日韓対立を混迷させる「2つのリベラリズム」 週刊プレイボーイ連載(399)

10日ほど海外を旅行して、帰国してみると日韓対立がさらにヒートアップしていました。慰安婦財団解散、徴用工判決から「ホワイト国」除外、軍事情報包括保護協定(GSOMIA)破棄へと至る過程はいまさら繰り返すまでもないでしょう。

この問題が難しいのは、日韓両国のアイデンティティに直結していることです。そのため、相手国を擁護するかのような主張をするとたちまち「炎上」し、バッシングの標的にされてしまいます。こうして、まともなひとほどこの問題から距離を置こうとし、残るのは「ポピュリスト」ばかりということになります(事情は韓国も同じでしょう)。

そこでちょっと冷静になって、この問題を「2つのリベラリズムの対立」として読み解いてみましょう。ポイントは、「世界はますますリベラル化している」です。

日本の保守派は、「現在の法律を過去に遡って適用することはできない」といいます。これは一般論としてはそのとおりですが、「歴史問題」にそのまま当てはめることはできません。黒人を奴隷にしたり、新大陸(アメリカ)の土地を原住民から奪ったり、アフリカやアジアを植民地にすることは、西欧の当時の法律ではすべて「合法」だったのですから。現在の「リベラル」な人権概念を過去に適用することによって、はじめて奴隷制度や植民地主義を批判できるのです。

こうした「リベラリズム」の拡張はやっかいな問題を引き起こすため、欧米諸国の圧力でこれまで抑制されてきましたが、新興国の台頭によって「パンドラの箱」が開きかけています。インドではヒンドゥー原理主義者がイギリスの植民地統治を全否定し、「民族の歴史」を新たにつくりなおそうとしています。韓国の「歴史の見直し」は、こうした潮流の最先端として理解できるでしょう。そこでは、現在のリベラルな価値観を時空を超えて拡張し、過去を断罪することができるのです。

それに対してもうひとつの「リベラリズム」は個人主義化です。ここでは自由と自己責任の論理が徹底され、自分が自由意思で行なったことにのみ全面的に責任をとることになります。逆にいえば、自分がやっていないことには責任をとる必要はないし、勝手に責任をとってはならないのです。

第二次世界大戦の終結から70年以上がたち、日本でも戦場を経験したひとはごくわずかになりました。とりわけ孫やひ孫の世代にあたる若者は、なぜ自分が生まれるはるか昔の出来事で隣国から執拗に批判されるのか理解できないでしょう。「反韓」ではなく「嫌韓」という言葉は、こうした気分をよく表わしています。

問題なのは、どちらの側にも「リベラルな正義」があることです。お互いが自分たちを「善」、相手を「悪」と思っている以上、そこに妥協の余地はありませんが、その一方で、どれほど批判しても相手の「正義」が揺らぐことはありません。こうして、罵詈雑言をぶつけ合いながら、アメリカや「国際社会」を味方に引き入れようとしてますます袋小路にはまりこんでいくのでしょう。

解決策としては、それぞれの国民が「いつまでもこんなバカバカしいことはやってられない」と気づくことでしょうが、それにはまだ長い時間がかかりそうです。

『週刊プレイボーイ』2019年9月9日発売号 禁・無断転載

ゆたかで幸福な社会から「廃棄」されたひとたち 週刊プレイボーイ連載(398)

これはとても不穏な話です。

あなたが巨大なゴミ処理場を訪れたとしましょう。当然のことながら、そこにはゴミしかありません。圧倒的な量のゴミに圧倒されて、「これは大問題だ」と社会に警鐘を鳴らすかもしれません。

しかし、さらに俯瞰すると、そこにはとてつもなくゆたかな現代日本の消費社会があります。食品、衣料品から家電製品まで、ゴミが増えるのは安価なモノが大量に流通し、気軽にそれらを購入し、使い捨てることができるからです。それに対して、最貧国にはゴミはほとんどありません。モノを捨てるだけの経済的な余裕がないのです。

このことは、ゆたかさと廃棄物がトレードオフであることを示しています。

私たちが、魅力的なモノがあふれた快適な生活を望み、それが実現すると、ゴミが増えていきます。社会がどんどんゆたかになると同時に、ゴミがどんどん減っていくなどということはあり得ません。今の快適な生活をつづけたいのなら、私たちは大量の廃棄物を受け入れるしかないのです。

こうして、ゆたかな社会は「リサイクル」に熱心に取り組むようになります。

ゴミを分別管理し、リサイクルセンターで「再生」し、それをもういちど消費市場に戻す。この循環がうまくいけば、そのぶんだけゴミは減ります。

ただし、こうしてリサイクルされたモノもいずれはゴミになります。リサイクルできなかったモノや、何度もリサイクルされて「再生」できなくなったモノは最終処分場に送られ、誰からも見えないように「隔離」され「隠蔽」されます。なぜなら、きらびやかな消費社会を謳歌するひとたちにとってゴミは不快だから。ところがなかには有害なゴミもあり、不用意に扱うと深刻な健康被害を招くかもしれません。

2015年に行なわれた大規模な社会調査(SSP/階層と社会意識全国調査)では、「あなたはどの程度幸せですか?」の質問に「幸福」と答えたのは男性67.8%、女性74.0%で、「生活全般にどの程度満足していますか?」の質問に「とても満足」「やや満足」と肯定的に答えたのは男性67.0%、女性74.1%でした。現代日本は3人のうち2人超が自分は「幸福で生活に満足」と思っている、歴史的にも世界のなかでも「全般的には」とてもうまくいっている社会です。

しかしその一方で、自分の階層を「下の上(16.4%)」「下の下(4.4%)」とするひとが合わせて20%以上いて、その人数は成人だけでも2000万人に達するでしょう。この「事実」をどちら側から見るかで、日本社会への評価はまったく逆になります。

ヨーロッパの社会学者ジグムント・バウマンは『廃棄された生』(昭和堂)で、欧米のゆたかな社会から排除されたひとたちを「Wasted Humans(人間廃棄物)」と呼びました。バウマンの念頭にあるのは難民や貧しい移民で、彼ら/彼女たちは「人間のリサイクル処理場」でも再生できずに捨てられていくのですが、こころを病んだビジネスパーソンやひきこもりなどもここに含まれるでしょう。

「ゴミ」とのちがいは、人間は「最終処分」できないことです。そして、自分たちを排除した社会にときに刃を向けるのです。

『週刊プレイボーイ』2019年9月2日発売号 禁・無断転載

「他人を傷つけるような表現は許されない」は正しいのか? 週刊プレイボーイ連載(397)

あいちトリエンナーレの企画展「表現の不自由展・その後」がわずか3日間で中止されました。慰安婦像や昭和天皇をモチーフにした映像作品を展示したことが政治家などから批判され、脅迫行為にまで発展したためと主催者は説明しています。

この事件に関してはすでに多くが語られているので、ここではすこし別の視点から考えてみましょう。それは「共感」です。

前提として、「表現の自由」はもちろん守られるべきですが、「どのような表現でも許される」などということはありません。「そんなことはない」というのなら、バナナを持ったオバマ元大統領のイラストをネットにアップして、「表現の自由だ」といったらどんなことになるか試してみればいいでしょう。

リベラルな社会には暗黙の、しかし厳然たる「ポリティカル・コレクトネス(PC/政治的正しさ)のコードがあります。マイノリティを侮辱したり、攻撃したりするような「PCに反する表現」は事実上、禁じられているのです。

問題は、PCのラインがどこに引かれているのか、誰も納得のできる説明ができないことにあります。その代わり、「他人を傷つけるような表現は許されない」という「共感の論理」が使われます。バナナを持つオバマ元大統領のイラストは、世界じゅうの黒人を侮辱し、傷つけるから「表現の自由」の範囲には入らないのです。

ここまでは、極端な「自由原理主義者」を除けば、すべてのひとが合意するでしょう。しかしこの論理を拡張していくと、たちまち広大なグレイゾーンにぶつかることに気づきます。

社会が「リベラル化」するにつれて、女性や障がい者、LGBTなどへの侮辱は許されなくなりました。しかしそうなると、「日本人」への侮辱はどうなるのでしょう?

慰安婦像の展示に憤慨しているひとたちは、「日本人」であることを侮辱され、傷ついたと主張しています。だとしたら「表現の不自由展」を擁護するひとたちは、なぜ黒人や女性とは異なって、自分が「日本人」であることに強いアイデンティティをもつひとたち(日本人アイデンティティ主義者)を侮辱することが許されるのか、彼ら/彼女たちに説明しなければなりません。

「日本人は日本社会ではマジョリティだ」というかもしれませんが、日本人アイデンティティ主義者の自己認識は、「慰安婦問題や徴用工問題のような70年以上前の「歴史問題」によって攻撃され、差別されているマイノリティ」です。「日本人を侮辱しているわけではない」という反論は、「黒人を差別しているわけではない」という差別主義者の主張と区別できません。欧米のイデオロギー対立も同じですが、こうした議論は感情的な対立を煽り、双方の憎悪がとめどもなく膨らんでいくだけです。

だとしたら問題は、「他人を傷つけてはならない」という「共感の論理」にあるのではないでしょうか。

「共感」とは無関係に「表現の自由」を定義できるなら、「傷ついた!」という人が現われても、「それは自由な社会を守るためのコストだ」と説明できます。もっとも、そのような明確な基準がないからこそ、世界じゅうでPCをめぐる混乱が起きているのでしょうが。

参考:ポール・ブルーム 『反共感論―社会はいかに判断を誤るか』(白揚社)

『週刊プレイボーイ』2019年8月26日発売号 禁・無断転載