第88回 年金受給、75歳からは不利(橘玲の世界は損得勘定)

「生涯現役で活躍できる社会」を掲げる安倍政権は、「人生100年時代」に合わせて年金の受け取りを75歳まで繰り下げられるようにするという。受給額は65歳受給と比べて84%多くなり、安心した老後を送ることができるとされる。

しかし私は、年金受給の70歳への繰り下げは有利だが75歳への繰り下げは意味がないと考えている。その理由を、65歳の男性が厚生年金を受給するときの平均月額16万5668円(2018年)を元に説明してみよう。

現行のルールでは、受給開始を65歳より繰り上げると1カ月あたり0.5%ずつ減り、繰り下げると0.7%ずつ増える。その結果、年金を70歳に繰り下げると月額23万5249円(42%増)に、75歳なら月額30万4829円(84%増)になる。

一見いい話のようだが、これだけでは有利かどうかを判断することはできない。年金を繰り下げれば、その分だけもらえる期間が減るからだ。それを考慮して有利/不利を考えるもっともシンプルな方法が、「生涯で受け取ると期待できる年金の総額(以下、「期待額」とする)」を比較することだ。

簡易生命表(2017)によれば、男性の平均余命は65歳で19.57年、70歳で15.73年、75歳で12.18年だ(女性はこれより3~5年長生きする)。それぞれの年齢の「期待額(生涯受給総額)」を計算すると以下のようになる。

60歳 3300万9018円
65歳 3890万5473円
70歳 4440万5518円
75歳 4455万3824円

ここからわかるように、年金受給を70歳に繰り下げることで、期待額は(65歳受給より)550万円増える。年金は国が支払いを保証する「無リスク資産」だから、現在のゼロ金利を考えればかなりお得な「資産運用」だ。すなわち、(可能なら)できるだけ長く働いて年金は70歳まで繰り下げた方がいい(逆に60歳への繰り上げはきわめて不利だ)。

ところが、75歳に年金を繰り下げたときの期待額は約4455万円と、70歳への繰り下げ(約4440万円)とほとんど変わらない。生涯で受け取る年金総額が同じなら、早く受け取った方がいいに決まっている。すなわち、75歳に受給を繰り下げる理由はどこにもない。

このような「設計ミス」になるのは、年齢が上がるにつれて平均余命が指数関数的に短くなることを考慮していないからだ。当然、それに合わせて加算率を引き上げなければならないのだが、70歳までと同じ0.7%に据え置いているため、75歳に繰り下げたときの(70歳受給と比較した)実効利回りがゼロになってしまったのだ。

75歳への受給繰り下げに、65歳から70歳への繰り下げと同じプレミアムをつけるなら、受給額は84%増ではなく100%増(倍)の月額33万4000円程度にしなければならない。これは繰り下げ受給できる富裕層を優遇しているのではなく、たんに平等にするだけのことだ。

いまからでも遅くないので、厚労省は70歳以降に年金を繰り下げるときの加算率を月0.85%程度まで引き上げるべきだ。

橘玲の世界は損得勘定 Vol.88『日経ヴェリタス』2020年2月23日号掲載
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「排外主義」の起源は行動免疫システム 週刊プレイボーイ連載(420)

進化の掟はたったひとつ、「できるだけ多くの遺伝子を複製する」です。これが「利己的な遺伝子」説ですが、「現存するすべての生き物は遺伝子の複製に成功した個体の末裔だ」という単純な事実を言い換えたものです。

病原菌(細菌やウイルス)はヒトなどの宿主を利用して繁殖し、宿主集団に感染して遺伝子を複製しようとします。それに対して宿主は、免疫によって病原菌を撃退し、生存や生殖に害が及ぶのを阻止しようとしてきました。これが「進化の軍拡競争」で、その結果、攻撃する側も守る側もきわめて複雑・巧妙な仕組みをつくりだしてきたのです。

医学的には、人体は3つの防御壁によって病原菌を防いでいるとされます。第一の防御壁は皮膚や粘膜による「物理的な防御」、第二の防御壁は白血球(貪食細胞や補体)による「自然免疫(非特異的免疫)」、第三の防御壁は免疫グロブリン(抗体)やT細胞による「獲得免疫(特異的免疫)」です。

しかし近年の進化医学では、この「生理的免疫システム」の手前に重要な防御壁があることを明らかにしました。それが「行動免疫システム」です。

3つの防御壁は、病原菌に接触するか、体内に侵入されたときにはたらくシステムです。これは「最後の砦」ですから、その前に病原菌に触れないようにすれば感染のリスクは大きく下がるでしょう。

進化のメカニズムはきわめて「合理的」なので、このような明らかなメリットを見逃すはずはありません。ヒトは本能的に、感染の危険を避けるように「設計」されているはずなのです。

さまざまな研究で、男も女も性愛の対象として左右対称な相手を好み、なめらかな肌や艶やかな髪に魅力を感じることがわかっています。現代の進化論では、これを「病原菌や寄生虫に侵されていない」サインだと考えます。

「嫌悪」は生存への脅威になるものを避けようとする感情ですから、当然、外見に表われた病気の徴候もその対象になります。それに加えて人類は、一人で放浪する者を警戒するようになったはずです。なぜなら、社会的な動物であるヒトは共同体のなかでしか生きていけないにもかかわらず、そこから排除されたということは、感染症に侵されているリスクが高いからです。

行動免疫システムは共同体の外部の者を差別するように進化した――。これが「排外主義」の起源だとされています。

この考え方は、現代の進化論のなかでもっとも評判の悪いもののひとつです。その理由はナチスによるホロコーストや、いまも大きな社会問題になっている人種差別を正当化するように見えるからでしょう。「進化の結果なんだからしかたないよ」というわけです。

こうした危惧はもっともですが、だからといって近代医学の誕生からわずか200年ほどで人間の本性が変わるはずもありません。私たちがいまも強固な行動免疫システムをもっていることは、はからずも新型肺炎によって証明されました。

日本政府は中国の一部地域からの入国を禁止していますが、今後(不幸にして)国内で感染が広がるようなことになれば、行動免疫システムの標的はたちまち「日本人」に変わり、世界じゅうから排除されることになるかもしれません。

『週刊プレイボーイ』2020年2月25日発売号 禁・無断転載

「凡庸でやさしい男」か「有能でも冷たい男」かの選択 週刊プレイボーイ連載(419)

「オレの気持ちがわからないのか!」「わたしがどう思ってるか気づいてよ!」今日もこんな言葉が日本のあちこちで飛び交っていることでしょう。でもよく考えると、「相手のことがわかる」には2つの異なる能力が必要です。

ひとつは「共感力」で、泣いたり怒ったり喜んだりしている相手の気持ちを自分に重ね合わせて感じることです。この能力が欠けていると、「冷たい」とか「自分勝手」となじられることになります。

もうひとつは相手がなにを考えているかを理解することで、いわば「読心力」ですが、心理学では「こころの理論」と呼ばれます。この能力が欠けていると、相手がなぜそんなふうに感じるのかがわからなくなります。

「こころの理論」を説明する格好のキャラクターが、『スタートレック』シリーズに登場するヴァルカン人のミスター・スポックです。スポックは徹底して合理的ですが共感力がないわけではなく、だからこそカーク船長ら乗組員と友情をつちかい、困難な宇宙の旅をいっしょにつづけることができます。「船長、それは非論理的です」の科白は、人間がなぜいつも感情的な判断をするのかが理解できないからです。

現実の社会でスポックによく似ているのが自閉症のひとたちです。著名な心理学者であるサイモン・バロン=コーエンは、胎児期の過剰なテストステロンなどの影響で「こころの理論」が機能しなくなることを「マインド・ブラインドネス」と名づけました。アスペルガー症候群もこの一種で、泣いている相手に共感して対処しようとしますが、なぜ泣いているかわからないため、コミュニケーションがうまくとれなくなってしまうのです。

ところで世の中には、自閉症とは逆に、「こころの理論」はあっても「共感力」が欠落しているひとたちがいます。これに病名がついていないのは、相手の「こころ」がわかりさえすれば、共感するふりができるからでしょう。

これはいわば「ハート・ブラインドネス」ですが、じつはこのひとたちは、社会的・経済的に大きく成功する比率が高いことが知られています。その理由はとてもシンプルで、ライバルを蹴落として組織のなかで出世するのは、相手のことを完璧に理解したうえで、その気持ちを平然と踏みにじるようなタイプなのです。

これが極端になると「サイコパス」ですが、じつは社会にとって有用なひとたちでもあります。一人ひとりの兵士の事情(子どもが生まれたばかり、とか)を考えていては、軍隊を死地に赴かせる冷徹な判断はできません。会社を窮地から救うのに、社員の家族(子育てしながら老親の介護もやっている、とか)を気にしていたら大胆なリストラなど不可能でしょう。レバノンに逃亡したあの人が典型ですが、グローバル企業の経営者の多くはこのタイプです。

当然のことながら、共感力と冷酷さは両立しません。これは、「仕事のできるイクメン」を求める多くの女性に困難をもたらします。現実には、「凡庸でやさしい男」か、「有能でも冷たい男」かの選択を突きつけられることになるのですから。

参考:サイモン・バロン=コーエン『自閉症とマインド・ブラインドネス』(青土社)

『週刊プレイボーイ』2020年2月17日発売号 禁・無断転載