「とりあえず謝っとけ」文化がクレーマーを生む? 週刊プレイボーイ連載(316)


モンスター・クラアントやカスタマー・ハラスメントが社会問題になっています。流通や小売業の労組UAゼンセンのアンケートによれば、「お前はバカか」「死ね、やめろ」などの暴言を浴びせられ、説教が3時間つづいたケースもあるそうです。ここまでいくと常軌を逸しており、災難にあったひとには同情するほかありません。

こうしたトラブルの原因は、日本のサービス業が“おもてなし”至上主義で「お客さまは神様」といいすぎたからだとされます。IT化で仕事の内容が高度化し、ミスが増えたり、顧客が説明を理解できなかったりすることもあるでしょう。とはいえ、非が顧客にあることが多いとしても、謝罪についての日本の文化が問題をこじらせている面もありそうです。

7~8年前のことですが、ひょんなことから知人のオーストラリア人と大手損保会社とのもめ事に巻き込まれました。オートバイを運転中に乗用車と接触事故を起こしたのですが、それが高級車(マセラッティ)だったため、損保会社の担当者から自損自弁を強く勧められているというのです。この件は本に書きましたが(『臆病者のための裁判入門』)、担当者は実は、相手が事情のよくわからない外国人なのをいいことに、保険金を支払うのを嫌って勝手に事故を処理していたのです。

私は知人に頼まれて、通訳兼代理人として損保会社と交渉したのですが、当初は自らの非を認めて(言い逃れのしようのない不祥事なのです)ひたすら謝罪するのですが、そのうちだんだん雲行きがあやしくなってきました。最後は本社の部長まで出てきて「たいへんご迷惑をおかけしました」と深々と頭を下げるのですが、それだけなのです。

オーストラリア人の彼にとっては、謝罪と賠償(責任)は一体のものです。「謝ったけどなにもしない」というのはまったく理解できません。そのことを指摘すると、損保会社の弁護士は「これで納得できなければ裁判でもなんでもやってください」といいました。

仕方がないので自分たちで裁判して、2年半かけて東京高裁で20万円の和解に漕ぎつけたのですが、裁判では損保会社の態度は180度変わって、私たちは「法外な賠償金目当てで悪質」と非難されました。「お客さま」から一転して「クレーマー」扱いされることになったのです。

この貴重な体験からわかったのは、日本の会社のトラブル処理の基本は、相手があきらめるまでひたすら謝り倒すことだということです。それに納得しないと、こんどは逆ギレして自分たちが被害者のようにいいはじめます。これでは解決できるものもどんどんこじれていくのは当然です。

しばしば指摘されるように、アメリカでは謝罪が裁判で不利な証拠として扱われるので、どんなに非があってもぜったいに謝りません(最近はすこし変わってきたようですが)。それに対して日本では、「謝罪はタダ」でとにかく頭を下げますが、それ以上なにもしようとはしません。

どちらも一長一短ですが、顧客の怒りを誘発するのは、この「とりあえず謝っとけ」文化にも理由があるのではないでしょうか。

『週刊プレイボーイ』2017年12月4日発売号 禁・無断転

コメントを閉じる

4件のコメント

  1. >どちらも一長一短ですが、顧客の怒りを誘発するのは、この「とりあえず謝っとけ」文化にも理由があるのではないでしょうか。

    居酒屋などに行って、店員に注文するときなどに

    「すみません!生中1杯お願いします。」

    ということはよくありますよね。

    これは忙しい店員に手間をかけさせるので、
    謝罪しているのではなく、

    単なる「呼びかけの言葉」でしょ???

    自分はお客で注文する立場なのだから、

    「早う生中1杯もってこんかい。ボケが!」

    と言っても問題ないかもしれませんが、
    お客・店員双方ともへりくだって言うことが
    一種の潤滑剤になっているだけの話。

    そうでなければ「お客さんに嫌われるドン」になりますよ。
    ttps://www.youtube.com/watch?v=lH_wITbyFak

    >仕方がないので自分たちで裁判して、2年半かけて東京高裁で20万円の和解に漕ぎつけたのですが、裁判では損保会社の態度は180度変わって、私たちは「法外な賠償金目当てで悪質」と非難されました。「お客さま」から一転して「クレーマー」扱いされることになったのです。

    被告・原告双方とも、

    裁判にかかる金銭的費用と時間・手間を考えると、
    普通の人は20万円の和解金をせしめるために、
    2年半かけて控訴までして高裁まで裁判しません。

    橘さんはそのコストを手記を通して出版することで回収できたから良かったものの、

    私も裁判(自動車事故)の原告になり勝訴したのですが、相手がその後自己破産したので、
    結局1円も回収できませんでした。

    裁判にかかる費用・時間そして結果を考えると、
    裁判に訴えるより、

    「ヤクザ」を使ったほうが
    手っ取り早いのも事実なのです。

    いわゆる街金や水商売や風俗などのバックに
    たいてい「ヤクザ」が絡んでいるのは
    債権回収の必要性からなのです。

  2. まったく同感です!

    電車とかでちょっと遅延するとすぐ
    「遅れまして申し訳ありません」
    とかいうけど
    「謝るんならカネ返せ!!」
    って思いますね。
    謝られることがかえって腹立たしい。

    私も接客業の経験はありますがマニュアルや研修では「そのものについて謝るな。不快にさせたことをまず謝れ」と教わるのです。
    全体謝罪でなく部分謝罪を、という説明で出てくるのですが、……これがクレーマーという人種にかかると悪い方向にいきかねません。

    ではどのように謝るか?
    …米初代大統領ジョージワシントンは、子供の頃、父親の大事にしていた桜の木を伐ってしまいました。彼はそのことを父に告げると、父はワシントンを叱りませんでした。なぜ?

    …それはまだワシントンが手に斧を持っていたからです。
    教訓 : 謝る時は武器を手放すな。

  3. 日本では、幼児教育、義務教育から、そういう風に行動するように教えられています。

    もめごと、ケンカがあると、理由が何であれ、最後はお互いが謝って、水に流すということ。

    これを守らないと、日本社会では、極悪人として村八分になります。

  4. 岸田秀「日本近代を精神分析する」

     『ものぐさ精神分析』所収の「日本近代を精神分析する」が、あらためて読み返してもやはり示唆的で面白かったのでまとめてみた。

     日本は精神分裂病的であり、内的自己と外的自己が分裂した状態にあるという。
     鎖国時代は外国(中国やオランダ)との付き合いを一方的に絶交できる幼児的な関係だったが、外圧により突然開国を迫られる。築いてきた価値観を今すぐ否定せよという。しかし自分の価値観を否定することは容易くない。そのジレンマの中で日本は、これまでの価値観は内的自己に押し込め、外圧に屈する現実は外的自己として立てることで対処した。そこから精神分裂病的な状態がスタートする。
     それは尊王攘夷論や和魂洋才(和魂=内的自己と洋才=外的自己)として幕末期、明治期に顕在化した。それまで細々と続いていた尊王思想が急に一般化したのは、天皇の歴史によって内的自己=旧来の価値観を補強するためである。

     内的自己=自分固有の価値観の否定はつらい。そこで内的自己を別の対象に投影し否定することで慰める。その対象が朝鮮である。西欧が植民地を家畜扱いして差別したのに対して、日本の征韓論が朝鮮人を徹底的に日本人化した上でこっそり差別した点に表れている。
     またここには「攻撃者との同一化」(フロイト)も見られる。欧米→日本という攻撃者→被攻撃者の構造を、日本→朝鮮とスライドさせる。幽霊が怖い子供が、自分で幽霊の格好をして怖さを紛らわせるのと同じである。
     自己同一性(外的/内的自己の統一性)を破壊された者は、他者の自己同一性の破壊に対して鈍感である。朝鮮の植民地化が「かえって朝鮮のためになった」と本気で考えている人がいるのはそのためである。

     そうして慰めながらも、分裂は構造的に進行してゆく。
     現実との接触を失った内的自己は、純化・美化され妄想的になる。皇国史観が日本古来の文化を強調し中国や朝鮮の影響を過小評価するのは、分裂病者が実の両親を認めず神の子や皇帝の落胤を自称するのと同等である。
     妄想的になった内的自己は外的自己を「本当の自分ではない」と否定するようになる。外的自己が「敵の同盟者」のように見えて実際以上に他者を驚異的に見せてゆく。

     このように進行する分裂に耐え切れず、仮面を外して「真の自分」として生きようとするとき、精神分裂病は発症する。これがアメリカへの宣戦布告である。
     外から見れば狂っていても、現実感を失った内部から見れば真剣な、自己を取り戻す戦いである。特攻隊なり総玉砕なり精神戦になるのも、非国民として外的自己を排除するのも当然である。これは一部の支配者の強制ではなく、国民の側に心理的に受け入れる準備があったからできたことである。

     精神分裂病は、現実を無視して内的自己を押し通す=徹底抗戦=発病期か、外的自己を立てて内的自己を守る=全面服従=病前期かの極端な選択肢しか取り得ない傾向にある。中間がなく突然切り替わる。
     戦後、アメリカに対する態度がまるで転回したのはこのためである。国際社会に認められようと努力し、外国の評判を気にするのも外的自己を立てている以上当然である。

     戦後の経済成長は一種の内的自己と外的自己の妥協である。戦後「戦死した仲間に申し訳ない」と仕事を頑張る人が多かったが、それは戦時中の努力と経済活動での努力を同一視しているためである。戦争という露骨な発露なしに、あくまで外的自己を表に立てつつ内的自己を表現したのである。
    (なお集団心理、国家心理を個人心理と同列に語る妥当性については「国家論」というエッセイで別に論じられる。)

    http://d.hatena.ne.jp/Yashio/20130813/1376502774

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

投稿したコメントが表示されない場合は、SPAM判定された可能性があります。詳細はこちらをごらんください。