正義の本質は娯楽である 週刊プレイボーイ連載(63)

大津市のいじめ自殺事件で、“加害者”とされる少年と両親の実名や写真がネット上に公開され、深刻な被害が生じています。こうした「個人攻撃」が行なわれるのは、マスメディアが人権侵害を恐れ、学校や教育委員会ばかりををひたすら批判しているからでしょう。そのため読者は、「少年を自殺に追い込んだ当事者の責任が追究されないのは理不尽だ」という強いフラストレーションを感じます。ここから、「俺が代わりに処罰してやる」という“必殺仕事人”の登場まではほんの一歩です。

復讐の物語があらゆる社会で古来語り伝えられてきたのは、それがヒトの本質だからです。そればかりか、「目には目を」というハンムラビ法典の掟は、チンパンジーの社会にすら存在します。

ところで、ヒトはなぜこれほど復讐に夢中になるのでしょうか。その秘密は、現代の脳科学が解き明かしています。脳の画像を撮影すると、復讐や報復を考えるときに活性化する部位は、快楽を感じる部位ときわめて近いのです。

私たちは、気持ちいいのは正しいことで、不快なのは悪いことだとごく自然に解釈します。セックスが快楽なのはできるだけたくさんの子孫を残すためで、腐ったものが不味いのは食べたら病気になってしまうからです。長い進化の歴史のなかで私たちは、気持ちいいことだけしていればたいていのことがうまくいくよう設計されているのです。

ヒトの脳はなぜ、復讐を快楽と感じるのでしょうか? その理由はかんたんで、せっかく手に入れた獲物を仲間に奪われて反撃しないような遺伝子は、とうのむかしに淘汰され消滅してしまったからです。生き残ったのは、「復讐せざる者死すべし」という遺伝子なのです。

私たちは無意識のうちに、悪が破壊した秩序を正義が回復する、という勧善懲悪の物語を思い描きます。少年をいじめて自殺に追い込むことが“悪”なのは間違いありませんから、その罪はなんらかの“正義”によって清算されなければなりません。この感情はとりわけ、法治国家がうまく処理できないような事件が起きたときに爆発します。いじめはその典型で、警察や行政がひとびとの納得する対処法を提示できないからこそ私的制裁が正当化されるのです。

ここでやっかいなのは、個人間のすべての紛争を国家が解決できない以上、私的制裁(やられたらやり返す)は共同体の維持に必要不可欠だということです。右の頬を殴れたら左の頬を差し出すのは立派ですが、そんなひとばかりになれば、好き勝手に相手を殴りつける無法者(フリーライダー)が跋扈するだけです。

ネットメディアの世界では、もっともアクセスを稼ぐ記事が有名人のゴシップ(噂話)と正義の話だというのはよく知られています。生活保護の受給が問題になったお笑い芸人が典型ですが、「こんな不正は許せない」という話に読者はものすごく敏感です。さらにネットは、匿名で手軽に私的制裁を行なう手段をすべてのひとに提供しました。だとすれば、今回のような事態が起きるのは必然なのです。

マイケル・サンデルの「白熱教室」以来、正義についての議論が盛んです。しかし、正義の本質がエンタテインメント(娯楽)だということを指摘するひとはあまりいません。

 『週刊プレイボーイ』2012年8月20日発売号
禁・無断転載 

『(日本人)』が電子書籍になりました

「(日本人)」 の電子書籍なりました。8月24日(金)頃から、各電子書店で販売が開始されます。電子の販売価格(税抜)は、1280円です。

すでに電子版の販売が開始されたところは直リンクを張りました。

○iPhone、iPad、iPod touch向け

※App Storeはアップルの規約で単体電子書籍アプリを受け付けない状況になってきていますので販売は見合わせます。

 ○読書専用端末向け

  • Reader™Store/ソニーReader™向け
  • Raboo /楽天電子書籍サービス、パナソニック「UT-PB1」 向け電子書籍

○Androidスマートフォン・タブレット向け

○フィーチャーフォン(通常ケータイ電話)向け

○PC向け

 ※各書店の対応端末や対応OSの詳細に関しましては、各書店のサイトでご確認ください。
※上記に加え、数十のケータイ向け書店でも販売いたします。
※その他上記以外にも新規電子書店がサービスイン次第、配信を検討いたします。

マネーロンダリング 暴走の果てに―HSBCメキシコと米議会報告書

『日経ヴェリタス』2012年8月12日号の寄稿した記事を、編集部の許可を得てアップします。イギリスの大手銀行HSBCのマネーロンダリング疑惑に関して、米上院国土安全保障・政府問題委員会が、社内文書やメールなど140万点以上の資料や関係者への事情聴取を基に作成した調査報告書を読み解いたものです。

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「こんなヤバいビジネスやってられるか。俺たちにはもっとでっかい金玉が必要だ。同じ筋書きの映画は前も観た。結末は最悪だ」

2007年3月15日、米麻薬取締局とメキシコ司法当局の合同捜査で、中国系メキシコ人の大富豪・葉真理(Zhenly Ye Gon)の自宅から、2億500万ドル(約160億円)と1700万ペソ(約1億円)の現金、多数の重火器が押収された。メキシコ国内で薬局チェーンを展開する葉真理は、覚醒剤などの原料をアジアから違法に輸入し、麻薬カルテルに販売したとして訴追されたのだ。

同年5月、米司法当局はメキシコの両替商大手プエブロの口座にある1100万ドルを、麻薬カルテルの資金だとして差し押さえた。この事件では、プエブロと取引のあった大手銀行ワコビアも米司法当局から告発されている。

この2つの事件の直後、HSBCグループのラテンアメリカ地域を統括する経営幹部が、HSBCメキシコ(HBMX)のコンプライアンス責任者に向けて、冒頭のEメールを送りつけた。

彼が激怒したのには理由がある。葉真理もプエブロも、HBMXの長年の顧客だった。とりわけ葉真理は、危険人物としてコンプライアンス部門が口座閉鎖を指示していたにもかかわらず、HBMXとの取引を続けていたのだ。

“The world’s local bank(世界の地元銀行)”を標榜するHSBCは、大英帝国の植民地銀行として1865年に設立された香港上海銀行を旗艦とするグローバル金融グループだ。1990年代には本社をロンドンに移し、中国やインド、中東、中南米などに大胆に進出して、世界約80カ国に8900万人の顧客と2兆5000億ドルの資産を持つ巨大金融コングロマリットへと成長を遂げた。

赤字銀行を買収

2002年HSBCは、65億ペソ(約400億円)もの赤字に陥って経営が立ち行かなくなったメキシコ第5位の銀行ビタルを買収する。この投資は、HSBCの新興国戦略のなかでもとりわけ輝かしいものになった。

ビタルの支店と資産を引き継いだHBMXは、大胆なリストラと事業再編で翌年には黒字に転じ、2007年には総資産が3500億ペソ(約2兆1000億円)と倍増、純利益は46億ペソ(280億円)に達した。

だがこの圧倒的な成功の影で、HSBCはビタルの負の遺産に苦しめられることになる。

最初に問題になったのは、HBMXがHSBCアメリカ(HBUS)に莫大な米ドル現金を送金していることだった。

その金額は、07年が30億ドル(2400億円)、08年には40億ドル(約3200億円)というとてつもない規模だった。米司法当局は、「このような巨額の数字は、麻薬ビジネスの利益が還流しているのでなければ理解不可能だ」と強く批判した。

麻薬カルテルは、中南米から密輸入したドラッグを米国内で販売し、大量の米ドル紙幣を入手する。ところが、麻薬犯罪取締の強化によって、いまではどの金融機関も多額の米ドル現金を受け取ろうとはしない。仮に入金できたとしても、疑わしい取引と見なされればたちまち口座資金は凍結されてしまう。

そのため麻薬カルテルは、米ドル紙幣をいったん中南米に運び込むことを余儀なくされた。彼らは沿岸警備隊ですら追いつけない高速艇で麻薬を密輸しているとされるが、その船は帰りに大量のドル紙幣を積んで国に戻るのだ。

大量のドル紙幣還流

こうしてメキシコに持ち込んだドル現金を麻薬カルテルは、カサ・デ・カンビオと呼ばれる両替商でペソに両替されたり、地元の銀行の米ドル口座に入金したりして“洗浄”する。

ところで、このいずれの取引でも、メキシコの大手銀行には大量の米ドル紙幣が集まってくる。そのため毎月1回、メキシコの銀行は手元にたまった米ドル紙幣を、特別な運送業者(武装したトラックなど)を使ってアメリカに送り返している。この取引は金融当局に報告されるから、それを集計すれば米国における麻薬ビジネスのおおよその規模がわかるのだ。

米司法当局は、麻薬カルテルによって、米国からメキシコに年間220億ドル(1兆8000億円)が流出していると推計している。そのうち30~40億ドル(2400億~3200億円)が、HBMXを通じてアメリカに還流している――これが事実なら、HSBCは麻薬ビジネスに加担していることになってしまう。

2002年にビタルを買収した当初から、コンプライアンスに大きな欠陥があることをHSBC幹部は認識していた。当時の記録には、その惨状が生々しく述べられている。

HSBCの検査官がビタルの224口座を調べたところ、そのうちの92口座で顧客情報が欠落し、37口座では顧客情報がまったくなかった。

1万5000あまりの信託のうち、書類が揃っているのは全体の40%で、2割の信託にはなんの書類もなかった。

ビタルの口座監視システムは日次取引しか表示できず、口座取引の全貌はまったく把握できなかった。

おまけに1998年には、ビタルの口座開設責任者が麻薬カルテルに不正送金の便宜を図ったとして、310万ドル(2億5000万円)の罰金を課せられている……。