進化心理学の適応至上主義に挑む「美の進化」仮説とは?

ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載していくことにします。

今回は2020年6月26日公開の「「男女の性戦略の有力な理論「進化心理学」に挑む「審美主義」。生き物の美しさは、性淘汰による「美の進化」の賜物なのか?」です(一部改変)。

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ヒトは進化の過程で直立歩行し、大きな脳をもつようになり、言葉や道具を獲得したが、同様に怒りや悲しみ、よろこびなどの感情(こころ)も進化によってつくられてきた。このように考えるのが進化心理学で、男女の性差は、より多くの子孫を残すため(「利己的な遺伝子」がより効率的に自らの複製を広めるため)の性戦略のちがいから説明される。

男が精子をつくるコストはきわめて低いから、なんの制約もなければ、一生のあいだに何百人、何千人(あるいはもっと)の女と性交し、子どもをもうけることができる。遺伝人類学は、チンギス・ハンのものと思われる遺伝子(Y染色体)をもつ男性が全世界の人口(男)の0.5%(約6000万人)おり、モンゴル人民共和国と中華人民共和国の内モンゴルでは、このY染色体が25%(男の4人に1人)もの高い頻度で見つかったことを報告している(太田博樹『遺伝人類学入門 チンギス・ハンのDNAは何を語るか』ちくま新書)。

それに対して女は妊娠から出産まで9カ月もかかり、子どもが生まれてからも数年の授乳期間が必要になるため、生涯に産める子どもの数には強い制約がある。つまり、卵子のコストはきわめて高い。

男(精子)と女(卵子)の生物学的な極端な非対称性から、それぞれの利益を最大化するよう、異なる性戦略が発達した。男の最適戦略はできるだけ多くの女と性交することで、これは「乱交」だ。一方、女の最適戦略はできるだけ多くの資源を男から獲得し、自分と子どもの安全を保障することで、こちらは「純愛」となる。この性愛戦略の対立が、女と男が「わかりあえない」理由だ――という話は拙著『女と男 女と男 なぜわかりあえないのか』(文春新書)をお読みいただきたい。

進化心理学はきわめて高い説得力をもち、脳科学や分子遺伝学の最新の知見によっても補強されている。これを超える理論はもう出てこないと思っていたのだが、鳥類学者のリチャード・O・プラムは『美の進化 性選択は人間と動物をどう変えたか』(黒沢令子訳、白揚社)でその教義に挑戦している。

これはきわめて刺激的な議論なので、今回は拙著と重なる部分を中心に、プラムの唱える「審美主義」を紹介してみたい。

多くの生き物は「美の感覚」をもっている

“プログレッシブ”や“ラディカル・レフト”と呼ばれる過激なリベラルは、「男と女には生殖器以外なんの生物学的ちがいもない(あってはならない)」という奇矯な主張をするが、プラムは政治的にリベラルなフェミニストではあっても、鳥類を専門とする進化生物学者だから、もちろんこんなヘンなことはいわない。鳥のオスとメスで性戦略が異なるように、ヒトの男と女も生物学的に異なる性戦略をとるのは当然なのだ。

だったらプラムは、進化心理学のどこを批判しているのか。それは「適応主義」だ。

現代の進化論では、すべての生き物は所与の環境のなかで生存と生殖に最適化するよう進化してきたと考える。生き物の生態に驚くべき多様性があるのは、地球環境が多様で複雑だからだ。

当たり前だと思うかもしれないが、しかしこれを徹底すると、生き物のすべての特徴や行動は適応、すなわち生存・生殖にとって役に立つことと結びつくはずだ。こうして、進化生物学や進化心理学では、研究者が新しい発見をしたときに、それがどのような適応なのかを必ず説明しなくてはならなくなった。

プラムは生物学者として、もちろん進化の適応の重要性は認める。生存や生殖に不利な特徴をもつ個体は子孫を残すことができず、進化の過程で淘汰されていったことは間違いない。だがこの「適応絶対主義」で、生き物の不思議をすべて説明できるだろうか。

クジャクの羽根がなぜあのような形態に進化したかは、ダーウィンを悩ませた。あんな重たいものをもっていては、飛ぶことも早く走ることもできず、自らの身を捕食動物の餌食としてに差し出すようなものだ。生存になんの役にも立たないばかりか、かえってマイナスになる。

この難問に対してダーウィンの出したこたえは、「性淘汰(配偶者選択)」だった。なんらかの理由でクジャクのメスがオスの美しい羽根を好むようになれば、オスは美しい羽根を進化させる(メスの選り好みによって、より美しい羽根の遺伝子をもったオスだけが子孫を残すことができる)。これが何百世代、何千世代とつづけば、オスの羽根は生存の限界まで巨大化するだろう。

ところがこの「性淘汰」説は、当初からはげしい批判にさらされた。その先頭に立ったのが進化論の共同発見者で、ダーウィンの「自然淘汰」説を熱烈に擁護したアルフレッド・ウォレスだ。

二人はどこで袂を分かったのか。ダーウィンが自然淘汰と性淘汰を進化の両輪と考えたのに対し、ウォレスは進化の原理はひとつだけで、性淘汰は自然淘汰の一部だと見なした。

クジャクの羽根がより大きく、より美しくなるのは、そのようなオスをメスが選り好みしたからだ。ここまでは両者は同じだが、ウォレスの自然淘汰=適応主義では、大きく美しい羽根はオスが生存・生殖に適したよりよい遺伝子をもっていることの指標だと考える。重たい羽根をひきずりながら生き延びて成長し、左右対称の美しい模様を描けるオスは、寄生虫などに侵されず、健康で頑健な優れた遺伝子を子どもに受け渡すことができるのだ。

それに対してダーウィンは、適応主義だけではクジャクの羽根の美しさを説明できないと考えた。その目的が健康で頑健は遺伝子を示すことだけなら、あんな極端なものを進化させる必要はないではないか。――これはのちに、ロナルド・フィッシャーが「ランナウェイ効果」として説明した。メスの選り好みとオス同士の競争が共進化することで、羽根の進化が「暴走(ランナウェイ)」するのだ。

ダーウィンの性淘汰説の問題は、自然淘汰の適応に代わる性淘汰の原理がないことだった。生存・生殖の適応でないとしたら、いったいなんのためにメスは選り好みするのだろうか?

中南米の熱帯雨林でバードウォッチングに夢中になり、メスを誘うオスたちの複雑精妙なディスプレイに驚いたプラムも、ダーウィンと同じように、これほど美しいものを自然淘汰だけで説明することはできないと考えた。そして大胆にも「適応主義」と並立するもうひとつの進化の原理、「審美主義」を提案する。

審美主義とは、要するに「美しいものに魅かれる」ことだ。プラムは、ヒトや霊長類など一部の「高度な知能をもつ」哺乳類だけでなく、トリや昆虫に至るまで、生き物の多くは「美」の感覚をもっているとする。オスとメスの非対称性によって、オスが「競争する性」、メスが「選択する性」になった場合、メスの「主観的な美の感覚」によって、オスは自然淘汰の適応を超えより美しくランナウェイ進化する。――これは「美の生起」仮説と呼ばれる。

進化の基底に自然淘汰があることは間違いないが、生き物の美しさの多くは、性淘汰による「美の進化」の賜物だとプラムは主張したのだ。

ジェンダー差別に利用される進化心理学

『美の進化』でプラムは、バードウォッチングで出会った鳥たちの美しさへの驚きと感動、生き物をたんなる「ヴィークル(乗り物)」と見なす無機質な適応主義(ドーキンスの「利己的な遺伝子」)への反発から、どのように「審美主義」に至ったかを活き活きと語っている。私は鳥の生態にはなんの知識もないが、それでも面白く読めたのだから、バードウォッチャーならずっと楽しい読書体験になるにちがいない。

もちろん、プラムが提唱する「美の生起」仮説には、生物学者からさまざまな反論や批判があるにちがいない。そもそも鳥(そればかりか昆虫まで)が、ヒトと同じような「主観的な美の感覚」をもっているなどということがあるだろうか? それをいったいどのように証明するのか?

ここではこうした論争は専門家に任せて、もうひとつのさらに興味深い主張を見てみよう。プラムは鳥の観察から得た「審美主義」を人間にまで拡張し、進化心理学を「美」の観点からフェミニズムに向けて大きく転換させようとするのだ。

話の前提として、なぜリベラルな進化生物学者であるプラムが進化心理学に反発するのかを説明する必要がある。その理由をひとことでいえば、「進化論(適応主義)が保守派に悪用されている」と考えているからだ。とりわけプラムが怒りの矛先を向けるのが「マスキュリズム(男権主義)」の擁護だ。

正当なリベラルの立場では、男と女のあいだにはなんのちがいもない(あってはならない)のだから、ジェンダーギャップ(社会的な性差)の原因はすべて社会・文化的な要因、すなわち性差別になる。それに対して保守派は、「科学」や「エビデンス(証拠)」を盾に、社会的な性差の背後には生物学的な性差があるとする。プラムを苛立たせるのは以下のような理屈だ。

  1. 男女の性の非対称性から、男は「競争する性」として進化した。性ホルモンのテストステロンは地位をめぐる争いに強く影響するが、成人男性のテストスレロン・レベルは女性より数十倍から100倍も高い。つまり、男は女より競争に向いている。
  2. 男が若い女を好むのは、限られた資源を効果的に使って子孫を最大化する「利己的な遺伝子」の戦略だ(生殖能力のない女に投資しても遺伝子の複製の役に立たない)。同様に女は、自分と子どもの保護のために大きな資源をもつ男(金持ち)を選り好みする。
  3. 男が攻撃的なのは、女に資源を投資するにもかかわらず、生まれたのが自分の子どもかどうかわからないからだ(女は自分の遺伝子を受け継いだ子どもであることを確信できる)。そのため、ほかの男から暴力によって女を守り(メイトガード)、場合によっては女を暴力的に支配するようになった。

これらはいずれも進化心理学の定番の主張で、これまで膨大な研究が積み重ねられている。だがプラムは、「現代の進化心理学は、自然選択による適応が万能だと狂信的なほど深く信じている」として、これらを根底から否定する。

フェミニズムは男の攻撃性を「トキシック・マスキュラリティ(毒々しい男らしさ)」と批判する。それに対して保守派は、進化心理学を“誤用”して、「生物学的に決まっているんだからどうしようもない」と反論する。「男に攻撃的になるなというのは、ニワトリに向かって“空を飛べ”というのと同じで、不可能なことを要求している」というのだ。――リベラル(プログレッシブ)はこれを、「エビデンス至上主義」という「科学の名を借りた差別」だとする。

それに対してプラムは、こうした無益な論争から距離をおき、「フェミニズムは進化に埋め込まれている」と述べるのだ。

男のペニスはなぜ大きくなったのか

「陰鬱な科学」とされた進化心理学を、プラムは「美の生起」仮説でどのように乗り越えようとするのか? 私が理解できた範囲でそのロジックを紹介してみよう。

男と女の生殖戦略に非対称性があることは間違いないが、それは適応主義が主張するほど大きなものではないとプラムはいう。なぜなら男も女を選択しており、女もそれに応じて「美」を進化させてきたから。しかもそれは、適応とは無関係な「恣意的」なものだという。

プラムが例にあげるのは女性の乳房だ。地球上に生息する哺乳類は5000種を超えるが、つねに乳房が大きいのはヒトだけだ。ヒト以外の哺乳類では乳房が大きくなるのは排卵期と授乳期だけで、ライフサイクルの他の時期に大きくなることはない。ヒトの乳房はなんの適応もない性的装飾で、それは「審美主義」でしか説明できないとプラムはいう。

くびれたウエストの女性が好まれるのは生殖能力が高いからだというのは適応主義の典型だが、「体形と生殖能力が相関する」との研究はその後、否定されているという。乳房と同じく、くびれたウエストへの男の好みも恣意的なものだ。

そのうえでプラムは、若さが女性の「生殖価」を示すという進化心理学のセントラルドグマ(中心的教義)を否定する。なぜなら、「若さ」は遺伝しないから。誰でも最初は若く、時とともに老けるのだから、男が若さを選り好みしても女はそれを進化させることができないのだという。

女は「選択する性」とされているが、プラムが中南米で観察した美しいオスの鳥たちのように、ヒトのオス(男)が極端な「美」を進化させているわけではない。適応主義は、男の角ばった顎、彫りの深い顔立ち、たくましい筋肉などがテストステロン・レベルの高い「よい遺伝子」の指標だというが、すくなくとも現代アメリカ社会では、このような(シュワルツェネッガーやスタローンのような)男は人気がなく、「細身だがやや筋肉質で、肩幅が広く、逆三角形の体型をした男性」がもっとも好まれるという。適応主義の理論(すくなくともそのいくつか)は現実に起きていることをうまく説明できないか、後続の研究によって否定されているのだ。

そのうえでプラムは、「男のペニスはなぜ大きくなったのか」という進化論の難題に挑戦する。

諸説あるものの、ペニスは「精子競争」のために進化したというのが進化心理学では主流になっている。一人の女が複数の男と性交したからこそ、ペニスの先頭にある亀頭冠によって他の男の精子をかきだすようになっているのだ。

だがプラムは、この「乱婚説」をバカげていると一蹴する。なぜなら、ヒトの睾丸は乱婚のチンパンジーよりずっと小さいから。精子競争なら膣内に大量の精子を放出した方が有利だが、だったらなぜヒトの睾丸は大きくならなかったのか?

もうひとつ、プラムの指摘で興味深いのは、ヒトのペニスには陰茎骨がないことだ。これは当たり前のようだが、進化の過程で陰茎骨を失った哺乳類はクモザルとヒトの2種類しかいないという。

ペニスのなかに硬直した骨があると確実に勃起できるし、次の勃起までのあいだにペニスを引っ込めることもできる。陰茎骨がないとこうした機能を失うが、従来の適応主義では、その代償としてなにを得たのかがわからなかった。

それに対してプラムは、陰茎骨やペニスを引っ込める機能を失ったのは、「勃起していないときでもペニスが外から見えるようにするため」だという。なぜなら、女性の「審美観」が大きなペニスを好んだから。

ではなぜ、女性は大きなペニスを好むのか? それはセックスで大きな快楽を得るためだという。

ヒトの性のおおきな謎のひとつは、「女性になぜオーガズムがあるのか?」だ。しかしプラムは、オーガズムの適応を探そうとすることがそもそも間違っているとする。女性はセックスの快楽を求めるように進化したのだから、オーガズムがあるのは当然なのだ。これが「快楽の生起」仮説で、プラムは次のように述べる。

 女性の性的快感やオーガズムが進化したのは、女性自身の性的快感を刺激してくれる男性とくり返し性交することを女性が好んだからであり、また、女性はそうして性的快感を高めてくれる遺伝的変異を間接的に選択してもきたのだ。より頻繁にオーガズムをもたらしてくれるような男性の形質や行動を選択することで、女性による配偶者選択は女性の快感の性質を進化的に変えてきたのである。

フェミニズムは「ヒトの自然」である

プラムの「美の生起」仮説と「快楽の生起」仮説では、男も女も「平等」に恣意的な美しさを選り好みし、特定のパートナーと大きな性的快楽を得るためにペニスとオーガズムを進化させた。陰鬱な科学=進化心理学は、見事に「リベラルな科学」へと反転したのだ。

男の攻撃性(トキシック・マスキュラリティ)はどうなるのか? たしかに多くの哺乳類でオスの暴力や子殺しが見られるものの、進化心理学はヒトの暴力性を誇張しているとプラムいう。なぜならヒトは進化の過程で「自己家畜化」し、暴力を抑制し社会的寛容性を高めるよう進化してきたから。その原動力になったのはやはり女の「審美観」で、「攻撃的で性的に強制するような男性の形質はセクシーではないと(女同士で)合意するように進化し、それによって男性の社会的行動の性質を変えた」のだという。

これはいわば旧石器時代の#MeToo運動で、プラムによれば、現在、社会問題になっているような「男の暴力」は生物学的な運命ではなく、大部分は歪んだ父権制がもたらした社会的・文化的なものなのだ。――自己家畜化については拙著『もっと言ってはいけない』(新潮新書)で、プラムの「審美主義」でなくても暴力の抑制が説明できることを論じている。

「美の生起」仮説と「快楽の生起」仮説を提起したプラムは、「進化は女性を性的に自律させるようにしてきた」と結論する。男はたしかに女を性的に支配しようとするかもしれないが、女はそれに対して「美と快楽による選り好み」という防衛手段を共進化させてきた。男と女が進化の「軍拡競争」をしているとすれば、どちらかが一方的に有利になるようなことはない。旧石器時代の男と女はいまよりずっと「平等」だったはずなのだ。

ところがその後、農業の開始と社会的階層化によって父権制という「文化」が登場し、せっかく暴力を抑制してきた男が「再武装」するようになった。そのとばっちりを受けたのが女で、これまで享受してきた性的自律や性的快楽を失い、男の性的支配に甘んじるようになってしまったのだ。

プラムによれば、フェミニズムは昨今生まれたイデオロギーではなく、「有性生殖をする多くの種の社会で進化した特徴」だ。ヒトの場合、それが農耕開始以降の1万年のあいだに隠蔽されてしまったが、女性たちが理不尽な「性的支配」に抗議の声をあげることでようやく表に出てくるようになった。フェミニズムは「ヒトの自然」であり、「生物学的な必然」なのだ。

ところが進化心理学(適応主義)は、生物学の名を借りて、女性の性的自律性を「非自然」なものとして排除する。この科学の「誤用」を乗り越えるために、いまこそダーウィンが提起した性淘汰を復活させるべきだ。進化の主な原動力は自然淘汰の適応主義ではなく、性淘汰による「美の進化」で、フェミニズムにこそ「生物学的基盤」があるのだから――という話になる。

審美主義は「美による差別」を生み出す

プラムの説はたしかに興味深いものの、それがどこまで説得力があるかは、『美の進化』を読んでそれぞれが判断してほしい。ここでは拙著『女と男 なぜわかりあえないのか』で紹介した研究から、いくつかの疑問を提起するにとどめたい。

プラムは、男のペニスが大きくなったのは女がそれを「美的に」好んだからだというが、もしこれが正しいとすると、現代の女性も男性のペニスの写ったポルノやアダルトビデオを熱心に鑑賞するはずだ。だが実際には、「女性版プレイボーイ/ペントハウス」を目指した雑誌はすべて商業的に失敗している。女は男の裸(ペニス)をべつに見たいとは思っていないのだ。

だが男同士なら、相手のペニスに強い関心をもつことが知られている。日本では一般的でないだろうが、欧米のサイトには自分のペニスの写真をアップするものがたくさんある。これはゲイ向けではなく、自分のペニスを他の男性から評価してもらったり、他の男のペニスと比較するためのものだという。

だとしたら、プラムがいうように「ペニスは女が好むように進化した」のではなく、「男同士の地位をめぐる競争として進化した」と考えることができるのではないか。大きなペニスをもつ男が高い社会的地位を手にすることができるなら、その形質は遺伝していくだろう。これも仮説にすぎないが、私にはこちらの方が説得力があるように思える。

プラムは「女は大きな性的快楽を求めるように進化した」というが、これも根拠がない。エビデンスが示すのは、「女は性的快楽に男ほど大きな価値を置いていない」ということだ。研究によれば、女性の3割から5割が「低い性欲」をもつ「性機能障害」で、そのうち半分は「そのままでべつにかまわない(生活にさしたる支障はない)」とこたえている。これは「障害」などではなく、「低い性欲」が女性にとっての自然だと考えるべきだろう。

詳しくは拙著を読んでいただきたいが、「強い性欲」は高テストステロンの男の特徴で、テストステロン値がはるかに低い女が男と同じような性欲をもつとは考えにくい。その代わり、生得的に強い共感力をもつ女は「愛される」ことを求めている。男の理想が乱交の「ポルノトピア」だとすれば、女の理想は純愛の「ロマントピア」なのだ。

ところがプラムは、「成熟した男女が愛し合い、ともに最高のオーガズムを体験する」という欧米の特異な性愛の理想にとらわれて、女は男の大きなペニスを美しいと感じ、性的快感を得ることを求めているとする。こうした女性像は、日本のアダルトビデオでは「痴女」と呼ばれている。

プラムが「メスの性的自律」の理想とするのが熱帯雨林のマイコドリで、オスはメスに選択されるために高度なディスプレイを進化させ、そこに性的強制=レイプの要素はない。だがプラムがいうように、こうした「男女関係」が成立するためには、豊富な果実があり、天敵がそれほどおらず、個体数が少ない(オスの競争がはげしくない)などの前提条件が必要で、だからこそ「美しい(オスの)鳥」は一部の熱帯雨林にしか生息しない。

メスの性的自律の条件としてもっとも重要なのは、オスがいっさい育児に関与しないことだ。メスはオスに依存しないからこそ、パートナーを選択する強い「権力」をもつことができる。だとしたらヒトの場合も、女性が性的自律を確立するためには「イクメン」などやめてしまったほうがいい、ということになるだろう。

最後に、「ヒトは美を進化させてきた」という「審美主義」がもし正しいなら、それは必然的に「美による差別」に結びつくはずだ。

これについてはプラムも気づいているようで、美は恣意的なもので、その本質は多様性だという。金髪碧眼の白人がもっとも美しいなどということはなく、黒人もアジア系もそれぞれに美しいという「文化相対主義」だ。

しかしこのリベラルな立場でも、それぞれの文化のなかの「美の差別」までは否定できないだろう。「すべての個人がそれぞれに美しい」としてしまえば、美は進化できなくなってしまうのだから。

プラムの「審美主義」からは、必然的に、「美しいものは優れていて、美しくないものは劣っている」という価値観が導かれる。リベラルなフェミニストであるプラムはけっして認めないだろうが、これは進化心理学の「適応主義」と同じか、もしかしたらそれ以上にグロテスクな世界を生み出すのではないだろうか。

禁・無断転載

マルチステージのリカレント教育という幻想

ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載していくことにします。

今回は2022年1月13日公開の「「人生100年時代」という人類史上未曾有の「超長寿社会」に どう備えるべきか?」です(一部改変)。

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アンドリュー・スコット、リンダ・グラットンの『LIFE SHIFT2(ライフシフト2) 100年時代の行動戦略』( 池村千秋訳、東洋経済新報社)は「人生100年時代」が現実のものになることを説いて日本でもベストセラーになった『LIFE SHIFT(ライフシフト)』の続編で、著者の一人グラットンは安倍元首相から「人生100年時代構想会議」のメンバーに任命された。

著者たちの主張は前作から一貫しており、それをひと言でまとめるなら、「人類史上未曾有の「超長寿社会」とテクノロジーの指数関数的進歩がもたらす激変に備えなければならない」になるだろう。

本作では、「技術的発明」は新たな可能性を生み出すが、それがひとびとに恩恵をもたらすには「社会的発明」が必要になることが論じられる。それにもかかわらず、いまは「技術的発明」だけが先行し、「社会的発明」が大きく出遅れていると著者たちは危惧している。

とはいえ私は、本書の提案に完全に納得しているわけではない。そのことも含めて感想を書いておきたい。

「生涯現役社会」と「生涯共働き」が現実に

日本は世界に先駆けて超高齢社会に突入したが、東アジアや欧米諸国もそれに続いている。日本では、2050年には80歳以上が人口に占める割合が18%(およそ5人に1人)になると予想されている。

日本だけでなく、いまや先進国で生まれた子どもは、100歳以上まで生きる確率が50%を超えるという。幸いなことに、平均寿命が上昇しても、健康に生きられる期間が人生全体に占める割合は少なくとも減っておらず、むしろ多くの国でその割合が大きくなっている。

イギリスでは2000年から2014年までの間に平均寿命が3.5年延び、このうちの2.8年を(自己申告によれば)健康に生きている。慢性疾患のないイギリスの65~74歳は現在69%だが2035年には80%以上になり、75歳から84歳でも半分以上(58%)が慢性疾患なしで生きられるとの予測がある。「虚弱な状態で生きる年数が増えているわけではなく、中年期の後半と老年期の前半が長くなった」のだ。

高齢者の割合が増えているのは、寿命が延びているのと同時に、少子化が進んでいるからだ。日本の人口は2004年に1億2800万人だったが、それが2050年に1億900万人、2100年には8450万人と減っていく。ほかの条件がすべて同じなら、国の人口が1%減るごとにGDPの成長率も1%下落する。日本の経済は、この効果だけで、向こう半世紀にわたりGDP成長率が毎年0.6%のペースで落ち込んでいくことになる。

人口動態はきわめて安定しているので、これらはただの予想ではなく、「確実にやってくる未来」だ。そのような社会で間違いなく起きることが2つある。

1つは世代間対立の激化で、「老後資金の確保、医療の提供、世代の公平 社会的発明が切実に必要とされている」と著者たちはいう。

本書には書かれていないが、日本では2040年に国民の3人に1人が年金受給年齢の65歳を超え、内閣府の試算では年金や医療・介護保険などの社会保障費の総計が200兆円に達する。20代から65歳までの現役世代を5000万人とするならば、単純計算で1人年400万円の負担だ。

こんな制度が持続可能だとは誰も思わないだろう。その結果、コロナ禍で政府が現金を給付しても、貧困層以外のほとんどが貯蓄に回し、国の借金と個人(家計)の金融資産が増えるだけになった。

もう1つは、「いまの20代は80代まで働かなくてはならない可能性がある」こと。

現役時代に所得の10%を貯蓄に回すと仮定すると、引退後に最終所得の半分程度の生活資金を確保したいなら、70代後半もしくは80代前半まで働く必要がある。寿命が10年延びるごとに、引退後の生活費を確保するために7年長く働かなくてはならなくなるとの試算もある。

数年前に「老後2000万円問題」が炎上したが、老後を安心して暮らすだけの金融資産がないのだとしたら、誰か(国)が足りない分を恵んでくれるわけもないのだから、自ら働いて貯蓄する以外に方途はない。

私はずっと「日本は生涯現役社会になる」といいつづけてきたが、以前は中高年のサラリーマンから、「懲役10年でようやく出所できると思っていたのに、無期懲役だというのか」とのお叱りをずいぶん受けた。あらゆる国際比較で、日本のサラリーマンは世界でもっとも仕事が嫌いで会社を憎んでいることが明らかになっており、だとしたらこうした反応も仕方がないとあきらめていたのだが、安倍政権の「人生100年時代構想会議」以降、生涯現役への批判はほぼなくなった。

「超高齢社会での最強の人生設計は“生涯共働き”以外にない」の主張も、最近は「空理空論」と怒られることはなくなった。「専業主婦は2億円損をする」と、当たり前のことをいっただけで炎上したことを思えば隔世の感がある。

日本人に現実を直視させたという意味で、著者たちの貢献は間違いなく大きい。

「マルチステージ」よりも専門性のある「シングルステージ」へ

人類学では、過去の確実性が失われたときに足場を失ったように感じることを「リミナリティ」という。わたしたちはいま、人生の「錨」が失われたたことで、いわば漂流状態に置かれている。

先進国の標準的な人生は、フルタイムで教育を受け、フルタイムで仕事に携わり、フルタイムで引退生活を送るという「3ステージ」だった。だが定年後の年数が大幅に延びたことで、この人生設計は破綻してしまった。それに代わる新たなビジョンがないことがひとびとを不安にしている。

こうして著者たちは、「3ステージからマルチステージへ」の転換を説く。人生100年時代には、わたしたちは何度も学び直し、新たな仕事に就くようになるのだという。

このことを本書では、何人かの架空の登場人物の人生の選択として描いている。

インはオーストラリアのシドニーで暮らす55歳の会計士で、パートナーとは離婚しひとり暮らしをしている。携わっていた業務が自動化されたとの理由で最近、解雇を言い渡され、次の職を決めなくてはならない。会計士の仕事を続けるにはもっと高度なスキルを身につけなくてはならず、そうでなければ、まったく異なる仕事に就くスキルを学ばなければならないと考えている。

トムはアメリカのテキサス州ダラスに住む40歳のトラック運転手で、妻と、すでに成人した息子と一緒に暮らしている。現在の仕事や給与に不満はないが、今後、自動運転のテクノロジーが進歩すると大きな影響を受けるのではないかと不安に感じている。選択肢のひとつは、物流の現場を熟知していることを活かして、自動運転車を指揮する管理業務に就くことだ。これなら、要求されるスキルは高くなるものの、給与もかなり上がるはずだ。

これが、現代社会における先進国の労働者の典型的なケースだろう。それ以外の登場人物も含め、いずれも「3ステージ」の人生設計では自分の将来を描くことができなくなっている。

だがこれを「マルチステージ」といっていいのだろうか。私は、すくなくとも知的職業においては、人的資本をひとつの専門性に投入することが重要だと考えている。投資でいえば「タマゴをひとつのカゴに盛る」戦略で、いわば「シングルステージ」の人生設計だ。

55歳の会計士インが、リカレント教育(学び直し)によって、これまでとまったく別のことを始めたとしよう。それがライターや料理だとすると、いずれの分野にも、20代(あるいは10代)からそこで人生のすべてを賭けてきたライバル(プロフェッショナル)がいる。それを考えれば、「マルチステージ」の成果は、せいぜいWEB記事をギグワークで執筆するとか、パートタイムでレストランで働くくらいで、給与も生活水準も大幅に下がるのではないか。

だとすればインは、これまでの会計士の経験を活かして、より高度なスキルを身につけることでキャリアを更新するしかない。こうした事情はトムも同じで、物流業以外の仕事を一から学び直そうなどとは考えず、自分がよく知っている分野でなにができるかを考えている。

逆にいえば、55歳の会計士がライターを目指したり、40代のトラック運転手が料理教室に通うような「マルチステージ」になるのは、「シングルステージ」の戦略が破綻したからだ。

このことは、著者たちを見ても明らかだろう。スコットもグラットンも生涯現役を当然のことと考えているだろうが、これからの彼/彼女の「ステージ」は、ベストセラーの延長上に新しい本を書いたり、人生100年時代の生き方について講演したり、各国政府やさまざまな企業・団体にアドバイスすることで、まったく異なる分野を勉強し直し、その専門家になろうなどとは思わないだろう。

専門性がますます重視されるようになった現代(高度化した知識社会)では、(ほとんど場合)30代で自分のキャリアを決めたら「シングルステージ」でやっていくしかない。あとは、それを生涯現役で続けられるか、行き詰るかのちがいがあるだけだ。

習得すべきスキルがはっきりしていれば、リカレント教育より独学で十分

マルチステージのリカレント教育がうまくいかないことは、欧米ではすでに明らかになっている。著者たちも、「多くの国では成人教育産業が苦戦を強いられている」と、この現実を認めている。

イギリスでは、大学の学部教育プログラム(学位を授与しないパートタイムの教育)の数は大幅に増加したが、大学で学ぶ大人の数は2004年から2016年の間にほぼ半減した。オンライン上の学位取得プログラムは、当初こそ急速に拡大したが、その後は足踏み状態が続いているという。

その結果、「大半の大学は、オンライン教育の拡大によりコストを削減できるどころか、従来型の教育とデジタル教育の両方に対応するために、逆にコストが大幅に増えてしまったように見える」という状況に陥っている。少子化で経営が苦しい日本の大学も成人教育にちからを入れようとしているが、同じ結果になる可能性は高い。

問題は、コスト(学び直しをする費用と時間)に対して、得られるリターンがはっきりしないことだ。

そもそも大学自体が、学生を教育する効果よりも、就職市場での「シグナリング効果」の方がはるかに大きい。企業は、数回の面接で応募者の能力や資質を正確に見極めることができず、それなりの大学で学位を取得した(真面目に勉強して卒業した)というシグナルを基準に採用するしかない。

参考:大学教育に意味はあるのか?

リカレント教育も同じで、そこで取得した単位が、雇用主に対して(昇進したり、転職に有利になるなど)ポジティブなシグナルでなければ、コストに見合う価値はない。だが現実には、日本よりずっと進んでいるはずの欧米の教育産業でも、このポジティブな循環をつくるのに失敗しているということなのだろう。

もちろん、テクノロジーが世界を大きく変えていくなかで、仕事のために新たなスキルを身につけなくてはならない場面はたくさんあるだろう。だがその場合には、わざわざお金を払って大学に入り直さなくても、オンラインでタダ(あるいは低額)で学べる機会がいくらでも提供されている。――オンライン講義で習得したことをオープンバッジで認証する「マイクロクレデンシャル」も広がっている。

本書では、27歳でグッチの広告のイラストを描いたスペイン人アーティスト兼イラストレーター、イグナシ・モンレアルの例が紹介されている。モンレアルは2つの学位を持っているが、コンピュータとタブレット型端末でイラストを描くスキルは大学で学んだわけではなかった。

「ユーチューブで勉強した。学習動画がたくさんアップされているから。それに、グラフィックデザインもユーチューブで学んだ」とモンレアルは語っている。「写真家になりたいかはともかく、写真の撮り方は勉強したいと思っていた。そこで、いろいろ動画を見て、写真を撮れるようになった……強い忍耐心は必要。でも、辛抱強く取り組みさえすれば、無料で学習できる。(コンテンツが)体系立てて整理されているとは言えないけれど、本気で学ぼうと思えば学ぶことができる」

習得すべきスキルがはっきりしていれば、独学で十分だ。何を学ばなくてはならないかがよくわかっていない場合、漫然とリカレント教育を受けても時間とお金の無駄でしかない。このハードルを越えないかぎり、成人後教育をビジネスにする試みが成功するのは難しいだろう。

「入社年齢を多様化する」ことと「引退と生産性に関する考え方を変える」

人生100年の時代には、労働者の働き方だけでなく、企業の雇用形態も大きく変わらざるを得ない。そのなかでも重要なのは、「入社年齢を多様化する」ことと「引退と生産性に関する考え方を変える」ことだと著者たちはいう。必要な人材を年齢にかかわらず中途で採用し、定年を決めずに、双方にメリットがあるかぎり何歳になっても働けるようにするのだ。

こうした理想はしばしば日本でも口にされるが、それが一向に進まないのは、「新卒一括採用、年功序列、(定年までの)終身雇用」という日本的雇用制度と真っ向から対立するからだ。

小泉政権以降、この国では「日本的雇用が日本人(男だけ)を幸福にしてきた」として、右も左も、ありとあらゆる働き方改革の試みに「ネオリベ」のレッテルを貼って罵詈雑言を浴びせ、「雇用破壊を許すな」と大合唱してきた。

だがいまや、「日本的雇用こそが諸悪の根源」であることが、誰に目にも明らかになってきた。これは何度も書いたので繰り返さないが、「素晴らしき日本的雇用」は、「正規/非正規」「親会社/子会社」「本社採用/現地採用」などの重層的な差別のうえに成り立っている。労働組合をはじめ、この国の「リベラル」を自称するひとたちは、自分たちの既得権を守るためにこの「不都合な事実」をずっと隠蔽してきたのだ。

とはいえ、「日本的雇用(メンバーシップ型)」を破壊して世界標準のジョブ型の働き方に変えたとしても、なにもかもうまくいくわけでなない(ジョブ型の雇用制度の方がはるかにリベラルなのは間違いないが)。

アメリカでは法律によって年齢差別が禁止され、定年もないが、45歳を過ぎると有給の職を退くひとが増えはじめる。多くは自発的に引退しているわけではなく、仕事を失ったあとに求職の意欲をなくし、「失業者」にカウントされなくなったのだ。その結果、雇用されている男性の割合(労働力率)は大恐慌時代を下まわっているという。

法的に年齢差別が禁止されていても、誰を採用するかは雇用主の自由だ。アメリカでも中高年の再就職は難しく、62歳を超えている大卒者が失業して2年以内に再就職できる割合は50%だ(25~39歳の大卒者は80%超)。2017年(コロナ前)のデータでは、55歳を超えて職探しをしているアメリカ人の3分の1以上は失業状態が6カ月以上続いていた。

働くことをあきらめたのは高齢者だけではない。アメリカでは、25~64歳の男性の8人に1人が有給の職に就いていない。他の先進国も似たようなもので、オーストラリア、フランス、ドイツでは、やはり現役世代の男性の10人に1人が働いていない(日本はこの年齢の男性の労働力率は95%前後)。

こうした状況を見ると、著者たちのいう「社会的発明」が見つかる前に、すでに多くの労働者が高度化する知識社会から脱落しはじめているようだ。これが昨今の欧米社会の混乱・動揺の背景にあることも間違いない。

だったら、それに対して政府はなにをすべきなのか。著者たちが提案するのは、北欧型の「フレキシキュリティ(フレキシブル=柔軟+セキュリティ=安全)」で、「採用も解雇も同じくらい簡単におこなえるが、失業した人には手厚い失業手当に加えて、教育の機会が用意されて再就職が後押しできるようになっている」社会だ。これが「ネオリベ型福祉国家」で、国家による一定の支援の下に、一人ひとりが「自己責任」でキャリアをつくることが求められる(国家が国民の生活の面倒を見てくれるわけではない)。

もちろん、これだけでは社会に適応できないひとたちが膨大に生まれることになる。そこで著者たちは、すべての国民に毎月一律の現金を給付するUBI(ユニヴァーサル・ベーシックインカム)を提案する。

UBIについてはすでに言い尽くされており、私はそれが実現可能とは思わないが、『LIFE SHIFT』の著者たちをもってしても、いまのところこれくらいしか提案できることがないということなのだろう。

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京アニ事件でこそ死刑廃止を議論すべき理由 週刊プレイボーイ連載(592)

36人が死亡した京都アニメーション放火事件の被告に地裁で死刑判決が下されました(その後、被告側が控訴)。裁判では被告が孤立していく過程が明らかになり、「誰もが自己実現を目指さなければならない」というリベラル化する社会の矛盾が浮き彫りにされましたが、この問題についてはすでに別のところ(『無理ゲー社会』)で書いたので、今回は死刑制度について考えてみたいと思います。

広く知られているように世界の大半は死刑を廃止し、OECD38カ国のなかで死刑制度存置国はアメリカ、日本、韓国のみとなりました。死刑執行が圧倒的に多いのは中国、イラン、サウジアラビアの3カ国で、それ以外の国は徐々に執行数が減っており、この流れは今後も変わらないでしょう。

日本で死刑制度の議論がこじれるのは、リベラルが「いのちは大切だ」と唱えて廃止運動を行なってきたからです。そうなると当然、「理不尽にいのちを奪われた被害者はどうなるのか」という話になり、収拾がつかなくなってしまいます。

ここで指摘したいのは、死刑廃止を推進するのはアムネスティのような人権団体だとしても、死刑を廃止した国がみな「リベラル」というわけではないことです。移民問題で混迷する欧州では近年、排外主義の右翼政党が勢力を伸ばしていますが、だからといって「死刑制度を復活させろ」とは誰も主張しません。

ここからわかるのは、制度の廃止までははげしい対立があったとしても、いったん廃止すると、保守派も含めて誰も元に戻そうとは思わないことです。檻に閉じ込められた動物は、じゅうぶんな食事を与えられていても弱って死んでしまいます。だとしたら、死刑よりも生涯にわたって収監するほうが重い罰かもしれません。

日本では死刑が「極刑」とされているため、死刑に反対すると「加害者を許すのか」と反発されます。ところが2008年、仮釈放のない終身刑を導入するとともに、死刑の執行を一定期間停止するという議論を超党派の国会議員が始めたとき、死刑存置派の元法務大臣は「人を一生牢獄につなぐ刑は最も残酷ではないか」として反対しました。ここでは、死は苦しみから逃れるための「恩寵」とされています。

死刑が犯罪の抑止になるという主張は、死刑廃止国で殺人などの重罪が増えていないことから、いまでは否定されています。そればかりか日本では、「自殺する勇気がない」という理由で死刑を目的とする凶行が相次いでます。被害者の処罰感情が理由にあげられますが、死刑に処してしまえば「なぜあんなことをしたのか」と問うこともできません。

平成から令和の変わり目でオウム真理教事件の死刑囚7名の刑が執行されたように、日本では死刑は「けじめ」であり、被害者遺族に対して「加害者は死んだんだから、不愉快なことをこれ以上蒸し返すな」という社会的圧力に利用されています。

京アニ事件の被告は、裁判での供述をみるかぎり、自分がなにをしたか理解できているようです。だとしたら死刑によって罪から「解放」するのではなく、生涯にわたって自らの罪と向き合わせるという“懲罰”もあり得るでしょう。

これまでの死刑廃止運動は、冤罪事件や、そうでなければ死刑囚が自らの過去を悔い、文学作品を発表するような特殊な例を好んで取り上げていました。しかしこれでは、死刑に対する社会の価値観を変えることはできないでしょう。

京アニ事件のような「誰一人擁護できない犯罪」でこそ、死刑について真剣に議論すべきなのです。

参考:「「終身刑」の創設」加速」朝日新聞2008年6月5日

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