第18回 欧州で光る移民のレストラン(橘玲の世界は損得勘定)

ロンドンのヒースローは、世界でいちばん評判の悪い空港のひとつだ。

いちばんの理由は入国審査官がいじわるなことだ。

ヨーロッパはシlェンゲン協定によって国境を自由化したが、ドーバー海峡という“自然の防壁”があるイギリスは協定に加盟せず、不法移民の流入を水際で阻止しようと頑張っている。入国審査では目的や滞在地などをねちねちと聞かれ、到着便が重なると長蛇の列ができる。ヒドいときは3時間待ちになり、旅行者から皮肉の拍手が起きたと新聞記事になるほどだ(ロンドン五輪を目前にして、最近は多少改善されたようだ)。

ようやくの思いで入国審査を通過しても、こんどはロンドン市内への交通の便が悪い。空港のインフォメーションでホテルへの行き方を教えてもらったのだが、けっきょく各駅停車の地下鉄に乗り、コヴェント・ガーデン駅でスーツケースを引っ張り上げ、霧雨のなか石畳の道をホテルまで歩くことになった。せっかくの五つ星ホテルなのに、これではバックパッカーが安宿に向かうみたいだ。

ホテルにチェックインすると、次の悩みはレストランだ。ロンドンは、パブやスポーツバーで鯨飲するにはいい町だが、ローストビーフとフィッシュ・アンド・チップスばかり食べてはいられない。

しかしこのやっかいな問題は、インド料理店に行くことで解決する。ロンドンにはたくさんのインド系移民がいて、パキスタンやバングラデシュから南インドまで、本場のインド料理をリーズナブルな価格で提供してくれるのだ(チャイナタウンを勧めるひともいるが、中華料理は日本や中国・香港・台湾で食べられるのであまり行ったことがない)。

こうした事情はロンドンだけでなく、ほかの大都市でも同じだ。パリは「美食の都」といわれるが、高級レストランの料理の値段はほとんどが家賃と人件費で、裕福で見栄っ張りな観光客を相手に商売している。パリにはアルジェリアやチュニジアからの移民が多く、地元の食通は安くておいしい北アフリカ料理の店にいく(「フランス料理を食べるならベルギーに行け」といわれる)。

ドイツ料理もジャガイモとソーセージのイメージしかないが、いまではどの町にもトルコ料理やギリシア料理のおいしい店がある。アムステルダムなら、オランダの旧植民地だったインドネシアやスリランカ料理の店を探すといい。

移民のレストランが安くておいしい秘密は、人件費率が小さく競争が激しいからだ。安い時給でも国ではエリート並みの給料で、土日も休まず働けば故郷に豪邸が建つ。内外価格差を利用すると、移民の低賃金労働がWin-Winの関係になるのだ。

どの国も不法移民には頭を悩ませているが、それでもヨーロッパはますます多民族化している。翌日、ロンドン郊外に向かう電車に乗ると、乗客の8割は中国系、ロシア系、アラブ系などで、英語を話すのは少数派だった。

橘玲の世界は損得勘定 Vol.18:『日経ヴェリタス』2012年7月22日号掲載
禁・無断転載

いじめ自殺はなぜ公立中学で起こるのか? 週刊プレイボーイ連載(60)

滋賀県・大津市立中学2年生の男子生徒(当時13歳)が昨年10月に自殺し、大きな社会問題になっています。さまざまな議論がなされていますが、ここではなぜ、いじめ自殺は公立中学でしか起こらないのかを考えてみたいと思います。こうした悲劇は、高校や私立中学が舞台となることはほとんどないのです。

高校でいじめ自殺が起きない理由は、誰でもすぐにわかります。高校は義務教育ではないので、いじめられて学校がイヤになった生徒は退学してしまうのです。だとしたら中学も義務教育をやめて、自由に退学できるようにすればいじめ自殺はなくなるはずです。もちろん「中学中退」ではその後の人生はきびしいものになるでしょうが、死んでしまうよりはずっとマシです。

「義務教育の廃止」という劇薬を飲む前に、私立中学ではなぜいじめ自殺が起こらないのかも考えてみましょう。これはもちろん、私立中学の生徒の倫理観が高かったり、教師が理想の教育に身を捧げているからではありません。私立だろうが公立だろうが、生徒も教師も同じようなものです。

私立中学と公立中学では、いじめに対するインセンティブ(動機)と選択肢がちがいます。わかりやすく説明してみましょう。

公立中学の教員は公務員ですから、いじめ自殺のような事件が起きると社会からバッシングされますが、首をすくめて嵐が過ぎるのを待っていれば、いずれは平穏な生活が戻ってきます。

それに対して都市部の私立中学ははげしい生徒の獲得競争をしていて、いじめ自殺はもちろんのこと、「あの学校は荒れている」という評判が立っただけで、優秀な生徒を他校に取られてしまいます。入学者が激減すれば経営が成り立たず、学校は倒産、教師は解雇されてしまうかもしれません。私立中学の経営陣や教師は、「悪い評判を立ててはならない」という強力なインセンティブに動かされているのです。

私立中学では、いじめを根絶するためにどのような手段を使っているのでしょうか? これはきわめてかんたんで、問題のある生徒は片っ端から退学処分にしてしまうのです。

これはかならずしも「教育的」とはいえませんが、それでもいじめに対する生徒のインセンティブを大きく変えていきます。私立中学でも教師に気づかれない陰湿ないじめはあるでしょうが、彼らも損得勘定くらいできますから、暴行や恐喝のような「退学リスク」の大きないじめは抑制されるのです。

それに対して公立中学の教師は退学という“暴力”を行使することができず、いじめる側の生徒とも3年間つき合っていかざるを得ません。こうした生徒はクラス内での影響力が大きく、きびしい指導で対立すると学級運営が崩壊してしまいます。大津の事件でも、暴力行為を目撃した教員が「あんまりやりすぎるなよ」と注意しただけだったと批判されていますが、それ以上のことなどできない、というのが現場の本音ではないでしょうか。

未来に大きな可能性が待っているのに、わずか13歳で生命を絶つほど悲惨なことはありません。こうした悲劇を繰り返さないためには、すべての中学を民営化して生徒の獲得を競わせると同時に、退学処分の権限を与えればいいのです。

 『週刊プレイボーイ』2012年7月23日発売号
禁・無断転載

政治家が官僚を叩くと日本はギリシアになる?

資料を整理していたら面白い研究を見つけたので紹介したい。日経新聞2012年5月21日(朝刊)の経済教室に、「日本は南欧化するのか?」として、鶴光太郎慶大教授が寄稿した記事だ。

ここで取り上げられる問題は、次のふたつだ。

  1. 先進国のなかで、アングロサクソン(英米)のように小さな政府を志向する国と、ヨーロッパのように大きな政府を志向する国があるのはなぜか?
  2. 大きな政府を志向するヨーロッパのなかでも、財政が健全な北欧諸国と、不健全な財政に苦しむ南欧諸国に分かれるのはなぜか?

その回答として、他人への信頼度(公共心)と福祉の規模をマッピングした研究がある。それが下図だ。

この図では、他人への信頼度(公共心)が低い国(ポルトガル、ギリシア、フランス、イタリア、スペイン)は福祉の規模が大きく、信頼度が高くなるにつれて福祉の規模は小さくなっていく(アングロサクソン国)が、より公共心が強まるとふたたび福祉国家を志向するようになる(北欧とオランダ、デンマーク)。鶴氏はこれを、次のように説明する。

公共心が高い(脱税や社会給付などの不正受給がない)国では、より高い税負担をしてもその分が確実に返ってくるのだから、ひとびとは高福祉の国を支持するだろう。

その一方で、公共心のないひとたちも、より強く再分配政策を求めるにちがいない。彼らは税負担を逃れながら、福祉にただ乗りすることができるからだ。

このように考えると、公共心の高いひとが増える場合だけでなく、公共心のないひとが増えた場合でも、国民は大きな政府を求めることがわかる。高福祉国には、「まじめな国民・公務員が多いために、大きいが効率的な福祉国家」と、「不正を働く国民・公務員が多いため、大きく非効率的な福祉国家」の2種類が存在するのだ。

その一方で、公共心が中程度の国は国民の再配分への指示は相対的に弱く、小さな政府が志向されるという。

まわりのひとたちへの信頼感や公共心への評価が高く、政府機関への信頼が厚いほど福祉国家への支持が強いのは誰でもわかるだろう。だが「欧州社会調査」や「世界価値観調査」などを分析すると、「政府からの不正受給、交通機関の無賃乗車、脱税、収賄、ごみの不法投棄、盗難品の購入」などが正当化されると考えるひとが多い国でも福祉国家への支持が強かったのだ。

それでは、日本はどうだろう。

鶴教授によれば、日本人の他人への信頼度は欧米先進国のなかでは中程度で、過去25年にわたって目立った変化は見られないものの、「政府への信頼」に関する質問では、議会や公的サービスに極端な不信を持つ層が確実に増えており、欧米先進諸国と比べても高い部類に入るという。

民主党への政権交代以来、「官僚支配」批判が大流行している。各政党は、どれだけ官僚を叩いたいたかを競っている。日本が「省庁連邦国家(United Ministries of Japan)」であることを考えればこうした批判は理由のないことではないが、この研究によれば、政治家が官僚や行政を叩けば叩くほど国民は政府を信頼しなくなり、公共心が低くなって、いずれ日本は南欧化していくことになるのだ。