あなたのまわりにも、何気ない言葉やささいな態度を自分に対する攻撃だと思い、過剰に反応してしまうひとがいるでしょう。こうした被害妄想が重度になると、精神医学では「パラノイア」と呼ばれます。
このひとたちは「精神疾患」と診断されますが、「政府の秘密組織が自分を殺そうとしている」というような妄想以外では、きわめて理知的に自分について語ることができます。
そのことに驚いたイギリスの心理学者は、パラノイアは「病気」ではなく、一般のひとがもっている心理的な傾向(性格)が極端になったものではないかと考えました。そして、この仮説を検証するための独創的な実験を思いつきます。
被験者はロンドンに住む100人の男性と100人の女性で、VR(仮想現実)のゴーグルを装着して「仮想の地下鉄」を体験します。超満員の車内にいる他の乗客はすべてアバターで、ごく自然に振る舞い、なにひとつ特別なことは起こらないようにプログラムされました。
参加者の多くは、当然のことながら、いつもの地下鉄と同じだと感じました。アバターはそのようにつくられているのです。
ところが研究者は、別の反応をする2つのグループがあることを発見します。ひとつはポジティブな反応で、「ひとりの男性は私をじっと見つめて、お世辞を言いました」「微笑みかけてくる人がいて、それはとても心地よかったです」などと答えました。
もうひとつはネガティブな反応をするグループで、「私が通り過ぎようとすると、座っていた女性が私を笑いました」「攻撃的な人がいました。私を脅して、不快にさせようとしました」などとこたえたのです。
もういちど確認しておくと、参加者は全員がまったく同じVRを体験しています。それでも感じ方に、これだけ大きなちがいが生じたのです。
この実験からわかるのは、わたしたちのうち4人(あるいは3人)に1人は世界をバラ色の眼鏡で眺めていて、その反対側には、世界を灰色の眼鏡で眺めているひとがやはり4人(あるいは3人)に1人いることです。
このようなばらつきが生じるのは、それが進化の適応だからでしょう。複雑な環境では、どのような性格なら生き残れるかを決めることができません。そのため「利己的な遺伝子」は、楽観から悲観までさまざまなパーソナリティを用意して生存確率を高めたのです。
ところが人類史上もっともゆたかで平和な時代が到来したことで、かつては役に立った「灰色の眼鏡」が人生の障害になってしまいます。学校でも会社でも、被害妄想的なひとは煙たがられ、排除され、ときにいじめの標的にされてしまうのです。
イギリスで行なわれた大規模な調査では、パラノイア傾向のひとたちが「新型コロナウイルスは国連が世界征服のために製造した」などの陰謀論を信じ、コロナワクチンに強い疑いをもっていることがわかりました。パラノイアの特徴が世界への不信であることを考えれば、この反応は不思議ではありません。
かつては社会の片隅に押し込められていたひとたちが、SNSによって連帯し、自分たちの被害感情を大きな声で主張できるようになったと考えれば、近年の社会の混乱のかなりの部分が説明できるのではないでしょうか。
ダニエル・フリーマン『パラノイア 極度の不信と不安への旅』高橋祥友訳/金剛出版
『週刊プレイボーイ』2025年6月30日発売号 禁・無断転載