バチカン市国「神の資金」を扱う闇の男たち(後編)

ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載していくことにします。

今回は2013年10月公開の記事です。(一部改変)

バチカン市国「神の資金」を扱う闇の男たち(前編)

Marco Iacobucci Epp/Shutterstock

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1979年3月20日、政治情報誌を発刊する弁護士兼ジャーナリストのミーノ・ペコレッリが自宅前の駐車場の車の中で死んでいるのが発見された。口の中に拳銃が突っ込まれ、2発撃たれていた。「オルメタ(沈黙)の掟」を破った者に対するコーザ・ノストラの死の制裁だった。

“処刑”されたペコレッリは、リーチョ・ジェッリという右翼のフィクサーから情報提供を受け、政財界の裏情報を記事にして小金を稼いでいたが、1978年5月に起きたアルド・モーロ元首相の誘拐・暗殺事件に同じキリスト教民主党の大物政治家ジュリオ・アンドレオッティ元首相が関与しているとの暴露記事を発表してイタリア社会を激震させた。

ジェッリはその当時、「P2」という秘密組織を運営していた。ペコレッリがこの“スクープ”を手に入れたのは彼自身もP2のメンバーで、アンドレオッティがP2会員であることを知っていたからだ。

ペコレッリは同じ時期にもうひとつ、超弩級のスクープ記事を書いている。彼がジェッリを裏切ったのは口止め料を強請るためだといわれているが、この記事がイタリア現代史を大きく動かすことになる。

ペコレッリは、独自に調べたバチカン内のP2会員100人の名簿を雑誌に掲載したのだ。問題は、このP2がフリーメーソンの秘密組織であり、バチカンは理神論のメーソンを異端として否定していたことだった。

フリーメーソンの巨大ネットワークをつくったリーチョ・ジェッリ

リーチョ・ジェッリはイタリアの右翼活動家で、ムッソリーニ率いるファシスト党の民兵組織・黒シャツ隊としてスペインのフランコ政権を支援し、第二次世界大戦後はネオファシストと呼ばれたイタリア社会運動党の創設に参加し、幹部として活動した。反共主義者としてジェッリは、アメリカやイギリスの情報部に協力して共産党への謀略を仕掛けると同時に、ナチスドイツ戦犯の南米への逃亡を支援している。

ジェッリは1963年、フリーメンソンのグランドロッジ「イタリア大東社」に入会すると、かつての有力支部「プロパガンダ」の再建を目指して「プロパガンダ2」略称「P2」を結成した。

当時のイタリアは左翼政党が勢力を伸ばし、共産主義政権誕生の“危機”に晒されていた。ジェッリは退役した高級将校を通じて軍の上層部に食い込み、「極右勢力の大同団結」を旗印に組織を拡大した。これには、NATOの一員であるイタリアの共産化に備え軍部によるクーデターを準備していたCIAからの積極的な支援があったとされる。

ジェッリはP2入会にあたって、忠誠の証として他の有力者の秘密を明かすよう求めた。それは有力者を脅し、会員に誘い込むための魔法の鍵だった。

P2の会員は2000名といわれ、陸軍司令官、秘密警察首脳、国税局長、閣僚、共産党をのぞく各政党の有力者、将軍・提督、新聞社・テレビ局の首脳、実業界・金融界トップなど、イタリアの有力者のほとんどが名を連ねていたが、その全貌を把握しているのはジェッリ一人だった(後にイタリア首相となるメディア王シルヴィオ・ベルルスコーニもP2会員だった)。

「人身掌握術の天才」といわれたジェッリは10年あまりでP2のネットワークを世界に拡大させ、アルゼンチン、ブラジル、パラグアイ、ボリビア、コロンビア、ベネズエラ、ニカラグアなど中南米諸国の軍事独裁政権と手を結んだ。ジェッリと南米の独裁者たちをつないだのは、戦犯訴追を逃れて南米に渡りアルゼンチン軍やボリビア政府などの軍事顧問になっていた旧ナチスドイツの幹部たちだった。

P2会員には、ニューヨークマフィアのボス、ラッキー・ルチアーノらと通じるシチリアの銀行家ミケーレ・シンドーナなどもいた。ジェッリは彼らと組んで南米の麻薬をアメリカに持ち込むと同時に、“死の商人”として軍事政権や反共組織のために武器調達を請け負った。シンドーナは「バチカン銀行」総裁ポール・マルチンクス司教の信頼を得て、ローマ教皇庁の財務顧問に就任していた。

シンドーナの金融帝国が破綻したあと、この利権はカトリック系アンブロジャーノ銀行の頭取ロベルト・カルビヴィに引き継がれた。カルヴィももちろんP2会員で、カリブ海のタックスヘイヴン、ナッソーにアンブロジャーノ・オーバーシーズ社を設立し、その経営陣にマルチンクス司教を迎えてバチカンとの関係を一体化させていった。

バチカン銀行は、ジェッリ、シンドーナ、カルヴィらP2のネットワークに深く侵食されていた。

バチカンとP2の闇を暴こうとする者は殺されていく

キリスト教民主党党首のアルド・モーロが殺害された3カ月後の1978年8月、北イタリアの山間の貧しい村で生まれたアルビーノ・ルチアーノが教皇ヨハネ・パウロ1世に選出された。清貧を旨としバチカン銀行の金融ビジネスを快く思っていなかった新教皇は、就任直後にP2の会員名簿を暴露したミーノ・ペコレッリのスクープ記事を目にすることになる。

カトリックの総本山であるバチカンに100名ものP2会員がいるというのは、パウロ1世にとって衝撃的な事実だった。

フリーメーソンは理神論と啓蒙主義を奉ずる団体で、カトリック教会ではその教義は異端とされ「悪魔の子」と呼ばれてきた。教皇クレメンス12世はフリーメーソンを破門に処し、ベネディクト14世は「教会法」のなかにフリーメーソンを禁止する条項を書き加えている。それにもかかわらずペコレッリの名簿には、枢機卿や司教など高位聖職者の名前が並んでいた。

たとえば教皇に次ぐ実力者であるバチカン市国の国務長官は、メーソン名「ジャンニ」、登録番号「041/3」と記されていた。バチカン銀行総裁のマルチンクス司教も、取引相手であるシンドーナやカルヴィらとともにP2会員だとされていた。

新教皇はバチカンからフリーメーソンを一掃しようと決意し、国務長官とバチカン銀行総裁の解任を決めた。だがパウロ1世の改革は実を結ぶことはなかった。

教皇就任から33日後の9月29日早朝、パウロ1世はバチカン宮殿の一室で、ベッドの上に座り、手に書類を持ったまま息絶えていた。遺体はなぜか解剖も行なわれぬままあわただしく埋葬された。

その後、イタリアはテロの恐怖に震えることになる。

教皇ヨハネ・パウロ1世の不可解な死から4ヶ月後の79年1月21日、バチカンが関与する不正な金融取引を調査していたイタリア検察庁のアレッサンドリーニ検事は、車で子どもを学校に送ったあと、信号待ちをしているときに、近づいた5人の男に銃を乱射されて死亡した。「プリマ・リネア」と名乗る極左組織が犯行声明を出したが、テロの理由は判然としなかった。

同年7月11日、ミラノの弁護士ジョルジョ・アンブロゾーニが自宅の玄関で、至近距離から胸に4発の銃弾を浴びで死亡した。アンブロゾーニはシンドーナの銀行の清算人に指名され、乱脈経営や不正経理の内情を裁判で証言したばかりだった。アンブロゾーニを殺したのはアメリカからやって来た殺し屋で、ジュネーブのクレディ・スイスの口座にはシンドーナから10万ドルが振り込まれていた。

その2日後の13日、ローマ治安警察のアントニオ・バリスク中佐が、車を運転中、白のフィアットからショットガンを撃ち込まれて即死した。こちらは極左組織「赤い旅団」が犯行声明を出した。バリスク中佐は独自に捜査中の事件のことで、7月9日に弁護士のアンブロゾーニを訪ねていた。

8日後の21日、シチリア島パレルモで警察次長ボリス・ジュリアーノが銃撃を受け死亡した。コーヒー店で朝食を済ませ、レジの前に立っていたジュリアーノは、近づいてきた男に拳銃6発を撃ち込まれたのだ。ジュリアーニもまた、7月9日にアンブロゾーニとミラノで会っていた。

一連の事件の意味は、関係者であれば誰でも知っていた。バチカンとP2の闇を暴こうとする者は、片っ端から殺されていくのだ。

バチカンは軍事政権を支援していた

教皇の不可解な死の直後から、欧米の多くのメディアがバチカン銀行とP2の関係に焦点を当てた。その闇は深いが、ジェッリ、シンドーナ、カルビなどがバチカンを舞台に行なっていたのは、おおよそ次のようなことだとされている。

P2のネットワークを通じて中南米の軍事政権に強固な人脈を築いたジェッリは、麻薬資金を洗浄するための大規模なマネーロンダリング装置を必要としていた。それにもっとも好都合なのが、“主権国家”バチカンだった。

ローマの中心部からバチカンに行くにはテヴェレ川を越えるだけで、検問も出入国手続きもない。犯罪で手に入れた資金をスーツケースに詰めて「バチカン銀行」の貸金庫に預けてしまえば、それだけでイタリアの捜査当局は手を出せなくなる。こうした犯罪収益はバチカン銀行の運用資金といっしょにスイスなどのタックスヘイヴンに送金され、マネーロンダリングされた。シンドーナとカルヴィは、この資金洗浄装置を動かすためにバチカンに送り込まれたのだ。

ではなぜバチカンは、このような犯罪行為に手を貸すことになったのだろう。

その背景には、冷戦時代の世界情勢がある。当時、カトリック教会の最大の敵はマルクスレーニン主義であり、バチカンのお膝元であるイタリアですら共産化の脅威に晒されていた。そのためバチカンは、マネーロンダリングから10~15%の手数料を徴収し、その収益を全世界のカトリック教会に分配すると同時に、反共組織や右翼団体を秘密裏に支援していた――こうした取引はアメリカの暗黙の了解のもとに行なわれていた。

その当時、軍事政権による人権抑圧に苦しむ中南米を中心に、先進的なカトリック神父が「解放の神学」を唱え反政府運動を展開した。だがバチカンはこうした運動をレーニン的革命主義として否定するばかりか、軍事政権に武器の購入資金を与えていた。バチカンはCIAやマフィアと「反共」の理念で完全に一致していたのだ。

不審死を遂げたヨハネ・ハウロ1世の跡を継いだのはカロル・ポイティワで、ヨハネ・パウロ2世を襲名した。だがポーランド出身のこの教皇は、バチカン銀行の不正をただすことなく、すべてを知るマルチンクス司教を司直の手から守った。バチカンの名が傷つくのを恐れたと同時に、マネーロンダリングの利益からポーランドの民主化運動「連帯」に1億ドルを超える援助が行なわれていることを知ったからだとされる。

バチカン銀行はマネーロンダリング装置

1982年6月、ロンドンのテムズ川にかかるブラックフライヤーズ橋で奇妙な首吊り死体が発見された。橋から突き出した鉄パイプにロープがくくりつけられ、背広のポケットには、米ドルやスイスフランなど多額の現金と偽造パスポートのほかに、大きな煉瓦片が押し込まれていた。

死体は口ひげを落とし、両足はテムズの川面に届いていた。ロンドン警察は死亡したのがアンブロジャーノ銀行頭取のロベルト・カルヴィだと発表し、事件は自殺として処理された。カルヴィは当時、パスポートを没収されてイタリアから出国することができなかったはずだが、そのことは問題とされなかった。

1986年3月、イタリア、ヴォゲーラの重屏禁刑務所でミケーレ・シンドーナが死亡した。シンドーナは女囚刑務所の特別独房に収用され、窓には防弾ガラスが嵌め込まれ、国防省から派遣された特殊護衛官と監視用カメラに守られていた。シンドーナが死の直前に飲んだコーヒーからは致死量の青酸カリが検出されたが、事件はやはり自殺として処理された。

世界を震撼させたP2事件のあと、バチカン銀行の闇は払拭されたのだろうか。

2009年にイタリア金融当局は大手銀行ウニクレディトを利用して1億8000万ユーロをマネーロンダリングした疑いでバチカン銀行を調査した。銀行には、カトリックの慈善団体などの名義で複数のオフショア口座が開設されていた。

2010年9月、イタリア警察は2300万ユーロを差し押さえるとともに、バチカン銀行の責任者であるエットレ・ゴッティ・テデスキがマネーロンダリングの調査対象になっていることを発表した。それに続いてイタリア中央銀行もバチカン銀行の疑わしい取引を指摘したが、バチカン側は資金の源泉を公開しなかった。

2012年5月、大手銀行JPモルガン・チェースはマネーロンダリングの疑いで同行にあるバチカン銀行の口座を閉鎖した。それと前後してバチカン銀行トップのゴッティ・テデスキが解任されている。

さらに2013年6月には、スイスからイタリアに4000万ユーロを無申告で運び込もうとした司祭がイタリア捜査当局に逮捕された。この司祭がバチカン銀行幹部と頻繁に連絡をとりあっていたことが盗聴で判明したことから、ローマ教皇庁はバチカン銀行の幹部2人を更迭した。

イタリアの裏社会とバチカンとの関係はいまもなお続いているのだ。

参考文献:デイヴィッド・ヤロップ『法王暗殺』徳岡 孝夫 訳/文藝春秋
ジャンルイージ・ヌッツィ『バチカン株式会社 金融市場をかす神の汚れた手』 竹下・ルッジェリ・アンナ訳/花本知子・鈴木真由美訳/柏書房

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