君子はかんたんには豹変できない 週刊プレイボーイ連載(37)

野田首相は施政方針演説で消費税増税の覚悟を述べ、「決められない政治」から脱却するため与野党協議に応じるよう求めました。それに対して自民党などは一斉に反発し、過去の演説を引用された福田元首相は、「いいことも言っているが、僕はひどい目にあった」と述べました。

衆参のねじれ国会に苦しんだ自民党・福田政権は、政権獲得を最優先する野党・民主党からあらゆる話し合いを拒否されました。同じ立場になった野田首相が自民党に譲歩を求めても、かんたんには応じられないというのももっともです。

民主党政権が苦境に陥っているのは、ことあるごとに過去の言動との一貫性を問題にされるからです。

2009年の衆議院選挙で、民主党は「国民との契約」であるマニュフェストを高らかに掲げ政権を奪取しました。しかし政策の目玉だった子ども手当てや高速道路の無料化はなし崩しになり、予算の組み換えと天下りの根絶で捻出するとした16.8兆円の財源はどこかに消えてしまって、いまや消費税増税に突き進んでいます。

沖縄の普天間基地問題では、鳩山元首相の「最低でも県外」の発言がいまだに尾を引いています。沖縄ではこれが“約束”ととらえられ、アメリカとの“約束”の板ばさみになった民主党政権は弁明に追われています。

私たちの社会では、主張の一貫性がきわめて重視されます。議論におけるもっとも強力な武器は、「前に言っていたこととちがうじゃないですか」のひと言です。このとき、「私はいまの話をしているのだから、むかしのことは関係ない」とか、「意見なんてそのときどきで変わるものだ」という反論は逆効果です。主張を変更する場合は、その理由を論理的に説明できないと、社会的な信用が失墜してしまうのです。

これが人類社会に普遍的なルールなのは、ひとが社会的な動物だからです。

私たちは、相手となにか約束をすると、それが実行されることを前提に行動します。この約束が一方的に破棄されてしまうとヒドい目にあうので、約束を破るひとを道徳的に罰すると同時に、言動が一貫しているひとを「信用できる」と高く評価するようになったのです。

こうした一貫性への執着は、マーケティングにも使われています。アンケートに「夢は南の島でのんびりすること」とこたえると、ハワイのリゾートマンションの勧誘が断わりにくくなる、というような場合です。私たちは無意識のうちに、以前の発言との一貫性を保とうとしてしまうのです。

約束を破った場合は、相手に謝罪して損害を補償するのが原則です。これを逆にいえば、謝罪も補償もできないときは、約束を破ったことを認められない、ということになります。野田政権の置かれた立場がまさにこれで、「国民との契約」を破ったことを認めたり、野党時代に自民党との話し合いを拒否したことを謝罪してしまうと、あとは衆議院を解散するか、自民党に政権を明け渡すしかなくなってしまいます。

過去はつねに亡霊のようにまとわりついてきて、君子はかんたんには豹変できないのです。

参考文献:ロバート・B・チャルディーニ『影響力の武器』

 『週刊プレイボーイ』2012年2月6日発売号
禁・無断転載 

第12回 タクシーの苦境を招いたのは…(橘玲の世界は損得勘定)

事務所近くのJRの駅には、夕方になると客待ちのタクシーの長い列ができる。どれくらい長いかというと、最後尾のタクシーが駅から信号2つ分離れた交差点のあたりにいて、その車列が駅を通り過ぎて信号1つ分先までつづき、そこでUターンしてタクシー乗り場に向かうのだ。

列に並ぶタクシーの台数を数えたことはないが、優に100台は超えるだろう。それに対してタクシーを利用するひとはごくわずかで、車列はなかなか進まない。

私はできるだけ歩くようにしていて、タクシーを使う機会はあまりないのだけれど、いちどこの車列を見てしまうとますます利用しづらくなる。駅から自宅までは最低運賃の距離で、何時間も並んだドライバーにとっては明らかに“外れ”の客だからだ。

自宅のそばの公園には、深夜になるとタクシーが集まってくる。アイドリングしたまま車を停めておける場所がなかなかないので、仮眠をとるドライバーたちにとっては数少ない憩いの場所なのだ。客待ちだけで何時間もかかるのでは、寝る時間がなくなるのも当然だろう。

タクシー業界が苦境に陥ったのは、規制緩和で台数が増えたからだとされている。タクシードライバーの給料は歩合制なので、不況で市場が縮小すると、タクシー会社は増車によって売上を維持しようとする。こうして供給過剰とドライバーの待遇悪化が常態化して、業界団体や労働組合が国に泣きついて、東京でも2007年に初乗り運賃が660円から710円に引き上げられた。その直後に世界金融危機が起きて、状況は以前よりずっと悪くなってしまった、というわけだ。

私が不思議に思うのは、需要に対して供給が増えているのに、なぜ料金が上がるのか、ということだ。需要と供給の法則によれば、料金を引き下げて需要を増やさなければならないことくらい、いまでは小学生だって知っている。

案の定、料金引上げによって東京ではタクシー会社の売上はさらに減ってしまった。その一方で、地方では若干の値上げ効果があったらしい。

電車やバスなど公共交通網が発達した都市部では、タクシー料金が上がれば消費者はより安価な移動手段を使うようになる。しかし赤字のバス路線が次々と廃止された地方では、タクシーしか移動手段のないひとたちは高い料金を払うしかない。それは多くの場合、車を運転できない高齢者や病人だろう。タクシー料金の値上げ効果は、社会的弱者の犠牲のうえに実現したのだ。

そもそも日本のタクシー料金は高すぎる。たとえば香港のタクシーは初乗り20HKドル(200円)、シンガポールは5SGドル(300円)だ。日本でも料金を大幅に引き下げれば、気軽に利用するひとが増えるだろう。

値段を上げて売上が増えるなら、経営者は誰も苦労しない。絶望的なまでに長い客待ちの車列が、ブードゥー経済学の素晴らしい見本を示している。

橘玲の世界は損得勘定 Vol.12:『日経ヴェリタス』2012年1月29日号掲載
禁・無断転載

国民が国家を搾取している 週刊プレイボーイ連載(36)

欧州共通通貨ユーロが崩壊の危機にあります。EU(欧州連合)の混乱から、私たちはどのような教訓を学ぶべきなのでしょうか。

これまで多くの論者が、「“市場原理主義”が共同体を壊すのだから、国家は市場の暴走を止めるべきだ」と主張してきました。しかしユーロ危機では、明らかに「国家が市場を壊した」のであり、財政を統合しないまま通貨だけを共通にする制度設計の失敗をなんとかしなければ危機は解決しません。

問題は市場ではなく、国家にあるのです。

もうひとつは、国家と国民(市民)の関係です。

私たちは、国家権力が市民を抑圧し、自由や平等を求めてひとびとが立ち上がるという物語をずっと聞かされつづけてきました。「アラブの春」はこの典型で、独裁政権を終わらせるためにひとびとは投獄覚悟でデモを行ない、あるいは武器をとって政府軍とたたかいました。

ユーロ危機の渦中にあるギリシアでも、大規模なデモやストライキがつづいています。しかしその光景は、私たちがよく知る自由やデモクラシーのための抗議行動とはずいぶんちがいます。

ギリシアを取材した毎日新聞記者の藤原章生氏は、労働省のエリート幹部から次のような話を聞きました。

ギリシアでは新しい政権ができると、官僚の顧問や局長職が総入れ替えになって、閣僚や政治家たちが身内や友人、支援者などを好きなように新しいポストにつけます。彼らは「臨時雇用」としてやってきますが、いつのまにか「正規雇用」になって、政権が交代しても解雇されることがありません。

それでは、前から同じポストにいたひとはどうなるのでしょう? ここで労働省幹部は、驚くべき秘密を打ち明けます。

「(彼らは)別のポストに行くか、ひどい場合、同じ局長のポストに2人がいるなんてこともある。当然2人分の仕事はないから、前の人たちは職場に来なくなり、給与だけもらい続ける幽霊公務員となる。私たち労働省の中でも全体の職員が何人いるのか、どういう構成なのかよくわかっていない」

こうして選挙のたびに公務員が増えていき、その結果、ギリシアの公務員数は巷間いわれている110万人(労働者の4人に1人)よりもはるかに多いのではないかと藤原氏は推計します。この国では一種のベーシックインカムが実現していて、家族の誰かが公務員(もしくは幽霊公務員)として国からいくばくかの給与をもらい、生活費をまかなっているのです。――そう考えれば、緊縮財政が国民的な規模のデモやストライキを引き起こした理由もよくわかるでしょう。

欧米や日本のような民主政国家では、もはや国家は国民を弾圧したりしません。成功するかどうかは別にして、国家は国民を「幸福」にするために存在するのです。

こうして、国家が国民を犠牲にするのではなく、国民が国家を搾取するようになりました。しかしこれは、けっして他人事ではありません。

ギリシアは福祉国家のカリカチュアで、私たちは鏡に映った自分の姿を見ているのかもしれないのです。

参考文献:藤原章生『ギリシア危機の真実』

 『週刊プレイボーイ』2012年1月30日発売号
禁・無断転載