ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載していくことにします。
今回は2015年8月公開の記事です。(一部改変)

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1995年7月11日、ボスニア・ヘルツェゴビナの街スレブレニツァをセルビア系の武装勢力が制圧し、その後の数日でボスニア人の男性7000人が殺害された。ボスニア紛争の残虐さを象徴するこの事件は、旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷と国際司法裁判所(ICJ)によってジェノサイド(集団虐殺)と認定されている。
(この記事を執筆した)2015年はこの「スレブレニツァ虐殺」から20年で、7月11日、和平にかかわった米国のクリントン元大統領や各国代表、遺族ら数千人が集まって現地で追悼集会が開かれた。この集会には、和解のためにセルビアのブチッチ首相も参加したが、墓地参拝に加わろうとしたところ、「出て行け」などと叫ぶボスニア人の集団が投石し、石が顔に当たって眼鏡が割れる騒ぎが起きた。
ブチッチ首相は帰国後、「セルビアとボスニアの間に友情を築こうとした私の意図が、一部の人々に伝わらなかったことを残念に思う」と述べた。
ブチッチ首相が追悼集会に出席するという「歴史的決断」をしたのは、「謝罪」がセルビアのEU加盟の条件とされているからだ。ボスニア人がブチッチ首相の出席を受け入れたのは、同様に「寛容(許し)」がEU加盟の条件になっているからだろう。国際社会から強い圧力をかけられていても、歴史問題における「和解」はこれほどまでに難しい。
もっとも、ほとんどのひとはスレブレニツァのことなど知らないだろう。私も同じで、この事件に興味を持ったのはボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボにある「1995年7月11日記念館」を訪れたからだ。
この記念館は、スレブレニツァ虐殺の被害者の写真や遺族の証言を集め、二度とこのような悲劇を起こさないよう、後世に虐殺の記憶を残すためのものだ。壁一面を埋め尽くす殺害された男性たちの写真には圧倒されるものがあり、夫や息子を奪われた女性たちの証言は胸を打つ。
いったいなぜ、こんなに悲劇が起きたのだろう。
多数派が少数派を抑圧していれば民族浄化は起きない
旧ユーゴスラヴィア解体にともなって1992年に勃発したボスニア内戦は、ボスニア・ヘルツェゴビナ地域に住むセルビア人、クロアチア人、ボスニア人の民族紛争だとされる。
ボスニア人は旧ユーゴスラヴィアのムスリム(イスラム教徒)で、ボシャニャク人とも呼ばれている。だがこのボスニア人は、旧ユーゴの時代は「民族」ではなかった。彼らは「ムスリムのユーゴスラビア人」で、同様にセルビア人はセルビア正教徒、クロアチア人はカトリック教徒のユーゴスラビア人だった。南スラブ系の同じ人種に属し、同じ言葉を話し、同じ生活習慣を持ち、同じ教育を受け、同じような考え方をする彼らを分かつものはただ、宗教のちがいだけだった。
冷戦終焉後、セルビアとクロアチアで民族感情が高まると、両者はボスニアのムスリムを自らの陣営に加えようと画策し、あるいは弾圧した。これによって、これまで自分たちのことを「民族」と考えたことのなかったムスリムのあいだに、「想像の共同体」としての民族意識が生まれ、「ボスニア人」がつくられていく。彼らは、生まれてからまだ20年しかたたない若い“民族”なのだ。
旧ユーゴスラヴィア時代のボスニア・ヘルツェゴビナでは、異なる宗教のひとびとが何のわだかまりもなく平和に暮らしていた。それを破壊したのは、セルビアとクロアチアの極右勢力だ。彼らは自らの利権を拡大するためにナショナリズムを煽り、それに反対する者は容赦なく粛清した。
ボスニア内のセルビア系/クロアチア系の町や村にセルビア/クロアチアの極右が入り込むと、真っ先に殺されたのは平和を望む穏健なセルビア人/クロアチア人の指導者で、同じ民族の反対派を一掃してからボスニア人など少数民族を追い出していった。
ボスニア内戦の実態は地域ごとに異なっていて、ある村ではセルビア人とクロアチア人が凄惨な殺し合いをし、別の村ではセルビアの民兵とクロアチアの武装勢力が仲良くサッカーに興じる光景があった。このちがいを生み出したもっとも大きな要因は、多数派と少数派の比率だ。
一般的な想像とは逆に、多数派が圧倒的な場合、少数派への民族浄化はほとんど起こらなかった。多数派は自分たちの権益が侵されないことを知っているのだから、少数派を弾圧してわざわざ面倒を起こす理由はなかったし、少数派は反抗がムダだとわかっていたから差別に耐えるしかなかった。
それに対して両者の比率が拮抗していたり、三者の関係が不安定だったりすると、ひとびとはいつ何時、自分たちが少数派に追いやられるかもしれないという恐怖を抱くようになる。極右勢力はこの不安につけ込み、そうなれば家も土地も奪われ、すべての財産を失うと脅した。ひとびとがこの宣伝(プロパガンダ)を信じたのは、自分たちの同胞が実際にそのような目にあっている被害者か、あるいは少数派を“浄化”している加害者であることを知っていたからだ。
このようにして、「自分や家族を守るためには“奴ら”を殺すしかない」という論理が広がっていく。
この「恐怖と暴力のウィルス」は、なぜこれほどまでに急速に広まっていったのだろうか。それは、「セルビア人」「クロアチア人」「ボスニア人」が、宗教を除けばまったく同じだったからだ。“奴ら”が“俺たち”と同じことを考えているとわかっているからこそ、先に“奴ら”を殺さなければならないのだ。
虐殺された側も虐殺していた
3つの“民族”が混住するボスニアでは、ある民族の住む地域に別の民族の「飛び地」がいくつもあった。こうした飛び地が、真っ先に民族浄化の標的になったことはいうまでもない。スレブレニツァも、セルビア人地域にあるボスニア人の主要な飛び地だった。
しかしこれだけでは、スレブレニツァの凄惨な虐殺の説明にはならない。事件の起きた1995年はボスニア内戦の末期で、EUだけでなく米国や国連も紛争の収拾に乗り出しており、スレブレニツァには国連(オランダ軍)の平和維持軍まで派遣されていた。このような「衆人監視」のなかで、国際社会から激しい非難を浴びることが確実なジェノサイドなどふつうは起こらない。
だったら何が暴力の引き金を引いたのか? このような疑問からスレブレニツァ虐殺の経緯を調べたのが、東欧史、比較ジェノサイド研究の佐原徹哉氏の『ボスニア内戦 グローバリゼーションとカオスの民族化』(ちくま学芸文庫)だ。
佐原氏は、ジェノサイドに至る前段階として、「ボスニア人の残虐行為」を指摘する。
スレブレニツァ地区には、旧ユーゴの警察特殊部隊出身のナセル・オリッチに率いられた強力なボスニア人武装勢力があり、1992年4月の内戦勃発後4カ月でスレブレニツァの95%と隣接するブラトゥナツの50%を支配した。オリッチ配下の政府軍が尖兵となってセルビア人の村に突入し防衛体制を崩すと、市民兵が加わって住民の追放と略奪を展開し、建物に放火して支配地域を広げていったのだ。
佐原氏はその様子を次のように描写する。
(ボスニア人の)作戦はセルビア人を追放することが目的であり、見せしめとして残虐な殺害方法が用いられた。犠牲者は喉を掻き切られ、干草用の三叉熊手で襲われたり、焼き殺されたりした。例えば、(1992年)6月21日に行なわれたラトコヴィッチ村襲撃事件では、少なくとも17人の農民が殺されたが、建物内部に閉じ込められて焼き殺されたり、殺害後に頭部を切断されたりなどの陰惨な方法で殺された。徹底的な破壊と略奪も一つの特徴であった。住民を追い出した後、ボスニア人は食料や家畜、武器・弾薬を奪い、その後、建物を放火あるいは爆破して廃墟に変えた。
セルビア側の主張では、この攻撃により1993年3月までに少なくとも1200人が殺され、2800~3200人が負傷したとされ、内戦前に9390人いたセルビア人がわずか860人になるほど徹底した追放が行なわれた。こうした残虐行為がセルビア人の復讐心を煽ったのはいうまでもない。――誤解のないようにいっておくと、ここで「ボスニア人が残虐だ」ということをいいたいのではない。他の地域では、ボスニア人はセルビア人やクロアチア人の武装勢力によって同様の方法で“浄化”されていたのだから。
欧米の「民族紛争の構図」の崩壊
形勢が変わったのは1993年になってからで、セルビア人のスルプスカ共和国軍が反撃に転じると、圧倒的な兵力の差に抗しきれず、ボスニア人はスレブレニツァを中心に半径20キロ圏内に押し込められてしまう。内戦前に3500人しかいなかったスレブレニツァ市内には8万人近くの難民が押し寄せ、人道的危機を重く見た国連はスレブレニツァを「安全地域」に指定し、国連部隊がボスニア人の武装解除と引き換えに安全を保障することになった。
だが安保理決議がなされたにもかかわらず、現実にはボスニア人の武装解除は一向に進まなかった。セルビアの武装勢力に包囲されている状況のなかで、100人規模の国連部隊が駐屯しているからといって、彼らを信じて生命を預けるわけにはいかなかったのだ。その結果、国連が武装解除の任務完了を発表したにもかかわらず、ボスニア人側は使い物にならない一部の武器を自主的に引き渡しただけで、戦闘可能な武器はいっさい手放さなかった。
スレブレニツァの「安全地帯」にはボスニア政府軍第28師団が駐屯し、地域防衛隊を合わせると4000人近い兵力が軽火器や持ち運び可能なミサイル類を多数保有していた。ボスニア人武装勢力は「安全地帯」から出撃し、セルビア人農村を襲撃し、あいかわらず略奪を繰り返していた。
こうした状況で、国連の停戦監視部隊は深刻な矛盾に悩まされるようになる。
彼らは当初、国際世論と同じく、ボスニア人を内戦の犠牲者と考えて彼らを保護するのが自分たちの任務だと思っていた。だが現実には、停戦協定に違反するのはほとんどがボスニア人武装勢力なのだ。
1995年1月には、「安全地帯」南西部で起きた戦闘の調査中にオランダ軍部隊約100人がボスニア政府軍に拉致され、数日間勾留される事件まで起きた。こうした体験に遭遇するなかで、最初はボスニア住民に同情的だった国連軍部隊は、彼らに抜きがたい不信を抱くようになっていった。
状況が混沌となりはじめると、当初、「ボスニア解体を目論むセルビア民族主義者が内戦を引き起こした」というステレオタイプで報じていた欧米のメディアは判断不能に陥り、欧米の指導者たちはそれ以上に狼狽した。「民族紛争」の構図が崩れると、内戦が収拾不能になると恐れたのだ。
アメリカ政府はそれまでの傍観を改め、1993年末から積極的にボスニア内戦に介入する。クリントンの和平案はボスニアを二分割し、半分をセルビア人に、残り半分をボスニア・クロアチア人に与えるというもので、クロアチア人にボスニア人と同盟を組ませる代償として、自国内にあるセルビア人地域をクロアチアが“民族浄化”するのを黙認した。
アメリカの介入によって、セルビア人武装勢力は徐々に劣勢になっていった。94年にNATOによる空爆と経済制裁が始まると、頼みの綱だったセルビア(新ユーゴ共和国)のミロシュヴィチ政権はボスニアのスルプスカ共和国と断交した。同年末にボスニア人・クロアチア人の共同作戦でセルビア人の拠点が陥落し、追い込まれたセルビア人側は95年1月から4カ月間の停戦を受け入れざるを得なかった。
これがジェノサイドに至る背景で、セルビア人側は軍事的劣勢に立たされたからこそ、自らの地域内にあるボスニア人の飛び地を攻略しなければならないと考えたのだ。
大量処刑の日
1995年5月、薪を集めて帰る途中のセルビア人農民のトラックがボスニア人の武装ゲリラに襲撃され、5人が殺害される事件が発生した。6月にはマイクロバスが待ち伏せされ、民間人5人が殺されたのに続いて、セルビア人の村が襲撃され、応戦したセルビア人部隊に70名以上の犠牲者が出た。
こうした事態に業を煮やしたセルビア人側は7月2日、ボスニア人ゲリラ封じ込めのために「安全地帯」南部にある国連の5つの監視所を攻撃した。これに対して現地のオランダ軍部隊は、セルビア人を威嚇する空爆を要請したが、6月の空爆で375人の国連要員がセルビア人に拉致され「人間の盾」に使われたことから国連軍司令部は爆撃機の出動を決断できなかった。オランダ軍はやむなく撤収し、一部は投降して捕虜になった。――この対応はのちに厳しい批判にさらされることになるが、佐原氏は、この時点で仮に空爆を行なったとしてもほとんど効果はなかっただろうとしている。
国連軍やボスニア政府軍の抵抗がないことを知ったスルプスカ共和国の政治指導者ラドヴァン・カラジッチと軍事指導者ラトコ・ムラディッチは作戦を変更し、7月10日、一気にスレブレニツァを制圧した。
セルビア人部隊の侵攻が始まって、スレブレニツァのボスニア人住民は大混乱に陥った。彼らが出した結論は、報復の標的になることが確実な成人男性を先に脱出させることだった。こうして11日深夜、前後を武装した兵士に固められた成人男子1万5000人の隊列が出発した。
残された住民は近隣のポトチャリにあるオランダ軍基地を目指し、11日夕方までに2万5000人が避難した。避難民の大部分は女性と子どもと老人で、スルプスカ共和国軍の指導者ムラディッチはオランダ軍に対し、彼らの安全な移送を約束すると同時に、ボスニア軍の武装解除を迫った。この時点では、成人男子が脱出したことに気づいていなかったのだ。
スルプスカ共和国軍は11日早朝から多数のバスを手配し、避難民の移送を開始したが、バスに乗ることを許されたのは女性と子ども、老人だけで、基地内に残っていた1000人を超える成人男子は別の収容所に移送された。このとき、国連軍の管理下にもかかわらず約50人が殺されたことから、オランダ軍部隊は国際社会から強い非難を浴びることになる(収容所に送られた成人男子の生存はほとんど確認されていない)。
その後、セルビア人はスレブレニツァを脱出した隊列を血眼で捜し、12日早朝、先頭集団を発見して大規模な攻撃を行なった。1万5000人の隊列は寸断され、ひとびとはグループに分かれて山中に逃げ延びた。山狩りが始まると、捕虜になるのを恐れて銃や手榴弾で自決したり、錯乱して地雷原に飛び込み生命を落とすボスニア人も少なくなかった。
捕虜となったボスニア人は近郊の収容所に送られたあと、13日午後から大量処刑が始まった。佐原氏はセルビア人兵士の証言から、その様子を次のように描いている。
最初のバスに乗っていた(ボスニア人)捕虜の処刑が終わるころには、スピードアップのため機関銃を使おうという話になった。機関銃による処刑は凄惨を極めた。強力な弾の威力で捕虜たちの体がバラバラになったが、急所を外れるので捕虜たちはのたうち回り、止めをさしてくれと訴えたのである。(中略)こうした極限状況では兵士ですら平常心を保つことは不可能で、処刑が始まると同時にアルコールが配られ、酩酊状態で任務をこなしていった。
ジェノサイドは合理的な判断によって行なわれた
ボスニア内戦では数々の残虐行為が行なわれたが、ほとんどは民兵によるもので、正規軍が指揮官による命令で虐殺を行なったのはスレブレニツァだけだ。
セルビア人の軍事指導者ムラディッチはなぜジェノサイドを命じたのだろうか?
従来の解釈は、ボスニア人武装ゲリラの残虐行為に対する報復、というものだ。スレブレニツァの成人男子が決死の脱出を試みたように、ボスニア人側も、セルビア人の捕虜になれば殺されることがわかっていた。それほどまでに両者の憎悪は高まっていたのだ。
だが佐原氏は、この復讐説には無理があるという。ムラディッチは旧ユーゴスラヴィアの士官学校をトップの成績で卒業した生粋の軍人で、合理的・戦略的な思考を徹底的に訓練されていた。自分たちの行動が国際社会からどう見られるかもわかっており、スレブレニツァと同じボスニア人の飛び地であるジェパでは、1000~2000人のボスニア人兵士がいたものの、戦闘体制の解除で市民の帰還を許可し、自発的投降を拒否して森の中に身を隠した兵士の掃討作戦も行なわなかった。セルビア人側の目的が報復であれば、こうした鷹揚な行動が説明できない。
スレブレニツァとジェパとの違いは、ボスニア人兵士の数ではないかと佐原氏は推測している。
ボスニア政府軍を中核とする1万5000人の“部隊”はセルビア人にとってじゅうぶんな脅威だった。ムラディッチとしては、スレブレニツァを脱出した部隊が他のボスニア人グループと合流して反撃に転じることをなんとしても阻止しなければならなかった。
だがそうなると、ボスニア人の隊列を発見・壊滅させて大量の兵士を捕獲した時点でこの不安は解消したことになる。それなら捕虜を収容所に移送したうえで、一部の戦争犯罪人だけを処罰し、あとは交渉のカードに残しておけばいい(事実、これまではそうしてきた)。
だがここで、新たな問題が起きる。捕獲した兵士の数があまりにも多すぎるのだ。
スルプスカ共和国内にはこれだけの捕虜を収容する場所はなく、食料や水の手配も難しい。だからといって捕虜を劣悪な環境に放置すれば、国際社会から非難の的になるのは目に見えている。そんな捕虜を交渉カードにしても欧米諸国が譲歩する可能性はなく、かえって軍事的・経済的な圧力を強めるだろう。
だったら、ボスニア人兵士が戦闘で死亡したことにすればいいのではないか……。
このときムラディッチにとって、ジェノサイドこそが唯一残された「合理的戦略」だった。
7000人の捕虜を皆殺しにする命令は狂気にちがいない。だがその狂気は、理性の破綻ではなく、合理性の追求によってもたらされたのだ。ジェノサイドの考察を、佐原氏は次のように締めくくっている。
スレブレニツァ事件は(一方の勢力を)極端な国際的孤立に追い込んだ場合、「国際社会」は対象に対する抑止力を失ってしまうという厄介な教訓を残したことになる。
日本もこれから「積極的平和主義」で自衛隊を海外に派遣するのなら、こうした事例を徹底的に分析・研究するべきだろう。生死のかかった極限状況では常識は通用せず、善意は問題を解決しないばかりか、より複雑化させるだけなのだから。
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