、以下の記述はアルヴァレス『エチオピア王国誌』( 池上岑夫訳/岩波書店)所収の長島信弘氏による「解説」および長島氏らによる「補注」、石原美奈子編『せめぎあう宗教と国家 エチオピア神々の相克と共生』(風響社)所収の石原氏による「国家を支える宗教―エチオピア正教会」「国家に抗う宗教―イスラーム」に拠っている。
エチオピアの歴史をつくってきたのは北部の「アクスム地方」と、エリトリア、ジブチの紅海沿岸部で、古来「アビシニア」と呼ばれていた。大地溝帯にあるエチオピア北部は標高2000メートルの高原地帯を形成しており、それが浸食によって深くえぐられたことで、台形上の孤立した平地がいくつも生まれた。この特異な地形がエチオピアを多言語、多民族国家にし、数奇な歴史をつくりだしたのだ。
エチオピアは古代地中海世界の一部
エチオピアの歴史は、建国伝説によれば紀元前10世紀まで遡ることができる。この頃、イスラエル王国のソロモン王と、エチオピアの女王マケダが出会い、エチオピア初代の王でソロモン王朝を創始するメネリク1世が生まれたとされるからだ。
考古学的史料によって確認できるのは紀元前4世紀の先アクスム期からだが、それ以前になんの文明もなかったということではない。東アフリカにはナイル川上流(現在のエジプトとスーダンのあいだ)にクシュ、アラビア半島南端にシバ(サバ)という古代国家が存在したことがわかっている。クシュ国は、メロエ(スーダンの首都ハルツームの北東)に残されたピラミッドが示すようにエジプト文明から強い影響を受けていた。
地図を見ればわかるが、エチオピア北部の高地アクスムはナイル川の源流にあたり、タカゼ川を北に下ればクシュ国のあるスーダン東部に達し、東に向かうと紅海とアラビア海をつなぐマンデブ海峡だ。紅海を渡るとアラビア半島南端のシバ国に至る。
とりわけ興味深いのはシバ国で、旧約聖書に「シバの女王」がソロモン王に会いにエルサレムを訪問する記述があるように、この一帯は紀元前10世紀にはユダヤ教が伝わっていたらしい。ユダヤ教は現在思われているようなユダヤ人=選民の宗教ではなく、積極的に布教されていたのだ。
エチオピア人の祖先については諸説あるものの、この頃にはアラビア半島南部のユダヤ教徒がマンデブ海峡を渡って冷涼なエチオピア高地に移住するようになり、そこで原住民(クシュ語系住民)と交わったと考えられている。この移住によって紀元前にはエチオピアにユダヤ教が伝わり、それとともに「シバの女王」伝説が換骨奪胎されて、「マケダ(エチオピアの「シバの女王」)」がソロモン王との間に子をもうけた」という建国神話になったのだろう。
ソロモンとマケダの子どもであるメネリク1世がエルサレムからモーゼの十戒の刻まれた石版を納めた聖櫃(アーク)を持ち出し、それがアクスムの教会にいまも保管されているという伝説は、イギリスのジャーナリスト、グラハム・ハンコックの『神の刻印』(田中真知訳/凱風社)で広く知られることになった。
エチオピアの最初の王国である「アクスム王国」は紀元前1世紀頃に成立し、ギリシア人の旅行家が1世紀後半に書いた『エリトリア海周航記』にその名がしるされている。興味深いのは、3世紀のものと思われるアクスム国の戦勝碑にゼウス、ポセイドン、アレースの名が見られることだ。これは初期のアクスムの王が、ギリシアの神々を信仰していたことを示している。
このようにエチオピアは、紀元前後には早くもユダヤ教(ヘブライズム)とギリシア文明(ヘレニズム)の強い影響を受けていた。エチオピアは「アフリカの国」と思われているが、紛れもなく古代地中海世界の一部だったのだ。
エチオピアのキリスト教軍がアラビア半島を襲った「象の年」
エチオピアの宗教史の重要な画期は、4世紀のエザナ王(在位325-350)の時代にキリスト教国になったことだ。
伝承によると、シリアから紅海を航行中の船が座礁し、生き残ったキリスト教徒の兄弟(アエデシウスとフルメンティウス)がアクスム国の宮廷に連れてこられた。2人は幼いエザナ王の教育係に任命され、王をキリスト教に改宗させるとともに、アクスムのキリスト教徒たちのために信仰の場を設けるなど布教に努めた。
その後、フルメンティウスはエジプトのアレクサンドリアに総主教アタナシウスを訪れ、エチオピアに司祭を派遣するよう要請した。アタナシウス総主教はその献身に感嘆し、フルメンティウスをアブナ・サラマの名で初代エチオピア大主教に叙任した。
この伝承がどこまで史実に一致するかは判然としないが、4世紀のアクスム王国は紅海への出口であるアドゥリス(現在のエリトリアのズラ)を貿易の拠点として繁栄し、宮廷にはギリシア人、エジプト人、シリア人が廷臣として仕えていた。当然のことながら、地中海の覇者となったローマ帝国でキリスト教が大きな影響力をもつようになったことも知っていただろう。だがこの「辺境の地」でエザナ王がキリスト教に改宗したのが、ローマ皇帝コンスタンティニスによるキリスト教の公認(313年)とほぼ同時というのはやはり驚くべきことだ。
こうした経緯から、エチオピアのキリスト教はエジプトのコプト教の強い影響を受けることになり、1950年代まで大主教はアレクサンドリアからエジプト人が叙任・派遣されるのが慣例になっていた。
エザナ王の時代に改宗を拒んだユダヤ教徒が「ファラシャ(ベタ・イスラエル)」と呼ばれるひとたちで、イスラエル建国によって大挙して「ユダヤ人の故郷」に帰還したため現在はエチオピア国内にはほとんど残っていない。エチオピア正教の古層にユダヤ教文化があることは、豚肉への禁忌、土曜日の安息、割礼など、旧約聖書の教えをこれまで頑なに守ってきたことからも明らかだ。
アラビア半島においてもユダヤ教の勢力は健在で、6世紀初頭、南部(現在のイエメン)のヒムヤル国ではユダヤ教に改宗した王がキリスト教徒を弾圧・虐殺したため、東ローマ帝国(ビザンティン)のユスティニヌアスはエチオピア王エラ・アスベハに討伐を要請した。
これを受けてアスベハ王は、ギリシア艦隊の助けを得て大軍を率いてアラビア半島に渡り、ヒムヤル国を打ち破って滅亡に追い込んだ。アクスム軍はこの勢い乗り、北方のアラブ部族を蹴散らし、象の群れを引き連れてメッカを襲った。これが570年で、奇しくもムハンマドが生まれた年であることから、クルアーンでは「象の年」と呼ばれている。
ムハンマドが生まれ育った頃のアラビア半島は、キリスト教とユダヤ教が拮抗する濃厚な宗教世界だった。ムハンマドは字が読めなかったが、隊商とともにシリアやアラビア半島各地を旅するうちにさまざまな宗教家と出会い、語らい、そしてある日、瞑想にふけっていたヒラー山で大天使ジブリール(ガブリエル)から啓示を受けることになる。
10世紀末のアクスム国で、バニ・ハムヤーという女王に率いられた部族が反乱を起こし、教会を破壊しキリスト教徒を虐殺しているという書簡がヌビア(スーダン北部)の王に送られている。
この異教徒の女王について定かなことはわかっていないが、ユダヤ教徒のファラシャ族だとも考えられている。4世紀にアクスムがキリスト教国になってからも、エチオピア国内のユダヤ教徒は強大な勢力を維持していたのかもしれない。
エルサレムには「黒いキリスト教徒」や「黒いユダヤ人」がいた
エザナ王のキリスト教への改宗に次いでエチオピア宗教史の大きな出来事は、5世紀末にシリアから「九聖人」が到着したことだ。これは451年のカルケドン公会議で、イエス・キリストの単性説が否定され、両性説が採用されたことに関係している。両性説はイエスに人性と神性を認める考え方で、単性説はイエスの人性が神性に吸収され単一の性になっているとする。
ローマ帝国は395年に東西に分裂したが、ローマ(カトリック)とビザンティン(正教)はともに両性説を採る一方で、シリア教会やコプト教会は単性説を支持した。カルケドン公会議で単性説が斥けられると、シリア教会の修道士たちはビザンティンの弾圧にさらされ、コプト教会の管轄下にあったエチオピアに亡命した。このとき分裂したキリスト教の宗派を「東方諸教会」と呼ぶ(まぎらわしいが、「東方教会」は正教のことだ)。
この「九聖人」たちが聖書をゲエズ語(エチオピアの古典語)に翻訳し、修道院や教会を建立するなど、現在のエチオピア正教の基礎をつくった。
7世紀に入るとアラビア半島でイスラームが興り、8世紀はじめにウマイヤ朝が紅海西岸(現在のエリトリア)を占領したことで、アクスム王国は海への出口を失ってしまった。だが急峻な崖によって分断された台地からなるエチオピア高地を攻略することは、イスラーム軍にも難しかった。
ムハンマドがアラブ人の多神教と対立した際、弾圧された信者の一部がエチオピアに逃れアクスム王の庇護を受けたことから、ハディースに「エチオピア人をこちらから先に攻撃してはならない」というムハンマドの言葉が残されている。そのため、地理的な近さにもかかわらずエチオピアは聖戦(ジハード)の対象から外されたとの説もある。
いずれにせよ、7世紀以降、アクスム王国は地中海世界との交流を絶たれることになった。エチオピアは「陸の孤島」となり、ヨーロッパ世界から忘れられていったのだ。
1099年に十字軍がエルサレムを占領すると、東方(インディアス)に「プレステ・ジョアン(プレスター・ジョン)」というキリスト教国が存在するとの伝説がヨーロッパに広まった。聖地エルサレムにはエチオピアのキリスト教徒も多く巡礼に訪れており、1160年にはのちにエチオピア王となるラリベラ王子がエルサレムに亡命しているから、このとき十字軍の騎士たちがエチオピアのことを知ったのは間違いない。「プレステ・ジョアン」については諸説あるが、十字軍時代のエチオピアの知識が針小棒大に拡大したというのがもっとも説得力がある。
イスラームは、ジズヤ(人頭税)を払うことでユダヤ教徒やキリスト教徒を受け入れた。1189年、エジプトとシリアの王であるサラディンがエルサレムを奪回すると、聖墳墓教会の一部をエチオピア正教に与えている。当時のエルサレムには、「黒いキリスト教徒」や「黒いユダヤ人(ファラシャ)」がたくさんいたのだ。
15世紀に大航海時代が始まると、ポルトガルが「プレステ・ジョアン」の国を求めてエチオピアに到達した。
その当時はオスマン帝国が紅海を支配しており、「左利きのグラン」として知られるイスラームの将軍の猛攻を受けたエチオピア(ソロモン王朝)の王はポルトガルに救援を求めた。それを受けて派遣されたのが、ヴァスコ・ダ・ガマの四男で若干25歳のクリストヴァン・ダ・ガマが率いる400名のポルトガル軍で、対するイスラーム軍は騎兵1500、歩兵5万、銃兵200という大軍だった。ポルトガル軍は善戦したものの、クリストヴァンは捉えられて首をはねられた。
敗残のポルトガル軍50名は、クリストヴァンの仇をとるためにエチオピア軍70名を加えた120名で士気の高い連合軍を編成し、油断しているグラン将軍に挑み敵将を倒した。この「奇跡の大逆転」によってイスラーム軍は撤退し、エチオピアの独立は守られたのだが、その後、ポルトガルとの関係は悪化していく。
ポルトガルの「征服」の目的は神の福音(カトリックの教義)を広めることで、さっそくイエズス会を送り込んで、「異端」のエチオピア正教を捨ててカトリックを国教にするよう圧力をかけた。
洗礼、割礼、祝日などの慣習をことごとく否定・弾圧された民衆が反乱を起こし、1632年、ファシラダス王はイエズス会士を放逐してヨーロッパとの関係を断絶し、首都をタナ湖北部のゴンダールに移した。世界遺産に登録されたゴンダールの壮大な王宮はこの「孤立」の時期につくられたものだ。
「陸の孤島」に保存されたキリスト教
エチオピアの特徴は、イスラームによって海への出口をふさがれたことで「陸の孤島」になり、6世紀以前の宗教文化が色濃く残っていることだ。ローマ時代のキリスト教がどのようなものか知りたいのなら、世俗化したカトリックではなくエチオピア正教を見た方がずっといい。これはユダヤ教も同じで、ファラシャはトーラー(モーゼ五書)を信奉するものの、4~5世紀に成立したタルムードをいっさい受容していない。
エチオピア教会は、キリスト教世界のなかでもっともきびしいとされる断食を義務づけており、その長さは平信徒が年間約180日、聖職者は250日にのぼる。毎週水曜日と金曜日は原則断食日で、それ以外に以下のものがある。なお、エチオピア歴は西暦の9月11日を正月とし、1カ月を30日とする12カ月と5日(閏年は6日)の計13カ月からなる。
・第1月と第2月:デブレ・クスクヮムの断食(40日)
・第3月と第4月:イエス生誕祭前の断食(43日)
・第5月:イエスの洗礼前日の断食(1日)
ニネヴェの断食(3日)
・第6月から第7月:四旬節の断食(55日)
・第7月から第11月:12使徒の断食(10~40日間)
・第12月と第13月:聖母被昇天の断食(15日)
エチオピア正教では、断食は1日1食で、肉類、卵、乳製品など動物性タンパク質は口にしない(魚については見解が分かれていたが、1993年に総主教によって公式に禁止された)。
とはいえ、こんなきびしい断食を1年じゅうやっていては生活できなくなってしまう。聖職者は前日の夜10時から断食に入り、午後3時に聖餐式に臨むまでなにひとつ口にしないが、一般信徒は動物性タンパク質を摂取しないだけの断食でもよしとされるようだ。
結婚式を教会で行なう典礼結婚は、夫婦いずれかが亡くならないかぎり解いてはならないとされ、離婚には破門宣告というきびしい罰則が科せられる。だがここにも抜け道があって、結婚の署名を役所で行なうことも認められている。
エチオピア正教には食物の禁忌があり、ゲエズ語で「父と子と聖霊の御名において」と唱えながら屠られた家畜(牛、ヒツジ、ヤギ、鶏)の肉しか食べてはならない。これに対してムスリムはアラビア語で「恵み深きアッラーの何おいて」と唱えながら屠らなければならないので、肉屋は別々に設けられている。食事が肉料理だとキリスト教徒とムスリムは同じ食卓を囲むことができず、キリスト教徒の結婚式にムスリムを招待する場合、ムスリムのための料理を別に用意する必要がある。
エチオピア正教ではイスラームと同様に豚肉を食べないが、カトリックやプロテスタントは豚肉を食べるし、断食の義務もない。そのため、同じキリスト教徒でも食事を別にすることがある。
こうした習慣のちがいを見ても、エチオピア正教がユダヤ教や古代キリスト教の影響を強く残していることがわかるだろう。
宗教多様性の国
エチオピア正教会は、国内に3万2537の教会、信徒3400万人、聖職者36万5000人を抱えるエチオピア最大の組織だ(2000年)。それに対してムスリム人口は2500万(2007年)と人口の34%に至っている。エチオピアとイスラームが結びつかないのは、ムスリムの多くがエリトリアやソマリアに近い紅海沿岸部や南部に暮らしていて、観光地が集まる北部に少ないからだろう。
エチオピアにおいては、正教が国教(支配者の宗教)で、イスラームは支配される者の宗教だった。民族的には、アクスム王朝を築いたティグレ族や、アクスム滅亡後に南進したアムハラ族が「支配民族」、アラビア半島から現在のソマリアに渡り、エチオピア南東部に入植したとされるガラ族(オロモ族)やソマリ族などが「被支配民族」ということになる。
エチオピアはしばしば「キリスト教徒とムスリムの融和・共存が実現している国」として賞揚されるが、その内実は複雑で、聖者崇拝とスーフィズムの伝統をもつ「穏健派」と、こうした慣習を「異端」とするイスラーム復興主義者(急進派)が対立している。
エチオピア政府は「キリスト教徒とムスリムの融和」を説く「アハバシ主義」を奨励・教宣し、それをアメリカや国際社会が後押ししている。これはエチオピアが、「アフリカの角」を席巻するイスラーム復興主義の防波堤役を任じてきたからだ。
「支配宗教」としてのエチオピア正教の地位を揺さぶるのはイスラームだけでなない。近年、アディスアベバなどの都市部では、若者を中心にプロテスタントへの改宗が進んでいるという。断食の義務に象徴されるように伝統的な正教は窮屈で、「グローバリズム」に馴染んだ若者にとっては、世俗的で開放的なプロテスタントの方がずっと「クール」なのだろう。
多言語・多民族国家であるエチオピアには、古代地中海世界の一部としてユダヤ教と原始キリスト教を受け容れ、エジプトのコプト教(東方諸教会)の影響下で発展し、7世紀以降は四方からイスラーム化の圧力を受け、大航海時代にはポルトガルがカトリック(イエズス会)を持ち込み、いまはプロテスタントの人口が増えている。
こうした「宗教多様性」もまた、この国の魅力を構成しているのだろう。
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