第22回 不思議な縁もある無縁社会(橘玲の世界は損得勘定)

前回、母が入院したことを書いた。今回も、その時の話だ。

病院のフロアの一角に、自販機と電話、椅子が数脚置かれた談話室があった。私はそこで、面会の許可を待っていた。

談話室の中央に机がひとつ置かれていて、そこで病院のスタッフが見舞客と話をしていた。見舞客は高齢の女性と、それよりすこし若い男性で、最初は姉弟だろうと思った。

患者は脳梗塞で倒れたらしく、一命は取り留めたものの重い障害が残り、1人で生活するのは無理なようだった。かといって介護施設ではない病院に長く入院させることはできず、スタッフが転院先を探しているのだが、すぐに見つかるかどうかわからない。そこで、いったん退院させた後に、受け入れてくれる施設が見つかるまで、しばらく自宅で面倒を見てもらえないかという相談だった。

最初は、よくある話だと思った。高齢者の介護は、どこの家庭でもこれから大きな問題になっていく。

だがそのうち、会話が噛み合っていないことに気がついた。自宅で介護できるかと聞かれて、見舞客の2人は、患者の自宅がどこなのかわからないと困惑しているのだ。

「ところで、患者さんとはどんなご関係なんですか?」

病院のスタッフに訊かれて、男性の方がこたえた。

「関係といわれても、とくにないです」

「それでは、お2人の関係は?」

怪訝そうにスタッフが訊く。

「私たちも、とくに関係はないです」

このあたりから私は真剣に耳を傾けたのだが、男性の説明でなんとなく事情はわかった。

隣にいるおばあさんは近所で長く蕎麦屋をやっていて、男性と患者はその店の常連だった。最近、店に顔を出さないと思ったら、脳梗塞で倒れたと聞いたので2人で見舞いに来た……。

患者は家族とは絶縁しているらしく、これまで誰も見舞いには訪れなかった。そこに2人が現われたので、病院のスタッフはすっかり親族と信じ込んだのだ。

だが驚いたのは、それだけではない。おむつ姿でリハビリをする患者の姿を見て、2人は、退院するのなら自分たちが面倒を見てもいい、と言ったのだ。経済的な援助は無理だが、自宅に通って食事や下の世話をしたり、リハビリを手伝うくらいなら無償でやるというのだ。

病院は身寄りのない患者の扱いにほんとうに困っていたようだが、さすがに赤の他人に押し付けるわけにはいかず、「なんとか親族を探し出して相談してみます」ということで話は終わった。今も蕎麦屋を営んでいるというおばあさんは、「もしご家族に断わられたなら、私が面倒を見させていただきますから」と丁重に頭を下げた。

椅子から立ち上がる時、おばあさんは傍らに立てかけてあった杖を取った。常連客に身体を支えられ、足を引きずりながらエレベータへと向かう後ろ姿を見ながら、「無縁社会にもこんな縁があるんだな」と思った。

橘玲の世界は損得勘定 Vol.22:『日経ヴェリタス』2012年10月21日号掲載
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地方の支店長が社長に命令する組織 週刊プレイボーイ連載(72)

新党「日本維新の会」を立ち上げた橋下徹大阪市長のいちばんの魅力は、日本の社会に蔓延する前近代的な統治構造を徹底的に批判し、改革したことです。

近代的な統治(ガバナンス)というのは、組織のなかで、責任と権限が一対一で対応していることです。ところが日本の社会では、責任がないひとが大きな権限を持っている、ということが頻繁に起こります。

年金記録問題などで廃止された社会保険庁では、年金データのオンライン化にあたって、労働組合が社会保険庁長官と「覚書」を交わし、勤務内容を細かく指示するばかりか、人事や指揮命令権までが交渉の対象とされていました。このような奇妙な慣行が続いていたのは、社保庁が厚生労働省の外局で、長官が厚労省のキャリア官僚の上がりポストで、現場がひと握りの幹部と労組の「談合」によって波風が立たないように運営されてきたからです。

こうした不祥事は中央官庁だけでなく、全国どの自治体でも見られるものです。とりわけ大阪府や大阪市は、さまざまな歴史的経緯から、労働組合が行政に大きな権限を持っていました。職員へのヤミ給与、カラ残業、ヤミ年金が常態化し、長期勤続や結婚記念日、子どもの誕生記念などの冠婚葬祭のたびに旅行券、図書券、観劇スポーツ観戦券、祝い金・弔慰金が贈られ、そのうえ職員互助組合は交付金で豪華な福利厚生施設を建設していたのです。

弁護士から自治体の首長になった橋下氏は、地方議員と自治体幹部、労働組合が癒着する前近代的な行政組織の実態を白日の下に晒し、市民の怒りを武器に統治構造の改革を迫るという手法で大きな成功を収めました。そしていよいよ、「大阪から日本を変える」国政進出に乗り出したのです。

日本維新の会の理念は「維新八策」に掲げられていますが、そこでも改革の目標は、首相公選制や参議院廃止、道州制(地方分権型国家)など、日本国の統治構造です。大阪で実現した改革を国にまで広げていこうとする戦略は明快です。

しかし日本維新の会には、ひとつ大きな欠陥があります。

国政政党の目的は、選挙で過半数の支持を獲得し、党首を首相にして内閣を組織し、中央省庁を統治して国を動かすことです。ところが党首である橋下市長は自治体の首長のままで、国政選挙に出るつもりはないといいます。

日本国憲法では、内閣総理大臣になれるのは国会議員だけです。維新の会がもし次の衆院選で勝つようなことがあれば、党首である橋下大阪市長よりも格下の党員が日本国の首相になってしまいます。かといって政権奪取を目指さないのなら、国政政党としての自己否定でしょう。

橋下市長は、日本の行政を批判してしばしば「そんなの民間ではあり得ない」といいます。しかしどんな民間企業でも、一地方の支店長が社長に命令することはあり得ません。「日本維新の会」は、国政政党としての統治が崩壊しているのです。

自分の政党の統治すらできない人物に国家の統治などできるはずがない――こうした批判を封じるには、橋下市長自らが党首として国政選挙に出馬し、首相を目指すほかはないでしょう。

 『週刊プレイボーイ』2012年10月22日発売号
禁・無断転載

同和地区を掲載することは「絶対に」許されないのか?

「ハシシタ 奴の本性」について、『週刊朝日』に編集長の「おわび」が掲載された。今後は第三者機関が記事掲載の経緯を検証し、結果を公表するという。結論が出るまでにはかなり時間がかかるだろうが、今後の議論の参考に事実関係を整理しておきたい。

最初に、以下のことを断わっておく。

「ハシシタ 奴の本性」は、出自や血脈(ルーツ)を暴くことで橋下市長を政治的に葬り去ることを目的としている。だからこれは、ノンフィクションというよりもプロパガンダ(政治的文書)だ。

記事のこうした性格を考えれば、橋下市長が、記者会見での回答拒否を含むあらゆる手段を行使して『週刊朝日』に謝罪と連載中止を求めるのは当然だ。一連の行為が正当かどうかは、今後、有権者が判断すればいいことだ。

著者である佐野眞一氏の、「両親や、橋下家のルーツについて、できるだけ詳しく調べあげ」るという手法に反発したひとは多いだろう。私もこうした手法には同意しないが、だからこそこの事件は表現の自由についての本質的な問題を提起している(正統なノンフィクションであれば、そもそもこんな問題は起こらない)。

原理主義的なリバタリアニズムでは、表現の自由こそが絶対でプライバシーは権利として認めない。私はこうした異端の主張で議論をいたずらに混乱させるつもりはないが(この論理に興味のある方はこちらをどうぞ)、表現の自由とプライバシー権は相対的なものだというより穏当な主張なら多くのひとが同意するだろう。

『週刊朝日』編集部の「おわび」では、連載を中止した第一の理由は、「同和地区を特定」したことだ。もちろん、正当な理由なく同和地区を誌面に掲載することが許されるはずはない。

だが、同和地区のタブーは絶対的なものではないはずだ。同和地区を特定することでそこに住むひとたちが被る不利益よりも、社会全体がより大きな利益を得ることができるならば(あるいはそう確信しているならば)、表現者は自らの意思でタブーを踏み越えていくことができる。

ここでは、こうした視点からあらためてこれまでの経緯をまとめてみたい。

「ハシシタ 奴の本性」掲載まで

(1)『新潮45』2011年11月号にノンフィクション作家・上原善広氏の「「最も危険な政治家」橋下徹研究 孤独なポピュリストの原点」が掲載された(ちなみにこの記事は第18回「編集者が選ぶ雑誌ジャーナリズム賞」大賞を受賞している)。

上原氏は被差別部落出身であることをカミングアウトしており、『日本の路地を旅する』で第41回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞している(上原氏は中上健二にならって被差別部落を「路地」と呼んでいる)。

「橋下徹研究」で上原氏は、橋下市長の実父が大阪府八尾市の被差別部落出身であることと、橋下という姓がもともと「ハシシタ」と呼ばれていたことを書いた。また実父の弟(橋下市長の叔父)に話を聞き、兄(実父)が土井組というヤクザに属していたこと、同和事業を引き受けて成功した後、放漫経営で会社を倒産させ、ガス自殺したことなどを語らせている。この記事で橋下市長の叔父は、「わしもアニキも同和やゆうのに誇りをもっとった」と述べ、その出自を自ら明かしている。

(2)『新潮45』の上原氏の記事を受けて、『週刊新潮』11年11月3日号は、「「同和」「暴力団」の渦に呑まれた独裁者「橋下知事」出生の秘密」を、同日発売の『週刊文春』も「暴力団組員だった父はガス管くわえて自殺 橋下徹42歳書かれなかった「血脈」」を掲載した。これらの週刊誌も、実父の生まれた被差別部落を実名で掲載している。

週刊誌の記事では、叔父が愛人に産ませた息子(橋下市長の従兄弟)が駐車場をめぐるトラブルから金属バッドでひとを撲殺し、傷害致死で5年の懲役刑を受けたことや、大阪市長選の前夜、橋下氏の秘書がラブホテルを借り切って乱痴気パーティをやっていたことなどが書かれている。

(3)それ以外にも、『許永中 日本の闇を背負い続けた男』『同和と銀行』などの著書のあるノンフィクションライターの森功氏が『g2』で「同和と橋下徹」を連載し、そこで橋下市長の実父が被差別部落で生まれたことを地名を特定して書いている。

(4)『週刊朝日』の「ハシシタ 奴の本性」は、すくなくとも第1回を読むかぎりでは、先行する『新潮45』『週刊新潮』『週刊文春』『g2』の記事の焼き直しであり、新しい事実はなにひとつ書かれていない。また自らの出自を暴いたこれらの雑誌に対し、橋下市長は現時点まで名誉毀損などの法的措置をとっていない。

部落差別と表現の自由

『週刊朝日』編集部は、連載中止のいちばんの理由に、同和地区の地名を掲載したことを挙げている。正当な理由なく被差別部落を名指しするのが重大な人権侵害であることは間違いないが、上記の経緯を踏まえると、「ハシシタ 奴の本性」で橋下市長の実父の出生地を明かしたことについては一般論では括れない事情がある。

(1)「「最も危険な政治家」橋下徹研究」を書いた上原善広氏は、自身のブログで次のように述べる。

差別的にしろ、なんにしろ、ぼくは路地について書かれるのは全て良いことだと思っています。それがもし差別を助長させたとしても、やはり糾弾などで萎縮し、無意識化にもぐった差別意識をあぶりだすことにもなるからです。膿み出しみたいなものですね。それで表面に出たものを、批判していけば良いのです。大事なのは、影で噂されることではなく、表立って議論されることにあります。そうして初めて、同和問題というのは解決に向かいます。

これは1960年代のアメリカで、同性愛者の反差別運動のなかで生まれた「クローゼット壊し」の考え方に近い。同性愛者の過激な活動家たちは、「ホモセクシャルである自分を“クローゼットに隠して”日常生活を送っていることが社会的な差別を生む」と主張し、芸能人やファッションデザイナー、メディア関係者などの有名人がゲイであることを、本人の意思を無視して積極的に暴いた。クローゼット壊しは、“自分が同性愛者であることを受入れられない抑圧された魂を解放する”とされたのだ。

もちろんこうしたラディカルな運動は、プライバシーの侵害だとして激しい批判を浴びた。しかしその一方で、クローゼット壊しがゲイがカミングアウトできる土壌をつくったことも確かで、その評価はいまだに定まっていない。

上原氏は、「大事なのは、影で噂されることではなく、表立って議論されること」という思想信条から、陰で囁かれていた橋下市長の出生の秘密を暴いた。こうした手法が成立するのは、いうまでもなく、上原氏自身が被差別部落出身であることをカミングアウトした「当事者」だからだ。

上原氏の記事を橋下市長が無視したのも、社会がとりたてて問題視しなかったのも、それが当事者の自覚的な行為だったからだ。だとすると、佐野眞一氏の記事が大きな社会問題になったのは、佐野氏が被差別部落出身ではない“一般人”、すなわち当事者ではないからだ、ということになる。

だが、一見わかりやすいこの考え方には大きな矛盾がある。

表現の自由が普遍的な権利なら、当事者(被差別部落出身者)なら許されて、当事者でない一般人が同じことをすると社会的に厳しい制裁を受ける(黙るしかない)のは明らかにおかしい。上原氏はもちろんこのダブルスタンダードに気づいていて、次のように述べる。

まず佐野氏の連載は、えげつないことは確かですが、いまもっとも話題の政治家・橋下氏の記事としては許される範囲でしょう。心配される路地(同和)への偏見については、しっかりフォローすることも大事ですので、今後の佐野氏の書き方次第だと思います。しかし、こうして一般地区出身の作家が、路地について書くことは、とても重要な意味をもつ画期的なことです。

私はこの発言が、今回の一連の騒動のなかで、議論に値するもっとも重要なものだと思う。だが被差別部落出身の当事者によるこの“不都合な発言”は、「差別」の大合唱のなかで完全に黙殺されている。

同和地区の名称を名指しすることが「絶対に」許されないのなら、上原氏も同じような社会的制裁を受けなければならない。逆に上原氏の記事が許容されるならば、佐野氏の同じ記述も表現の自由の範囲内ということになるだろう。

当事者性によるダブルスタンダードを認めないなら、このように考えるほかはない。

(2)上原氏が寄稿した『新潮45』は部数の少ない月刊誌で、『週刊朝日』は国民的な週刊誌だから影響力が違う、という批判もあるかもしれない。しかしこれは、事実として間違っている。

上原氏の記事を受けて同和地区の名称を実名で報じた『週刊新潮』と『週刊文春』は『週刊朝日』の2~3倍の部数があり、両誌を合わせれば100万部を超える。それに対して『週刊朝日』の発行部数は20万部程度だとされている。

すでに1年ちかく前に、はるかに影響力の大きな週刊誌2誌で報じられた内容を、より影響力の小さな(部数の少ない)雑誌に掲載したら社会的な制裁を受ける、ということはやはり筋が通らない。

『週刊朝日』の今回の記事が「絶対に」許されないのなら、『週刊新潮』や『週刊文春』の記事も遡って批判されるべきだ。『週刊新潮』や『週刊文春』の記事を社会が受け入れているのなら、『週刊朝日』も同様に扱われるべきでだろう。

もちろんこれに対しては、出版社系の(独立した)『週刊新潮』や『週刊文春』と、新聞社系の(朝日新聞社が親会社である)『週刊朝日』では事情が違うという意見があるだろう。私はもちろんこのことを承知しているが、だがこの論理は先ほどと同じ矛盾に逢着するだけだ。

日本では、出版社系か新聞社系かで雑誌に書いていいことが違う(出版社系なら同和地区の名称を名指しできるが、新聞社系は許されない)。このダブルスタンダードを、表現の自由という普遍の権利から説明することはできない。

(3)先行する『新潮45』『週刊新潮』『週刊文春』に比べて、今回の『週刊朝日』の記事はより悪質だという見方もあるだろう。たしかに、「ハシシタ 奴の正体」というタイトルや、「橋下徹のDNAをさかのぼり本性をあぶり出す」という表紙コピーは強烈だ。だがこれは『週刊朝日』編集部の判断で、記事のタイトルや表紙コピーに書き手が関与することは原則としてできない。

したがって、もしもタイトルに問題があるのなら、編集部はそのことを橋下市長に謝罪し、タイトルを変更したうえで連載をつづければいいだけだ。書き手はタイトルになんの責任もないのだから、そのことを理由に連載を中止されるのは理不尽きわまりない。

(4)編集部の「おわび」では、連載を中止した理由は、「同和地区を特定するなど極めて不適切な記述を複数掲載したこと」と、「タイトルも適正ではなかった」こととされている。

だがこのうちタイトルは、編集部の責任ではあっても著者とは無関係だ。また「同和地区を特定する」ことも、一般論としては許されることではないとしても、上記で述べたように、今回のケースでは表現の自由の範囲に収まると主張することもじゅうぶんに可能だ。したがって、この2つだけでは連載を中止する理由にはならない。それ以外の「不適切な記述」については、いまに至っても一切説明がない。

それではなぜ、『週刊朝日』編集部は連載を中止したのか?

連載中止の経緯こそ検証すべきだ

『週刊朝日』編集部が「ハシシタ 奴の本性」の連載を中止したのは、誰もが知っているように、上位の権力から命じられたからだ。これによって編集部は、本来なら継続すべき連載を中止する理由を探さなくてはならなくなった。このように考えると、『週刊朝日』の「おわび」の意味がよくわかる。

(1)前回も述べたように、佐野眞一氏は「確信犯」で橋下市長の「血脈」を暴こうとしており、今回の騒動で橋下市長に謝罪するつもりはまったくない。『週刊朝日』編集部は自らこの連載を佐野氏に依頼し、その原稿を全面的な同意のうえで掲載したのだから、連載中止にあたって、佐野氏の記事を部落差別だと認めたり、橋下市長に謝罪するよう求めることができるはずはない。すなわち、橋下市長に対する記述は最初から連載中止の理由にできない。

(2)こうして窮余の末に見つけ出してきたのが、「同和地区を特定」した箇所だ。これであれば、「遺憾」の意を表したとしても佐野氏は橋下市長に謝罪したことにはならず、また編集部としても、本来であれば伏字にすべきものを掲載してしまったという“単純ミス”なのだから、佐野氏の記事を否定することにもならない。これが両者がぎりぎり妥協できる落とし所だったのだろう。

(3)しかしこれだけでは、編集部が橋下市長に謝罪する理由がない。そこで見つけたのが、著者とは関係のないタイトルと表紙コピーだ。これについて勝手に編集部が橋下市長に謝罪するのなら、著者としてはどうしようもない。

(4)『週刊朝日』編集部は当初から「極めて不適切な記述が複数ある」と述べていたが、同和地区を特定した箇所以外にどこが不適切なのかを明らかにすることができない。これは当たり前のことで、橋下市長を批判した部分を「不適切」とすることを佐野氏が認めるはずはない。

(5)橋下市長は、「ハシシタ 奴の正体」がナチスの優生思想と同じだと批判した。今回、『週刊朝日』編集部が反論もせず謝罪したことで、社会的には「橋下市長の主張を認めた」と受け取られた。

こうして、大宅壮一ノンフィクション賞と講談社ノンフィクション賞をダブル受賞した佐野眞一氏は、「部落差別作家」のレッテルを貼られることになった。私は佐野氏の今回の記事を評価しないが、それでも雑誌づくりが著者と編集部の共同作業であることを考えれば、一人の書き手として、『週刊朝日』編集部の今回の仕打ちはきわめて不当なものだと思う。これでは、著者を後ろから撃つのと同じだ。

(6)佐野氏は今後、どこかの雑誌で連載を再開するか、単行本版『ハシシタ 奴の本性』を刊行しようとするだろう(手がけたい出版社はいくらでもあるはずだ)。その評価は、作品が完結してから読者(と社会)が行なえばいいことだ。

(7)ここまで述べたように、今回の問題の本質は「同和地区を特定する記述を掲載したこと」ではなく、すべてが完全に自覚的に行なわれた出版行為であるにもかかわらず、『週刊朝日』編集部が手のひらを返すように橋下市長に謝罪し、連載を中止したことにある。第三者機関には、ぜひその経緯を検証してもらいたい。

(8)もちろん、それでも差別は絶対に許されない、というひともいるだろう。だが、「ハシシタ 奴の本性」を全否定し、バッシングすることは部落差別の新たなタブーをつくるだけだ。

上原善広氏は自身のブログのなかで、日本のマスメディアの体質について述べている。

そもそも大新聞各社は二年前、ぼくの『日本の路地を旅する』が発刊されたとき、「同和問題はどのような本であれ、紙面では紹介できない。ただし大宅賞をとったら載せてあげても良い」と豪語しました。これは自分たちの問題意識を低さに乗っかった、大新聞の傲慢な態度だと思います。結局、ぼくは大宅賞を受賞して、メデタク掲載していただきましたが、あまり嬉しくありませんでした。

ぼくがテレビに出れないのは、路地(同和)を書いているからなんですね。確かにルックスはデブなので見苦しいかと思うのですが、それだけではないのです(多分…)。機会があればぜひ出てみたいのですが、まずは同和タブーがなくらないかぎり、土台、無理な話なのです。

これが、「差別」だ。