第12回 タクシーの苦境を招いたのは…(橘玲の世界は損得勘定)

事務所近くのJRの駅には、夕方になると客待ちのタクシーの長い列ができる。どれくらい長いかというと、最後尾のタクシーが駅から信号2つ分離れた交差点のあたりにいて、その車列が駅を通り過ぎて信号1つ分先までつづき、そこでUターンしてタクシー乗り場に向かうのだ。

列に並ぶタクシーの台数を数えたことはないが、優に100台は超えるだろう。それに対してタクシーを利用するひとはごくわずかで、車列はなかなか進まない。

私はできるだけ歩くようにしていて、タクシーを使う機会はあまりないのだけれど、いちどこの車列を見てしまうとますます利用しづらくなる。駅から自宅までは最低運賃の距離で、何時間も並んだドライバーにとっては明らかに“外れ”の客だからだ。

自宅のそばの公園には、深夜になるとタクシーが集まってくる。アイドリングしたまま車を停めておける場所がなかなかないので、仮眠をとるドライバーたちにとっては数少ない憩いの場所なのだ。客待ちだけで何時間もかかるのでは、寝る時間がなくなるのも当然だろう。

タクシー業界が苦境に陥ったのは、規制緩和で台数が増えたからだとされている。タクシードライバーの給料は歩合制なので、不況で市場が縮小すると、タクシー会社は増車によって売上を維持しようとする。こうして供給過剰とドライバーの待遇悪化が常態化して、業界団体や労働組合が国に泣きついて、東京でも2007年に初乗り運賃が660円から710円に引き上げられた。その直後に世界金融危機が起きて、状況は以前よりずっと悪くなってしまった、というわけだ。

私が不思議に思うのは、需要に対して供給が増えているのに、なぜ料金が上がるのか、ということだ。需要と供給の法則によれば、料金を引き下げて需要を増やさなければならないことくらい、いまでは小学生だって知っている。

案の定、料金引上げによって東京ではタクシー会社の売上はさらに減ってしまった。その一方で、地方では若干の値上げ効果があったらしい。

電車やバスなど公共交通網が発達した都市部では、タクシー料金が上がれば消費者はより安価な移動手段を使うようになる。しかし赤字のバス路線が次々と廃止された地方では、タクシーしか移動手段のないひとたちは高い料金を払うしかない。それは多くの場合、車を運転できない高齢者や病人だろう。タクシー料金の値上げ効果は、社会的弱者の犠牲のうえに実現したのだ。

そもそも日本のタクシー料金は高すぎる。たとえば香港のタクシーは初乗り20HKドル(200円)、シンガポールは5SGドル(300円)だ。日本でも料金を大幅に引き下げれば、気軽に利用するひとが増えるだろう。

値段を上げて売上が増えるなら、経営者は誰も苦労しない。絶望的なまでに長い客待ちの車列が、ブードゥー経済学の素晴らしい見本を示している。

橘玲の世界は損得勘定 Vol.12:『日経ヴェリタス』2012年1月29日号掲載
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