“モテキ”はなぜやってくるのか? 週刊プレイボーイ連載(47) 

ちょっとした本屋にはかならず“モテ本”のコーナーがあります。その名のとおり、どうすればモテるかを指南した恋愛ハウツー本です。その中身はさまざまですが、多くはモテるファッションや会話術、デートスポットやラブホの誘い方など、個人的な努力について書かれています。

ところで、恋愛には相手が必要です。この世のすべての恋愛術をマスターしても、女の子がいなければ宝の持ち腐れです。

「なにを当たり前のことを」と思うかもしれませんが、これはけっこう奥の深い問題です。モテるために大事なのは、ファッションセンスやシャレた会話ではなく、どれだけ異性と知り合える機会を持っているか――社会的ネットワークのなかで自分がどの場所にいるか――かもしれないのです。

アメリカでは、恋愛行動と性行動についての大規模な社会調査が行なわれています。それによると、知り合いの紹介で配偶者やセックスパートナーと出会ったひとは約7割で、「自力」で出会ったひとは3割程度しかいません。そのなかでももっとも多いのは友人の紹介で、35~40%にもなります(次に多いのは家族による紹介の15%です)。ほとんどのひとは、ゆるやかな友だちネットワークのなかでカノジョ(カレシ)を見つけているのです。

恋愛でなぜ紹介が有効なのかは、ものすごくかんたんに説明できます。バーで(道端や電車のなかでも)ばったり出会った異性のことを、あなたはなにも知りません(当然、相手もあなたのことを知りません)。そんな二人がなにかのきっかけでつき合いはじめて長続きするかどうかは、まさに「神のみぞ知る」です。

ところがあなたの親友のカノジョが、自分の友だちをあなたに紹介する場合、二人のことをよく知っていて、お似合いのカップルだと思っています。自分のことは自分ではよくわかりません。だったら、自分(たち)のことを知っている他人に任せてしまったほうがうまくいく可能性が高いのです。

集団のなかでの恋愛(性愛)行動は、いまでは社会心理学の重要なテーマです。その研究によると、ひとは絶対的な評価(キムタクと比べて8割はイケてる)よりも、所属する集団のなかでの相対的な地位(あいつよりはイケてる)を気にします。

チンパンジーは、アルファオス(アルファメス)を筆頭に、集団内で序列をつくります。これは友だち集団も同じで、アルファオス(男の子のリーダー)はアルファメス(女の子のリーダー)とごく自然にカップルになります。一夫一婦制では、集団内の序列を上げることがよりよい(繁殖力の高い)異性を獲得する鉄板の戦略なのです。

恋愛戦略(繁殖戦略)のちがいで、男と女のすれちがいも説明できます。

さまざまな調査で、女性は、魅力的な女性とつき合っている男性に魅かれることが知られています。これは、モテることが、その男性の繁殖能力の高さの社会的な証明になっているからです。なにかの偶然で素敵なカノジョができると、それと同時に“モテキ”がやってくるのです。

ちなみに男性は逆に、“モテる”女性を避ける傾向があります。競争相手が多いとそれだけ繁殖可能性が下がるのですから、これも「進化論的に合理的」な行動なのです。

参考文献:ニコラス・A・クリスタキス/ジェイムズ・H・ファウラーつながり 社会的ネットワークの驚くべき力』

 『週刊プレイボーイ』2012年4月16日発売号
禁・無断転載

「パブリック」というユートピア思想

Googleが3月に導入した新たなプライバシーポリシーが波紋を呼んでいる。検索サービスのほか、メール、地図、ナビゲーション、写真管理、動画配信(ユーチューブ)、スケジュール管理、自動翻訳、書籍検索、ブログ閲覧など、60以上のサービスで顧客情報を統一して管理し、「利便性を高める」ものだ(玉井克哉〈日経新聞4/11朝刊『経済教室』〉)。

これが「プライバシー侵害」として強く批判されるのは、Googleがネットユーザーのプライバシーを収集し、ビジネス化しようとしている(ユーザーの行動履歴から効率的な広告配信をしようとしている)、と考えられているからだろう。プライバシー権に敏感なEUでは、「忘れられる権利」すなわち自己にかかわるいっさいのデータの消去を顧客が求める権利を立法化しようとしているという(玉井、上記)。

もちろんGoogleが私企業である以上、収益の最大化を目指していることは間違いない。だが今回のプライバシーポリシーの背景には、「パブリック」と「プライベート」の思想的対立、とでもいうようなものがあると思うので、そのことについて私見を述べておきたい。

ジェフ・ジャービスの『パブリック』を読むと、GoogleやFacebookには、「パブリックにすることは善である」という理念があることがわかる。端的にいうと、「プライベート(匿名)をパブリック(実名)に変えていくことでよりよい社会が生まれる」という信念のことだ。

『残酷な世界~』ではこのことを、「伽藍とバザール」で説明した(エリック・スティーブン・レイモンドのに山形浩生氏がつけたタイトルを借用した)。

閉鎖的な伽藍空間では、悪い評判から身を守るために匿名の世界に身を隠す「ネガティブゲーム」がもっとも有利になる。それに対して開放的なバザール空間では、できるだけ多くのよい評判を集めようとする実名での「ポジティブゲーム」が最適行動だ。

これは、退出の自由なバザール空間では、悪い評判はいつでもリセットできるのに対し、退出の許されない伽藍空間では、いちどつけられたレッテルは二度とはがすことができないからだ(伽藍の世界)。

伽藍の世界では、ひとびとは強い閉塞感に耐えて生きていくしかない。自由なバザール空間なら、私たちはずっと容易に自己実現できるだろう……。このように考えれば、サイバー空間のテクノロジーを駆使し、ユーザーをパブリックなバザール空間に誘い出すアーキテクチャを構築することで、よりよい世界をつくることができるはずだ、ということになる。

ジャービスの本によると、アメリカでは“パブリック原理主義者”によるさまざまな実験が行なわれている。

たとえば、ジョシュ・ハリスのドキュメンタリーフィルム『We live in Public(われわれはパブリックを生きている)』。ここでは、私生活がすべてパブリックにされた。

ジョシュは、室内の隅々まで写せるようアパートに32個のカメラを設置して、彼とガールフレンドのすべての行動を100人のボランティアに公開した。シャワー、トイレ、セックス、喧嘩といったまさにプライベートなことすべてが、Webを通じて世界に放送されたのだ。

2人は、ロフトのなかにあるプロジェクターをとおして、ネットユーザーたちが自分たちについて交わす会話を知ることができた。さらには1日に2度、電話を受けて視聴者と会話を交わすことまでした。

この“実験”は1999年に開始され、2000年1月1日に、ニューヨーク市警によって強制的に終了させられた。しかし権力の介入がなくても、このプロジェクトは失敗に終わっていた。

ある日、ジョシュはガールフレンドと大喧嘩をした挙句、彼女を殴ろうとした(ように見えた)ことで、寝室を追い出されてソファに寝ることになる。この“事件”を目撃したネットユーザーたちがジョシュを批判し、ガールフレンドにさまざまな助言をしたことで、二人の関係は破局に至った。

後に、ジョシュは次のように語っている。

「彼ら(ネットユーザー)は彼女に力を与えたけれど、それにはトレードオフがあった。彼女の人間性のひとかけらを取り去ってしまった。彼女の脳の一部が、天上からの存在によって拡張された

ジョシュによれば、彼女は「人生をクラウドソーシングしてしまった」のだ。

もちろんこれだけでは、ただの露出狂か、自己顕示欲の強すぎる男の荒唐無稽な話にすぎない。だがここで考えるべきは、なぜこのような原理主義者(狂信者)が生まれてくるのか、ということだ。

それは、「パブリック」がユートピア思想だからだ。彼らは、プライバシー権を認めず、ネット上の匿名性を剥奪し、すべてのひとがパブリックになるよう「強制」することで、理想世界が実現すると信じているのだ。

このように考えると、Googleの新しいプライバシーポリシーの別の意味が見えてくる。顧客情報を統合して「利便性を高める」のは、ユーザーをバザール世界に誘い出すためだ。あらゆる場面で個人情報が参照されるようになれば、実名でよい評判を獲得することが、匿名で活動するよりも圧倒的に有利になるだろう。これは逆にいえば、実名の履歴(レビューやコメント)が検索できない人間は存在しないのと同じ、という世界だ(Facebookが実名主義を貫くのも同じ理由だ)。

こうしたユートピア思想を持つのは、GoogleやFacebookだけではない。そもそも西海岸(シリコンヴァレー)のサイバーリバタリアニズムは、60年代のカウンターカルチャーの正統な後継者だ。このあたりの思想史的な系譜は池田純一『ウェブ×ソーシャル×アメリカ』に上手にまとめられているので、興味のある方はご一読を。

「引き寄せの法則」は効果がある? 週刊プレイボーイ連載(46)

すこし前に「引き寄せの法則」というのが話題になりました。よいことも悪いことも、ひとは自分に似たものを引き寄せるという“宇宙の法則”で、いまではスピリチュアル系のセミナーで定番のアイテムです。

一見オカルトっぽい引き寄せの法則ですが、これは科学的にも証明されていて、「ホモフィリー(似ているものへの愛)」という名前まであります。

ひとがどのように引き寄せられるかは、幼稚園や保育園を観察しているとよくわかります。

少人数のグループでは、子どもたちはみんないっしょに遊びます。このとき、幼い子どもは年上の子どもにまとわりつき、年上の子どもはその面倒をみます。狩猟採集時代には、両親は食糧の確保にせいいっぱいで、こうした行動は、離乳後の子どもの世話を兄姉に任せていたときの名残だと考えられています。

子どもの数が一定数を超えると、ごく自然にグループ分けがはじまります。

最初の基準は年齢です。子どもは、自分と同じくらいの子どもと遊ぼうとします。

次は性別です。男の子と女の子では遊び方がちがうので、男女が入り混じってなにかをするということはなくなります。

さらに人数が増えると、同じ性別のなかで、外見や雰囲気の似た子どもたちがグループをつくるようになります。アメリカではこの段階で、白人や黒人、アジア系など人種別のグループ分けが起こることが知られていて、大人が介入して人種混交の子ども集団をつくらなければなりません。

日本では、たとえば女の子集団でこうした傾向が顕著です。街で女の子たちを観察していると、ファッションによってグループ分けが行なわれていることがわかります。お嬢様系とギャル系、ゴスロリの女の子がいっしょになることはありません。

ひとはなぜ、自分と似たものに引き寄せられ、自分と似たものを引き寄せるのでしょうか。これも、進化の過程から説明が可能です。

石器時代には、ヒトは家族や血族の小さな集団で暮らしていました。ここからごく自然に、同じ集団は味方、ちがう集団は敵、という性向が生まれます。進化論的にいうならば、自分とちがうもの恐れない個体は淘汰されて子孫を残すことができなかったのです。

母親以外が赤ん坊を抱き上げると、いきなり泣き出すことがあります。幼い子どもは、見知らぬ大人(ひとさらい)を怖がります。これもまた、私たちの遺伝子にプレインストールされた進化のプログラムだと考えられています。

私たちは、自分と似たひとたちといっしょにいると安心し、ちがうひとたちに囲まれていると不安になります。人種差別は法や社会制度によって矯正することができるかもしれませんが、同じファッションの女の子が集まることまでは規制できません。引き寄せの法則は、私たちの社会を広く覆っているのです。

自己啓発系のセミナーでは、この法則を利用して、「あなたが変われば、望みのものすべてを引き寄せることができる」と説きます。これは理屈のうえでは正しいのですが、じつはひとつだけ問題があります。

「引き寄せ」は無意識の法則で、ひとは意識によって無意識を操作することはできません。すなわち、ひとは変われないのです。

参考文献:ジュディス・リッチ ハリス子育ての大誤解―子どもの性格を決定するものは何か』

 『週刊プレイボーイ』2012年4月9日発売号
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