第二次世界大戦の東欧が2600万人の血で染まった理由

ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載していくことにします。

今回は2018年12月公開の記事です。(一部改変)

roamer.rat/Shutterstock

******************************************************************************************

ポーランド、クラクフ郊外のアウシュヴィッツ、ベルリン郊外のザクセンハウゼン、ミュンヘン郊外のダッハウ、プラハ郊外のテレジーンの強制収容所を訪れて、ホロコーストについてはなんとなくわかったつもりになっていた。だがアメリカの歴史家ティモシー・スナイダー(イェール大学教授)は、『ブラックアース ホロコーストの歴史と警告』(池田年穂訳/慶應義塾大学出版会)で、「アウシュヴィッツがずっと記憶されてきたのに対し、ホロコーストのほとんどは概ね忘れ去られている」という。アウシュヴィッツを「見学」したくらいでは、20世紀のこの驚くべき出来事の全貌はほとんどわからないのだ。

強制収容所を強調することがホロコーストを矮小化している

「ガス室はなかった」とホロコーストを否認する「陰謀論者」の系譜は、映画『否定と肯定』のモデルとなったアメリカのホロコースト研究者デボラ・E・リップシュタットが詳細に検討している。

参考:ホロコースト否定論者と戦うということ

そこでも述べられているが、ホロコースト研究の初期には「強制収容所」と「絶滅収容所」は区別されていなかった。

絶滅収容所はヘイムノ、ルブリン、ソボビル、トレブリンカ(以上、ポーランド)とベウジェツ(ウクライナ)の収容所で、第二次世界大戦の独ソ戦においてドイツ軍のモスクワへの電撃侵攻作戦が失敗し、長期戦の様相を呈した1941年末から建設が始められた。これらの収容施設の目的は端的に「ユダヤ人を絶滅させること」で、そこに送られたユダヤ人は生き延びていないから証言者もいない。

それに対してザクセンハウゼンやダッハウなどドイツ国内の強制収容所は、戦場に送られたドイツの成人男性の代わりにユダヤ人や共産主義者などを使役するための施設で、劣悪な環境から大量の死者を出したとしても、その目的はあくまでも労働だった。

そのなかでアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所だけは、労働を目的とするアウシュヴィッツ(第一収容所)と、絶滅収容所としてつくられたビルケナウ(第二収容所)が併存していた。アウシュヴィッツの入口に掲げられた有名な「ARBEIT MACHT FREI(働けば自由になる)」の標語はナチスの「皮肉」ではなく、そこが強制労働施設だったからだ。

「死の収容所」アウシュヴィッツからの生存者の多くは労働要員で、ガス室の存在は伝聞でしか知らなかった。なかには「ゾンダーコマンド(労働部隊)」としてガス室や焼却施設で死体処理に従事したユダヤ人もいたが、彼らは秘密保持のために数カ月でガス室に送られ生存者はきわめて少ない。――その貴重な証言として、ギリシアのユダヤ人(セファルディム)で戦争末期にアウシュヴィッツに送られ、奇跡的に生き残ったシュロモ・ヴェネツィアの『私はガス室の「特殊任務」をしていた』 (鳥取絹子訳/河出文庫)がある。

戦後、ホロコーストについての見解が混乱した理由に、絶滅収容所がソ連支配下の東欧圏にあり、研究者が収容所跡を検証したり、資料を閲覧できなったことがある。ソ連の公式見解では、大祖国戦争(独ソ戦)はファシストと共産主義者の戦いで、ナチスが虐殺したのは共産主義者であってユダヤ人ではなかった。ソ連がホロコーストを認めなかった背景には、ヒトラーに先んじたスターリンによる虐殺を隠蔽する目的もあった。

アウシュヴィッツというと、フランクルの名著『夜と霧』のように、人間性を根こそぎ否定される過酷な状況から「生還」した物語を思い浮かべるだろうが、絶滅収容所に送られた者たちはそもそも「生還」できなかった。これが、「アウシュヴィッツはホロコーストを矮小化している」という第一の理由だが、スナイダーの批判はこれにとどまらない。彼は、「(絶滅収容所を含め)強制収容所を強調することがホロコーストを矮小化している」というのだ。

2600万人の死者を出した「血まみれの土地」

これまで第二次世界大戦の歴史を書く者は、英語、ドイツ語、フランス語にせいぜいロシア語を扱える程度だった。だが1969年生まれのスナーダーは、東欧史を専門としパリ、ウィーン、ワルシャワなどで研究活動の従事するなかでポーランド語やウクライナ語などを学び、ヨーロッパの言語のうち5カ国語を話し、10カ国語を読むことができるようになった。

こうした語学の知識を活かし、これまで研究者が容易にアクセスできなかった東欧圏の歴史資料を渉猟したうえで、スナイダーは『ブラッドランド ヒトラーとスターリン大虐殺の真実』(布施由紀子訳/ちくま学芸文庫)を書き、20世紀最大の悲劇はポーランド、ウクライナ、ベラルーシ、バルト三国、ロシア西部など、これまでほとんど注目されてこなかった地域で起きたと述べた。これらの地域が「ブラッドランド(血まみれの土地)」だ。

ブラッドランドはまず、スターリンがソ連国内の「植民地化」を進めるなかで飢餓に襲われ、1930年代はじめウクライナを中心に500万人以上の餓死者を出した。その後、スターリンが自らの失政を正当化するためにこれを「敵」の陰謀だとしたために大規模な粛清が始まり、1937年から38年の「大テロル」では70万人ちかい人々が処刑されたとされる。

1939年8月に独ソ不可侵条約が結ばれるとポーランドは分割され、ドイツ領でもソ連領でも抵抗運動を組織する可能性がある教養層を中心に20万人のポーランド国民が殺害された。この時期、ドイツとソ連はポーランド人100万人の強制移住を行ない、ドイツはさらにポーランド内のユダヤ人をゲットーに隔離した。

1941年6月にドイツが同盟を破棄してソ連に侵攻したあとは虐殺の範囲はさらに拡大し、ドイツ占領下のベラルーシではソ連が支援するパルチザンへの報復として女性や子どもを含む30万人以上が殺された。独ソ戦においては、包囲されたレニングラードで100万人が故意に餓死させられ、ソヴィエト人の捕虜300万人以上が飢えと放置により死亡した。

1941年後半に戦局が停滞すると、ヒトラーはユダヤ人をヨーロッパから排除するための「最終解決」に踏み切った。当初は親衛隊の特別行動部隊(アインザッツグルッペン)や、占領下ソ連のパトロールを任務としていたドイツ秩序警察の警察大隊がユダヤ人を狩り出して銃殺していたが、やがて一酸化炭素で窒息死させるガス車が使われるようになり、最終的にはシアン化水素を使ったガス室と大規模な焼却施設を備えた絶滅収容所がつくられた。

こうして1945年までに、占領下のソ連、ポーランド、バルト諸国でユダヤ人およそ540万人が銃殺またはガス殺されたのだが、これはブラッドランドの死亡者の一部で、1930年代からのわずか15年間でこの地域では一般市民1400万人が生命を落としたとされる。これに独ソ戦の戦死者1200万人を加えると、死者の総数は2600万人というとてつもない数になる。まさに「血まみれの土地」と呼ぶ以外形容のしようがない惨劇が起きたのだ。

スナーダーはこうした歴史的事実を膨大な資料によって検証していくが、しかしこれは政治的にはきわめて微妙な主張でもあった。ブラッドランドを生み出したのはヒトラーとスターリンだが、戦後のドイツにおいてこの両者を比較することは「ホロコーストという唯一無二の民族の悲劇を相対化する」右翼/極右の歴史修正主義とされてきたのだ。

参考:日本とドイツの「愛国」はどこがちがうのか?

スナイダーが『ブラッドランド』につづいて、ホロコーストのみをテーマとした『ブラックアース』を書いたのは、この誤解に応える意味もあったのだろう。

アウシュビッツはドイツ人を免責している

スナイダーは『ブラックアース』で、きわめて過激な主張をする。ドイツ国内でアウシュヴィッツが強調されるのは、自らの罪を反省するのではなく矮小化するためだというのだ。ここは重要な部分なので、すこし長くなるが全文引用しよう(適宜開改行を加えた)。

第二次世界大戦後、ドイツにとってアウシュヴィッツは、なされた悪の実際の規模を著しく小さなものに見せるので、比較的扱いやすい象徴であり続けている。

アウシュヴィッツをホロコーストと合体させてしまうのは、「それが起きているとき、ヨーロッパ・ユダヤ人の大量殺戮をドイツ人は知らなかった」というグロテスクな主張をまことしやかなものとした。

ドイツ人の中にはアウシュヴィッツで起きていることを正確には知らなかった者もいた可能性はある。多くのドイツ人がユダヤ人の大量殺戮を知らなかったという可能性は、これはありえない。

ユダヤ人の大量殺戮は、アウシュヴィッツが死の施設になるずっと前から、ドイツでは知られていたし議論されていた。少なくとも家族や友人の間では語られていた。

何万ものドイツ軍が3年にわたって何百という死の穴のうえで何百万というユダヤ人を射殺していた東方では、ほとんどの者たちは何が起きているのかを知っていた。何十万ものドイツ人が殺戮を実際に目の当たりにしたし、東部戦線の何百万ものドイツ人将兵がそれを知っていた。

戦時中、妻やなんと子どもたちまで殺戮現場を訪れていたし、兵士や警察官はもとよりだが、ドイツ人は時に写真付きで家族に詳細を書き綴った手紙を送った。

ドイツの家庭は、殺害されたユダヤ人からの略奪品で豊かになった。それは何百万例というのではきかなかった。略奪品は郵便で送られたり、休暇で帰省する兵士や警察官によって持ち帰られた。

同様の理由から、アウシュヴィッツは、戦後のソ連、今日の共産主義国家崩壊後のロシアでも、都合の良い象徴だった。仮にホロコーストがアウシュヴィッツに収斂するならば、ドイツによるユダヤ人大量殺戮が、実はソ連が直前まで占領していた場所で始まったことを容易に忘れられるからだ。

また、ソ連西部の誰もがユダヤ人大量殺戮のことを知っていたが、それはドイツ人が知っていたのと同じ理由からだった。すなわち東方での大量殺戮の手法は、何万人も参加させる必要があったし、何十万人にも目撃されていた。

ドイツ軍は去って行ったが、死の穴はそのまま残された。仮にホロコーストがアウシュヴィッツのみと重ね合わされるなら、こうした経緯もまた歴史や記念式典から除外しうるというわけである。

同名の映画も公開されて話題となったブルンヒルデ・ポムゼル、トーレ・D. ハンゼン『ゲッベルスと私 ナチ宣伝相秘書の独白』( 石田勇治監修/森内薫、赤坂桃子訳/紀伊國屋書店)では、戦時中に宣伝省に勤務していた103歳の女性が、驚くべき記憶力と明晰な論理で「なにも知らなかった。私に罪はない」と断言して衝撃を与えた。だがこれも、「アウシュヴィッツに移送されたユダヤ人がガス殺されていたことは知らなかった」という意味で、そこにウソはないのだろうが、だからといって「なにも」知らないということにはならない。こうしてスナイダーは、「アウシュヴィッツはドイツ人を免責している」と批判するのだ。

エストニアでは99%のユダヤ人が死に、デンマークでは99%のユダヤ人が生き延びた

ブラッドランドではなぜ、想像を絶するような惨劇が可能になったのだろうか。それをスナイダーは、国家(主権)が破壊されたからだという。

ヒトラーがユダヤ人の「絶滅」を望んでいたことはまちがいないが、だとしたらなぜ、遠く離れたポーランドまで彼らを移送しなければならなかったのか? ナチスが合理的に「最終解決」を進めていたとすれば、もっとも効率的なのはザクセンハウゼンやダッハウのような大都市近郊の収容所にガス室をつくることだろう。

しかしナチス幹部にこうした方法を検討した形跡はみられない(ダッハウにはシャワー室に偽装したガス室がつくられたが、それは稼働していないとされている)。スナイダーによれば、それはナチス統治時代ですらドイトは主権国家であり、法と官僚制が機能していたからだ。

ドイツ国内のユダヤ人の資産を没収し強制収容所に送るには、こうした行政措置を正当化する法と、その法を実施する官僚機構が必要だった。強制収容所のユダヤ人(彼らはドイツ国民=市民でもあった)をガス殺するには、同様にそれを正当化する立法が必要になる。

主権国家は法によって統治されているのであり、ナチスは自分たちに都合のいい法律をつくることはできただろうが、「統治者」である以上、無法行為を行なうことはできなかった。自国の市民をガス室で殺害するのは無法行為以外のなにものでもなく、そのための法律などつくれるはずがなかったのだ。

ところがこのとき、ナチスドイツには都合のいい領土があった。新たに獲得した東欧圏(ブラッドランド)で、そこでは国家の主権が破壊されているので法にしばられることなく、どのようなことも「超法規的」に行なうことができた。これが、ドイツのユダヤ人を国内の収容所ではなく、わざわざポーランドまで移送した理由だ。

このことをスナーダーは、エストニアとデンマークという2つの国の比較で説明する。どちらもバルト海沿岸の小国だが、両国のユダヤ人の運命は大きく異なっていた。エストニアでは、ドイツ軍がやってきたとき(1941年7月)に居住していたユダヤ人の99%が殺害されたのに対し、デンマークでは市民権をもつユダヤ人の99%が生き延びたのだ。

だがこれは、デンマークが民主的で、エストニアに反ユダヤ主義が跋扈していたからではない。戦前はデンマークの方がユダヤ人に対する差別が厳しく、1935年以降はユダヤ難民を追い出していた。それに対してエストニアは保守的な独裁政権だったがユダヤ人は共和国の平等な市民とされ、オーストリアやドイツからのユダヤ人難民を引き受けてもいたからだ。

だとしたらなぜ、これほど極端なちがいが生じるのか。

その理由をスナイダーは、エストニアがリトアニアやラトヴィアとともに1940年にソ連に占領されたあと、ドイツの占領下に入ったからだという。この「二重の占領」によって、エストニアの主権(統治機構)は徹底的に破壊されてしまった。

それに対してデンマークはソ連と国境を接しておらず、1940年4月にドイツに占領されたあとも一定の範囲で主権が認められていた。デンマークに求められていたのは食糧の供給で、ナチスには国家を破壊する理由はなかった。

独ソ戦が膠着状態に陥ると、デンマーク政府とナチスドイツとの蜜月関係にひびが入りはじめる。アメリカなど連合国は1942年12月には「ドイツによるユダヤ人殺害に協力した者は戦後になって由々しい結果に向き合うことになろう」との警告を発していた。ナチスがユダヤ人の「最終解決」に踏み切った頃には、デンマーク政府にはそれに協力しないじゅうぶんな理由があったのだ。

あなたも、私もジェノサイドに加担する

ブラッドランドでいったい何が起きたのか? じつはそこに異常なことはなにひとつなく、ひとびとは生き延びるために合理的に行動しただけだ。スナイダーの説明を単純化すれば、次のようになるだろう。

あなたは村の一員として、貧しいながらもそれなりの暮らしができていた。村には大きな屋敷に住む金持ちと、何人かのユダヤ人がいた。

その村がある日突然、ソ連の占領下に入ることになる。ソ連軍とともにオルグにやってきた共産党員によれば、この世界は革命(善)と反革命(悪)の対立で、善を担うのは労働者、理想世界の実現を阻むのは資本家だ。だからこそ、敵である資本家(金持ち)を殲滅しなければならない。

この奇怪なイデオロギーを聞いたあなたは、突如として大きな幸運を手にしたことに気づく。あなたは貧しいのだから、労働者(善)にちがいない。それに対して資本家(悪)は誰かというと、村でいちばんの金持ち以外にいない。この資本家をソ連軍(共産党)に売り渡し、ラーゲリ(収容所)送りにしてしまえば、労せずして土地や屋敷が手に入るのだ。

外国(エイリアン)による占領という極限状況であなたが生き延びようとすれば、真っ先に共産党に入党し、「革命」に協力して「資本家」を打倒し、すこしでも富を獲得しようとするだろう。

ところが1年もたたないうちに、あなたの村はこんどはナチスドイツの占領下に入ることになる。彼らは共産主義者を敵としていたが、より奇怪なイデオロギーを奉じていた。ナチスによれば、世界はアーリア民族(善)とユダヤ人(悪)の対立で、共産主義者(敵)とはユダヤ人のことなのだ。

あなたが共産党員であることがわかれば、せっかく手に入れた土地や屋敷を手放さなければならないばかりか、強制収容所に送られるか、場合によっては銃殺されるかもしれない。あなたが救われる道はたったひとつしかない。それは、村のユダヤ人を共産主義者としてナチスに売り渡すことだ。

このようにして、ポーランド、ウクライナ、ベラルーシ、バルト三国など、ソ連とナチスドイツによる「二重の占領」が行なわれた場所で資本家、知識人、そしてユダヤ人が根こそぎ殺戮されていった。

スナイダーが強調するのは、ジェノサイドはファシズムという「絶対悪」が単独で行なったわけではないということだ。主権(統治)が崩壊したなかで、ひとびとが生き残るためにどんなことでもやる極限状況が生まれると、そこから「絶対悪」が立ち現われてくる。

これは、誰が正しくて誰が間違っているという話ではない。こうした極限状況に置かれれば、ごく少数の例外を除いて、あなたも、もちろん私も、生き延びるためにジェノサイドに加担するのだ。

禁・無断転載