トランプのベネズエラ急襲作戦は「興行」だった(週刊プレイボーイ連載669)

新年早々、アメリカ軍の特殊部隊が南米ベネズエラの首都カラカスを急襲し、マドゥロ大統領を拘束するという予想外の事態が起きました。この作戦が国際法で正当化できるのか、トランプはベネズエラをどのように統治しようとしているのか(そもそも統治できるのか)など、論点は多岐にわたりますが、ここではなぜこのような作戦が実行されたのかについて考えてみたいと思います。

2025年に第二次トランプ政権が始動すると、テック長者のイーロン・マスクが鳴り物入りで「政府効率化省(DOGE)」を設立し、行政制度の効率化を目的に若手エンジニアなどを各省庁に送り込みましたが、一方的な職員の解雇などで混乱が広がり、ほとんど成果のないまま5月にマスクが辞任、11月には組織そのものが解体されました。

しかしこの結末は、最初からわかっていたともいえます。アメリカの行政システムが非効率なことは共和党・民主党問わず政治家はみな知っており、これまで「効率化」を試みながらも、すべて失敗してきたからです。

たとえばカリフォルニア州では、コロナ禍で失業保険システムが大混乱すると、政府サービスの向上を目指す市民テック団体のリーダーがタスクフォースの共同議長に選ばれました。失業保険は「被保険者が申請する→受理か却下が決まる→小切手が送付される」というシンプルな仕組みなので、シリコンバレーのエンジニア集団に任せればすぐに解決できると思われたのです。

ところが実際にやってみると、過去に採用された古い技術と、それを管理する細々とした規則が堆積層のようになっていて、一部のシステムをいじるとほかで不具合が生じ、かといって古いシステムをアップデートするにはすべてをつくり直さなければならず、意欲的な取り組みはたちまち頓挫してしまいました。

行政システムの「堆積物のカオス」に加え、アメリカのようなゆたかな社会では、「市民の権利」を守るために制定されたさまざまな法律によって、新規の住宅をつくったり、太陽光や風車のような再生エネルギー施設を建設しようとすると、すぐに「訴訟地獄」が起きてしまいます。市民はマイホームの価値を毀損するような政策には、それが地域社会にどれほどの利益をもたらそうとも頑強に反対するので、ロセンゼルスとサンフランシスコを結ぶわずか800キロの高速鉄道ですら何十年たっても実現しません。

2020年の大統領選でバイデンがトランプを下して政権を奪取したとき、民主党の指導者には4年間で目に見える成果を出さなくてはならないことがわかっており、インフレ抑制法(IRA)のような広範な影響を及ぼす法案を成立させました。ところが当初の目論見はほとんど実現せず、カマラ・ハリスは有権者にアピールできる実績がないまま選挙を戦うことを余儀なくされたのです。

就任直後は国内の改革を目指したトランプは、この現実を理解して早々にあきらめ、関税や移民問題のような国内の有権者の利害対立に巻き込まれにくい政策で話題づくりをするようになったのでしょう。だとすれば、中間選挙向けの「興行(見世物)」としてベネズエラやグリーンランドを標的にしたのは、きわめて理にかなっているのです。

エズラ・クライン、デレク・トンプソン『アバンダンス 「豊かな時代」を呼びさませ』土方奈美訳/NewsPicksパブリッシング

『週刊プレイボーイ』2026年1月19日発売号 禁・無断転載

ビザンティン帝国はギリシアだった

ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載していくことにします。

今回は2014年5月公開の記事です。(一部改変)

アヤソフィア DIA TV/Shutterstock

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私が高校で世界史を学んだ頃は、ヨーロッパ中世は暗黒の時代とされ、そのなかでもビザンティン帝国というのはよくわからないものの筆頭だった。

古代ローマ帝国は紀元1世紀から2世紀にかけて即位した5人の皇帝(五賢帝)の時代に最盛期を迎えたのち、混乱と分裂に陥る。これを収束させたのがコンスタンティヌス1世で、ササン朝ペルシアの侵略に備えるため330年に首都を東西交易の要衝だったビザンティウムに移すとともに、キリスト教を公認した。これがヨーロッパ史の古代と中世を分ける画期となった。

ローマ帝国の新首都ビザンティウムは、コンスタンティヌス1世の死後、コンスタンティノポリス(コンスタンティヌスの都)と改名されたが、その後も帝国の混乱はつづき、テオドシウス1世の死後、395年に東西に分裂することになる。

西ローマ帝国は4世紀後半から始まったゲルマン民族の大移動に耐えられずに476年に滅亡し、その領土からイギリス、フランス、ドイツ、スペイン、イタリアなど西ヨーロッパ諸国が生まれた。それに対して後世、ビザンティン帝国と呼ばれるようになった東ローマ帝国は、オスマン帝国の侵略に苦しんだあげく最後には領土がコンスタンティノポリスの城壁の中だけになり、1453年にメフメト2世率いる10万のオスマン軍に攻められ滅亡した。

最盛期のビザンティン帝国の領土は現在のトルコ(アナトリア半島)を中心に、バルカン半島から黒海周辺(ブルガリア、ルーマニア)、地中海東岸(シリア)まで広がっていたが、近代の成立とともに“世界の中心”となった西ヨーロッパに比べて影が薄く、第一次世界大戦の原因になるまで世界史の教科書にもほとんど登場しない。

「ギリシア正教」の首座はアテネではなくイスタンブール

「ビザンティン帝国って何だろう」と疑問に思ったのはギリシアの首都アテネを訪れたときだった。

西ローマ帝国(西ヨーロッパ)と東ローマ帝国(ビザンティン帝国)は、キリスト教を国教としながらも、カトリックと正教のいずれを正統とするかで分かれることはよく知られている。正教の代表はギリシア正教なのだから、アテネにはローマ(バチカン)のサン・ピエトロ大聖堂に匹敵する壮麗な教会があるにちがいないと思っていた。

アテネの街の中心にはたしかに正教の教会があったが、たまたま外壁の修復工事中ということもあって外観は思いのほかみすぼらしく、教会の壁にはイコン(聖像)が描かれステンドグラスが嵌められていたものの、サン・ピエトロ大聖堂の威容とは比ぶべくもなかった。

その後、トルコのイスタンブールを訪れて、自分がとんでもない勘違いをしていたことに気がついた。

イスタンブールのシンボル、ブルーモスク(スリタンアフメト・モスク)の隣にアヤソフィア博物館がある。ビザンティン建築の最高傑作とされる建物で、天井が巨大なドームになっており、漆喰や大理石の壁がはがれた部分からキリストのモザイク画が覗いている。

ここはもともとキリスト教の教会で、オスマン帝国時代にモスクとして使われていたため、壁に上塗りしてキリストのイコンを隠していたのだ。

イスタンブールはいうまでもなくコンスタンティノポリスのトルコ名で、ブルーモスクのある中心部はかつてはビザンティン帝国の宮殿が建ち並んでいた。その当時、アヤソフィア聖堂は正教の首座(カトリックにおけるバチカン)で、主教(同じくローマ教皇)はここにいたのだ。考えてみれば当たり前だけれど、正教はビザンティン帝国の国教なのだから、信仰の中心はコンスタンティノポリスだったのだ。

コンスタンティノポリスが陥落してビザンティン帝国が滅亡すると、首座を失った正教はロシアや東ヨーロッパ各地へと散っていく。

ロシアをモンゴルの支配(タタールのくびき)から解放したイヴァン3世(大帝)は、ビザンティン帝国の滅亡を見て「正教の正統はロシアの地に移された」と宣言した。それに対抗して、ギリシアもまたアテネの地を正教の首座にしようとしたのだろうか。

だが歴史を見れば、これもまた間違っていることがわかる。ギリシアがオスマン帝国の支配から逃れたのは1827年だから、それまでは堂々と正教を奉じることはできなかったのだ(オスマン帝国でもキリスト教徒であることは認められていた)。 続きを読む →

イラン旅行の思い出

ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載していくことにします。

テヘランで大規模な抗議デモが起きていると報道されていますが、2019年11月にイランを旅行したときの記事をアップします。このときもその直後に、抗議デモが起きたと報じられました。(一部改変。情報は当時のものです)

ステンドグラスが美しいマスジェデ・ナスィーロル・モスク(シラーズ)/ Alt-Invest.Com

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イランを旅したのは2019年の11月はじめで、その後、ガソリンの大幅値上げに抗議してテヘランなどで大規模なデモが起こり、100人超の死者が出ていると報道された。

そんなときに旅の感想など書いてどうするのかと思われるかもしれないが、長い歴史と伝統をもち、魅力的でかつ、さまざまなことを考えさせられるこの国の旅について、忘れないうちに気づいたことをまとめておきたい。今回の騒動が収まってからイラン旅行を考えているひとにも役に立つだろう。

旅の季節と服装

イランは日本の4.5倍の面積がある大きな国だが、観光地は古代ペルシア時代の遺跡やサファヴィー朝最盛期の建築群が残る南部に集中している。乾燥していて昼と夜の寒暖の差は大きいものの、11月でも日中は軽装でじゅうぶんだった。

イラン南部の夏はかなり暑く、旅行に最適なのは春と秋。今回の旅行も毎日快晴だったので10~11月もお勧めだが、イスラーム時代の美しい庭園を楽しむのなら5月がいいという。

イスラーム圏の旅行で注意しなければならないのがラマダン(断食)。この時期はほとんどの飲食店が日中は店を閉め、外国人や旅行者のために開けている店でも、飲食している姿が外から見えないように黒い布で窓を覆ってしまう。これでは地元で人気のレストランに行くこともできず、旅の楽しさが半減してしまうので、事前にその年のラマダン期間を確認したうえで、その時期を外したほうがいいだろう。

かくいう私も10連休を利用して5月初旬にイランに行こうと考え、ドバイまでの便を押さえてからラマダン(2019年は5月5日~6月3日)と重なることに気づいて、エチオピアとルワンダに目的地を変えた。

イランは「イスラーム共和国」で、服装に関してもクルアーン(コーラン)の教えに則っていることが求められる。

男性の場合はそれでも、ショートパンツ(短パン)を避ければいいくらいで、さしたる不都合はない。ガイドブックには長袖シャツを着用するようアドバイスするものもあるが、若者はごくふつうにTシャツを着ているから、襟のあるポロシャツや半袖シャツなら問題ない。

女性は外国人でも、外出の際はかならずヒジャブ(ヴェール)を着用しなければならず、なおかつ尻から太ももにかけてのラインを見せてはならない。

ヒジャブはもともと髪を隠すためのものだが、都市部では世俗化が進んでいて、若い女性では頭の後ろでピン止めしただけのスタイルもよく見かける(正面からだと、ヒジャブをしているかどうかわからない)。外国人女性も、スカーフで髪の毛を隠すくらいでじゅうぶんだろう。

ヒジャブよりもタブーがきついのが肌の露出とヒップのラインで、お洒落な若い女性たちも必ず長袖のシャツとジーンズ(スボン)姿で、長めのコートを羽織っていた。旅行中、半袖や膝上スカート姿の女性はいちども見なかった。コートではなく丈の長いカーデガンでも構わないが、腰回りは隠したほうがいいだろう。

ガイドブックでは、足首から下の肌の露出を避けるために靴下とスニーカーを勧めるものもあるが、ヨーロッパからの旅行者(フランスとイタリアが多い)は素足にサンダル姿もたくさんいた。ひと目で外国人とわかるのでうるさいことはいわれないと思うが、宗教施設を訪れるときは靴下を着用したほうがいいだろう。

自撮りをする女子大生たち。左の女性の鼻が白くなっているのはプチ整形(エスファハーン)/Alt-Invest.Com

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