ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載していくことにします。
今回は2014年5月公開の記事です。(一部改変)

******************************************************************************************
前回は、キリスト教の歴史にローマ(カトリック)史観とは別に、コンスタンティノポリスからモスクワに至るビザンティン史観があることを書いた。
参考:「キリスト教の中心はバチカンではなくモスクワ」という歴史観
わたしたちは無意識のうちに、キリスト教を欧米(アメリカと西ヨーロッパ)の宗教だと考えている。カトリックにしても、わたしたちが思い浮かべるのは中世のそれではなく、ルネサンス以降のキリスト教だ。
しかしヨーロッパの東にはもうひとつのキリスト教がある。それが正教(オルソドックス)だ。これがギリシア正教とも呼ばれるのは、信仰の中心であった東ローマ=ビザンティン帝国が「ギリシア人の国」だったからだ。
それでは、正教とはどのような宗教なのだろうか。もちろん私は宗教の専門家ではないから、ここでは日本で数少ない正教の司祭であり、『ギリシャ正教』(講談社学術文庫)などの本で啓蒙活動を行なっている高橋保行氏の著作からその特徴をいくつか紹介してみたい。
そもそもなぜ「正教」なのか?
ギリシア語の「オルソドックス」は「オルソス(正しい)」と「ドクサ」からなり、ドクサには「教え(意見、主張)」のほかに「神を賛美する」という意味がある。オルソドックスとは「神の正しい教え」であるとともに、「正しく神を賛美する」教会を表わしている。伝統的(オーソドック)とは、この「正しさ」を保守し後世に伝えていくことだ。
こうした考え方が出てきたのは、当然のことながら、キリスト教のなかに「正しくない」教えが現われ、それが影響力を増してきたからだ。これらの異端に危機感を抱いた教会は各地の代表者を集め、正しい教えを定める「公会議」を開いた。
第1回のニケヤ公会議(325年)ではイエスが神(創造者)なのか人(被造者)なのかが争われ、イエスを被造者のなかの最高の存在だとしたアリウス派が異端とされた。第2回のコンスタンティノポリス公会議(381年)では、これを受けて「父」「子」「聖神(精霊)」の「至聖三者(三位一体)」のキリスト教の神概念が確立した(用語は正教で使われるもの)。
第3回のエフェソス公会議では、コンスタンティノポリス総主教のネストリウスと、アレクサンドリア総主教のキリルが、イエスのなかの「神性」と「人性」をめぐって論争した。ネストリウスはイエスに「神」と「人」という別個のものが同居していると主張したが、公会議はこれを異端として、イエスは神であると同時に人であり、完全に二つのものが一体であるとした。
ところがそうなると、イエスの内面がどうなるのかが問題になる。これについてコンスタンティノープルの修道院長ユティカスは、「ひとつの身体のなかに神の性質と人の性質があるのは矛盾だから、人間性は神の性質に飲み込まれ融合した」という単性(質)論を唱えた。第4回から第6回までの公会議は単性主義と、その余波としての単意主義(性質がひとつなら意志もひとつ)をめぐる教義論争で、公会議はこれも異端と見なし、イエスには全き人としての意志と全き神としての意志が矛盾なく存在するとした。
聖書が偶像崇拝を禁じていることはよく知られているが、熱心なクリスチャンだったビザンティン帝国皇帝レオ3世は726年、その教えを理由にイコンを禁止した。イコンに祈ることはキリスト教徒の宗教生活に根づいていたから、これは大問題だった。第7回の第2ニケヤ公会議(787年)ではこの難問が討議され、「クリスチャンはイコンに描かれている者に祈るのであり、イコンを崇拝するのではない」というかなり苦しい理屈でイコンが容認された。
カトリックが第21回の第2バチカン公会議(1962~65年)まですべての公会議を認めているのに対し、正教は第7回の公会議までを正統とする(これが全地公会議で、それ以降はカトリックの地方会議)。
第8回の第4コンスタンティノポリス公会議(869年)は、学者からコンスタンティノポリス総主教となったフォティオス1世の罷免をめぐるビザンティン帝国の内紛にローマ教皇が介入して紛糾し、1054年にはローマ教皇とコンスタンティノポリス総主教が互いを破門して東西教会は分裂した。
もっともローマ教皇には政治的/軍事的実力がなく、神政一体のビザンティン帝国もイスラームからの圧迫にさらされるなかでは互いに争う余裕はなく、7回の全地公会議で定めた「キリスト教の真髄」を共有しているという危うい安定が続いた。
東西教会の分裂よりも決定的な影響を与えたのが第4回十字軍(1202~04年)で、ローマ教皇インノケンティウス3世の呼びかけに応じたフランス諸侯とヴェネティアはビザンティン帝国の皇位争いに加わってコンスタンティノポリスを攻撃し、約束した金品が支払われないと略奪・暴行のかぎりをつくした。これによって東(オリエント)と西(カトリック)の関係は悪化し、東西世界の不信と対立は現在まで続く。 続きを読む →
