ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載していくことにします。
今回は2020年4月23日公開の「「個人差あるところ、遺伝あり」 行動遺伝学というラディカルな学問によって 従来の心理学は危機を迎えている」です。(一部改変)

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行動遺伝学は一卵性双生児や二卵性双生児など「ふたご」を調べることで、こころが遺伝や環境によってどのように影響されるのかを明らかにする学問だ。なぜふたごかというと、一卵性双生児はすべてのDNAを共有し、二卵性双生児は同じ胎内環境で育ちながらも、ふつうのきょうだいと同様に平均して半分のDNAを共有するため、両者を比較することで遺伝と環境を分離できるからだ。
最初にこのことに気づいたのはダーウィンのいとこで「統計学の祖」でもあるフランシス・ゴルトンだったが、そのゴルトンが優生学を唱えたことで、行動遺伝学はそれ以来、アカデミズムのなかでずっと偏見にさらされつづけることになった。
ゴルトンの生きた19世紀は遺伝と進化の仕組みが徐々に理解され、「神がヒトをつくったわけではない」という“驚くべき事実”が知識層のあいだで広まっていった。それとともに、植物や家畜の交配によって「(人間にとって)よりよい種」をつくるさまざまな試みが大きな成果をあげた。そんな時代背景を考えれば、啓蒙主義時代の大知識人だったゴルトンが「交配によってすぐれた人類をつくる」という「リベラル」な理想を掲げたのは当然だった。
だがこの試みはその後、ナチスによってグロテスクに実践され、第二次世界大戦後、人間に対する遺伝の研究は冬の時代を迎えることになった。そんな逆境のなかでも1960年代になると、双生児を対象とした遺伝の研究が復活する。アメリカのアカデミズムで勃発した「社会生物学論争」というイデオロギー闘争を経て、ヒトゲノム計画が始まった90年代以降は大量の研究論文が発表され、行動遺伝学はいまや分子生物学や進化論、脳科学などと融合して「人文科学(人間や社会についての理解)のパラダイム転換」を牽引している。
私はこれまで『言ってはいけない 残酷すぎる真実』(新潮新書)などで行動遺伝学の知見を紹介してきたが、その理由は、この「科学」が従来の心理学を根底から書き換えることを迫っているからだ。たとえば、母と子どもの幼児期の関係が将来に決定的な影響を与えるという「愛着理論」は、近年の心理学のなかでもっとも有名になった学説だが、行動遺伝学の知見に照らすとその科学的基盤はきわめて疑わしい。
そこで今回は、日本における行動遺伝学の第一人者である安藤寿康氏の『「心は遺伝する」とどうして言えるのか ふたご研究のロジックとその先へ』(創元社)から、このラディカルな学問がどのように心理学の常識を覆しつつあるのかを見てみたい。
あらゆる行動には有意で大きな遺伝的影響がある
行動遺伝学を語るときに欠かせないのは、2000年にエリック・タークハイマーが発表した「3原則」だ。
第1原則 ヒトの行動特性はすべて遺伝的である
第2原則 同じ家族で育てられた影響は遺伝子の影響より小さい
第3原則 複雑なヒトの行動特性のばらつきのかなりの部分が遺伝子や家族では説明できない
行動遺伝学がしばしば「遺伝決定論」だと誤解されるのは、第1原則しか見ていないからだ。とはいえ、身長や体重、外見などと同様に知能や性格が(ある程度)遺伝するというのは一般のひとにとっては常識で、なにも驚くようなことではないだろう。遺伝の影響を全否定して(あるいは、存在することを知っているのにあえて見ないことにして)「環境決定論」を唱えてきたこれまでのアカデミズムが異常なのだ。
行動遺伝学が世間の常識を裏切り不愉快にさせるのはじつは第2原則で、ここでは「子育ては遺伝の影響よりずっと小さい」とされる。もちろんすべてが遺伝だけで説明できるわけではなく、それが第3原則で、こころの形成には遺伝でも家庭環境でも説明できない要因があることを示している。
行動遺伝学はこころを「遺伝」「共有環境」「非共有環境」で説明する。共有環境は「家族が共有し、家族のメンバーに類似性をもたらす」環境のことで、一般的には子育てだとされる。非共有環境は「家族で共有せず一人ひとりを独自にさせる」環境で、遺伝とともに個性(一人ひとりのちがい)を生み出す。
「非共有環境とはなにか」はずっと議論の種になっており、一種のブラックボックスとして扱われてきた。近年、遺伝学で大きな話題になっているエピジェネティクスがこの非共有環境(の一部)を説明することはすでに述べた。
安藤氏は、「「個人差あるところ、遺伝あり」は、もはや人間の行動について考えるときのデフォルトの前提」だと述べる。これは、「まだ科学的データがない場合でも、とりあえずの出発点として考えておいてよい前提」という意味だ。
私たちは「氏が半分、育ちが半分」などといいながら、無意識のうちに遺伝の影響を過少評価している。だが遺伝は、私たちの人生のほぼすべての領域に及んでいる。
「そんなことはない。たとえば方言はどうなんだ?」との反論があるかもしれない。もちろん、大阪弁をしゃべるのは生まれ育った環境によるものだろう。しかしこのひとが東京で生活することになったとき、標準語を話すようになるか、そのまま大阪弁を使うかには遺伝的要因がかかわっているとして、安藤氏は次のようにいう。
もし遺伝的要因がまったく反映されない行動特性、つまり環境のちがいだけで個人差の説明がつくような行動特性が見つけだされたとしたら、むしろそのほうが例外であり大発見である。
行動遺伝学のもっとも重要な知見は「あらゆる行動には有意で大きな遺伝的影響がある」で、このことを私たちはつねに頭に入れておかなくてはならない。
因果関係と相関関係の混同
発達心理学や教育心理学など、従来の心理学は「こころの発達に環境が与える影響」の解明に膨大な努力を傾けてきた。「親が読み聞かせをすると子どもの知能は高くなる」「家にたくさん本のある家庭の子どもは国語の成績がいい」などは、いまでは常識と呼べるほどによく知られている。
だがここには、統計学でいう「因果関係と相関関係の混同」がある。本の冊数と子どもの国語の成績に相関関係があったとしても、「本に囲まれて育つと言語的知能が高くなる」という因果関係があるかどうかはわからない。「たくさんの本を読む親は言語的知能が高く、それを遺伝的に受け継いだ子どもも国語の成績がいい」という解釈もできるからだ。
読み聞かせの場合には「因果の方向性」の問題が生じる。「読み聞かせをすると言語的知能が発達する」のではなく、「遺伝的に言語知能が高い子どもが物語に夢中になり、親が熱心に読み聞かせをするようになる」という逆の因果関係でも説明可能だ。
親の子どもへの体罰を禁止する改正児童虐待防止法の施行に先立ち、厚生労働省は19年12月に指針案をまとめ、体罰を「身体に苦痛、不快感を与える罰」と定義したうえで、しつけ目的だったとしても「身体に苦痛や不快感を引き起こす行為はどんな軽いものでも法律で禁止される」と規定した。
もはやしつけ目的の体罰が許される時代ではないのは当然だが、ここでも子育てにおける一方的な因果関係が前提とされている。「親の虐待によって子どもが反社会的な問題行動を起こすようになる」からこそ、虐待につながりかねない体罰を法で禁止する必要が生じるのだろう。
体罰を容認する意図はないことを念押ししたうえでいうならば、これも「逆の因果関係」を想定することが可能だ。すなわち、「子どもが(遺伝的に)問題行動を起こすから、親の養育態度が体罰を含むネガティブなものになる」のだ。このような説明を不愉快に感じるひとは多いだろうが、親のいうことをなんでもきく「よい子」にきびしいしつけをする必要があるのかは、子育てを体験したひとなら誰でもわかるだろう。
ではどちらが正しいのか。じつは行動遺伝学では、因果の方向性を統計的な手法的で確認できる。そのときに使われるのが「交差時間差デザイン」と「ふたごの子どもデザイン」だ。
交差時間差デザインでは、2つの変数を時間差で交差させて因果関係を調べる。それによると子育ての因果関係は双方向で、親のネガティブな養育態度によって子どもに問題が生じるという「環境の影響」もあるが、同時に、子どもに問題行動を起こす傾向があるから親の養育態度がきびしくなるという「遺伝の影響」も確認された。
ふたごの子どもデザインでは、双子のもとにそれぞれ生まれた子どもを含めたデータから、親から伝達された環境要因と、純粋に子ども独自の環境要因を区別する。そこでも、「経験を引き寄せる遺伝的傾向というものがある」ことが示唆されている。
もちろんこれは、「体罰はしかたがない」とか、「虐待の原因は子どもにある」などと主張するものではない。だが次のことは認める必要があるだろう。発達心理学や教育心理学がこれまで当然の前提としてきた、「子どもは純真無垢で、親の育て方によって人格が形成される」という常識が、はたして「科学」として成り立つかが問われているのだ。
知能の遺伝率は児童期41%、青年期55%、成人期初期66%と上昇する
標準的な発達心理学のモデルは、年齢とともに環境要因が大きくなるという発達観を基礎にしている。生まれたばかりのときは遺伝の影響が大きくても、その後は家庭(子育て)や学校(教育や友だち関係)などの環境要因が大きくなり、遺伝の影響を超えていくのは当たり前なのだ――。
だが行動遺伝学は、いまやこの「常識」を覆しつつある。すくなくとも知能の発達においては、「過去30年を超える研究の蓄積からみるかぎり、発達全体を通じて遺伝率が上昇する傾向にあることが、文化を超え、またふたご研究だけでなく養子研究からも支持されている」のだ。
1万組を超す双生児研究では、知能の遺伝率は児童期41%、青年期55%、成人期初期66%と上昇することが示された。成人期後期には知能の遺伝率は80%にも上るという報告すらある。
より詳細に調べると、知能の遺伝率は青年期のはじめまで急激に上がり、その後は安定する。その一方で共有環境の影響は子ども期にはある程度あるがその後は減少し、非共有環境の影響は生涯を通じて安定して少ないという。
共有環境を「子育て」だとすると、世の親がなぜ「お受験」や「幼児教育」に夢中になるのかがわかる。子どもが幼いときは遺伝率が低く共有環境の影響が相対的に大きい。すなわち、子育ての効果が見えやすい。親の努力によって、子どもを名門幼稚園や一流私立小学校に入れることは(ある程度は)可能なのだ。
だが子どもが思春期になるにつれて遺伝の影響が大きくなっていくため、親がどれほど子どもに影響を与えようとしてもどんどん効果がなくなっていく。ほとんどの努力は無駄に終わるのだ。――これについては実感として理解できる親も多いだろう。
なぜこのようなことになるのか。安藤氏は「人間は生まれてから青年期が終わるまでの学習の期間、学習すればするほど、環境によって遺伝的素質が薄められるのではなく、むしろ環境を介して自らの遺伝的素質を形にしていくようである」と述べる。学校教育は「知能の格差」を縮小させるのではなく、それぞれの子どもが自らの遺伝的適性を発見することで、むしろ「知能の格差」を拡大させるのだ。
興味深いのは、青年期から成人期にかけての問題行動(非行のような「外在化問題」や不登校のような「内在化問題」)には、知能と同様に遺伝率の発達的上昇傾向が見られるものの、パーソナリティ(性格)では遺伝の影響は児童期から青年期にかけて減少し、非共有環境がやや上昇気味になることだ。教育格差の大きなアメリカでは、マイノリティや貧困層の子どもの学習を支援するよりも、堅実性(自己コントロール力)のような将来の社会的・経済的成功につながるパーソナリティを訓練する方向に変わってきているが、これも遺伝と発達の関係から説明できる。児童期を過ぎれば知能の遺伝率は急速に高まるが、性格は環境による外部からの関与がまだ可能なのだ。
このように知能と性格(パーソナリティ)では発達における遺伝/環境の影響は異なるものの、青年期を過ぎるといずれも安定するのは同じだ。これは要するに、「大人になるとひとは(ほとんど)変わらない」ということでもある。パーソナリティ障害、ひきこもり、不安やうつも「生まれてから成人までの間に徐々に発現し、その後おおむね安定する」とされる。
こうした発達の特徴はじつはチンパンジーも同じで、霊長類学者のフランス・ドゥ・ヴァールによれば、子どもの頃は柔軟だったチンパンジーたちは成長とともに頑固になり、青年期にいったん性格が固定するとそれ以降は変わらないという。だとすれば、これは進化の仕組みなのだろう。
遺伝率上昇の原因としては、ひとつの遺伝要因の影響力が徐々に大きくなる「遺伝的増幅」と、発達とともに新しい遺伝的要因が加わっていく「遺伝的革新」が考えられる。研究によると、「児童期の間は革新が増幅を上回るが、児童期が終わるとそれらは逆転し、発現した遺伝的影響が増幅される傾向が高まる」とされる。
近年の行動遺伝学のさまざまな知見から、ひとの成長=発達の一般的なパターンが明らかになった。知能やパーソナリティなどの「表現型」の安定には遺伝が関与し、変化はそのときどきの(エピジェネティクスを含む)非共有環境が関与する。そして「共有環境=子育て」の影響がきわめて小さいことが再確認された。
こうしてみると、従来の心理学がなぜ行動遺伝学を忌避するのかがわかる。ひとたびその知見を受け入れたなら、発達心理学や教育心理学の教科書は最初のページから書き直さなくてはならず、多くの心理学者は失職してしまうのではないだろうか。
「肥満遺伝子」や「知能遺伝子」があるわけではない
遺伝についてのよくある誤解は、ある特定の遺伝子によって形質=表現型が決まるというものだ。
だがじっさいには、ハンチントン病や鎌形赤血球症のように単一の遺伝子によって引き起こされる疾患はごく一部でしかない。こうした病気は、「(原因となる)潜性遺伝子を2つもっている(ホモ接合)」か「潜性遺伝子をもっていない」あるいは「1つだけもっている(ヘテロ接合)」かで発症するかどうかが決まる。いわば、ゼロか1かのデジタルだ。
それに対して、身長や体重から知能、性格、精神疾患まで、ほとんどの形質=表現型は正規分布する。これはベルカーブのことで、平均的な個体がもっとも多く、プラス方向にもマイナス方向にも極端になるほど頻度は小さくなる。
特定の遺伝子(正確には1対の対立遺伝子=アレル)の効果がはっきり見える表現型がメジャージーン(主遺伝子)で、数多くの遺伝子がかかわるのがポリジーン(多因子遺伝)だ。
安藤氏は、「一般に正規分布するような形になるものは、数多くの要因がランダムにかかわっている。数多くのランダムに伝わる遺伝子(ポリジーン)に加え、数多くのランダムな環境要因からなっている」と述べる。これは「肥満遺伝子」や「知能遺伝子」を発見することはできず、存在するのは肥満や知能に関係する多数の遺伝子群だということだ。ポリジーンとは、「まだ特定されていない「無名の」関連遺伝子の効果の総体」なのだ。
近年の分子遺伝学の急速な進歩によって、こうした「遺伝子群」を特定しようとするさまざまな試みが行なわれるようになった。全ゲノム複雑形質分析(GCTA)、量的形質遺伝子座(QTL)、全ゲノム連鎖解析(GWAまたはGWAS)など、いずれも10年前には想像すらできなかったテクノロジーだろうが、それですら数個で遺伝率30~50%を説明する効果量の大きな遺伝子は見つかっていない。「かろうじて突き止めた候補遺伝子あるいは候補SNP(一塩基多型)も、その一つひとつの効果量は1%にも満たず、すべてを足し合わせてもふたご研究が示す遺伝率に遠く及ばない」のだ。
さらに、最新の分子遺伝学の手法を駆使しても、知能、言語能力、精神病理、パーソナリティ、薬物依存などで、双生児研究が明らかにした遺伝率のおよそ3分の1から半分までしか説明がつかない。残りの半分から3分の2は、「一つひとつの遺伝子の効果の和として説明できない、遺伝子間同士の交互作用や遺伝と環境との交互作用の効果」ということになる。これが「失われた遺伝率(missing heritability)」問題だ。
ポリジーンでは特定の形質を生み出す遺伝子の数は膨大な数に上り、一つひとつの影響力が小さい。それに加えて遺伝子間や環境との相互作用まであるのだから、発達はとてつもなく複雑な過程だ。安藤氏は、「ノーマルな心理・行動的形質の個人差について、少数の遺伝子情報で精度の高い説明や予測ができるという楽観論はもはや成り立たない」と結論する。
興味深いのは、ポリジーンの世界では優生学が否定されることだ。
ネズミが単位時間にどれぐらいの距離を走り回るかを「活動性」という。「ネズミの優生学」では、活動性の高い(低い)オスとメスの個体同士を長期にわたって交配させつづけた。これによってたしかに「遺伝的に活動性が高いグループ」と「活動性が低いグループ」が生まれたが、ぞれぞれのグループ内の分散(ばらつき)は最初よりも大きくなったという。
これをヒトにあてはめるなら、ゴルトンが構想したように優秀な男女だけを選択して「交配」すれば、全体として(平均的には)以前より知能の高い集団ができるだろうが、そのなかの分散、すなわち「知能の格差」はさらに大きなものになる可能性がある。これは知能が(他の多くの形質と同様に)ポリジーンだからで、「知能遺伝子(主遺伝子)」がない以上、クリスパー・キャス9のようなゲノム編集で高知能の「デザイナーズヘイビー」を誕生させるという試みは上手くいかないのではないだろうか。
運は遺伝する
行動遺伝学はずっと「遺伝決定論」と批判されてきたが、これまで見てきたように、それは遺伝と環境(共有環境と非共有環境)の影響を双生児研究を土台に統計的に計量する科学だ。それに対して従来の心理学は、遺伝の影響をはなから認めない「環境決定論」か、遺伝の影響を統制せずに環境のみを原因と見なす「似非科学」ということになる。
その心理学では、最近になって「再現性」が大きな問題になっている。「心理学実験 再現つまづく」(日本経済新聞2019年12月15日)の記事によると、心理学の教科書にかならず掲載されるような有名な実験――そのなかには「目の前のマシュマロを我慢できる子は、高い学力などを身につけ社会的に成功する」という「マシュマロ実験」、被験者を看守役と囚人役に分けて大学内につくった模擬的な監獄に閉じ込めて心理的変化を追跡した「監獄実験」などが含まれる――を検証してみると、同じ結果が再現できない事態が相次いでいるという。その原因としては、「捏造」とまではいえないものの、「望む結果が出るまで実験を繰り返したり、結果が出た後に仮説を作り変えたりする操作が容認されていた背景がある」とされる。
安藤氏も、教育心理学では必ず紹介される「ピグマリオン効果」(教師が、この生徒は優秀だと確信をもって指導にあたるとその子の成績はほんとうによくなる)の検証では、「全体としては、確実な効果があるとはいえない、すなわち「効果なし」ということになった」と指摘したうえで、行動遺伝学ではこのような再現性の問題は起きていないと述べる。
行動遺伝学の頑健さの理由はいくつかあるが、そのなかからひとつ挙げるとすれば、「これまでずっと“科学の名を借りた差別”だと批判されてきた」ことだろう。行動遺伝学者はアカデミズムのこうした偏見とたたかい、他の分野の学者たちの疑いを晴らすために、双生児を対象に膨大な研究を積み上げてきた。こうして、徹底的に検証され再現された結果だけが残ったのだ。
それに対して心理学では、「リベラル」なイデオロギー(ポリティカル・コレクトネス)に合う研究(「幼児期の母子の愛着が子どもの人格を形成する」など)が無条件に受け入れられてきた。そのためじゅうぶんな検証がなされてこなかった問題が、ここにきて顕在化したのではないだろうか。
では最後に、行動遺伝学が明らかにした驚くべき知見を紹介しよう。
2500人あまりを対象にした双生児研究では、人生におけるストレスフルな体験の29%が遺伝(SNP)で説明できた。
これだけならとくに意外とは思わないだろう。「ストレスフル・イベント」には離婚や解雇、借金などが含まれ、こうしたトラブルに遺伝がかかわっているのはある意味当然だからだ(つい借金してしまうのは堅実性=自己コントロール力が低いからだろうが、こうしたパーソナリティは遺伝する)。これを「本人に依存するイベント」とするならば、その遺伝率は30%だった。
その一方で、「本人とは独立に生ずるイベント」もある。病気になったり、親しいひとが亡くなったり、強盗に遭うなどはたんに運が悪かっただけで、本人の資質とはなんの関係もないと考えるだろう。だが研究者がその遺伝率を計測したところ26%で、統計的には「本人に依存するイベント」と有意な差はなかった。
このことは、偶然としか思えない出来事にも遺伝が影響していることを示している。たまたまよいことや悪いことが起こったように見えても、そこにはやはり「経験を引き寄せる遺伝的傾向がある」らしい。「運は遺伝する」のだ。
私たちの人生において、遺伝の長い腕は環境にまで延長されているのだ。
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