“ネオリベ化する福祉国家”オランダから日本の未来が見えてくる

移民問題を背景とした地方政党とフォルタインの躍進

オランダでは、移民1世と、両親のいずれかが外国生まれである移民2世を合わせて「外国系市民」に分類されるが、その数は人口の18%にも達する(2002年)。そのうちトルコ系、モロッコ系などの「非西洋系市民」は156万人(9.7%)で、その大半がムスリムだ。

外国系市民は都市部の特定地区(スラム)に居住し、劣悪な住環境は犯罪などの社会問題の温床になる。2000年時点で、アムステルダムの人口の31%、ロッテルダムの30%が非西洋系市民だった。

悪化する都市問題を背景に、90年代以降、オランダでは「すみよいユトレヒト」など、「すみよい」を名乗る地方政党が躍進するようになった。こうした市民参加型の地方政党は、中央集権的な既成政党を批判し、住民の声に耳を傾けながら地域固有の課題を大胆に改革する手法で人気を博した。「すみよい」を掲げる政党のなかには地方選挙で30%を超える得票率を獲得するところもあり、99年には地方政党を統合した国政政党「すみよいオランダ」が結成された。フォルタインは、この「すみよいオランダ」の筆頭候補者として政界へのデビューを飾ることになる。

フォルタインの戦略は、「地方から中央を変える」というものだった。

2001年、フォルタインは自分が住むロッテルダムに地方政党「すみよいロッテルダム」を設立し、治安問題を中心に大胆な市政改革を訴えた。この作戦は大成功し、フォルタインを看板とする「すみよいオランダ」はたちまち翌年の国政選挙の台風の目となった。

だがその直後、フォルタインは難民の受入れやイスラム批判で党の執行部と対立し、「極右」のレッテルを貼られて「すみよいオランダ」を脱党する。失意のフォルタインは自らの名を冠したフォルタイン党を設立するが、それは当初、友人たちを含むわずか4人の弱小政党だった。

ところがここから、事態は思わぬ方向に動き出す。

一連の騒動でも地域政党「すみよいロッテルダム」はフォルタインへの支持を変えず、02年3月のロッテルダム市議選で、フォルタイン率いる同党は34.74%という驚異的な得票率で地滑り的な勝利を収め、総議席45議席中17議席を獲得した。また同じ日に全国で行なわれた統一自治体議会選挙でも、「すみよい」を冠する地方政党は17の自治体で最大政党に躍り出た。

ロッテルダム市議会の第一党となったフォルタインは、保守政党や自由主義政党と連立して執行部を組閣することに成功する。既成政党がフォルタインにすり寄ったのは、いうまでもなく、次回の国政選挙でその人気にあやかるためだ。

フォルタイン党の躍進によって、候補者リストに名を連ねたいという志願者が殺到した。その中には既成政党の党員も多く、もっとも大きな被害を受けたのが政策の重なる「すみよいオランダ」だった。フォルタインは「すみよいオランダ」を除名同然の扱いで放り出されたが、わずか数カ月で形勢は逆転し、いまやフォルタイン党が「すみよいオランダ」を吸収しようとしていた。

総選挙が10日足らずに迫った同年5月6日、フォルタイン党の予想獲得議席は、(日本の衆議院にあたる)下院定数150のうち25%の38議席に達し、連立政権を組めばフォルタインが首相となることさえ夢ではなくなった。

だがこの華やかな政治ドラマは、その日の夕刻に劇的な終幕を迎える。ラジオ番組の出演を終えたばかりのフォルタインは至近距離から銃撃され、54歳の生涯をあっけなく終えたのだ。

銃撃犯は32歳の白人男性で、環境保護団体の熱心な活動家だった。裁判で彼は、フォルタインに「社会に対する危険」を見出したことが殺害の理由だと述べた。