第69回 「サラリーマン」が死語になる(橘玲の世界は損得勘定)

*この記事は「日経ヴェリタス」7月23日号に掲載されました。7月27日に連合は高度プロフェッショナル制度への「条件付容認」を撤回しましたが論旨に変更はありません。

「残業代ゼロ法案」のレッテルを貼られてバッシングされてきた「脱時間給」制度(高度プロフェッショナル制度)が、実現に向けて動き出した。休日の確保などを求める連合の提案を政府が受け入れたのだという。

この制度では、労働時間ではなく成果に基づいて賃金が払われる。対象は年収1075万円以上の「特定高度専門業務」で、金融機関のディーラーやコンサルタント、研究開発部門の研究者などとされている。仮に法案が成立したとしても、適用対象になるのはごく一部だ。

しかしこの法案は、日本人の働き方を根底から変える可能性がある。ほとんど指摘されないが、それは法の趣旨が「サラリーマンはもう存在できません」ということだからだ。

だとしたら、会社で働くのはいったい誰になるのか? それはスペシャリスト(専門職)とバックオフィス・ワーカーだ。

スペシャリストというのは、弁護士や会計士など“スペシャルなもの(専門)”をもっているひとたちのことだ。彼らの多くは自営業だが、会社と雇用契約を結んで法務部や経理部で仕事をするようになると「会社員」になる。しかしその実体は「会社の看板を借りた自営業者」で、転勤や異動もなく、ちがう分野の業務をすることもありえない。

医者やジャーナリストも含め欧米ではごくふつうの働き方で、会社はキャリアのワンステップにすぎず、自分の専門技能を活かせる場所がほかにあればさっさと転職していく。彼らが成果給なのは、自営業者が時給で働かないのと同じだ。

それに対してバックオフィスは会社のなかのマニュアル化された仕事で、投資銀行でいえば、トレーダーの仕事を支える決済部門のことだ。その仕事は同一労働同一賃金が原則で、職能給(年功序列)ではなく職務給で賃金が決まる。職務給というのは、日本では「非正規」の働き方だ。

安倍政権は「非正規という言葉をこの国から一掃する」と宣言したが、そのためにはサラリーマンのうち、バックオフィス的な働き方をしているひとたちを職務給に移行させ、「非正規」と一体化させなければならない(「非正規を正社員にする」といっても同じだ)。

そうなると当然、(バックオフィスではない)スペシャリストを別に処遇しなければならない。これが「脱時間給」制度をつくらなければならない理由だが、これはなにも驚くようなことではなく、日本以外のほとんど国では労働者はこのような制度で働いている。

ところで、“グローバルスタンダード”では「高度プロフェッショナル」に雇用の保障はない。成功すれば青天井の報酬を払い、失敗しても生活を保証するのでは、気前がよすぎて会社がつぶれてしまうからだ。自営業者に雇用保障などないのだから、当たり前の話でもある。

このようにして「脱時間給」の次は解雇規制が緩和され、日本的雇用の象徴だった終身雇用も過去のものになっていくだろう。それとともに、「サラリーマン」という和製英語も死語になっていくにちがいない。

ところで、あなたの仕事はどっちですか?

橘玲の世界は損得勘定 Vol.69『日経ヴェリタス』2017年7月23日号掲載
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喫煙は医療費を削減するから社会の役に立つ? 週刊プレイボーイ連載(299) 

2020年の東京オリンピックを前に受動喫煙対策が紛糾しています。国際オリンピック委員会は「たばこのないオリンピック」推進を求めており、それを受けて厚労省が、小規模なバーやスナックを例外として屋内を原則禁煙とする案を提示したところ、飲食店の売上が落ちるとして自民党議員が強く反発したのです。

わたしは非喫煙者なので、禁煙対策の強化には賛成です。寿司屋のカウンターで、先に食べ終わった隣の客がタバコを吸いはじめるとほんとうにがっかりします。これは客のマナーというより、高いお金を取りながら喫煙を放置している店に問題があります。これで「日本のおもてなしは世界一」といわれたら、屋内禁煙が常識の国からやってきた外国人は腰を抜かすでしょう。

その一方で、タバコが合法である以上、喫煙者の権利は守らなければなりません。リベラルな社会では、他人に迷惑をかけなければ(法の許すかぎり)なにをしようが自由だからです。

タバコががんなどの原因になることがわかって禁煙対策が求められるようになったわけですが、政府にできるのは、「喫煙は健康を害する」という啓発活動と、タバコの値段を上げることくらいです。

啓発活動は大事ですが、喫煙者にはあまり効果がないことがわかっています。海外の研究ですが、タバコの箱に(喫煙で汚れた肺など)おどろおどろしい写真を載せると、喫煙者は不安を抑えるためによりタバコを吸いたくなるのです。

タバコへの課税は有効ですが、それにも限度があります。仮に1箱1万円になれば、かつての禁酒法と同じで、タバコの巨大な闇市場が生まれることは間違いないでしょう。

こうして、「喫煙者は医療費を増やすことで社会に負担をかけている」との主張が出てきました。たしかに、がんになれば治療が必要ですから、これは一見わかりやすい理屈ですが、よく考えるとそうともいえません。タバコが死亡率を高めることは多くの研究が示していますが、死んでしまったひとには年金を払う必要もなければ、高齢者医療や介護もいらないからです。医療経済学では、こうした効果を総合すると、「喫煙は医療費を削減する」というのが定説になっています。世界的に受動喫煙が問題とされるようになったのは、こうした背景があるからでしょう。

フィルターを通して吸い込む煙より副流煙のほうが有害物質を多く含むことが明らかになって、客だけでなく従業員の健康への配慮も求められるようになりました。「店の儲けのためにがんになってもいいというのか」との批判には説得力がありますから、日本も早晩、受動喫煙にきびしく対処せざるを得なくなるでしょう。

しかしそうなると、喫煙を批判する根拠はなくなります。

誰にも迷惑をかけない自宅などでタバコを思う存分吸うのは喫煙者の権利です。そのうえ彼らは、統計的には早世しますから、非喫煙者に比べて社会の負担になりません。最近では「禁煙希望者への支援」も叫ばれていますが、これを“よけいなお世話”と感じる喫煙者も多いでしょう。

だとしたら、その先に待っているのは、「どんどんタバコを吸ってさっさと死んでください」という“自己責任”の世の中かもしれません。

『週刊プレイボーイ』2017年7月24日発売号 禁・無断転載

みんなが求めているのは”品のいい”安倍政権? 週刊プレイボーイ連載(298) 

7月2日に行なわれた都議会選挙では、小池百合子東京都知事が率いる都民ファーストの会が大勝し、都知事を支持する公明党と合わせて過半数を確保しました(小池知事は選挙後に代表を辞任)。それに対して自民党は23議席の“歴史的大敗”で、「一強」といわれた安倍政権は大きな衝撃を受けました。

この選挙結果は、「国民は安倍政権を積極的に支持しているのではなく、ほかに選択肢がないだけだ」との説を強く裏づけました。森友学園や加計学園の疑惑に加え、稲田防衛大臣の失言や豊田議員の暴言という逆風下の選挙だったとはいえ、新しい選択肢が出てきたときに、有権者は自民党を見捨てることになんの躊躇もなかったのです。

ここでのポイントは、「都民ファーストは自民党とほとんど変わらない」ということでしょう。小池都知事は日本新党で政治家としてのキャリアをスタートしましたが、その後、自民党に入党し、小泉内閣で環境大臣として入閣、2005年の衆院選では「刺客」として郵政民営化に反対票を投じた自民党議員を落選させました。第一次安倍政権で防衛大臣を務めたあと、2008年年の自民党総裁選に立候補しています。この経歴からわかるように、そもそも自民党のまま都知事になったとしてもなんの不思議もないのです。

その一方で、自民党以上に“歴史的大敗”を喫したのが民進党(民主党)で、2009年には54議席で都議会の最大政党だったのに、13年に15議席、そして今回はわずか5議席に減り、公明党(23議席)はもちろん共産党(19議席)にも大きく引き離され、このままでは「泡沫政党」になってしまいそうです。

民進党は野党第一党として、国会で安倍政権の強権ぶりを強く批判してきました。三権分立は権力の暴走を防ぐ仕組みで、こうした活動は重要ですが、残念ながらその成果は国民にはまったく評価されていないようです。

すでに論じられているように、今回の都議会選挙は、マクロン新大統領が結党した共和国前進が308議席の地すべり的勝利を収めた6月のフランス総選挙にとてもよく似ています。ここでも、保守派(中道右派)の共和党が112議席で踏みとどまったのに対し、オランド前政権で与党だったリベラル(中道左派)の社会党は30議席の歴史的大敗を喫しました。

民進党は政権を失ったあと、「リベラルの再生」を目指して安倍自民党と対決し、共産党との選挙協力を模索してきました。しかし今回の都議選やフランス総選挙をみるかぎり、この戦略が有効かはきわめて疑問です。米大統領選では、リベラルを代表するヒラリーではなく、稀代のポピュリストであるトランプが選出されました。マクロン仏大統領はオランド政権の閣僚でしたが、その政策を見るかぎり現実主義の“グローバリスト”です。リベラルの掲げる理想が輝きを失い、たんなるきれいごととして忌避されるのは世界的な現象のようです。

成熟した先進国ではもはや政策の選択肢はほとんどなく、ひとびとは“ゆたかさ”という既得権を守りつつ、大過なく日々を過ごしたいと思っています。そんな日本人が求めているのは、安倍政権とそっくりでもうちょっと品のいい政治なのかもしれません。

『週刊プレイボーイ』2017年7月18日発売号 禁・無断転載