けっきょく、みんな損得で生きている 週刊プレイボーイ連載(87)

経済学においては、ひとの行動はインセンティブによって決まると考えます。インセンティブは「誘引」や「利潤動機」などと訳されますが、かんたんにいえば「得したい」とか「損したくない」という感情のことです。

インセンティブは、「ほめられたい」とか、「カノジョ(カレシ)から注目されたい」とか、日常生活のさまざまな場面で重要な役割を果たしますが、そのなかでも経済的なインセンティブは数値化が容易で、議論を数式で表わすことが可能になります。壮大なマクロ経済学の体系も、もとをただせば、「同じアイスクリームなら150円より148円の方がよく売れる」とか、「同じ仕事なら時給900円より910円の方がたくさん応募があるはずだ」というような、誰もが知っている経験則からつくられているのです。

ところで、世の中には経済学が大嫌いなひとがたくさんいて、「みんな損得だけで行動している」という前提(合理的経済人)が根底から間違っている、と批判します。

商売では、損を覚悟で安く売る、という“非合理的”な行動がしばしば見られます。しかし経済学では、こうした親切は「相手と長期的な関係を築くための合理的戦略」として“損得の体系”に組み込まれてしまいます。そのことが、道徳や正義といったたいせつな価値をないがしろにするように思えるのです。

もちろん私たちは、日々の決断(選択)のすべてを損得で行なっているわけではありません。しかしその一方で、「得したい(損したくない)」という気持ちが決め手となった決断もたくさんあるでしょう。だったら私たちは、どの程度、経済的に合理的なのでしょうか。

官民格差の是正を目的に、国家公務員の退職金が段階的に約15%引き下げられることが決まったことで、各地の自治体が地方公務員の退職金を減らす条例を制定しはじめました。ところが、条例の施行日が自治体ごとに異なっていることから、一部の都道府県では3月の年度末まで在籍すると退職金が150万円程度減額されることになり、公立学校の教員や警察官の駆け込み退職が急増して社会問題になりました。

2月1日に条例を施行した埼玉県では、100人以上の教員が教え子の卒業を待たずに早期退職することが明らかになり、文科相が「自己都合で早期に辞めるのは決して許されない」と述べ、「(担任の教師が)子どもよりお金を選ぶとは。信じたくない」という小学生の母親の言葉が新聞に掲載されたりしました。また愛知県警では、3月に定年退職予定の289人のうち署長を含む142人が2月末で早期退職の意向を示していて、業務への影響が心配されています。

地方公務員の退職金減額問題は巧まざる“社会実験”です。

教師は“聖職”とされ、警察官は「公共への奉仕」の象徴です。彼らはこれまで、誇りをもって公務員として働いてきたはずです。

そんな彼らが、「隣の県の公務員は満額の退職金を受け取れるのに、自分たちだけが損をする」というインセンティブにどのように反応したのかを見れば、結論は明らかでしょう。

「ひとは経済的な損得に基づいて合理的に行動する」という経済学は、たんなる空理空論ではなく、この社会で起きていることを上手に説明できるのです。

 『週刊プレイボーイ』2013年2月18日発売号
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学校の運動部はすべて廃止したらどうだろう 週刊プレイボーイ連載(86)

大阪の市立高校で、バスケットボール部の男子生徒が顧問教諭からの体罰を理由に自殺した事件の余波も収まらないうちに、こんどはロンドン五輪代表を含む柔道女子の選手が代表監督の暴力行為を日本オリンピック委員会(JOC)に告発し、代表監督が辞任するという前代未聞の事件が起きました。

一連の体罰問題を受けてマスメディアは「暴力行為は許されない」と大合唱していますが、石原慎太郎日本維新の会共同代表を筆頭に、政治家や文化人のなかにも体罰肯定を公言するひとはいくらでもいます。彼らは「体罰は暴力ではない」といっているのですから、いくら暴力を否定しても話はすれ違うばかりです。

街頭インタビューなどでも、「体罰は許されない」との正論が多数派の一方で、「本人がきびしい指導を望むなら認めてもいい」という意見も多く、日本の社会に体罰容認の文化が深く根づいていることを示しています。

体罰容認派の主張は、「信頼や愛情に裏打ちされた体罰は子どもを成長させる」というものです。女子柔道の代表監督も記者会見で、「選手に乗り越えてほしいという思いから手を上げた」と述べています。私はこれを、日本の社会に典型的な「体育会系マネジメント」だと考えています。

「体育会系マネジメント」の基本は、あらかじめ閉鎖的な社会(ムラ)をつくっておいて、そこに生徒や選手を精神的に「監禁」することです。

運動部は学校単位なのでバスケを続けたければ体罰に耐えるしかありませんし、代表監督に逆らえば五輪代表はあきらめるほかありません。こうして逃げ場をなくしたうえで、愛情と暴力を交互に与えることで相手を服従させ、支配していくのは洗脳の典型的な手法で、カルト宗教だけでなく、日本では学校や会社でごく当たり前に行なわれています。

「体育会系マネジメント」は、集団を統率するうえできわめて強力な管理手法ですから、その信奉者が現われるのは当然です。運動部やオリンピックチームで体育会系マネジメントが好成績を収めているのなら、「暴力はよくない」と全否定してもなんの効果もありません。

石原氏とともに日本維新の会の共同代表を務める橋下大阪市長は、体罰自殺問題で市立高校体育科の入試中止と部活動の停止を指示しましたが、体罰が日本の文化から生まれてくるものならば、特定の学校や教師に懲罰を加えたところでなにも解決しません。

体罰問題の本質は、学校別運動部という閉鎖社会にあります。これを抜本的に解決するには、すべての学校の運動部を廃止して、Jリーグの下部組織のようにスポーツは地域のクラブが担うようにするしかありません。

生徒の側に選択の自由が与えられているのなら、「きびしくも愛情あふれる指導」を売りものにするクラブがあってもいいでしょう。体罰がたんなる指導者の自己満足だと思えば、子どもたちは別のクラブに移っていくだけです。

そのうえで優秀なスポーツ指導者が、「体育会系マネジメント」でなくても勝てるチームはつくれるし、金メダルを取れる選手を育てられることを事実として示さないかぎり、この国の「体罰神話」はなくならないでしょう。

 『週刊プレイボーイ』2013年1月12日発売号
禁・無断転載 

日本的雇用からブラック企業が生まれた 週刊プレイボーイ連載(85)

2008年12月末、東京・日比谷公園の一角に突如、巨大なテント村が姿を現わしました。

世界金融危機に端を発した景気後退で製造業を中心に多くの派遣社員が職を失い、社員寮からも追い出されてしまいました。彼らが路上で年を越すのは政府の責任だとして、NPO法人が厚生労働省の目の前に「年越し派遣村」を開設したのです。

これをきっかけに、マスメディアは派遣社員の過酷な労働環境を連日のように報道し、経済格差が大きな社会問題になっていきます。そこでの論調は、「派遣社員はかわいそうだから正社員にするべきだ」というものばかりでした。こうして、年功序列、終身雇用を理想とする“正社員神話”が蔓延していきます。

解雇がきびしく制限されている日本では、新卒で正社員として就職すれば定年までの約40年間「終身雇用」が保証されると考えられています。これは一見すると、労働者にとって法外に有利な契約です。だからこそ企業は派遣などの非正規雇用を増やそうとし、正社員の地位はますます稀少になって、宝くじに当たったように扱われることになります。

しかし、正社員が労働者にとって一方的に有利な契約なら、企業はなぜそんな不利な雇用形態をいまだに続けているのでしょうか? 正社員として採用するかどうかは企業の自由なのですから、全員を「非正規」にすることもできるはずです。

もちろん正社員で募集しないと優秀な人材が採れないからでしょうが、日本的雇用が生き残る理由はそれだけではありません。日本の会社は、終身雇用と引き換えに、正社員に対して絶対的な権力を持つことができるのです。

日本の裁判所は、解雇については労働者の味方ですが、転勤や配置転換などを不服とした訴えにはきわめて厳しい態度で臨みます。「生活の面倒を見てもらっているのだから、多少理不尽なことをされてもガマンしなさい」というわけです。最低賃金や有給など、法に定められた最低限の労働条件を満たしていれば、会社は正社員に対してどんな無理な要求をしても許されるのです。

ところがここ数年、会社と正社員のこの歪な関係を利用した新しいビジネスモデルが登場してきました。飲食やアパレルなど多数の働き手を必要とする業界で、新卒を大量に正社員で採用し、最低賃金とサービス残業で徹底的に酷使すれば、アルバイトを時給で雇うよりずっと人件費コストが安いことが発見されたのです。もちろんこんな労働条件ではみんな辞めていきますが、「正社員」に憧れる新卒はいくらでもいるので、翌年また大量に採用すればいいのです。

日本的雇用とは、会社と労働者との間で「生活保障」と「会社への従属」を交換することでした。しかしこれはたんなる慣習なので、正社員の形式さえ整っていれば、「会社への従属」だけを要求したとしてもなんの問題もないのです。

いまでは名だたる大企業でも社員が過労死したり、「追い出し部屋」で退職を強要されることが社会問題になっています。このようにして、うるわしき日本的雇用からブラック企業が誕生し、増殖していくのです。

参考文献:今野晴貴『ブラック企業 日本を食いつぶす妖怪』

 『週刊プレイボーイ』2013年2月5日発売号
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