“ブラック政府”はブラック企業を指導できない 週刊プレイボーイ連載(89)

サービス残業というのは、就業時間外に働いたにもかかわらず残業代が支払われないことで、労働基準法では明確に禁じられています。それにもかかわらず、日本ではサービス残業が常態化しているとしばしば指摘されます。「法治国家」であるはずなのに、なぜ違法状態が野放しになっているのでしょうか?

ほとんどのサラリーマンがサービス残業を仕方がないものとして受け入れていますが、この悪習が許されないのには理由があります。対価を払わずにひとを働かせるのは奴隷労働で、それを否定することで近代が成立しました。このままでは日本は、「前近代社会」といわれても反論できません。

会社(雇用者)が労働基準法を遵守しているかどうかは、各自治体に置かれた労働基準監督署が監督し、サービス残業を見つければ正規の残業代を支払うよう指導することになっています。それにもかかわらず違法行為が常態化しているとしたら、そもそも労働者保護の制度に根本的な欠陥があることになります。

何年か前に、霞ヶ関の中央省庁で「居酒屋タクシー」が問題になりました。終電がなくなった後の深夜帰宅の際に、官僚が公費で、馴染みの運転手から缶ビールやつまみなどの「接待」を受けていたというものです。

官僚の帰宅が深夜になる大きな理由は「国会待機」で、政府答弁の原案を作成するために、議員からの質問がわかるまで関連する省庁の担当者が拘束されることをいいます。一部の議員(民主党の元首相が有名)が夜中まで質問を教えないと、担当者は仕事もないのに帰宅を許されず、省庁内にとどまることになるのです。

ところで、官僚も労働者(被用者)ですから、国会待機による拘束に対しては残業代や時間外手当が支払われなければならないはずです。しかしなぜか、国家公務員は労働基準法の適用対象外とされていて、サービス残業が当然とされています。

中央省庁だけでなく、地方自治体でもサービス残業は常態化しています。

さいたま市では2011年度に、40代の職員(課長補佐)が1800時間を超える時間外勤務をして、年間給与と同等の800万円ちかい残業代を受け取り、年収が1500万円を超えたことが市議会で問題にされました。1800時間というと、平日だけなら7時間超、土日を含め1日あたり5時間に相当しますから、じゅうぶん過労死が危惧されるレベルです。こうした異常な労働環境が明らかになったのは、さいたま市が正直に残業代を支払っていたからです。他の自治体も、裁量労働制などを使って不都合な現実を隠しているだけで、一部の職員に過度な負担をさせている実態は同じようなものでしょう。

労働基準監督署は厚生労働省の出先機関ですが、国会待機などを見るかぎり、厚労省も「サービス残業」の温床になっているのは明らかです。この国では、「サービス残業を禁止する法律がサービス残業でつくられる」という話がブラックジョークにならないのです。

政府や自治体がブラック化してるなら、労基署が民間企業を強く取り締まれるはずはありません。サービス残業は経営者の自覚の問題などではなく、日本の社会に巣食う構造的な病なのです。

 『週刊プレイボーイ』2013年3月4日発売号
禁・無断転載 

“ネオリベ化する福祉国家”オランダから日本の未来が見えてくる

『マネーポスト』の2013年新春号に書いた記事を、編集部の許可を得て転載します。日本ではあまり馴染みのないオランダの政界の話ですが、非常に示唆的です。

なお、本文でも述べていますが、この記事の元ネタは水島治郎氏の『反転する福祉国家 オランダモデルの光と影』で、これはヨーロッパの政治状況を考えるうえでの必読書です。

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今回は、オランダの政治について書こうと思う。

おそらく、この一行だけで読む気をなくしたひともいるだろう。でもこれは日本でいま起きていることを知るうえでたいへん興味深い話なので、しばしおつき合い願いたい。

オランダは、売春とマリファナを合法化した国として有名だ。アムステルダムのホテルに泊まると、各部屋に観光協会の小冊子が置いてあって、そこでは「売春婦(セックスワーカー)のサービスをどのように購入するか」とか、「どこに行けばマリファナが手に入るか」とかの説明が堂々と書いてある(はじめてこれを読んだときは、腰が抜けるほど驚いた)。

「自由の国」オランダは、移民に対しても寛容だ。宗教革命の時代には、フランスなどのカトリック国で差別された新教徒(ユグノー派)やヨーロッパ各地で迫害されていたユダヤ人が、信教の自由が保証されたこの国に逃れてきた。17世紀のオランダ(アムステルダム)は国際貿易の中継地として栄えたが、こうした繁栄の陰にユダヤ商人たちの活躍があったことはいうまでもない。

そんな「移民の国」オランダで、移民政策の強化を求める新右翼のポピュリズム政党が大きく支持を伸ばしている。これは、その中心にいたピム・フォルタインという政治指導者の物語だ(以下の記述は、水島治郎『反転する福祉国家 オランダモデルの光と影』〈岩波書店〉に負っている)。

オランダ社会に衝撃を与えた啓蒙主義的なイスラム批判

1948年、オランダの田舎町の敬虔なカトリック教徒の家に生まれたフォルタインは、日本でいう全共闘世代で、60年代の学生運動に大きな影響を受け、マルクス主義社会学を学び、卒業後は大学で教鞭をとりながら社会主義政党である労働党の活動家になった。

だがその後、フォルタインは40代で思想的に大きく転向し、「右翼」と呼ばれるようになる。大学教授の職を辞した彼は、ベンチャー企業の経営などを経て政治コラムニストの道を選んだ。

フォルタインの政治的主張のなかでもっとも大きな議論を呼んだのは、イスラム教への批判と、ムスリム(イスラム教徒)の移民に対する厳しい評価だった。宗教批判や移民問題がタブーとなっていたオランダで、フォルタインは歯に衣着せぬ発言で社会的な注目を集めた。

だがフォルタインは、フランスの国民戦線のような、移民排斥とEU脱退、妊娠中絶反対を掲げる極右勢力とは一線を画していた。

フォルタインは大学時代から自分が同性愛者であることを公表しており、同性愛者の権利を積極的に擁護し、妊娠中絶などの女性の権利を認め、安楽死や麻薬を個人の自由として容認した。こうした思想は、自由原理主義者(リバタリアン)に近い。

フォルタインは、人種差別や民族差別によってムスリムを排除するのではなく、自由や人権といった近代の普遍的な価値からイスラムの教えを批判した。

「(ムスリムの)女性は自らの意思でベールをかぶり、全身を覆っているというのか……そのような女性たちの住む(オランダの)遅れた地域に対しては、全面的な差別撤廃政策を進めたい」

「(イスラム社会で同性愛者であることを)公言する勇気を持つ者には、社会的にも、家族からも完全に孤立する状態が待っている。これほど野蛮なことはない!」

フォルタインはムスリムの移民に対しても、「自由の国」オランダで一般市民が享受しているのと同じ自由や人権が完全に認められることを求めたのだ。

ヨーロッパ各地で、ムハンマドをカリカチュアした風刺画問題が起きている。もっとも影響が大きかったのは2005年にデンマークの新聞が掲載したもので、ムハンマドを思わせる人物のターバンが爆弾に模され、イスラム過激派を連想させるとしてイスラム諸国で大規模な抗議行動を引き起こした(パキスタンのデンマーク大使館で自爆テロがあり、デンマーク国内でも風刺画を描いたマンガ家の自宅が襲撃された――犯人はイスラム系武装組織にかかわるソマリア人で、警備の警察官に取り押さえられ未遂に終わった)。

2012年には、ムハンマドを中傷したとされる映画の一部がインターネットで流れ、ふたたびイスラム諸国で大規模な抗議行動が起きたが、その最中にフランスの風刺漫画誌がムハンマドを彷彿とさせる人物を掲載して物議をかもした。

私たち日本人は、西欧社会におけるイスラムの位置づけを理解できず、キリスト教との宗教的な対立とか、貧しいムスリム移民への差別と考えがちだが、フォルタインはそれが、近代の普遍的な価値(自由と人権)と、それを受け入れない頑迷固陋な前近代的風習との対立であることを世界に示したのだ。

イスラムを「遅れた」宗教と見なすフォルタインの啓蒙主義的な批判は、オランダ社会に大きな衝撃を与え、急速に支持者を増やしていく。こうしてフォルタインは、政治への足がかりをつかんだ。

「社員の面倒を見る」義務から会社を解放しよう 週刊プレイボーイ連載(88)

ブラック企業は、日本経済が過去10年間で生み出した最大のイノベーションです。その“功績”は、最低賃金とサービス残業で正社員を徹底的に使い倒し、アルバイトを雇うよりも大幅に人件費を節約して驚くような低価格を実現したことです。

もちろん、サービス残業は労働基準法に照らせば完全に違法です。それではなぜ、こんな法律違反が「法治国家」であるはずの日本で“放置”されているのでしょうか?

ところで、法はあらゆる人間関係を平等に規制するわけではありません。

店先のお菓子を勝手に取って食べれば万引きですが、友だちのお菓子ならいたずらです。法は人間関係が疎遠なほど強い影響力を持ち、近しくなるにつれて効力を失い、家庭内では民法や刑法が問題になることは(ふつうは)ありません。ここに、日本の会社の遵法意識がきわめて低い理由があります。

日本では、会社は“イエ”と同じで、経営者と従業員(正社員)は運命共同体だと考えられてきました。社長と社員の関係が親子、上司と部下の関係が兄弟(姉妹)のようなものならば、家庭内には原則として法は介入できないのですから、どのような法律も守る必要はないことになります。違法体質は、日本の会社に特有のベタな人間関係から生まれるのです。

しかしそれでも疑問は残ります。中国は日本以上にベタな人間関係でできた社会ですが、従業員はみな定時になるとさっさと帰宅し、無報酬で働くなどということは考えられません。それは中国人にとって、経営者と従業員はあくまでも他人同士で、人間関係の外にあるからでしょう。生活の面倒を見てくれないなら、奉仕するのはばかばかしいだけです。

それに対して終身雇用を前提とした日本的雇用制度では、経営者は、いちど社員を採用すれば生涯(定年まで)面倒を見なければならないと強く意識します。子育てですら20年で終わるのに、新卒社員のこれから40年間の生活を考えるとき、とてつもなく重い負担感と同時に、それとは裏腹の支配意識が生じるのは当然です。会社という“イエ”の家長である経営者は、家族に対するよりはるかに強い服従を正社員に要求するのです。

ブラック企業を批判するひとたちは、経営者が社員を奴隷のように酷使するのではなく、ひととしてもっと大切に扱えといいます。これは正論ですが、日本では逆効果です。「経営者なんだからちゃんと社員の面倒を見ろ」ということは、その前提として、“イエ”の家長としての絶対的な権力を認めているからです。これでは、ほとぼりが冷めればすぐにまた独裁が始まるだけです。

会社と家族を同一視するひとは、いまでは日本でも少数派かもしれません。しかし過去の“イエ”意識は亡霊のようにまとわりついて、いまもひとびとの意識を支配しています。

ブラック企業をなくすには、“イエ“化した文化を変えるしかありません。

問題は、正社員が“イエ”にとりこまれ、無制限の献身と服従を要求されることです。だとしたらそのもっとも簡単な解決法は、会社(経営者)を「社員の面倒を見る」義務から解放することでしょう。

これなら“イエ”は解体し、日本にもはじめて近代的な労使関係が生まれるはずです。

参考文献:村上 泰亮、公文 俊平『文明としてのイエ社会』

 『週刊プレイボーイ』2013年2月25日発売号

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