マイクロクレジットの“奇跡の物語”と不都合な真実

ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載していくことにします。

今回は2017/11/23日公開の「RCTにより明らかになった マイクロクレジットの“奇跡の物語”と不都合な真実」です(一部改変)。

後編:ランダム化比較試験が明らかにしたマイクロクレジットの秘密

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政策を考えるうえでは、「誰がなにをしたのか?」ではなく、「どれくらいのひとがそれをするのか?」を知ることの方が重要なことがよくある。人間は弱い生き物だから、悪いことだと知りながらも、ルールを破って目の前の機会に飛びついてしまう。それを一切許さないとすると、ものすごく窮屈な社会(ファシズム管理国家)になってしまうだろう。

これが問題になるのは、たとえば生活保護の制度設計だ。

目の前で貧しいひとが餓死しかけているのに、それを放っておけばいいと主張するひとは(たぶん)いないだろう。しかしその一方で、「私は貧乏です」との自己申告でどんどんお金を配ればいい、というお人よしもそんなに多くないはずだ。

これが漏給と不正受給のトレードオフで、必要なひとすべてに生活保護を支給しようとすると、それを悪用する不正受給が増える。不正受給をゼロにするために手続きを厳しくすると、必要なひとが保護を受け取れなくなり漏給が増える。

だったら不正受給も漏給もゼロにするような完璧な制度をつくればいいと思うかもしれないが、個人の生活を国家が全面的に監視する『1984』のような未来社会が実現しないかぎりそんなことは不可能だ。ここで大事なのは、不愉快なトレードオフを受け入れたうえで、どのような制度設計をすればそれを最適化できるかを考えることだ。

こんなとき必要なのが、「誰がごまかしているか?」の犯人探しではなく、「どのくらいのひとがごまかすだろうか?」の正確な推計だ。

チョコバーを万引きする人数を正確に知る方法

あなたが雑貨屋のオーナーで、近所の100人のうち何人が店でチョコバーを万引きするかを知りたいとする(「誰が」万引き犯か、ではない)。もちろん、面と向かって「あなたは万引きしたことがありますか?」と訊ねても正直に答えてくれるはずはない。匿名のアンケートならうまくいくと思うかもしれないが、そうともいえない。回答者は「匿名」の約束など信じないかもしれないし、たんに自分の悪癖を認めたくないという理由でウソをつくかもしれないのだ。

しかしこの問題は、ちょっとした工夫で解決できる。まずは、次のような2種類のアンケートをつくってみよう。

【アンケートA】
1 私は近所のお店にすくなくとも週に一度は行きます。
2 私はチョコバーが大好きです。
3 私は少なくとも1週間に1個、チョコバーを食べます。

【アンケートB】
1 私は近所のお店にすくなくとも週に一度は行きます。
2 私はチョコバーが大好きです。
3 私は少なくとも1週間に1個、チョコバーを食べます。
4 私はお店でチョコバーを万引きしたことがあります。

次にあなたはこの2つのアンケートを、50人ずつに適当に(ランダム)に配り、「ここにある文章のうち、あてはまるのはいくつありますか?」と訊く。このとき、「どれがあてはまるか?」を訊かないのがポイントだ。

アンケートAの質問はなんでもないものばかりだから、渡されたひとは正直に答え、回答はゼロから3つまでに分かれるだろう。ところがアンケートBには、ひとつだけ不穏な質問が混じっている。「私はお店でチョコバーを万引きしたことがあります」だ。

もちろんここでも、万引き犯はやはり嘘をつくかもしれない。ほんとうは2、3、4の3つに当てはまるのに、2と3だけだとして「2つ」とこたえる、というように。

これだとやはりなんの役にも立たないように思えるだろう。しかしこのとき、彼の回答は「質問4」に影響されている。それに対してアンケートAの回答者は、たとえ万引き犯でも、この不穏な質問に影響を受けることはない。

アンケートAとアンケートBでは、最初の3つの質問はまったく同じだ。アンケートはランダムに配られたのだから、この3つの質問に当てはまるひとの数は(平均すると)差が出ないはずだ。それでも、アンケートAとアンケートBの結果にちがいがあるとするならば(ほとんど場合差が出る)、それはアンケートBの「質問4」すなわち「私はお店でチョコバーを万引きしたことがあります」が影響しているからにちがいない。

これを利用すると、個人のプライバシーに介入することなく、あるグループのひとたちの不都合な行動について、より正確な値を知ることができる。ちなみにアフリカ、ウガンダでの性行動の調査で、過去3カ月に浮気をしたことがあるか訊いたところ、直接の質問では13.3%が浮気を認めたが、浮気についての質問をアンケートに紛れ込ませる手法では17・4%と3割も多くなった。直接質問した結果を証拠(エビデンス)として巨額の税金を投入する制度設計をしたら、この誤差がとんでもない公費の無駄を生み出すだろう。

これがRCT(ランダム化対象実験)の手法で、もともとは新薬の効果を検証する際に用いられたが、現在では経済学を中心に社会科学でも広く使われ、「もっとも信頼度の高いエビデンス」とみなされている。

『貧困の終焉』VS『傲慢な援助』

中国やインドなど人口大国の経済成長によって、この10年間に最貧困の多くのひとたちが中間層の仲間入りを果たした。これは素晴らしいことだが、とはいえアフリカなどの地域では貧困問題はまだまだ深刻だ。ここまではすべてのひとが合意するだろうが、その貧困をどのように改善すべきかについてははげしい意見の対立がある。

開発経済学の“ロックスター”で、アイルランドのロックグループU2のボーカル、ボノの“師匠”でもあるジェフリー・サックスは、『貧困の終焉: 2025年までに世界を変える』 (野中邦子、 鈴木主税訳、ハヤカワ文庫NF) などで、援助プログラムへの先進国の支出はまったく不十分で、関与の度合いを大幅に強める必要があると主張した。ゆたかな国々が貧困削減のために拠出しているのは、平均してその富の1%にも満たないのだ。

それに対して、やはり大物経済学者のウィリアム・イースタリーは『傲慢な援助』( 小浜裕久、織井啓介、冨田陽子訳、東洋経済新報社) でサックスを徹底的に批判した。過去50年のあいだに世界のゆたかな国々は貧困削減のために2兆3000億ドルもの巨費を費やしたが、いまだに世界の半分が貧困で苦しんでいる。これは国連主導の(すなわちサックスが唱える)大規模な開発援助が根本的にまちがっているからだ。いまや「傲慢な援助」からすべて撤退して、現地生まれの小規模で小回りのきくプログラムに力を注ぐべきなのだ。

この争いは、サックスが鳴り物入りで始めた「ミレニアム・ビレッジ」計画(開発援助のテストケースとして、ケニアなどアフリカの貧しい村に大規模な投資を行なった)がほとんど成果をあげられなかったことから、いまではほぼ決着がついたようだ。現在ではサックスは、流行に敏感な“ロックスター”らしく、貧困から地球温暖化問題へと関心を移している。

参考:ジェフリー・サックスの「ミレニアム・ヴィレッジ・プロジェクト」はどうなったのか?

ところがここに、「RCTを使えば“開発援助は善か悪か”という神学論争を回避できる」と主張する経済学者が現われた。当たり前の話だが、援助は効果があることもあれば失敗することもある。だとすればその効果を正確に測定し、効果がない援助をやめ、効果がある援助を増やしていけば、すこしずつでも貧困は解決に向かうはずだ。

しかし、このようなやり方がほんとうにうまくいくのだろうか。そこでここでは、RCTを開発援助に導入した先駆者であるエステル・デュフロの『貧困と闘う知 教育、医療、金融、ガバナンス』(峯陽一、コザ・アリーン訳、みすず書房)と、MITでのデュフロの生徒であり、その後、貧困問題の解決のためにさまざまな斬新な調査を行なっているディーン・カーランと、彼が設立した非営利組織IPA(イノベーションズ・フォー・ポバティ・アクション)のスタッフ、ジェイコブ・アペルの共著『善意で貧困はなくせるのか? 貧乏人の行動経済学 』(澤田康幸、清川幸美訳、みすず書房)によりながらその成果を概観してみたい(ちなみに、チョコバーが万引される割合を探るRCTの例はこの本からとった)。

銀行が失敗して高利貸しが成功する理由

ノーベル平和賞を受賞したバングラデシュの経済学者ムハマド・ユヌスが生み出したマイクロクレジットの“奇跡の物語”はよく知られているが、その一方で、これほど毀誉褒貶のはげしい開発援助の手法もない。マイクロクレジットは、ほんとうに貧困問題の解決に効果があるのだろうか。

インドやバングラデシュでは1970年代まで、貧しい農村に支店を開設する公的銀行には補助金付き融資の提供が義務づけられていた。ところが貸し倒れがあいついだことで銀行は破綻寸前になり、政府はプログラムの失敗を認めてこの規定を廃止した。貧者1人あたりの消費を1ドル増やそうとすれば、銀行は3ドル支出しなければならなかったのだ。

「なにをやっても貧困は解決できない」との悲観論が大勢になるなかで、ムハマド・ユヌスは政府の説明に納得しなかった。農村部ではインフォーマルな融資がたいへんな活況を呈していたからだ。銀行が失敗して金貸しが成功するのは、なにか理由があるはずだ。

最貧困国での融資が難しいのは、経済学でいう「情報の非対称性」がとてつもなく大きいからだ。

まず、銀行はどういう相手にお金を貸せばいいのかわからない。次に、お金を貸したひとがちゃんと返済してくれるかどうかがわからない。最後に、返済が止まったとき、どうすれば融資を回収できるかもわからない。なぜなら、貧困国には信用履歴(クレジットスコア)も財務諸表もなく、住所表示すら覚束ないことも珍しくないからだ。当然、顧客には担保になるものもなく、仮に不動産を担保にとったとしても、登記制度が完備していないのでその土地の権利がほんとうにあるのかもわからない。すなわち、暗闇でお金をばらまくようなことになってしまうのだ。

インフォーマルな金貸しはどうやってこの困難な課題をクリアしているのだろうか。

ひとつは、知り合いのネットワークのなかで融資を行なうことだ。これなら、借金を何度も踏み倒してきた評判の悪い顧客を避けられる。

次に金利をきわめて高くして、毎週集金に行くことだ。高金利は事業のリスクが高いからで、毎週の集金は顧客に借金返済の習慣をつけさせるためだ。月1回の返済だと、その間に返済原資を別のことに使ってしまうかもしれない。

3つ目は、返済の約束を守らなければ家族・親族に肩代わりを求め、最後は暴力を使ってでも回収することだ。

この3つの要素があれば、貧困地域でもちゃんと金融ビジネスが成立する。

しかしここで、当然の疑問が湧いてくる。暴利で商売するためには、顧客がちゃんと返済をつづけられなければならない。しかし貧困地域で、そんな高利回りの商売ができるのだろうか。

ユヌスの発見は、それが可能だというものだった。

単純化した例では、雑貨商は1週間分の商品を仕入れるために金貸しから10%の金利で1000円を借り、それで1500円を売り上げる。1週間後に集金人に金利分の100円を返済し、ふたたび1000円で商品を仕入れる。この取引を繰り返せば、週10%(年利換算で9700%)というとてつもない高利を払っても毎週400円、月1600円の利益が手元に残る。貧困国のビジネスは、じつはものすごく高利回りなのだ。

もちろんこれは矛盾だ。だったら彼らはなぜもっとゆたかにならないのか。それは、高利回りの秘訣が事業規模がものすごく小さことにあるからだ。先ほどの雑貨商が事業を拡大しようと2000円借りても、やはり1500円分しか商品は売れず、借金を返せなくなってたちまち破綻してしまう。貧しいひとたちは、お互いにものすごく不利な条件で取引しているのだ。

だとしたら、インフォーマルな金貸しの手法を利用しつつ、ずっと有利な金利(たとえば年利30%)で少額を融資することで、ひとびとの生活を改善することができるのではないか。これがマイクロクレジットの基本的なアイデアだ。

女性たちの連帯責任を利用する

マイクロクレジットがインフォーマルな金貸しから学んだのは、高金利の少額融資と毎週の回収だ。だが集金人が顧客のところを回るのではなく、グループごとに集会場で返済を行なう。これがユヌスのイノベーションであり、もっとも賛否が分かれるところだが、マイクロクレジットはグループ制、すなわち連帯責任なのだ。

連帯責任のメソットは、経済学的には次のように説明できる。

グループは同じ村の女性たちなど、よく知っている者同士で組む。彼女たちはお互いの事情をわかっているので、信頼できる者だけをグループに加え、返済に不安のある者は排除するだろう。これによって銀行は、「誰に貸すべきか」という面倒な問題(逆選択)を解決できる。

そのうえでグループは、メンバーが借りたお金をちゃんとビジネスに使っているかをお互いに監視する。借りたお金でテレビを買ったりしたら、焦げついた融資は他のメンバーが肩代わりしなければならないのだ。これで銀行は、モラルハザードを監視する必要もなくなる。

さらに、返済が滞ったときにも連帯責任はちゃんと機能する。住所もない顧客のところに銀行員がたどり着くことは不可能だが、グループのメンバーなら相手の居場所を探すのは簡単だし、いざとなれば家族に返済を求めるだろう(そうでなければ、自分たちが損をすることになる)。

このように考えると、ユヌスのイノベーションがどのようなものかがわかる。マイクロクレジットは、本来、銀行や金貸しが行なうやっかいな業務の多くを顧客にアウトソースすることによって、ハイリスクな融資を(比較的)低利で行なっても事業を維持することができるのだ。

マイクロクレジットに対する批判は、主に2つだ。ひとつは、「低利」とはいってもその金利が年利30%から70~80%にもなること。メキシコで上場したマイクロファイナンス大手の「コンパルタモス」の金利は年73%で、これはユヌスの逆鱗に触れて「暴利」と批判された。

もうひとつは、事業の核である「連帯責任」だ。貧しいひとたちに対して、本人になんの責任もないにもかかわらず、他人の焦げ付きを弁済させてさらに貧しくするようなことが許されるのだろうか。

これはいずれも倫理的・道徳的な要素を含むから、感情的な対立になりやすい。マイクロファイナンスを称賛するひとはよい面(貧しいひとたちはみんな「起業家」だ)ばかりに目がいき、批判者は「暴利」と「連帯責任」だけを強調する、というように。

そこでカーランたちは、RCTを使って高利の貸し出しがほんとうに貧困層の役に立っているかを調べることにした。その方法は、南アフリカのクレジット会社の協力を得て、通常ならハイリスクとして融資を断れられるボーダーラインの申込者にランダムに融資を行なうことだ。これなら、それ以外の条件を同じにして、高利の融資を受けたひとと、受けられなかったひとのその後の生活を比較することができる。

マイクロクレジットは役に立っていたが……

結論からいうと、高利の融資はちゃんと役に立っていた。1年後には、ランダムに融資を受けた申請者の方が仕事を持ちつづけている率が相当高く、その結果収入も多かったのだ。借りた本人だけでなく家族全体も、ゆたかになった恩恵をより多く受けていた。世帯収入が多く、貧困ラインを下回る割合が少なかっただけでなく、調査への回答からは、おなかをすかせたまま眠りにつくことも少ないことがわかった。

このようなプラス効果がある理由も判明した。

ひとつは、融資のお金が交通関係の支出に充てられていたこと。故障したバイクを修理したり、バス代にすることで、時間どおりに職場に行って、雇用主からペナルティを受けることなくフルタイムで働くことができた。

もうひとつは、生活の苦しい農村部の親類への送金だ。家族のつながりが強い地域では、親や親族が困っていると住んでいるところを引き払って田舎に帰るしかなくなる。こうして都会での安定した仕事を棒に振ってしまうのだが、融資を受けたことでこのような“悲劇”を避けることができたのだ。

日本でもどこでも「高利貸し」は悪徳の代名詞だが、RCTの実証研究によれば、彼らは貧困解消に役立っているのだ。

しかしカーランたちの調査では、マイクロクレジットの“奇跡の物語”に水を差すような結果も明らかになった。融資を受けて事業を大きく拡大できたひとがいたのは確かだが、それはごく一部で、ほぼすべて男性だったのだ(スリランカでの研究では、対象となる男性の年間利益率は平均約80%で、女性はマイナスだった)。

ここから、マイクロクレジットがなぜうまくいくのかの謎を解き明かすことができる。

貧しい社会には、さまざまな制約によって、事業家としての才能をもちながらもそれを開花させることができないひとたちが一定数いる。そんなところに「低利」融資を行なうと、目端の利いた彼らは真っ先にその機会を利用して成功する。そのエピソードだけに注目すると、マイクロクレジットがまるで奇跡を起こしたかのように見えるのだ。

性差別や身分差別などの社会的要因から、どんな社会でも女性より男性の方が事業に成功する割合は高い。マイクロクレジットの融資はたしかに埋もれていた起業家を発掘したが、「すべての女性が起業家になる」という魔法を使えるわけではないのだ。

次回は、RCTを使ってマイクロクレジットの連帯責任がどのように評価できるかを見てみたい。

禁・無断転載

エロス資本のマネタイズが容易になるとなにが起きるか? 週刊プレイボーイ連載(589)

事実は小説より奇なり、という事件です。

2016年夏、大学3年生の女性はアルバイトの面接で、会社オーナーを名乗る40代半ばの男と出会います。男は「東大大学院卒」で「売上数十億円」の投資家と名乗り、ペットのペリカンの写真を見せられました。

男が主催するイベントに参加すると、集まった若い女性たちに、ゲームの景品としてエルメスのバッグを配っていました。女子大生は、男を「カリスマ資産家」だと信じ込んでしまいます。

大学を卒業し、看護師や保健師として働くようになると、男から株への投資を勧められ貯金など300万円を預けます。2020年には「一緒に事業をやらないか」と誘われて仕事を辞め、「会社の休憩室」と説明されたマンションに同居し、事業の初期費用として410万円を渡しました。

ところがその後、株で多額の損失が出て返済義務があると迫られ、パパ活を指示されます。当初はデートの見返りに数万円を受け取る程度でしたが、やがて奨学金やカードローンの返済などの名目で多額の金を借りるようになります。

裁判の被告人質問で女性は、「出会い系サイトに登録させられた。会う人の年齢やサイトでの会話の内容も男に指示され、『60代以上が好み』『長くお付き合いしてくれるとうれしい』とメッセージを送った」と証言しています。男からは「1日4人、計120万円」のノルマを課され、できないと怒鳴られたり殴られたりし、パパ活の収入はすべて男に渡していました。「お前が破産すれば、家族がみんなつかまる」などと脅され、家族との縁も切り、洗脳状態にあったようです。

この事件で驚くのは、この女性が3~4年のあいだに、高齢の男性15人から計1億5000万円をだましとったとして逮捕されたことです。

28歳の無職女性を新宿・大久保公園周辺で売春の客待ちをさせたとして、京都市在住の27歳の無職の男が逮捕された事件も同じような話です。女性はSNSで男と知り合い、「パパ活より稼げる」と売春をもちかけられ、路上で客待ちをするようになりました。男は約1年間で、売春で得た金のうち1500万円以上を受け取ったとみられています。

イギリスの社会学者キャサリン・ハキムは、若い女性の性的な魅力を「エロティック・キャピタル」と名づけました。ハキムは、自分のエロス資本を活用するのは女性の権利であり、「純愛」の名の下に(一夫一妻制で)男がそれを独占するのは性差別だと批判したのです。

ところがこれらの奇妙な事件からわかるのは、SNSの登場によって、いまや若い女性のエロス資本のマネタイズがきわめて容易になったことです。日本の大卒サラリーマンの生涯収入は、40年間働いて3億から4億円です。ところが28歳の「洗脳」された元看護士は、わずか3~4年のあいだにその半分ちかくを(しかも無税で)稼いでしまったのです。

いまは一部の男女の特異な事件と扱われていますが、この事実を多くの若い女性が知ったとき、いったいなにが起きるのか、想像すると恐ろしいものがあります。

参考:「パパ活詐欺「洗脳」の果てに」朝日新聞2023年12月15日(夕)
キャサリン・ハキム『エロティック・キャピタル すべてが手に入る自分磨き』田口未和訳、共同通信社

『週刊プレイボーイ』2024年1月15日発売号 禁・無断転載

「低技能の移民をもっと受け入れよ」と説くノーベル賞受賞経済学者の論理とは?

ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載していくことにします。

今回は2021年4月22日公開の「「移民は地域経済にプラス」「格差拡大はグローバリズムが原因ではない」常識を覆す「絶望を希望に変える」ノーベル賞受賞経済学者の理論とは?」です(一部改変)。

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アビジット・V・バナジーとエステル・デュフロは、インドやアフリカなど発展途上国を舞台に、RCT(ランダム化比較試験)を使って経済政策を検証する独創的な研究を行ない、2019年に夫婦そろってノーベル経済学賞を受賞した。バナジーはインド、コルカタ生まれで、アジアからはアマルティア・センに続いて2人目、デュフロはノーベル経済学史上最年少で、なおかつ2人目の女性受賞者になる。

そのバナジーとデュフロが2019年に刊行した『絶望を希望に変える経済学 社会の重大問題をどう解決するか』(村井章子訳、日本経済新聞出版)は、トランプ誕生後の混迷するアメリカ社会に経済学はなにができるのか、という困難な問いに答えようとしている。2人がこの本を書こうと決めたのは、「富裕国が直面している問題は、発展途上国で私たちが研究してきた問題と気味が悪いほどよく似ていることに気づいた」からだという。

原題は“Good Economics for Hard Times(困難な時代のためのよい経済学)”だが、邦題は本書のテーマをよく表わしている。とはいえ、「絶望を希望に変える」魔法のような処方箋があるのだろうか。

国境を開放しても移民が「洪水のように」押し寄せることはない

2017年初めにインターネットベースの市場調査会社が「以下の職業の人たちがそれぞれ自分の専門分野についての意見を述べた場合、あなたは誰の意見をいちばん信用しますか?」と訊いたところ、1位は看護師(84%)で最下位は政治家(5%)、経済学者は下から2番目の25%だった。

このかなり残念な結果に対して、正統派の経済学者である著者たちは、メディアによく登場する「エコノミスト」が根拠のない意見(ブードゥー経済学)をばらまくことや、平均的な経済学者が平均的なアメリカ人とかなりちがった見方をすること、経済学者の予想が当てずっぽうと同じくらいしか当たらないことなどを理由に挙げている。だが経済学の理論が市民から信用されないのは、日本での「リフレ論争」に見られたように、しばしば経済学者同士が真っ向から対立し、見苦しい罵詈雑言の応酬を繰り広げるからではないだろうか。

アメリカでは白人労働者階級が苦境に陥っているが、民主党(リベラル)はずっとそれを無視してきた。それに対してトランプは、メキシコからの移民と中国の不公正な貿易戦略、すなわち「グローバリズム」が諸悪の根源だと批判して彼らの熱狂的な支持を勝ち取り、大統領の座についた。

アフリカや南アジア、ラテンアメリカなどで貧困問題と取り組んできた著者たちは、白人労働者階級の貧困(経済格差の拡大)を現実として受け入れたうえで、トランプが主張する「移民/自由貿易元凶説」の検証が問題解決への第一歩だという。

「合理的経済人」を前提とする伝統的な経済学では、ひとびとはよりよい就業機会のある場所にシームレス(摩擦なし)に移動すると考える。だとすれば、アメリカと中南米の所得には大きな差があるのだから、国境に壁をつくらなければ不法移民が洪水にように押し寄せるにちがいない。トランプが語る「移民の恐怖」には、ひとびとを納得されるリアリティがある。

だが現実のデータを見ると、経済学が予想するほど移民の数は多くない。2015年と16年にヨーロッパに大量の難民が押し寄せたが、これはシリアの内戦が激化するなど中東が混乱したからで、2018年には難民認定申請者の数は63万8000人に減り、うち認定されたのは38%にとどまった。これはEU市民2500人当たり1人で、「洪水のように押し寄せる」とはとてもいえない。

アメリカ国内の移住でも同じことがいえる。工場が次々と閉鎖された中西部のラストベルト(錆びついた地域)では仕事がなくなる一方で、東部や西海岸は空前の好景気に沸き、レストラン業から配管工まで、低技能労働者にも賃金の高いさまざまな仕事が提供されている。だとしたらアメリカでは「移住の波」が起こるはずだが、現実には経済学の予想とは逆に、低所得層が富裕な州から貧しい州に移住し、地域格差がさらに拡大している。「国家間あるいは地域間の賃金格差は、人々が移民になる決意をするかどうかと実際にはほとんど関係がない」のだ。

どうやらほとんどのひとは、経済的な苦境に見舞われても住み慣れた土地を離れるのをためらうようだ。それはたんに、家族や近隣住民との「きずな」を大切にしているからではない。統計的にはいまよりゆたかになれるとしても、見ず知らずの土地で「自分が」成功できるとはかぎらない。人生を賭けた決断をするには、現地でビジネスをしている家族・親戚がいるなど、一定の条件がそろっている必要がある。

アメリカ国内でも、ニューヨークやサンフランシスコは極端に家賃が高く(その原因は自治体の景観・環境規制だ)、多少時給が上がったくらいではもとが取れないし、保育園に公的補助がなく、実家から離れると共働きができないなどの事情もあり、移住の機会を活用できないひとたちが膨大にいる。

貧しいひとたちは「不合理」ではなく、経済的に「合理的」な計算をしたうえで移民・移住を選択しない。それでもときに「移民の洪水」が起きるのは、戦争や内乱、ギャング組織の支配などで生存そのものが脅かされるからで、たんに「ちょっとゆたかな暮らしをしたい」くらいではいまの生活を捨てようとは思わないのだ。

低技能の移民には恩恵があり、高技能の移民は受入国の賃金を押し下げる

移民についてのさらなる誤解は、「低技能の労働者が大量に流入すると雇用が奪われる」だ。しかし現実には、「移民の流入で地域経済が活性化し、雇用が増える」というまったく逆の効果が観察されている。

なぜこんなことが起きるのかは、基本的な経済法則で説明できる。

経済移民は収入の多くを故国に送金するだろうが、それでも生きていくためには商品やサービスを購入しなくてはならない。収入を得て生活する人間が増えれば、それが低賃金であっても地域経済は活性化する。人口が減れば市場は縮小し、人口が増えれば市場が拡大するのだ。

「移民によって低技能の仕事をしていた国内労働者の雇用が失われる」は常識になっているが、これもデータでは「国内労働者の地位が上がり、収入が増える」ことを示している。移民一世は現地の言葉を話せず、雇用者が移民を活用しようと思えば、自国語話者の管理職的な労働者がどうしても必要になるのだ。

言葉が話せるかどうかは大きな能力差なので、移民一世が国内労働者のライバルになることはあり得ない。むしろ移民が増えると、「受入国の未熟練労働者は肉体労働からそれ以外のポストに昇格したり、コミュニケーション能力やより高度な技能を必要とする仕事に転職したりした」ことがわかった。移民は受入国労働者と競合せず、むしろ補完するのだ。

欧米でも日本でも、先進国は低技能移民を拒否し、高技能移民を積極的に受け入れようとしている。医師が不足している地域で外国人医師が働くようになれば地域のひとたちは多大な恩恵を受けるだろうが、雇用という面だけでいえば、高技能移民の方が受入国の賃金水準を押し下げる。

アメリカでは、高度な技能と資格を持つ外国人看護師が1人雇用されると、アメリカ人看護師の数が1~2人減ったという。同様に、高い学歴や資格をもつ移民は医師、エンジニア、大学教員などの雇用を「破壊」する可能性がある。

移民についての根強い誤解は、低技能を「能力がない」のと同一視することだ。そのため、「役に立たない移民が殺到したら大変なことになる」との不安が掻き立てられる。

だがヒトの本性は「移民しない」ことなのだから、それでも移民を決断したひとたちには、高いハードルを越えて海外で成功できると信じるなんらかの理由があるはずだ。彼ら/彼女たちは教育を受ける機会がなく、学歴も資格ももっていないかもしれないが、「平均的」な労働者ではなく、野心、忍耐力、体力、技能などなんらかの「並外れた能力」を備えたひとたちなのだ。

アメリカは「機会の国」で、誰でも刻苦勉励で成功できるとされているが、実際には北欧諸国はもちろん日本に比べても階層間の移動が少ない。すなわち、「ゆたかな家庭に生まれた子どもはゆたかに、貧しい家庭に生まれた子どもは貧乏になる」社会だ。それにもかかわらず移民出身の成功者が目立つのは、移民が平均的なアメリカ人より優秀だからで、だからこそ脅威と見なされるのかもしれない。――ちなみにドナルド・トランプもドイツからの移民三世だ。

だとしたらなぜ、先進国で失業が大きな社会問題になっているのか。その理由は、じつは機械化だと著者たちはいう。そしてこのことが、自国の労働者を保護しようと移民を締め出すことが、かえって労働者から雇用を奪うという皮肉な事態を生み出している。

収穫の時期に移民の季節労働者を受け入れていた農園主には、わざわざお金をかけて機械化を進める理由はない。ところが政府が移民の受け入れをやめると、自国の労働者を高い賃金で雇うのではなく機械化で対処しようとする(機械化しやすい作物に転換する)。その結果、既存労働者の賃金は増えず、機械化だけが進んで雇用市場が縮小する。

同様に、海外から国内に製造業の拠点を移しても機械化・ロボット化でコストを抑制しようとするため、労働者階級の雇用が拡大するわけではない。テスラの工場には「低技能労働者」がほとんどいないのを見ればこのことは明らかだろう。

事実(データ)を素直に解釈すれば、移民によって本人だけでなく受入国にも大きな恩恵が与えられる。だとしたら問題は、ゆたかになる機会があるにもかかわらず、ひとびとが移民・移住したがらないことだ。

こうしてバナジーとデュフロは、常識とはまったく逆に、いま必要なのは「移民を促進する経済政策」だという。経済学の原理どおりに、ひとびとがよりよい機会を求めて自由に移動することで、効率的でゆたかな社会が実現できるのだ。

格差拡大はグローバリズムではなく、グローバリズムの欠如によってもたらされた

伝統的な経済学では自由貿易は無条件によいものとされるが、トランプは自由貿易(グローバリズム)こそがアメリカの雇用を破壊したと批判した。だがこれをたんなる妄言と退けることはできないと著者たちはいう。

リカードの比較優位の理論では、相対的に豊富なものが有利になり、少ないものが不利になる。貧しい国は労働力が豊富で、ゆたかな国は資本が豊富だ。だとすれば、自由貿易で貧しい国の労働者の賃金は上昇し(ゆたかな国の労働者の賃金は下落し)、ゆたかな国の資本家の富は増える(貧しい国の資本家の富は減る)はずだ。

これがストルパー=サミュエルソン定理だが、現実には低~中所得国の低技能労働者の賃金は、自由貿易によって大きく伸びることはないし(高技能労働者や高学歴労働者の賃金は増えた)、資本家の富が減ることもなかった。

従来の経済学は、価格によってリソースがすみやかに再配分される効率的な市場を前提としているが、「合理的経済人」と同様にこの仮定には根拠がない。発展途上国では資本家が大きな権力をもっており、外資の進出(先進国からの資本投資)を拒絶できるため、「自由化」を阻止することで彼らの富は逆に増えていく。格差拡大はグローバリズムが引き起こしたのではなく、グローバリズム(自由化)の欠如によってもたらされたのだ。

自由貿易の理論では、先進国の消費者はより安い商品・サービスを「合理的」に選択することになっている。だがこの前提も、現実とはまったく異なる。

もちろん、まったく同じ品質の商品が安く手に入るなら、そちらの方がいいに決まっている。しかし先進国の小売業者や消費者には、発展途上国の聞いたこともない製造業者の商品の品質を正確に把握する方法がない。その商品に欠陥があった場合の損害を考えれば、多少高くても、実績のある「Made in China」でじゅうぶんなのだ。その中国では人件費が上がっているが、効率化によってコストを下げており、なんの「評判(ブランド)」もなく、たんに労働者の賃金が安いだけの国が競争力をもつことはない。こうして自由貿易が進んでも、世界の最貧国はあいかわらず貧しいままになる。

さらに近年では、マーケティング(ブランディング)が重要になり、最終価格に占める生産コストの比率は10~15%まで下がっている。これでは小売業者の側も、安定した取引先を変えてまで生産コストをわずかに下げるメリットはない。

こうした状況を考えると、「グローバル市場に打って出ることが平均的な貧困国にとってほんとうに未来につながる道なのか、疑問に感じざるを得ない」と著者たちはいう。

経済理論とは異なって、自由貿易が貧しい国に利益をもたらすわけではないとしたら、ゆたかな国への影響はどうなのだろうか。これについては、「国全体」と「地域(クラスター)」を分けて考える必要がある。

日本ではさまざまな産業がランダムに分布するのではなく、自動車からタオルまで同一産業が集まる「クラスター」を形成している。これはどこでも同じで、似た者同士が集まった方が効率がよくなるからだ。

しかしこのことは、その産業が衰退すると地域社会がまるごと消えてしまうという事態を引き起こす。産業集積がはっきりしているアメリカで起きたのがこれで、チャイナショックによって製造業など特定の地域クラスターが直撃を受け、失業率が大幅に上がった。失業したひとは節約するので、地域の経済活動全体が縮小するという悪循環にはまりこんでしまう。

経済学ではこの非効率は労働者の移動によって解消されるはずだが、実際には労働者は移動せず、雇用の場を失ったひとたちが地元に吹き溜まり、福祉に頼るようになった。アメリカでは自由貿易で職を失った労働者の10人に1人が障害年金の受給申請をしているが、いったん障害年金に依存してしまうと労働市場に戻るのは困難で、仕事ばかりか尊厳まで失うことになる。このやり方は、「まるで彼らを侮辱するための制度設計」だ。

ラストベルトは自由貿易(チャイナショック)によって生み出された「敗者のクラスター」で、トランプの主張はここまでは正しい。間違っているのはそれを関税の引き上げによって解決しようとすることで、これまで中国への輸出によって利益を得ていた農村地帯のひとたちが報復関税によって職を失う可能性が高い。

アメリカのような規模の大きな経済は貿易にさほど依存していないため、中国と「経済戦争」を始めても全体として好調を維持できるかもしれない。しかし、製造業や鉄鋼業の一部の労働者を救う代償として、農業関連の100万人ちかいひとびとを犠牲にするような経済政策はとうてい正当化できないと著者たちはいう。

ラッダイトの主張には経済史的な根拠がある

欧米先進国を中心にいま起きている社会的混乱は、移民の流入や自由貿易(グローバル化)が引き起こしているのではなく、知識社会化(テクノロジーの発展)の影響だ。その破壊力は、18世紀の産業革命で紡績産業などの職人仕事があらかた姿を消した時代に匹敵する。

もちろん経済史が明らかにしているように、テクノロジーの発展は長期的にはすべてのひとをゆたかにした。雇用を守るために紡績機械などを破壊したラッダイトは、いまでは「頑迷固陋」の代名詞になっている。

だがより詳細に歴史を見れば、ラッダイトがまったく間違っていたわけではないことがわかる。産業革命によってイギリスのブルーカラーの賃金は、1755~1802年におよそ半分になり、もとの水準を回復したのは1820年だった。新しいテクノロジーによるゆたかさの実現まで、65年(3世代)を要したことになる。それに対して「現在の自動化の波はおおむね1990年に始まっており、私たちはまだ25年ほどの経過しか目にしていない」のだ。

AI(人工知能)などによるテクノロジーの影響が産業革命と同程度のものだとしても、その恩恵を実感できるようになるまであと40年、2世代かかることになる。いま20歳の若者に孫ができる頃で、40歳以上は生涯ずっと貧しいままだ。わたしたちはそんな未来に耐えられるだろうか。

産業ロボットの普及度と賃金・雇用水準の変化を比較した研究では、ロボットの普及度が高い地域では、ロボット1台につき雇用が6.2人減り、賃金も下がっていた。とりわけ、「高卒以下で定型的な肉体労働に従事している人」がもっとも打撃を受けた。このことは、アメリカ社会が大卒(高学歴)と非大卒(低学歴)で分断される「絶望死」とも整合的だ。

自動化が進む理由のひとつは、アメリカでは年金・健康保険などを企業が代替しているため、人間を雇うと雇用主は給与税(社会保険料)を支払わなければならないからだ。ロボットには年金も健康保険も必要ないし、そればかりか投資額を減価償却して節税することもできる(ロボットの導入で融資を受けた場合は、利払い分も経費にできる)。これほど大きな魅力があれば、ロボット化の潮流を押しとどめるのは難しいだろう。

この事態に対して政府に何ができるのだろうか。伝統的な解決策は解雇を困難にすることだが、インドやフランスなど正社員の解雇がきわめて困難な国では、経営者はトラブルを警戒して雇用を抑えようとする。これでは失業を深刻化させるだけだ。――日本では非正規社員が急激に増えたが、これも正社員の解雇が困難なためだろう。

そこでビル・ゲイツなどはロボット税導入を唱えており、欧州議会は2017年に導入を検討したものの、イノベーションを阻害するとして否決された。これについて著者たちは、ロボットは機械に埋め込まれており、その機械には人間のオペレーターがついているのだから、どこまでが機械で、どこからがロボットなのかの線引きは困難で、市場経済をますます歪めることになると批判的だ。

それに対して欧米で熱心に議論されている富裕税については、最高税率が70%以上になれば取締役会はCEOに天文学的な報酬を払うことは無駄だと考え、税引き後だけでなく税引き前の所得格差も縮小させる効果があるという。

富裕税については「成功に対する懲罰」との批判があるが、アメリカのメジャーリーグで導入された贅沢税(選手の年棒が一定額を超えた球団は超過分の22.5%の課徴金を支払わなければならない)や、プロフットボール(NFL)やバスケットボール(NBA)のサラリーキャップ制(チームが支払う年棒総額に限度額が設けられている)を見ても、年棒が抑えられた選手が無気力なプレイをするようなことはない。富の限界効用は逓減するので、スター選手は年棒のためではなく、より大きな評判のために真剣にプレイするのだ。

とはいえ、いま起きている社会問題は税制(所得の再分配)だけで解決できるようなものではない。「格差の拡大はもっと根の深い現象であって、税による機械的な再分配では埋められない」のだ。

それでも「絶望を希望に変える」経済政策とは

ノルウェーでは他人の納税記録を閲覧できるが、紙ベースで手続きが面倒だった。それが2001年にオンラインに移行し、クリックひとつで隣人や同僚の納税記録が閲覧できるようになったことで「覗き見」が大流行した(現在は匿名検索ができず、自分の記録を誰が閲覧したかを調べられるようになっている)。

この時期に行なわれた社会調査では、所得分布における自分の位置がはっきりわかるようになると、「貧しい人はますます不幸に、幸福な人はますます幸福に感じる」ことが示された。

これが他人事ではないのは、SNSによってわたしたち全員がノルウェーに近い状況に置かれてしまったからだ。友人・知人の生活が画像付きで日常的にアップされたなら、それを知らずにいることは不可能だろう。

こうして自分が「下級国民」だと気づいたひとたちは、「社会が与えてくれた(はずの)チャンスをものにできなかった自分を責めるか、自分の仕事を横取りした誰かを責めるか」どちらかになる。前者が「絶望」、後者は「怒り」だ。

だったらどうすればいいのか? 市場の失敗には政府が介入するしかないが、これによって必然的に腐敗の余地が生じる。それを防ぐには測定(根拠)と透明性が必要だが、「測りすぎ」によってさらなる混乱を招く事態があちこちで起きている。

それならいっそのこと、すべての国民に一律にお金を配ってしまったらどうだろう。これなら貧困を劇的に減らせるし、役人の裁量の余地もなくなる。これがユニバーサル・ベーシック・インカム(UBI)だ。

著者たちは、補充的栄養支援プログラム(フードスタンプ)のような条件付き給付よりも、無条件の現金給付の方が効率的だし、それによって怠け者になることもないという。アメリカのチェロキー族居留地ではカジノの収益を配当しているが、資格のある世帯とない世帯を比較したところ、労働に影響はなかったが、配当をもらった世帯では思春期の子どもの教育によい影響があった。

とはいえ、UBIは社会保障制度のインフラがない貧困国では有効かもしれないが(これを「ユニバーサル・ウルトラ・ベーシックインカム」と呼ぶ)、欧米や日本のような先進国ではあまり役に立たないというのが著者たちの立場だ。なぜなら、「自分を中流階級とみなしていた人々が慣れ親しんだ仕事がもたらす自尊心を失ってしまった」ことが富裕な国の真の問題だからで、これはUBIでは解決できない。

先進諸国に必要とされているのは、「負け組を特定して埋め合わせる」ような支援策だ。就学前教育や若年層への職業再訓練に一定の有効性があるとしても、こうした方策では「絶望死」する中高年の労働者層を救うことはできない。そこで、「特定地域の特定産業が著しく衰退した場合にかぎり、50歳または55歳以上で勤続年数10年(または8年または12年)以上の労働者に限定して」補助金を出すことを提言している。

もちろんこのような「不平等」な福祉政策は線引きをめぐって議論が紛糾するだろうし、不正受給をめぐる混乱も避けられないだろう。著者たちもそのことをわかっているが、それにもかかわらず、こうした“過激”な提言をしなければ改善のしようがないほど深刻な問題を知識社会が生み出しているということなのだろう。

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