「自分らしく生きたい」という願いがSNSを生み出した

ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載していくことにします。

今回は2021年11月18日公開の「フェイスブックのようなSNSによる 「アテンション・エコノミー」に対抗する方法とは?」です(一部改変)。

metamorworks/Shutterstock

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「寝そべっているのはいいことだ、寝そべっているのは素晴らしい、寝そべるのは正しい、寝そべっていれば倒れることもない」

2021年6月、中国でジャン・シンミンという36歳の男性がソファに寝転び、ギターを爪弾きながら歌う動画が大評判になったあと、当局により削除された 。

それに先立つ同年4月、大手ポータルサイトの掲示板に「食事は1日2回でいいし、働くのは1年に1~2カ月でいい」「“寝そべり”はまさに賢者の運動。“寝そべり”だけが万物の尺度だ」とする「“寝そべり”は正義だ」という文章がアップされ、SNSを通じて急速に広がった。彼らは“躺平族(寝そべり族)”と呼ばれる。

世界的に、若者は何もしなくなっているのか。そんな興味で手に取ったのがジェニー・オデルの『何もしない』(ハヤカワ文庫NF)だ。著者は現代美術のアーティストで、「バードウォッチング、スクリーンショットの収集、おかしな電子商取引の解析など「観察」をともなう作品」を発表しているという(スタンフォード大学の講師でもある)。

オデルは白人の父とフィリピンからの移民の母のあいだに生まれ、両親は2人ともアップルに勤めている。そのため、アップル本社のあるシリコンバレーのクパチーノ(全米でもっとも平均所得が高く、もっとも地価の高い地域)で生まれ育った(現在はサンフランシスコ郊外のオークランド在住)。

この本は、オバマ元大統領が年間ベストブックの1冊に挙げたことで話題になった。オデルは「寝そべって」過ごすことを勧めているわけではない。結論からいうと、2016年のトランプ大統領誕生に際し、(めぐまれた)若いリベラルがどのようなことを考えたかの記録として興味深かった。

原題は“How To Do Nothing: Resisting the Attention Economy(何もしない方法 アテンション・エコノミーに抵抗する)”。アテンション・エコノミー(注意経済)は、消費者にモノを買わせるのではなく、ひとびとの「注意」を奪いあってマネタイズする資本主義のことだ。

SNSから「取り残される恐怖」

ドナルド・トランプがアメリカ大統領になるという衝撃的な出来事のあと、オデルは自宅ちかくにある「ローズガーデン」という公園に行き、そこで何もせずに鳥のさえずりに耳を傾けた。

選挙期間中、オデルを翻弄していたのは、ピザゲート、ドキシング、スワッティングなどの異常な出来事だった。

ピザゲートは、「ヒラリー陣営の関係者が、ワシントンD.C.にあるピザ店を拠点に人身売買や幼児虐待を行なっている」という陰謀論で、それがSNSで広まったことで、疑惑を信じた男がライフルをもってピザ店に押し入り発砲する事件が起きた。

ドキシング(doxing)は他人の個人情報をネット上にさらす行為で、「アンティファ(反ファシズム)」と呼ばれる“極左”が、SNS上の白人至上主義者やオルタナ右翼の身元を暴いて、勤めている会社や店に解雇を要求する運動を行なった。

スワッティング(Swatting)は、大事件が起こっているという虚偽の情報で警察やSWAT(警察特殊部隊)を出動させる悪質ないたずらで、過去には多くの芸能人が被害にあった 2017年には、オンラインゲームのトラブルで男性がスワッティングされ、派遣された警察官に自宅で射殺される事件が起きている。

静かな公園で“バード・リスニング”をしながら、「あの、現実とは思えない、恐ろしい情報と仮想性(バーチャリティ)の奔流」について考えたオデルは、いま必要とされているのは「拒絶」だと思いいたる。

わたしたちはSNSによって、#FOMO(fear of missing out;取り残されることへの恐怖)に追い立てられている。フェイスブックやインスタグラムのようなプラットフォーマーは、「私たちが自然に抱く他人への興味や、年齢に関係なくコミュニティを求める気持ち」につけ込み、「人間のもっとも根源的な欲求を乗っ取って欲求不満にさせ、そこから利益を得ている」。そのようなアテンション・エコノミーに対抗するには、「ドロップアウト」するしかないのだ。

だがこれは、よくある「デジタルデトックス」ではないのか。

スタートアップ企業の重役として週70時間働いていた23歳のレヴィ・フェニックスは、2008年、ストレスが原因の症状で入院を余儀なくされたことをきっかけにガールフレンド(のちの妻)とともにカンボジアを訪れ、マインドフルネス(瞑想)を体験した。アメリカに戻った2人は、カリフォルニアで大人向けのデジタルデトックス・サマーキャンプ〈キャンプ・グラウンデッド〉を起ち上げた。そこでは「デジタルテクノロジー禁止」「人脈づくりをしない」などのルールのもと、参加者たちは入念に準備された50あまりのアナログな活動に従事する。

ここからわかるように、デジタルデトックスの参加者が求めているのは「ドロップアウト」ではなく、日頃のストレスからつかの間解放され、より「生産性」を高めてストレスフルな日常に戻っていくことだ。

自然との共生や貨幣経済の拒絶(物々交換の「ギフト・エコノミー」)を掲げて始まった〈バーニングマン〉は、年々大規模になり、いまや「リバタリアニズムを信奉するテクノロジー業界のエリート連中を引き寄せるイベント」になっている。その象徴が、2015年にマーク・ザッカーバーグがヘリコプターで〈バーニングマン〉会場に降り立ち、グリルチーズサンドウィッチをふるまった出来事だとされる。

理想の生き方を実践する「特権階級」が社会を変える

アテンション・エコノミーへの「拒絶」として「何もしない」を提唱するオデルだが、社会からのドロップアウト(隠遁生活)を勧めるわけではない。「あらゆることに永久に決別したくなる衝動は、自分が暮らす世界にたいする個人の責任をないがしろにしているだけではない。そもそも、そんなことはとうてい実現不可能」だと述べる。

「逃げ切り不可能」と題された章では、1960年代から70年代にかけてアメリカ各地で行なわれたコミューン運動を調べ、それが例外なく失敗していることを確認してもいる(この部分の記述は興味深い)。「コミューンの物語が伝える教訓は、世界の政治的な構造からはどうあがいても逃れられないということ」なのだ。

だとすればいま必要なのは、「注意を別の場所に向けて、拡大増幅させ、その鋭さに磨きをかける能力を身につけための継続的なトレーニング」だ。「注意を奪還する革命的な潜在性」を実現するには、「何もしない」どころか、さまざまな活動をしなくてはならない。オデルが書こうとしたのは「自己啓発書を装った、活動家(アクティビスト)のための本」なのだ。

そのための具体的な方策として、「即自的なコミュニケーション」を抑制するための階層化されたSNS、グローバリズムから距離を置くための地域住民に特化したSNS、フェイスブックのようなプラットフォーマーの支配を拒絶する脱中央集権化されたSNSなどが紹介されている。ちなみにオデルが期待するフリーソフトのSNS「マストドン」は、トランプ前大統領が起ち上げる予定の新SNSが採用した(コード無断利用で警告を受けた)ことで話題になった。

「アテンション・エコノミーに対する市民の反抗」というテーマは、現在、アメリカを揺るがしているメタ(旧フェイスブック)への批判とも重なるが、よりよい社会を目指す活動(アクテヴィズム)が公園で鳥のさえずりに耳を傾けることなのか、と疑問に思うひともいるだろう。

これについてはオデルも自覚していて、こう述べている。

もちろん、これまで述べてきたことには間違いなく批判される点がひとつある。それは、そのすべてが特権的立場ゆえに可能になるということだ。私がローズガーデンに出かけ、そこでバラを眺め、丘の上に腰を下ろすことができるのも、教職についていて大学には週に二日出勤すればいいという前提があるからで、そのほかの特権についてはいわずもがなだ。(略)「何もしない」の実践だなんて、どうせ気ままな贅沢だと受け取られるおそれは充分ある。それはメンタルヘルス休暇をとるようなもので、そんな休暇を与えてくれる職場で働く幸運に浴していなければどだい無理な話ではないかと。

誰もが感じるだろうこの批判についてのオデルの答は、「(何も言わずにすませる権利が)多くの人に認められていないからといって、それが権利ではないだとか、重要ではないということにはならないはずだ」というものだ。「孤独、観察、シンプルな自立共生(コンヴィヴィアリティ)は、それじたいが目的や結果なのではなく、幸運にもこの世に生を享けた者ならだれもが持つ不可侵の権利だと認識されなければならない」のだという。なぜなら、その権利を行使する過程で「私たちは世界を刷新するだけでなく、新しい自分に生まれ変わる」のだから。

まずはありうべき理想を設定し、自分が先行してその理想の生き方を実践する(権利を行使する)ことが、オデルのような若くめぐまれたリベラルにとっては、自分を「啓発」し社会を変えていくことになるようだ。

「テクノロジー催眠」と「畜群ネットワーク」

オランダの哲学者ノーレン・ガーツは『ニヒリズムとテクノロジー』(翔泳社)で、オデルとは別の視点から現代のSNSを批判している。ガーツが依拠するのはニーチェの哲学(ハイデガーの道具論についても論じられるが本論とはほとんど関係しない)で、人間のニヒリズム(人生に背を向けたがる傾向)がテクノロジーを生み出し、そのテクノロジーがニヒリスティックな世界を生み出したと論じる。

「テクノロジー催眠」は自己催眠を行なう手段をテクノロジーに求めることで、ひとびとはユーチューブやTikTokを使って「自分を眠らせようとしている」。あるいは、やるべきことを先延ばしして、「ぼんやり」しようとしている。

「Netflix and chill(「ネットフリックスを見て家でくつろごう」Chillは性的な誘いのニュアンスがある)」はネットのミームになったが、1人でテレビを見ながら自己催眠する「カウチポテト」を、彼氏/彼女と自己催眠する「ソーシャルなアクティビティ」に変えた。

「データドリブン・テクノロジー」は、自分たちの日々の暮らしをテクノロジーに統制・制御してもらおうとする傾向で、AI(人工知能)がビッグデータを機械学習して生み出したアルゴリズムが、なにを観て(ネットフリックスのおすすめ)、なにをして(フィットビットの運動管理)、どこに行く(ポケモンGO)かを決めている。

これは「目的もなく、主役もなく、説明責任もない活動」で、「自由であることを運命づけられている」重圧から解放してくれる。

「娯楽経済テクノロジー」は、自分の能力を拡張・強化し、人助けや他人をサポートするのにテクノロジーを使うことだ。これは「金銭的な寄付だけでなく、見知らぬ人を自分の家で過ごさせてあげたり、自分の車を運転させてあげたり、誰かの雑用をこなしてあげたりする」ことで、その目的は「困っている人を助ける優越感を味わう」ことだ。

シェアリング・エコノミーでは、見知らぬひとが出会って信頼を築いていくのではなく、WEBにアップロードされた個人情報(データ)が信頼のもとになっている。マッチングアプリでは、登録者を右にスワイプするか(あり)、左にスワイプするか(なし)が「娯楽」になっている。「娯楽経済のウェブサイトやアプリが奨励しているのは、シェアでも施しでもなく、判定と差別。その目的はコミュニティの構築よりも、優越感の享受になっている」のだ。

「畜群ネットワーキング」は人間同士が直接群れるのではなく、テクノロジー的に群れて集団を形成する現象のことで、SNSとりわけ「フェイスブックという宗教」が論じられる。

現代世界(とりわけアメリカ)では、フェイスブックでアイデンティティを手に入れなければ、アイデンティティをもつことがどんどん不可能になってきている。それに加えてフェイスブックは、ユーザーに対して他人のプライバシーを侵害すること(のぞき見)をそそのかしている。

その結果わたしたちは、テクノロジーがつくりだした群れに身をゆだねることになった。そんな畜群ネットワークの僧侶(ザッカーバーグ)の目的は、群れを刺激してネットワーク用のコンテンツを生成させつづけることで、ユーザー生成コンテンツと広告主が制作したコンテンツを融合させることで巨額の利益をあげている。

「能動的ニヒリズム」は可能なのか

テクノロジーによるニヒリズムがもたらしたのが「クリックの狂乱」で、テクノロジーを通して自分の感情の狂乱を表現することだ。その典型として、ネットのコメント欄やフラッシュモブ(SNSで参加者を募りイベントを行なう)が論じられる。

SNSのパラドクスのひとつは、「自分がネットリンチの犠牲者になって人生を壊される可能性があるとわかっているのに、それでもソーシャルメディアを使い続ける」ことだ。その理由は、SNSの目的がもはや社交(ソーシャル)ではなく、「残忍さを発揮して他人に恥をかかせ、他人をバカにすることが主な目的」になっているからだとされる。

いまやテクノロジーは、わたしたちを空想の世界に誘導し(テクノロジー催眠)、命令し(データドリブンな活動)、ちからを与え(娯楽経済)、ひとびとをまとめる(畜群ネットワーキング)ことで世界をかたちづくっている。

あるいは今日、わたしたちはグーグル検索に答えを求め、グーグルマップに道案内を求め、グーグルのAIに自分の苦しみの除去を求める。これはまさにニーチェが予見した「ニヒリズム」そのものだとガーツはいう。

自分で生き方を決め、自分で目的を見つけて、自分なりの人生を意義のあるものにしようとせず、誰かに何をすべきでどう生きるべきかの指示を仰ぎ、人生の目的を教えてもらい、人生は意義あるものだと言ってもらわなければいけないところに問題があるのだ。

こうしたニヒリズムの行きつく果てがトランスヒューマニズムで、「肉体性や脆さ、必ず死ぬ運命」を拒絶し、有限の肉体に無限の意識が閉じ込められていると考え、「不完全なもの、自然な姿としての(これまでの)人間」を超えることを目指す。トランスヒューマニストにとって、苦しいのは「あるがままの自分」であることであり、その「あるがままの自分」は、「人間的な自由を追求することではなく、テクノロジー的に自由を追求することで克服できる」のだ。

だがガーツは、これはニーチェのいう「超人」でなく、超人が克服しようとしたニヒリズムそのものだという。ラディカルに自己を変革するのではなく、テクノロジーによって自己を再設計しようとするトランスヒューマニストは、たんに「神」を「テクノロジー」に置き換えたにすぎないのだ。

だったらどうやってこの隘路を突破するのか。ここでガーツが提示するのが、「受動的ニヒリズム」から「能動的ニヒリズム」への転換だ。

受動的ニヒリズムは、「人類の進歩をテクノロジーの進歩と同一視し、人類の進歩の目標としてテクノロジーに依存したポストヒューマンになることを追い求めることにつながっていく」とされる。それに対して能動的ニヒリズムには、「進歩に対するこのテクノヒューマンな見方の根底にある、禁欲の価値をあらためて考え直せる可能性がある」。これは、「破壊のための破壊」から「創造のための破壊」への移行であり、ガーツは「神は死んだ グーグルも死んだ」と宣言する。

ニヒリズムとは、人生の意味を私たちの外部にある、何か超越的な源に求めるということだ。自分ではないもの、自分の人生の外にあるものに生きる意味を求めることで、結果的に自分の人生を生きていないということである。

このようにいうガーツは、能動的ニヒリズムのムーヴメントを「何を「無意味」と思うかではなく、何に「意味を見出すか」を考えること」だとする。「人生とは、適応しながら乗り越えていき、成長していかなければならない課題であるはず」なのだ――という話になる。

私は「リベラル」を「自分らしく生きたい」という価値観のことだと定義している。ニーチェに依拠したガーツのテクノロジー批判は興味深いものの、その結論は(『何もしない』のジェニー・オデルと同様に)けっきょくリベラリズム(成長と自己変革)に回収されてしまうのではないか。

「自分らしく生きたい」という願い(欲望)がSNSなどのテクノロジーを生み出し、わたしたちはそのテクノロジーに拘束されているのだから、そこから抜け出すのは容易ではない。

禁・無断転載

「政治的に正しいAI」は実現できる? 週刊プレイボーイ連載(596)

生成AIが世界的に話題になっていますが、先行するオープンAIに対抗してグーグルが満を持して投入した「Gemini(ジェミニ)」がたちまち炎上しました。ヨーロッパの歴史的な人物の画像を生成させたところ、白人以外の人種になり、SNSに黒人のフランス国王やローマ法王、アジア系の中世の騎士などの画像があふれたのです。グーグルは謝罪のうえ機能を停止し、修正を急ぐ事態になりました。

この失態の背景には、2015年の「ゴリラ事件」があります。グーグルフォトがスナップ写真を分析して、「犬」「誕生パーティ」「ビーチ・トリップ」などといったフォルダに自動的に振り分けるサービスを始めたのですが、あるユーザーが心当たりのない「ゴリラ」というフォルダを見つけました。不思議に思ってそのフォルダを開いてみると、近所で開かれたコンサートで女友だちを写した写真が80枚以上入っていました。その友だちは黒人でした。

ユーザーはそれをスクリーンショットに撮って、「グーグルフォトはひどすぎる。ぼくの友だちはゴリラじゃないぞ!」とSNSに投稿しました。当然ながらたちまち大炎上し、グーグルは平身低頭して謝罪、二度と同じことが起こらないようにすると約束しましたが、不具合をなかなか修正できず、その後5年以上も「ゴリラ」という単語が検索できない状況が続いたのです。

このようなことが起きるのは、何千枚もの写真をニューラルネットワークに与えて訓練するとき、AIがなにを学習したかを技術者がコントロールできないからです。そのため、思わぬ回答や分類を完全に防ぐのは困難です。

ビッグデータから学習するAIは社会の差別や偏見を反映しますから、チャットGPTのような大規模言語モデルでは、不適切な回答を避けるために、人間によるフィードバックで言語モデルを修正しなくてはなりません。これが「目標駆動学習」あるいは「人間のフィードバックによる強化学習(RLHF)」で、ラベラーと呼ばれる技術者が望ましい回答をするようAIを訓練していきます。

グーグルは過去の失敗体験から、AIを「社会正義」に沿うように過剰に訓練したのでしょう。人種多様性に配慮しすぎた結果、「政治的に正しい」ものの「歴史的に間違っている」画像を生成するようになってしまったのです。

AIの「道徳」や「正義」には、ラベラーの価値観が強く反映されています。それは現時点では、シリコンバレーの多数派を占める20歳から40歳のヨーロッパ系(ユダヤ系を含む)白人男性のリベラルな価値観であることは間違いないでしょう。しかし異なる属性をもつひとたち(有色人種、女性、性的少数者、保守派、宗教原理主義者など)は、これとは異なる価値観を「公正」と見なすかもしれなません。

すべてのひとが納得する「正義」がない以上、ポリティカル・コレクトな(政治的に正しい)AIをつくる作業はいずれ、価値観の闘争の泥沼に引きずり込まれてしまうでしょう。さらなる混乱で収拾がつかなくなったとき、「自分で判断するから、妙な訓練をしていないAIでいいよ」という声があがるだろうと予想しておきます。

参考:ケイド・メッツ『GENIUS MAKERS ジーニアスメーカーズ Google、Facebook、そして世界にAIをもたらした信念と情熱の物語』小金輝彦訳/CCCメディアハウス
岡野原 大輔『大規模言語モデルは新たな知能か ChatGPTが変えた世界』岩波科学ライブラリー

追記:ユネスコはオープンAIとメタが開発した生成AIに関する調査結果を公表し、AIは作成した文章には女性への明白な偏見があるとして、「AIが持つ強いジェンダーバイアス」を警告した。異なる人物を主人公にした物語の作成を指示すると、いずれのAIも「エンジニア」「教師」「医師」など社会的地位が高いとされる仕事を男性に与え、「使用人」や「料理人」「売春婦」など社会の中で伝統的に低い地位に見られてきた職業を女性に与える傾向が強かった(「AI作成の物語に偏見」朝日新聞20241年3月9日)。

『週刊プレイボーイ』2024年3月18日発売号 禁・無断転載

欧米ネトウヨ事情 過激主義は「無理ゲー社会」への異議申立て

ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載していくことにします。

今回は2022年3月24日公開の「「白人至上主義」などすべての過激主義は「無理ゲー社会」への異議申立て」です(一部改変)。

Johnny Silvercloud/Shutterstock

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1999年公開の映画『マトリックス』に、主人公のネオが謎の組織の男モーフィアスから、ブルーピルかレッドピルかを選ぶよう迫られるシーンがある。モーフィアスはネオにいう。

「青い薬(ブルーピル)を飲めば、話はここで終わる。おまえはベッドで目覚め、あとは信じたいものを好きなように信じればいい。だが赤い薬(レッドピル)を飲めば、おまえはこの不思議の国にとどまるのだ。そのときは、私がこのウサギの穴がどれだけ深いか見せてやろう」

このシーンはその後、「レッドピリングする」という新語を生み出すほど有名になった。その意味は、「これまで隠されていた真実を知る」ことだ。

仏教(マインドフルネス)に魅了されたシリコンバレーのエリートは、瞑想体験を「レッドピル」と呼んだ。だがこの言葉は、いまや圧倒的に極右や陰謀論者のネットミームとして使われている。「世界はディープステイト(闇の政府)に支配されていて、トランプはそれと闘っている」というQアノンの陰謀論は、ネットで流通する「もうひとつの(オルタナ)真実」の典型だ。

ユリア・エブナーの『ゴーング・ダーク 12の過激主義組織潜入ルポ』(訳者 西川美樹/左右社)は、「レッドピリングした」若者たちのコミュニティに潜入した記録だ。エブナーはロンドンを拠点とするシンクタンク「戦略対話研究所(ISD: Institute for Strategic Dialogue)」の上席主任研究員で、オンラインの過激主義、偽情報、ヘイトスピーチなどを研究対象にしている。ISDは、暴力を引き起こすような過激主義(extremism)にどう対応するかを、政府や治安機関、フェイスブックなどSNSプラットフォーマーにアドバイスしている。

エブナーは1991年ウィーン生まれだから、この本を書いたときは20代だった。潜入対象は「ジハーディスト(イスラム聖戦主義者)、キリスト教原理主義者、白人ナショナリスト、陰謀論者、過激なミソジニスト」などだが、ここでは「白人至上主義」の組織を取り上げて、彼女がそこでなにを見たのかを紹介してみたい。

右翼のなかから現われた「目覚めた者」たち

“woke”は「目覚めた」の意味で、社会問題などに関心をもつ「意識高い系」を指す。”SJW(Social Justice Warrior)”は「社会正義の戦士」で、人種差別や性差別など、社会正義に反する(とされた)言動をした者をSNSで一斉にバッシングし、その社会的地位を抹消(キャンセル)する「キャンセルカルチャー」を主導している。

アメリカの右翼/保守派はこれまで、wokeやSJW、キャンセルカルチャーを「極左のテロリズム」としてはげしく批判してきた。ところがいまや、極右の若い白人たちのなかからwokeが現われた。彼らの世界観では、わたしたちは「グローバル・エスタブリッシュメントがつくった幻想の世界」のマトリックスにとらわれており、だからこそレッドピリングして「覚醒」しなければならないのだ。

左派(レフト)の大好きなポストモダン哲学では、真実は相対的なもので、どれが優先され、どれが劣後するかの基準はない。同様に、一世を風靡したアイデンティティ・ポリティクスでは、人種、ジェンダー、性的指向などすべての集団のアイデンティティを平等に尊重しなくてはならない。だがそうなると、白人至上主義者が唱える「真実」や「アイデンティティ」も等価に扱わなくてはならなくなる。こうして、左派のあいだに混乱が広がっている。

参考:「インターセクショナリティ(交差性)」はアイデンティティの迷宮

本書で最初に登場するのは、「MAtR」という白人至上主義者のチャットルームだ。ムッソリーニに影響を与えたイタリアの哲学者で、スピリチュアリズムとファシズムを融合させたとされるユリウス・エヴォラの著書『廃墟のなかの男たち(Men Among the Ruins)』の頭文字からとられたという。

「MAtR」に入るには審査が必要で、家系や年齢、性的志向、宗教や政治について訊かれたあと、自分の手か手首を撮影して管理者に送る。これは、入会希望者が間違いなく白人であることを確認するためだ。

無事に審査を通ると、そのチャットルームにいたのは、「秘境的ヒトラー主義」に関心がある20代前半のカナダ人、16歳の自称「リトアニアの国民社会主義者」、「完璧に無宗教で不可知論者」だというニュージーランド出身でアメリカで暮らす17歳の少女などだった。そんな参加者たちに共通するのは、遺伝学と生物学に強い関心があることだ。

「MAtR」のリーダーたちが目指すのは、「白人種の国家、つまりアーリア人種の国を築くこと」だ。この運動は、「北西アメリカ共和国(North West Republic)」として1990年代から始まっているという。

アメリカ北東部のメイン州、バーモント州、ニューハンプシャー州は白人比率が95%ちかく、都市部を除けば白人しかいない。これらの州から数少ない非白人を排除し、純粋な白人国家の樹立を目指す政治組織が「ノースウェスト・フロント(NWL: North West Front)」で、その「人種国家憲法」は次のよう規定する。

第4条 北西アメリカ共和国における居住権ならびに市民権は、ヨーロッパ諸国の由緒ある家系の混じり気のないコーカサス人種の人間に、完全にいついかなるときも限定されねばならず、彼らは知られるかぎり非白人の祖先を持たず、またその遺伝子構造に非白人のいかなる要素も認められないことが必要である。

第5条 一般にユダヤ人として知られる人種は、文化においても歴史的伝統においてもアジア的な人びとであり、白人とみなしたり、法のもとで白人種の地位を与えられたりすべきではない。いかなる状況においても、いかなるユダヤ人も、北西アメリカ共和国に入ることも居住することも許されるべきではない。

「純粋なアーリア」はイラン人や(北部)インド人

古代の遺跡から発掘された人骨のDNA解析が可能になったことで、ヒト(ホモ・サピエンス)の来歴が急速に解明されている。それによれば、「遺伝的に純粋な人種」などというものはそもそもあり得ない。

NWFの「人種国家憲法」は「知られるかぎり非白人の祖先を持たず」とするが、ヒトはチンパンジーやボノボとの共通祖先から進化した。「その遺伝子構造に非白人のいかなる要素も認められない」とあるが、現在では、わたしたちがネアンデルタール人やデニソワ人など旧人の遺伝子を保有していることがわかっている。

白人至上主義者が目指すのは「アーリア人種の国」だというが、アーリアはサンスクリット語で「高貴な」の意味で、紀元前1800年頃にインダス文明を滅ぼした民族の自称だ。彼らは中央アジアのステップ地帯から南下し、現在のイランやインド北部で先住民と置き換わった。その意味では、もっとも「アーリア」に近いのはイラン人や(北部)インド人だ。

そのアーリアがヨーロッパ系白人を指すようになったのは、植民地時代の人類学者らが、かつてコーカサス(カフカス)に住んでいたインド・ヨーロッパ語族が、南だけでなく西にも移動した「ヨーロッパ人の祖先」だと唱えたからだ。――ここから、白人のことを「コケイジャン(コーカサス出身者)」と呼ぶようになった。

当時のヨーロッパ中心主義では、南に下ったアーリアの「高貴な血」は汚されてしまったが、西へと向かった集団は純潔を保ち、だからこそ「白人」が「有色人種」を訓育するのだとされた。ナチスはこの偏見をさらに拡張し、もっとも純粋な「アーリアの血」を受け継いでいるのはドイツ民族で、世界を支配する運命を担っていると主張した。

現在の遺伝人類学では、インド・ヨーロッパ語の祖語を話していたのは、コーカサスの農耕民ではなく、黒海とカスピ海の北側に広がる広大なステップ地帯(ポントス・カスピ海草原)で暮らし、ヤムナヤと呼ばれる牧畜を主体とする文化を生み出した集団だと考えられている。彼らは車輪をつけた木枠を馬に引かせるというイノベーションを興し、それによって広範な地域に移動していった。

紀元前3600年~前2200年頃に、このヤムナヤの集団がヨーロッパに押しよせ、遺伝的な構成を大きく変えた。その影響は北ほど大きく、北欧などヨーロッパ北部は人口が完全に入れ替わったが、南欧はそれ以前の農耕民の遺伝的特徴がかなり残っている。現代のヨーロッパ人では、ステップ由来のゲノムの割合が大きいほど、身長が高くなっていることもわかった。この遺伝的構成のちがいが、北欧、中・東欧、南欧などの地理的区別に反映しているのだ(篠田謙一『人種の起源 古代DNAが語るホモ・サピエンスの「大いなる旅」』中公新書)。

ここからわかるように、現代のヨーロッパ白人の遺伝子を調べれば、そこにはヒトが長く暮らしたアフリカや、農耕民の移動とともに持ちこまれた中近東・アジア起源のものなど、多様な遺伝子が見つかることになる。白人至上主義者が遺伝子検査をしても、彼らが望むような「純粋性」が証明できるわけはない。

右翼の過激主義者は遺伝学に執着するが、その期待は常に裏切られる。すると、遺伝子検査自体が「陰謀」と見なされるようになる。エブナーによれば、いまや「遺伝子検査は「シオニスト占領政府」、通称「ZOG」によって故意に歪められており、それは白人種を一掃する彼らの計画の一端」とされているらしい。

新たな陰謀論「大いなる交代」理論とは?

白人の「過激主義者」は、なぜこれほどまでに遺伝にこだわるのだろうか。それは、自分が「白人」だということ以外に誇るものがないからだろう。だとしたら彼らは白人至上主義者というより、「白人アイデンティティ主義者」だ。――同様に日本のネトウヨは、自分が「日本人」ということ以外に誇るもののない「日本人アイデンティティ主義者」だ。

このことがよくわかるのが、「ジェネレーション・アイデンティティ(GI)」と名乗るヨーロッパの極右組織があることだ。そのメンバーは、「アイデンティタリアン」と呼ばれている。

2002年にフランスのナショナリストが、反シオニスト(反ユダヤ)と民族ボルシェヴィキ(ファシズムとレーニン主義の思想的融合)を掲げる「ブロック・インドティテール」という右翼団体を設立した。GIは2012年にその青年組織として結成され、オーストリア、ドイツ、イタリアをはじめヨーロッパ諸国に急速に拡大しはじめた。エブナーは、「今日、GIはアメリカのオルトライトのヨーロッパ版になり、ヨーロッパとアメリカの極右の架け橋になっている」と述べる。

とはいえ、GIのリーダーたちはネオナチとは距離を置き、「ヨーロッパの文化的・民族的アイデンティティを守りたい」だけだと穏健な主張をしている。「GIは白人種が他人種より優れているとは宣言しない。むしろ異なる人種をおのおののために分離しておくことの重要性を訴えたほうがいい」とされ、「人種分離」の代わりに「民族多元主義」という用語が使われる。これは、リベラルが唱える「プルーラリズム(多元主義)」を換骨奪胎したものだ。

ヨーロッパの極右に共通するキーワードは、「大いなる交代(the Great Replacement)」だ。2011年にフランスの白人ナショナリスト作家ルノー・カミュが出版した書籍のタイトルで、その後、急速に人口に膾炙した。

「大いなる交代」というのは、ヨーロッパの人口構成が白人から「イスラームの有色人種」に徐々に変わっていくことだ。フランスの著名な作家ミシェル・ウエルベックの『服従』(河出文庫)では、2022年(今年)の大統領選で、移民排斥を唱える国民連合のマリーヌ・ルペンと「イスラーム同胞党」の代表が決選投票に進む世界が描かれる。この背景にあるのも「大いなる交代」で、「西洋=白人世界はこのまま没落していく」というある種の虚無感が知識人のあいだで広がっているのだろう。

GIのような過激主義者はこの「西洋の没落」を政治活動のエネルギーに変えて、「白人のジェノサイド」を阻止しようとしている。西欧の文化や伝統が「徐々に乗っ取られていく」元凶は、「移民」「人工中絶」「同性愛」だとされる。「生粋のヨーロッパ人の出生率を下げている中絶賛成およびLGBT支持の法律と、少数民族が「戦略的大繁殖」に励むことを許す移民歓迎政策が組み合わさった」結果、白人はいまや“絶滅危惧種”になってしまったのだ。

こうした主張は突飛に感じられるかもしれないが、今年4月に行なわれるフランス大統領選では、有力候補のマリーヌ・ルペンや政治評論家エリック・ゼムールが「大いなる交代」の危機を煽って支持を獲得している。さらには大西洋を渡って、人口構成で白人が少数派になりつつあるアメリカでも「大いなる交代」が現実のものと受け止められ、2016年にはトランプ大統領誕生の原動力になった。

GIの活動でもうひとつ興味深いのは、新人の活動にゲームを取り入れていることだ。ソーシャルゲームのように、「ほかの愛国者(ペイトリオット)とつながればポイントが獲得できて、自分のランクも上がっていく」。エブナーはこれを、「極右のゲーミフィケーション」と呼んでいる。

日本も同じだろうが、ネット上での政治運動(らしきもの)は、世界中でますますサブカル化しているのだろう。

すべての過激主義は「無理ゲー社会」への異議申立て

『マトリックス』と並んで白人の過激主義者に人気の映画が、同じ1999年に公開された『ファイトクラブ』だ。ある白人至上主義のネットメディアの編集長は、「疎外された多くの若い白人男性に対するわれわれの信条は、あの深い苦悩を伝える映画『ファイトクラブ』に要約されていると言っていい」と、次の台詞を引用している。

俺たちは歴史の真ん中の子ども(ミドルチルドレン)なのさ。目的もなければ居場所もない。世界大戦も大恐慌も経験していない。俺たちの大戦とは精神的な戦争なんだ(…)俺たちの恐慌とは俺たちの人生そのものだ。俺たちはみんな、テレビでこう信じるように言われて育った。いつの日か、みんな億万長者に、映画の神様に、ロックスターになれるのだと。けどそうはならない。その事実に俺たちはゆっくりと気づいていくのさ。そして心の底からムカついてくるんだ。

私は『無理ゲー社会』(小学館新書)で、知識社会が高度化するにつれて社会的・経済的な成功に必要な知能・学歴・スキルなどのハードルが上がっていき、「攻略不可能なゲーム」の世界に放り込まれたと感じる若者が増えているのではないかと論じた。本書に登場する白人至上主義者、イスラームのジハーディスト、Qアノンの陰謀論者たちだけでなく、左派(レフト)のSJW(社会正義の戦士)も含め、すべての過激主義はこの「無理ゲー社会」への異議申立てなのだろう。

そんな彼ら/彼女たちが求めているものはなんだろう。ここではエブナーの次の一説を引用しよう。

インターネットと新たなテクノロジーのおかげで、新人勧誘ははるかに容易になった――アウトリーチをさらに拡大し、ブランドを整備し、入会審査をゲーミフィケーションすることができる。しかも過激主義者のネットワークに入るには、多くの経路がある。イデオロギー上の理由から参加する者もいれば、最初に入ったときは政治にまったく関心のなかった者もいる。ときに彼らのいちばんのインセンティブが、排他的コミュニティ、要はクールなカルチャーの一員になることだったりもする。けれど新メンバーのあいだで繰り返し顔を出すテーマとは、「アイデンティティ」――自己イメージの悩み、折れた自尊心――なのだ。

若者たちは「レッドピリング」によって、自分に合った「それぞれの真実」に目覚めていく。「レッドピリングが急進化を婉曲にあらわすとするならば、インターネットはあらかたレッドピル工場と化している」とエブナーはいう。

マトリックス・シリーズの最新作はキリストの復活や最後の審判を意味する『レザレクションズresurrections』と名づけられた。「レッドピル」が極右、陰謀論者、白人至上主義者のミームとなった現実に、監督のラナ・ウォシャウスキーはこの映画でなんらかの応答をするのではないかと期待していたのだが、長いエンドロールのあとに出てきたのは猫の動画をゲームクリエーターたちが眺める場面で、「(マトリックスではなく)キャトリックスにすればよかった」というがっかりさせる落ちになっていた。

ハリウッド映画であれば、社会の最下層に落ちてしまった(と感じている)白人の絶望と怒りを描いた2019年の『ジョーカー』や、陰謀論者(リドラー)がSNSを使って武装民兵を動員する、連邦議会議事堂襲撃事件を思わせる場面が出てくる『THE BATMAN-ザ・バットマン-』が、『ファイトクラブ』や『マトリックス』(第1作)の正統な後継作ということになるだろう。

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