「バカ」「死ね」に表現の自由はあるのか? 週刊プレイボーイ連載(351)

ネットセキュリティ会社の社員が、「低能先生」と呼ばれていた40代の男性に刺殺されるという衝撃的な事件が起きました。

報道によると、容疑者は国立大学を卒業したあと職を転々とし、3年前は福岡県のラーメン店で働いていたものの事件当時は無職でした。その学歴からわかるように、容疑者はけっして「低能」ではなく、ネットのコミュニティで他のユーザーを「低能」と誹謗中傷することからこのあだ名をつけられたようです。無職でも生活できたのは、おそらくは親の援助で暮らしていたからでしょう。

地元で最高の大学を卒業したものの社会生活がうまくいかず、ラーメン店を辞めた頃からアパートに引きこもるようになり、ひたすらネットの書き込みをつづけていたという姿が、ここからは浮かんできます。嫌がらせ投稿を理由に100回以上もアカウントを凍結されたにもかかわらず、新規IDで復活してはまた投稿を始めたことからも、その常軌を逸した執着心がわかります。

犯行の動機は、被害者が通報(ID凍結)を主導していた(と思い込んだ)ことへの逆恨みとされています。これは捜査の進展を待つほかありませんが、容疑者がなんらかの精神障がいを患っていた可能性も考えられます。いずれにせよ、部外者にはささいな諍いとしか思えないIDの凍結が、容疑者の歪んだ理屈では、死でもって償わせなければならないほどの重罪であったことは間違いありません。

アイデンティティは「自分らしさ」のことと思われていますが、これは正確ではなく、「社会的な私」の核心にあるものです。30~50人程度の小さな集団で狩猟採集生活をしていた旧石器時代には、共同体から排除されることは即、死を意味しました。徹底的に社会的な動物であるヒトにとって、「自己」は他人との関係のなかに埋め込まれているのです。

孤独であっても、あるいは孤独だからこそ、ひとは社会のなかで自分の居場所を求めます。その方法は千差万別ですが、プライドの高い容疑者にとっては、誰彼かまわず「低能」と罵ることだったのでしょう。

ところで、「バカ」「死ね」が自己実現のための唯一の表現だったとするならば、それを「表現の自由」として認めるべきでしょうか。

ネットでコミュニティサービスを提供する企業は、規約で発言削除やID凍結の権限を定めています。不適切な発言を通報するのは、ネットの言論空間を健全なものに保つために必要なことでしょう。しかし容疑者はそれで反省することはなく、ますます被害妄想を募らせていったようです。

アイデンティティ(社会的な私)を攻撃されると、ヒトの脳は身体的な暴力と同じ痛みを感じます。生命が危機に瀕すれば全力で抵抗しますから、いったんこの状態になるともはや理性は通用しません。ネットの共同体から排除されそうになった容疑者は、自分が集団でリンチされているかのように感じていたのではないでしょうか。

この事件ほど極端でなくても、ネットが社会の隅々にまで広がった現代には、そこにしか居場所のないひとが膨大にいそうです。彼らをどのように包摂すべきか、あるいは排除してもいいのか、私たちはようやくこの問題に気づいたところです。

『週刊プレイボーイ』2018年9月3日発売号 禁・無断転載

沖縄県知事の死を冒瀆するひとたちの論理 週刊プレイボーイ連載(350)

沖縄の翁長雄志知事が闘病の末に亡くなりました。がんを明らかにしてから、ネットには容姿や病状についての読むに堪えないコメントが溢れ、訃報のニュースは一時、罵詈雑言で埋め尽くされました(その後、削除されたようです)。

こうしたヘイトコメントを書くのは「ネトウヨ」と呼ばれている一群のひとたちです。彼らは常日頃、「日本がいちばん素晴らしい」とか「日本人の美徳・道徳を守れ」とか主張していますが、死者を罵倒するのが美徳なら、そんな国を「美しい」と胸を張っていえるはずがありません。真っ当な保守・伝統主義者は、「こんなのといっしょにされたくない」と困惑するでしょう。

ネトウヨサイトについては、最近は「ビジネスだから」と説明されるようです。しかしこれでも話はまったく変わりません。ヘイトコメントを載せるのはアクセスが稼げるからで、それを読みたい膨大な層がいることを示しています。

自分が白人であるということ以外に「誇るもの」のないひとたちが「白人アイデンティティ主義者」です。彼らがトランプ支持の中核で、どんなスキャンダルでも支持率が40%を下回ることはありません。同様に、安倍政権の熱心な支持者のなかに、日本人であるということ以外に「誇るもの」のない「日本人アイデンティティ主義者」すなわちネトウヨがいます。

彼らの特徴は、「愛国」と「反日」の善悪二元論です。「愛国者」は光と徳、「反日・売国」は闇と悪を象徴し、善が悪を討伐することで世界(日本)は救済されます。古代ギリシアの叙事詩からハリウッド映画まで、人類は延々と「善と悪の対決」という陳腐な物語を紡いできました。なぜなら、それが世界を理解するもっともかんたんな方法だから。

ネトウヨに特徴的な「在日認定」という奇妙な行為も、ここから説明できます。自分たち=日本人と意見が異なるなら「日本人でない者」にちがいありません。事実かどうかに関係なく、彼らを「在日」に分類して悪のレッテルを貼れば善悪二元論の世界観は揺らぎません。

今上天皇が朝鮮半島にゆかりのある神社を訪問したとき、ネットでは天皇を「反日左翼」とする批判が現われました。従来の右翼の常識ではとうてい考えられませんが、この奇妙奇天烈な現象も「朝鮮とかかわる者はすべて反日」なら理解できます。

ところが「沖縄」に対しては、こうした都合のいいレッテル張りが使えません。「在日」に向かっては「朝鮮半島に叩き出せ」と気勢を上げることができますが、基地に反対する沖縄のひとたちを「日本から出ていけ」と批判すると、琉球独立を認めることになってしまうからです。

こうして沖縄を批判するネトウヨは、「反日なのに日本人でなければならない」という矛盾に直面することになります。これはきわめて不愉快な状況なので、なんとかして認知的不協和を解消しなければなりません。「翁長知事は中国の傀儡」とか「反対派はみんな本土の活動家」などの陰謀論が跋扈するのはこれが理由でしょう。――都合のいいことに、探せば本土から来た市民活動家は見つかります。

ネトウヨは、「日本人」というたったひとつしかないアイデンティティが揺らぐ不安に耐えることができません。「絶対的な正義」という幻想(ウソ)にしがみついているからこそ、平然と死者を冒瀆してまったく意に介さないのです。

参考:高麗神社参拝の天皇陛下を「反日左翼」と呼ぶ人たち

『週刊プレイボーイ』2018年8月27日発売号 禁・無断転

「保守のジャンヌ・ダルク」はどこで地雷を踏んだのか? 週刊プレイボーイ連載(349)

自民党に所属する保守派の女性議員が雑誌への寄稿で、「LGBT(レズビアン、ゲイ、バイセクシャル、トランスジェンダー)」に対し、「彼ら彼女らは子供をつくらない、つまり「生産性」がないのです」と述べたことが激しい批判にさらされています。

これまでこのコラムで何回か、「世界の価値観はリベラル化しており、日本も半周遅れで追随している」と書きました。しかし今回の事件は、日本の「右傾化」を象徴しているのではないでしょうか。

その後の展開を見るかぎり、じつはそうともいえません。

「中国」や「韓国」、「リベラル」には過剰なくらいの批判(しばしば罵詈雑言)をしている右派論壇のひとたちは、この件については奇妙なことにみな沈黙を守っています。私が目にした唯一の「擁護」は「新しい歴史教科書をつくる会」創設メンバーの一人である藤岡信勝氏によるもので、「「『生産性』という言葉は(中略)引用符が施されており、(中略)誤読に基づく冤罪というべきものだ」でした。慰安婦問題などでこの女性政治家を「保守のジャンヌ・ダルク」と持ち上げていたひとたちは、いったいどこにいってしまったのでしょう。

自民党内にも彼女の主張を擁護する声はほとんどなく、9月の総裁選で安倍首相のライバルである石破茂氏や野田聖子氏ははっきり批判していますし、「人それぞれ政治的立場、色んな人生観もある」と庇った二階俊博幹事長も、同じ会見で「多様性を受け入れる社会の実現を図ることが大事」と述べています。それぞれニュアンスの差はありますが、保守派議員のなかでも四面楚歌になっていることは間違いありません。

この女性政治家は母子家庭や生活保護を「自己責任」と批判してもいましたが、驚いたことに今回の問題ではいっさいの説明を拒絶しています。自らの意見を開陳するのは思想・表現の自由でしょうが、国会議員は多額の税金を受領しているのですから、一般人はもちろん言論人と比べても重い説明責任を負っています。それを放棄するのでは、「弱い者には厳しく自分に甘い」といわれてもしかたないでしょう。

私の考えでは、世界は「リベラル化」と同時に「アイデンティティ化」しており、日本ではそれが「日本人」という脆弱なアイデンティティを守ろうとするかたちで表われます。これが「日本」を攻撃する(と思われている)者たちへの強い反発(嫌韓・反中、朝日ぎらい)になるのですが、逆にいえば「日本」に関係ないことはリベラルでかまわないのです。

「ネトウヨ」と呼ばれるひとたちは、「反日」だけでなく、「フェミニズム」「夫婦別姓」「LGBT」はたまた「ベビーカー」までさまざまな“弱者利権”を攻撃しますが、じつはこうしたテーマはリベラル化が進むなかで大衆的な支持を得ることができなくなっています。「すべてのひとが平等に、もって生まれた可能性を最大化できる社会を目指すべきだ」という意味でのリベラルを否定し、前近代的な日本の「伝統」を称揚するひとは右派論壇や保守派の政治家でもどんどん減っています。

ところが件の女性政治家は、「ネトウヨ」的な主張をすればするほど「ジャンヌ・ダルク」ともてはやされると思ったのでしょう。この勘違いで地雷を踏み、バッシングするつもりがバッシングの標的になってしまったのです。

参考:朝日新聞2018年7月27日「杉田氏「生産性」発言に広がる批判 自民党本部前で抗議」

『週刊プレイボーイ』2018年8月20日発売号 禁・無断転