「失われたアーク」を探すエピオピアへの旅(2)

ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載していくことにします。

今回は2019年7月公開の「世界的ベストセラー『神の刻印』に書かれたアークの行方はどこまで正しいのか?」です。(一部改変)

参考:「失われたアーク」を探すエピオピアへの旅(1)

「失われたアーク」が安置されているとされるアクスムのシオンの聖マリア教会(Artush/Shutterstock)

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2019年6月22日、エチオピアでクーデター未遂事件が起きた。報道によれば、北西部アムハラ州の州都バハルダールで州首相と幹部2人が射殺され、次いで首都アディスアベバでは陸軍参謀総長が自宅で自らのボディードによって殺害された。アムハラ州では民族対立が深刻化しており、参謀総長はその対応を指揮していたという。

事件の詳細はまだ判明していないが、その背景にはアビィ・アハメド首相就任後の和解路線で、これまで刑務所に収監されていた民族運動のリーダーが釈放されたことがあるらしい。このクーデター未遂事件によって、エチオピア全土でインターネットが一時、使用できなくなった。

私は1カ月ほど前にエチオピアを旅行し、アディスアベバだけでなく、クーデターの舞台になったバハルダールも訪れている。もっとも、こんな事件が起きる予兆にはまったく気づかなかったが。

バハルダールは青ナイルの源流でもあるタナ湖に面し、近くにはファラシャ(流れ者)と呼ばれるエチオピアのユダヤ人共同体が点在していた。タナ湖には、ユダヤ教とキリスト教にとって計り知れない価値のある聖遺物が運び込まれたという伝承がある。それは、預言者モーゼがシナイ山で神から授かった十戒の石版を収めたアーク(聖櫃)だ。

「アークは原子力兵器」というトンデモ説

「失われたアーク」についてもっとも詳細に調べたのはイギリスのジャーナリスト、グラハム・ハンコックで、その成果は『神の刻印』( 田中真知訳/凱風社)にまとめられている。ハンコックはいうまでもなく、日本を含む世界中でベストセラーとなった『神々の指紋』( 大地舜訳/翔泳社)で有名だ。日本では刊行順が逆になったが、その3年前に書かれた『神の刻印』は、それまで『エコノミスト』誌東アフリカ特派員としてアフリカの援助問題などをテーマにしていたハンコックが、はじめて古代史に挑んだ記念すべき作品になる。

とはいえ、今回エチオピアを旅するまで、ハンコックの著作を読んだことはなかった。1万2000年以上前に地球上に高度な文明が存在し、その記憶(痕跡)からエジプトやアンデスなどの古代文明が生まれたという筋書きは知ってはいたものの、その真偽が私のような門外漢にわかるはずはなく、敬して遠ざけてきたのだ。

この「超古代文明」説は、『神の刻印』ですでにその萌芽が見られる。

旧約聖書によれば、アークには敵を一瞬して破壊してしまう凄まじい力があり、近づいた者に死を招く。だから純金の板で覆い、垂れ幕の奥の至聖所に安置し、ごく一部の者以外はそこに入らないようにしなければならない。

ここからハンコックは、モーゼは高位の魔術師であり、シナイ山頂にあるなんらかの特殊な鉱物をアークに納めたのではないかと考える。イスラエルの民を残して一人で山に登ったのは、不用意にその鉱物に近づくと生命が危険にさられるからだ。

山から降りたモーゼが見たのは、黄金の子牛にいけにえを捧げ、その前で踊ったり拝んだりする冒瀆の徒と化した群衆だった。旧約聖書によれば、怒りのあまりモーゼは神から授かった石版を打ち砕き、黄金の子牛を始末して偶像崇拝者3000人を処刑したあと、ふたたびシナイ山に登って第二の石版を携えて戻ってくる。

この有名な旧約聖書の記述を、ハンコックは筋が通らないと考える。いくら激怒したとしても、神から直接手渡された十戒の石版を打ち砕くなどということができるはずはないからだ。

だとしたら、モーゼが最初に持って帰った第一の石版は“不良品”で、それに気づいてもういちど山に登ったのではないだろうか。第二の石版とともにイスラエルの民の前に現われたモーゼは、「顔の肌が光を放っていた」と「出エジプト記」にはある。

ここから、「石版」とはじつはシナイ山に落ちた隕石のことで、それは強い放射能を帯びていたのではないか、とハンコックは推理する。だからこそモーゼの顔は光ったのであり、アークに不用意に近づく者は死にいたる病に倒れたのであり、ひとたびそれを敵に向ければ「大量破壊兵器」にもなったのだ。

高位の魔術師であったモーゼは、エジプトで放射能の扱い方を学んでいた。アレクサンドリアの図書館には、超古代文明が残したさまざまな知識が収蔵されていたからだ。シナイ山で「四〇日四〇夜」ヤハウェ(神)とともにいたというのは、その間、一人で「恐るべき機械」をつくっていたからなのだ……。

ここまで読んで、ほとんどのひとは「バカバカしい」と思っただろう。もしもアークが強力な放射能を帯びているのなら、それを敵に向ける前にイスラエルの民が先に死んでしまうはずだ。なぜなら彼らは、アークを担いで荒野を放浪していたのだから。

この荒唐無稽な話を先に紹介したのには理由がある。『神の刻印』でハンコックが開陳するさまざまな推理は、じつはアーク=原子力兵器説以外はかなり説得力があるのだ。これが(一部の)古代史専門家からハンコックが評価される理由になっている。

テンプル騎士団と「プレスター・ジョン」の伝説

十字軍の遠征によって、1099年から1187年までの88年間にわたってキリスト教徒の軍隊がエルサレムを占領した。この時期に高度なイスラーム文明に触れたことがルネッサンスにつながったことは、すでに多くの研究がある。

ハンコックが注目するのは、1119年(エルサレム占領から20年後)にテンプル騎士団の9人の騎士(全員がフランス貴族)がエルサレム入りし、かつてソロモン神殿のあった場所を占拠したことだ。その目的については詳らかにされていないが、ハンコックは、ソロモン神殿跡を独占的に発掘することで、テンプル騎士団はとてつもないものを発見しようとする野望に駆り立てられていたのではないかと考える。「とてつもないもの」とは、もちろんアークだ。

もうひとつ、あまり知られていないことだが、1160年にのちにエチオピア王となるラリベラ王が、エチオピア王で異母兄でもあるハルバイの迫害を逃れてエルサレムに政治亡命した。もちろん王子が一人でやってくるわけはなく、多数のエチオピア人キリスト教徒が随行しただろう。

より興味深いのは、それ以前にすでにエルサレムにはエチオピア人のキリスト教徒やユダヤ教徒の大きなコミュニティがあったにちがいないことだ(だからラリベラ王子はエルサレムに亡命した)。当然、聖地を“奪還”したヨーロッパの騎士たちは彼らと接触しただろう。

「プレスター・ジョン(プレステ・ジョアン)」はアジア・アフリカのどこかに存在する伝説のキリスト教国の国王で、大航海時代のヨーロッパ人のロマンをかきたてた。この伝説がヨーロッパに広まりはじめるのは1145年頃で、これはエルサレム占領からおよそ半世紀後だ。ヨーロッパ人がエルサレムではじめて黒い肌のキリスト教徒に出会ったことで「伝説」がつくられたと考えるのは理にかなっている(プレスター・ジョンの国は「インド」にあるとされたが、当時はヨーロッパと北アフリカ、中東以外の辺境はすべて「インド」と総称されていた)。

エチオピアのユダヤ教徒やキリスト教徒のあいだでは、アークはソロモン神殿から密かにエチオピアのアクスムに持ち出されたとされる。この時期にはすでにアーク伝説は成立していたから、ソロモン神殿跡を発掘していたテンプル騎士団も当然、この伝説を知ったにちがいない。

ここからハンコックは、神殿の地下をどれだけ掘ってもアークが見つからなかったとすれば(たぶんそうだろう)、テンプル騎士団の一部はアークを追ってエチオピアに向かったはずだと考える。

これはきわめて魅力的だし、説得力のある推理だ。それがテンプル騎士団かどうかは別として、「神」に取りつかれてはるばるエルサレムまで遠征した騎士が、謎のキリスト教国やアークの伝説を聞いて、「なるほど、面白い」と思っただけでなにもしないなどということは考えられない。

ラリベラ王は1185年にエチオピアに戻って王位につき、自らの名を冠したラリベラに「エルサレム」を創造しようとする。これが今日に残る石窟教会だが、その精巧な建築が可能になったのは亡命中にイスラームの高度な技術を習得したからだろう。

だがハンコックは、テンプル騎士団は技術者(建築家)集団で、ラリベラ王とともにエチオピアに渡り、教会建設に協力したのではないかという。残った騎士はヨーロッパに戻ってゴシック建築の教会をつくり、フランス王フィリップによる容赦のない弾圧のあとはスコットランドに逃れてフリーメーソンとなった。

このようにして、テンプル騎士団のアークの伝説はフリーメーソンへと語り継がれていく。19世紀にナイルの水源をたどったスコットランド人ジェイムズ・ブルースもメーソンで(これは事実)、その真の目的は失われたアークを見つけることだった……。

このあたりになると私には真偽は判別できないが、すべてを「陰謀史観」と一笑に付すことはできないだろう。

アスワンのユダヤ神殿

グラハム・ハンコックのもうひとつの大きな発見(といっても一部の考古学者には知られていた)は、エジプトのナイル川上流にあるアスワンの町に大きなユダヤ人コミュニティがあったことだ。

アスワンは1970年に完成した巨大なダム(アスワン・ハイ・ダム)で知られるが、かつてはサハラ以南のスパイス、香料、奴隷、金、象牙などと、エジプトの加工製品の交易の拠点としてにぎわっていた。

エレファンティネ島はエジプトから航行可能なナイル川の最南端で、ここから先は急流のため船を降りて歩くほかなかった。「エレファンティネ」の名は象から取られ、この島には古代エジプトの時代から象牙を中心とする取引所がつくられた。

エレファンティネ島にはローマ神殿の遺跡があるが、そこは紀元前7世紀から5世紀までユダヤ神殿だった。このことはエレファンティネ島とエルサレムのあいだのおびただしい文書のやり取りから明らかで、神殿のあった正確な場所や大きさもわかっており、そこで日常的に動物が生贄に捧げられていたことも、紀元前410年に破壊されたことも史実であることに疑いはない。

だがこれは、ユダヤ教を知る者にとっては信じがたいことだ。なぜならユダヤの戒律では、「外国の土地は不浄であるがゆえに、そこに主の神殿を建ててはならない」と定められているからだ。――そのためバビロンに捕囚されたユダヤ人も、主に祈りを捧げるだけで、神殿をつくって生贄を捧げることはなかった。

ヨシア王(紀元前640~609年)は、エルサレムの神殿以外の場所で供儀を行なうことをかたく禁じた。エレファンティネのユダヤ人がそれ以前に移住したと考えることはできるが、エルサレムと定期的に連絡をとっていたのだから、当然、供儀の禁止を知っていたはずだ。

それではなぜ、神への冒涜ともいえる供儀がエレファンティネ島のユダヤ神殿では堂々と行なわれていたのか。

それはこの島のユダヤ人が、自分たちが神(ヤハウェ)と共にあると確信していたからだろう。なぜなら、アークはソロモン神殿からエレファンティネ島のユダヤ神殿に移されていたからだ――というのがハンコックの推理だ。

この真偽ももちろん私には判断できないが、興味深いのは、古代世界にはエルサレムのほかに、アラビア半島南東(「シバの女王」で知られるサバ国)、エジプト(エレファンティネ島)、エチオピアに大きなユダヤ教のコミュニティがあったことだ。このうちエチオピアは歴史的にはもっとも新しいが、アラビア半島経由か、ナイル川を遡っておそらく紀元前3世紀ごろにユダヤ教が伝わった。

ユダヤ教はユダヤ人(選民)だけの宗教ではなく、のちのキリスト教と同様に布教されていた。だからこそエチオピア人が次々と改宗し、辺境の東アフリカにユダヤ世界が誕生したのだ。

ローマ帝国が北アフリカや紅海沿岸を支配下に置こうとしたとき、この一神教は大きな影響力をもっていた。だからこそローマ帝国はユダヤ教を弾圧したのだ。

アークはどのように失われたのか?

『神の刻印』のいちばんの読みどころは、ハンコックが旧約聖書の記述からアーク消失の経緯を特定していくところだ。

紀元前10世紀にソロモン王が神殿を建てたのは、至聖所にアークを納めるためだった。これを史実とするならば、それ以降のどこかでアークは失われたことになる。

ハンコックは、紀元前598年に新バビロニアのネブカドネザル(2世)がエルサレムを襲ったとき、至聖所にアークはなかったとする。なぜならこのとき、バビロニアの兵が神殿から略奪したものは詳細なリストになっており、至聖所の扉の蝶番まで外しているにもかかわらず、アークにはなにひとつ言及していないからだ。至聖所のなかはすでにがらんどうで、なにひとつ略奪できるものがなかった。

バビロン侵入の11年前にヨシア王が死去するが、紀元前640年に始まるこの治世でもアークは神殿になかった。当時の出来事を記録した「列王記」には、「(至聖所の外からは見えなかったが)それ=アークは今日までそこにある」というような奇妙な記述がいくつも出てくる。

なぜこのようなことをわざわざ書かなくてはならないのか。それは当時のイスラエルの民が「アークは神殿にないのではないか」と強く疑っていたからだとハンコックはいう。実際にアークが存在し、神官たちがその事実を知っているならば、わざわざ「存在する」ことを強調する必要はない。――この推理も理にかなっている。

だがその一方で、紀元前701年のアッシリアの侵攻に際して、ユダの王ヒゼキヤがアークに祈ったとする記述がある。これを史実とするならば、アークの消失はそこからヨシアの治世が始まるまでの60年間のどこかで起きたことになる。

こうしてハンコックは、「容疑者」をマナセ王(紀元前687~642年)に絞り込む。この「悪王」はユダヤ教を否定し、ソロモン神殿の至聖所に「木の彫像(異教の樹木神であるアシュラ像)」を安置して崇拝したとされる。ヨシア王の改革とは、マナセの時代の魔法や呪術を正しいユダヤの信仰に戻すことだった。

異教のアシュラ像が神殿の至聖所に置かれたとすれば、それはアークと共存できない。マナセ王に命じられたのか、ユダヤの神官たちが破壊を免れようとしたのかはわからないが、この時、アークは神殿から運び出された。

それでは、アークはいったいどこに避難したのか。それは、エルサレムに次いで大きなユダヤ人のコニュニティがあったアスワンのエレファンティネ島だ、ということになる。

この説が魅力的なのは、ソロモン神殿からのアークの消失と、それを受け容れた(であろう)エレファンティネ島のユダヤ神殿の建設が時期的にほぼ一致することだ。アスワンのユダヤ人たちは、アークが運び込まれて来たからこそ、ソロモン神殿とまったく同じ神殿を島につくりはじめたのだ。

アークの存在を確認できる人物

エレファンティネ島のユダヤ神殿は、紀元前410年に破壊されている。これは地元のエジプト人とのあいだで緊張が高まり、ユダヤ教徒の排斥運動が起きたからだとされている。

こうして大規模なユダヤ難民が発生した。彼らはナイル川を下ってエジプトの中心部(カイロ)に向かうか、南に上ってエチオピアの高地を目指すか、2つの選択肢しかなかった。

自分たちを弾圧したエジプトを避けようとすれば、必然的に、ユダヤ難民は大挙してナイル川を遡ったにちがいない。こうして難民たちは紀元前3世紀にエチオピアのタナ湖に到達し、その周辺にユダヤ人コミュニティをつくって「ファラシャ(流れ者)」と呼ばれるようになった。こう考えれば、エチオピアのユダヤ教の起源を明快に説明できる。

ハンコックはこのとき、ユダヤ難民はエレファンティネ島の神殿から持ち出したアークとともに移動したはずだとする。アークはいったんタナ湖の島のどこかに安置され、その後、アクスムにキリスト教国ができた際にその神殿に移されたのだ。

これもまた魅力的な推理だが、仮にエレファンティネ島の神殿にアークがあったとしても、それは神殿の破壊とともに失われてしまったのではないだろうか。それが現代までエチオピアにあるとすると、大きな疑問に突き当たるからだ。

アークは17世紀につくられたシオンのマリア教会に安置されていたが、1965年に新築された礼拝堂(新シオンのマリア教会)に移されたとされる。この移設を命じたのは1930年に即位したハイル・セラシエ1世で、ソロモン神殿からアークを持ち出したとされるメネリク(ソロモン王朝の創始者)の末裔を自認している。

アークは厳重に管理されており、番人の修道士以外何者も近づけない。年にいちど、1月19日に行なわれるティムカットの祭りで近くの池まで「渡御」するが、このとき使われるのはダミーで、本物のアークは礼拝所から出ないとハンコックはいう。

だがどれほど門外不出でも、ソロモン王朝の血をひくハイル・セラシエはアークの「所有者」なのだから、自ら建設させた礼拝堂に入ってその存在を確認できるはずだ。

伝説どおりアクスムにアークが存在するとしたら、それはハイル・セラシアエにとって、自らの正当性を示す最大の材料だ。

礼拝所に安置されているアークが聖書に書かれた外見や寸法と同じであれば、実物を公開しないまでも、写真などを発表して世界に知らしめることができただろう。アーク伝説はすべてのエチオピア人が信じているが、それ以外のユダヤ教徒やキリスト教徒からはできの悪い妄想の類として嘲笑されているのだから。

もしアークが実在する(すくなくともそれらしい証拠がある)としたら、これは世紀の大事件で、この聖遺物を守護するハイル・セラシエの威信はとてつもなく高まっただろう。

だったらなぜこんな簡単なことをしなかったのか。その理由はひとつしかないと、私は思う。

【後記】ヘブライ語聖書によれば紀元前10世紀にソロモン王がエルサレムに第一神殿を建設し、そこにアークを納めたとされるが、現在ではモーゼだけでなくソロモン王の実在が疑われている。詳しくは「旧約聖書に書かれた「ユダヤ人の起源」は、考古学的に正しいのか?」参照。

 

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