日本人はアメリカ人より裁判が好き?

すこし前の本だが、興味深いデータを見つけたので紹介したい。

ハーバード・ロー・スクールを卒業後、日産自動車法規部などを経て、東京大学大学院(法学政治研究科)で教鞭をとるダニエル・フットは、「アメリカ人は訴訟好き」「日本人は訴訟嫌い」という“常識”に疑問を持った。

フットは、『裁判と社会―司法の「常識」再考』のなかで、日本(2000年)、アメリカ(2001年)、中国(1995年)で行なわれた大規模意識調査を例に挙げる。

質問者はまず、以下のような3つの仮想事例を提示した。

【友人との紛争】ある人が友人に1カ月分の給料にあたる金額を貸しましたが、返済期限がきても友人はその金を返そうとしません。友人と交渉しても、友人はその金を返しません。その場合、その人が次の行動をとることをどう考えますか?

【電器屋との紛争】ある人が電器屋から1カ月分の給料にあたる価格の電気器具を買ったところ、それは不良品でした。電器屋に新品との取り替えを求めても、電器屋はそれに応じませんし、売買を解除し代金の返還を求めても電器屋はそれに応じようとしません。その場合に、その人が次の行動をとることをどう考えますか?

【交通事故の紛争】ある人が交通事故にあって1カ月入院の傷害を負いましたが、特に後遺症は残りませんでした。被害者が、治療費と入院中の収入の賠償を求めて交渉しても、加害者は賠償金を支払いません。その場合にその人が次の行動をとることをどう考えますか?

それぞれの質問に対し、回答を下記の5つの選択肢から選んでもらった。

  1. 相手が支払わないならば、それであきらめ、特別な行動をとろうとしない
  2. 共通の知り合いである有力な人に相談する
  3. 法律の専門家に相談する
  4. 弁護士会の調停制度その他を利用する
  5. 裁判所に訴える

その結果をまとめたのが下図だ(選択肢2の「共通の知り合いへの相談」と選択肢3の「法律の専門家への相談」は「相談」としてまとめれらている)。ここでは、「好ましい」ものほど点数が低く、「好ましくない」ものほど点数が高いことに注意してほしい。

ダニエル・フット『裁判と社会』(NTT出版)より

これを見れば明らかなように、日本、アメリカ、中国ともに、もっとも「好ましくない」選択肢は「行動なし(泣き寝入り)」で、次に「好ましくない」のは裁判だ。そして多少の差はあるものの、日本人、アメリカ人、中国人の“紛争処理”に対する考え方はとてもよく似ている。

3つのケースは、親しい関係(友人)、赤の他人(交通事故)、その中間(電器屋)という人間関係の濃淡で分かれている。もっとも疎遠な交通事故の加害者に対しては、相談や調停と裁判がほぼ同率になっている。それに対して友人との紛争では、裁判よりも相談や調停を好むのはどの国も同じだ。

この調査結果をもとにフットは、「アメリカ人は日本人よりも訴訟好きだ」という常識に異を唱える。弁護士以外では、裁判が好きな人間などどこにもいないのだ。

とりわけ友人との紛争では、わずかな差であるものの、日本人よりもアメリカ人のほうが裁判に抵抗を示すことに注目してほしい。

フットはこれを、日本よりもアメリカのほうが地域共同体が機能しているからではないか、と推測している。アメリカの田舎ではまだ教会を中心としたコミュニティがあるが、日本の町内会や自治会は私人間の紛争を解決する能力を失ってしまったのだ。また、日本やアメリカよりもはるかにベタな人間関係のなかで暮らしているはずの中国人が、友人間の紛争を訴訟で解決することにもっとも抵抗がないことも興味深い。

交通事故の紛争解決で日本人が裁判よりも相談や調停を好むことも、文化のちがいではなく制度によって説明できる。フットによれば、日本ほど効率的な裁判外の交通事故処理システム(交通事故紛争処理センター」など)を持っている国はないのだ。

それでは、アメリカではなぜあれほど訴訟が多いのだろうか? これは一般には、日本とアメリカの弁護士の数が理由とされるが、司法改革で弁護士を増やしても日本の訴訟数が大きく増えたという事実はない(いまでも日本の裁判は、少額の訴訟を中心に多くが本人訴訟で争われている)。

フットは、アメリカ人が訴訟を起こす理由を、ディスカバリー(証拠開示手続)制度にあるという。アメリカでは、トライアル(正式事実審理)に先立ち、(秘匿特権の対象にならないかぎり)当事者は、原則として訴訟での争点に関連したすべての情報を提出しなければならない。この制度によって、医療事故などでは、金銭賠償よりも「なにが起きたのか真実を知りたい」という理由で訴訟が提起されることも多いという。

アメリカ人は、紛争が生じたらまず訴訟を起こし、ディスカバリーによって相手に証拠書類を提出させ事実関係を確定させたうえで、有利な和解を探ろうとする。そのため民事訴訟の和解率はきわめて高く、2002年、アメリカの連邦地方裁判所に提起された民事訴訟のうちトライアルに至ったのはわずか1・8%に過ぎない(大半は和解か、裁判外で和解が成立したことによる取り下げ)。州裁判所(22州の平均)でも、2002年の民事事件のうち15.8%しかトライアルに至っておらず、この現象は「消え行くトライアル」と呼ばれている(日本の和解率は約5割)。

アメリカにおいて訴訟が交渉の入口なのに対して、日本では当事者同士の交渉や調停によって和解の道を探り、交渉が決裂したら最終手段として裁判に訴える。日本の民事訴訟法にも当事者照会や文書提出命令などの制度があるが、アメリカのディスカバリーに比べればその効力ははるかに弱く、原告は訴訟の前に自力で事実関係を確定させておかなくてはならない。

それ以外でも、強制執行の欠陥(日本では、支払う気のない債務者からの債権回収はほとんど不可能)や損害賠償額の低さ(裁判をしてもしょうがない)など、さまざまな制度的要因によって、日本人は文化的(和を尊ぶ)ではなく経済合理的な理由から訴訟を忌避しているのだ。

司法改革は、こうした司法制度の根幹に手をつけなくては機能せず、いまのままでは法科大学院に湯水のごとく税金を注ぎ込み、弁護士の失業を増やすだけで終わることになるだろう。

尖閣問題は未来永劫つづいていく 週刊プレイボーイ連載(61)

石原東京都知事が尖閣諸島購入の意向を明らかにしたことで、日中間の緊張が増しています。このやっかいな問題について目新しい提案ができるわけではありませんが、ここではなぜ領土問題の解決が困難なのかを考えてみましょう。

国家のもっとも重要な役割は、国民のために「国益」を守ることだとされています。当然だと思うでしょうが、「国益とはいったいなにか」を問われるとこたえに窮してしまいます。

TPP(環太平洋戦略的経済連携協定)問題では、参加を阻止することが日本の国益だと主張するひとたちがたくさんいます。彼らの主張では、TPPはアメリカの陰謀で、日本が加盟すれば農業は壊滅し、医療保険は崩壊し、金融市場は外資に乗っ取られてしまうのです。

それに対して、TPPに参加することが日本の国益だというひとたちもいます。彼らは、市場がますますグローバル化するなかで日本だけが貿易自由化に反対していては、いずれ世界の孤児になってしまうと警告します。

原発問題でも、「国益」をめぐって議論は激しく対立しています。

原発反対派のひとたちは、原発の再稼動をひとつでも認めれば国民の生命が危険にさらされると危機感を募らせます。その一方で、電気料金の大幅値上げによって国内の製造業が壊滅し、空洞化で雇用が海外に流出してしまうと考えるひともいます。

消費税問題はどうでしょう。

増税に反対するひとたちは、日銀が国債を引き受けて市場に大量のマネーを供給すれば日本経済はデフレの病を克服し、ふたたび経済成長できると主張します。消費税引き上げを支持するひとは、そんなことをすれば国家財政が破綻して、日本はギリシアのように極東の貧しい国に落ちぶれてしまうといいます。

このように、あるひとにとっての国益は、別のひとにとっては亡国の道です。両者は激しく憎み合っていて、妥協はもちろん話し合うことすらありません。

現代の政治学では、「国益」というのは国家の名を借りた「私益」のことだとされています。

TPPで安い外国産農産物が流入する農家にとっては参加阻止が国益で、外国企業と同じ条件で競争したい製造業にとっては早期の参加が国益です。増税で年金や医療などの社会保障を維持することが国益だと考えるひともいれば、徹底した歳出削減によって税金を引き下げることが国益のひともいるでしょう。

しかし国益のなかに、ただひとつだけ国民の全員が同意するものがあります。それが領土です。

「北方領土は返ってこなくていい」とか、「日中友好のために尖閣諸島は中国に割譲しろ」と主張する日本人はいません。国民の利害が多様化し、政治的な対立が先鋭化するなかで、領土こそが国家をひとつにまとめるかすがいになるのです。

しかしこのことは、領土問題が原理的に解決不可能なことを教えてもくれます。ロシアや中国の国内でも私益が激しく対立して、権力の基盤を揺るがしています。だからこそ、“唯一絶対”の国益である領土問題ではわずかたりとも譲歩できないのです。

東京都が購入しようが、日本政府が国有化しようが、尖閣問題が解決することはありません。国家が存在するかぎり、領土をめぐる対立は未来永劫つづいていくのです。

 『週刊プレイボーイ』2012年8月6日発売号
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