「表現の自由」とは自分が不愉快だと思う表現を受け入れること 週刊プレイボーイ連載(643)

インターネット上に性的な広告があふれるようになって、子どもの保護の観点から規制を求める声が高まっています。料理レシピのサイトを運営する会社が、「子宮」などの表現を含む性的コンテンツが表示されたとして謝罪する事件も起きました。
日本の刑法には「わいせつ物頒布等の罪」の規定があり、なにが「わいせつ物」にあたるかはこれまでも裁判で争われてきました。

1950年代にはイギリスの作家D・H・ロレンスの『チャタレー夫人の恋人』やマルキ・ド・サドの『悪徳の栄え』がわいせつだとして翻訳者・出版社が起訴され、70年代には永井荷風作とされる『四畳半襖の下張』を雑誌に掲載した有名作家が起訴されたことで、社会的な議論を巻き起こしました(最高裁で罰金刑が確定)。

これらの裁判では、「わいせつ物」は「性欲の興奮・刺激」「性的羞恥心の侵害」「善良な性的道義観念への違反」の三点で判断され、その基準は時代の価値観によって変わり得るとされました。実際、文章表現のわいせつ性は問題とされなくなり、現在はロレンスやサドも無修正版がふつうに流通しています。

ここで押さえておくべきは、国家が「わいせつ物」を取り締まることに強く反対してきたのがリベラルな知識人やメディアだということです。ところが現在は、そのリベラルが国家に表現の規制を求めるという皮肉な事態になっています。

「表現の自由」とは、自分が不愉快だと思う表現を受け入れることです。誰も不快に思わない「表現の自由」なら、北朝鮮にだってあるでしょう。

もちろん、「法に反しないならなにをしてもいい」ということにはなりません。

広告を掲載する側は、どのようなコンテンツなら許可し、どれを許可しないかを決める権限を有しています。どの媒体も、広告収益と社会的評価(読者・視聴者の評判)を天秤にかけて、この判断をしています。

さらには、「エロ本」や「エロビデオ」への批判が高まったことで、業界が自主規制を行なうようになりました。ビデオレンタル店ではアダルビデオのコーナーをカーテンなどで隔離し、エロ本は書店でビニールカバーをかけるか、自販機で売られました。こうしたゾーニングによって、表現の自由と「見たくない権利」はなんとか折り合いをつけてきたのです。

ところが非中央集権的なネットの世界では、海外の業者も含め誰でも広告を出せるため、自主規制の主体となる業界団体が存在しません。また、合法・違法を問わず膨大な量のコンテンツが流入することで、投稿管理(コンテンツ・モデレーション)が機能していないという実態もあります。

このような現実を見れば、国家にできるのはプラットフォーマーに対処を求めることくらいで、法による規制は難しいでしょう。そもそも海外のサイトでは、日本では「わいせつ」として禁じられているコンテンツが簡単に見られるのです。

けっきょく、サイトは不適切な広告が掲載されないように、ユーザーは不愉快な広告が表示されないように、できるかぎりフィルタリングするしかないのではないでしょうか。納得しないひとはたくさんいそうですが。

『週刊プレイボーイ』2025年5月26日発売号 禁・無断転載