日本だけでなく欧米諸国を中心に、若者の自傷行為が大きな社会問題になっています。しかしなぜ、リストカット(リスカ)のような無意味な(すくなくとも、なにひとつ利益がなさそうに見える)ことをするのかよくわらず、自己顕示欲が強すぎてかまってもらいたいのだとか、薬物の使用の影響とか、ある種の精神疾患によるものとか、さまざまな否定的なレッテルを貼られてきました。
この謎を解くために、2010年から13年にかけてハーバード大学の研究者グループが、自傷行為の経験がある被験者を対象に、両手を氷水につけたり、電気ショックの痛みを与えたりする実験を行ないました。
その結果発見されたのは、痛みが止んだときの安堵感のために、その痛みが与えられる前に感じていたよりも気分がよくなることでした。この効果は、「痛み後の多幸感」と名づけられました。
興味深いのは、同じ効果が自傷行為をしたことのない対照群でも確認されたことです。どうやらほとんどのひとが、痛みを感じたあと、それが消失するとともに心地よさを感じるようなのです。
イヤなことがあったときに、無意識に腕や足の皮膚を引っかいたりすることはありませんか? 自傷行為もこれと同じで、より強い「pain-offset relief(痛み消失による心地よさ)」の効果を得るために、カミソリやカッターの刃を使っているのです。
脳は、身体的な痛みと感情的な痛みを区別しません。だから、身体的な痛みが治まると、こころの痛みも治まったように感じるのです。いじめや失恋などをきっかけに自傷行為は始まりますが、それは自殺衝動の一種ではなく、痛みに対処しようとする行動だったのです。
問題を深刻にするのは、脳が原因(刺激)と結果を結びつけようとすることです。
「痛みが緩和された心地よい状態」を得るために毎回同じ刺激(リストカット)を用いていると、やがてその刺激と痛みの緩和が関連づけられます。そうなると、ささいな不安(こころの痛み)でも自傷行為で軽減せずにはいられなくなり、腕が傷跡だらけになってしまうのです。いわば「リスカ依存」です。
その後の研究で、自傷行為の経験者はそうでないひとに比べて、両手を氷水に長い時間つけていられることがわかりました。自己評価が低く、自分自身を批判的に見ているひとほど、より長い時間痛みを我慢しようとするばかりか、痛みそのものが気分を改善させるという研究もあります。
痛みへの耐性が強いことは、痛みを感じる経験をすることへの心理的なハードルの低さを説明します。「自分は罰を受けて当然だ」と思っているのなら、自分に痛みを与えること自体がある種の快感になってしまうのかもしれません。
これらの研究が示唆しているのは、自傷行為の最中に経験される痛みと、それにつづく痛みの緩和が、ネガティブな気分の減少とポジティブな気分の増加をもたらすという不穏な結果です。リストカットは、つらい日常をすこしでも生きやすくするための自己セラピーの一種だったのです。
参考:モンティ・ライマン『痛み、人間のすべてにつながる 新しい疼痛の科学を知る12章』塩﨑香織訳/みすず書房
『週刊プレイボーイ』2025年10月6日発売号 禁・無断転載