ロシアによるウクライナ侵攻は「歴史戦」の末路 週刊プレイボーイ連載(523)

5月9日は、ロシアにとってもっとも大切な記念日です。1945年のこの日、ソ連軍と連合軍がベルリンを陥落させてドイツが無条件降伏し、ヨーロッパでの戦争は終わったのです。

プーチン大統領はこの戦勝記念日で、「われわれの責務は、ナチズムを倒し、世界規模の戦争の恐怖が繰り返されないよう、油断せず、あらゆる努力をするよう言い残した人たちの記憶を、大切にすることだ」と述べたうえで、2月から始まったウクライナへの侵攻を「侵略に備えた先制的な対応」だと正当化しました。

いうまでもなく、ウクライナにはロシアを侵略する意図もその能力もなく、これを「自衛」だとするのは詭弁以外のなにものでもありません。しかし、ロシア国民の多く(独立系調査機関の世論調査によれば7割以上)がプーチンを支持している以上、これをたんなるフェイクニュースと切り捨てることもできません。

プーチンの演説に一貫しているのは、異様なまでの被害者意識です。そしてこれは、多かれ少なかれロシアのひとびとにも共有されています。

1991年にソ連が崩壊してバルト三国やウクライナなどが独立、ポーランド、チェコ、スロバキア、ハンガリーなどの衛星国は民主化を達成してソ連の影響から離脱しました。これを受けてEUとNATOは東へと拡大し、いまではベラルーシを除くすべての国が「ヨーロッパ」の一員になることを希望しています。これはすなわち、ロシアが「ヨーロッパ」から排除されるということでもあります。

それと同時に、バルト三国や中・東欧の国々で「歴史の見直し」が始まり、ソ連によってナチズムからの解放されたのはなく、ナチズムとスターリニズムの「2つのファシズム」に支配されたのだと主張するようになりました。“リベラルの守護神”であるEUも新加盟国と歩調を合わせ、ヒトラーとともにスターリンによる虐殺や粛清などの暴虐行為を非難するようになります。

しかしこれは、ロシアにとってとうてい受け入れることのできない「歴史観」でした。独ソ戦はヒトラーが不可侵条約を破って一方的に侵略を開始したもので、この「絶滅戦争」によってソ連は1億9000万の人口のうち戦闘員・民間人含め2700万人が犠牲になりました。そして、この「大祖国戦争」を勝利に導いたのはスターリンなのです。

このようにして2000年前後から、ヨーロッパとロシアのあいだで「記憶をめぐる戦争」が始まり、ウクライナもこれに加わります。そこでは中・東欧諸国とロシアの双方が、自分たちこそが「犠牲者」だと主張しあうことになります。

このような経緯を紹介したのは、ロシアにもなんらかの理があるというDD(どっちもどっち)論をするためではありません。軍事的にはまったく安全を脅かされていないロシアがなぜ無謀な侵略行為を始めたのかを理解するには、これが「アイデンティティの戦争」だと考えるほかないのです。

日本でも保守派のメディアなどが、東アジアでの過去をめぐって「歴史戦」を煽ってきました。わたしたちはその「末路」がどうなったのか、いちど冷静に考えてみるべきかもしれません。

参考:マルレーヌ・ラリュエル『ファシズムとロシア』東京堂出版

『週刊プレイボーイ』2022年5月30日発売号 禁・無断転載

陰謀論を規制すると言論の自由は死ぬのか? 週刊プレイボーイ連載(522)

資産30兆円ともいわれる大富豪のイーロン・マスクがツィッターを買収し、トランプ前大統領のアカウント凍結を「道徳的間違い」と述べたことに、反トランプのリベラル派が反発しています(その後、偽アカウントの割合に疑問があるとして買収手続きを停止)。

しかしもともと、「言論・表現の自由」はリベラルが金科玉条としてきたものです。こうなると、どちらがリベラルで、どちらが保守反動なのかわかりません。

原則として、国家による言論・表現の規制は最小限とし、投稿ルールをどうするかはプラットフォーマーが決めるべきです。こうしてネット上に複数の言論空間ができ、もっとも公正かつ効果的に意見を交換できるサイトがユーザーによって選ばれるのが理想であることは間違いありません。

そうはいっても、すべての議論に共通する最低限の基準は必要ではないでしょうか。実際、マスクも野放図な自由を主張しているのではなく、ボットやスパムの排除だけでなく、誹謗中傷や罵詈雑言の規制も(アルゴリズムの公開を条件に)認めています。

とはいえ、「議論に礼節を求めることは、差別され、抑圧された者の怒りを排除するかたちを変えた権力行使だ」との批判があることにも留意しなければなりません。1960年代のアメリカの公民権運動では、白人至上主義者を「レイシスト」と糾弾する黒人の活動家は、「下品でまともに耳を貸す必要もない連中」と見なされました。

言葉の規制以上にやっかいなのが、投稿内容の規制です。トランプは米連邦議会襲撃事件を扇動したとしてフェイスブックとツイッターのアカウントを永久凍結されたわけですが、事件から1年以上たっても訴追されていません。「違法行為が立証されたわけでもない市民(前大統領)の表現の自由を私企業が否定できるのか」との反論には説得力があります。

しかしここには、より重大な問題が隠されています。トランプを追放したフェイスブックでは、社会の変革を論じていたグループの管理者のアカウントがいきなり凍結されてトラブルになりました。

Qアノンはディープステイト(闇の政府)が世界を支配し、コロナワクチンを打つとマイクロチップが埋め込まれるなど荒唐無稽な陰謀論を唱えています。サイバーリバタリアンは、ブロックチェーンやAI(人工知能)など最先端のテクノロジーを駆使して、社会をより効率的な仕組みに設計しようと議論しています。

両者は対極にあるようですが、共通するのは「いまの社会はうまくいっておらず、つくり変えなければならない」という信念です。そしてプラットフォーマーは、「一方を規制してもう一方を許容するのはなぜか」という問いにこたえることができません。思想信条については、なにを基準に線引きするかを決められないのです。

これでは、「社会を変えよう」というラディカルな議論はSNSの言論空間から排除されてしまいます。マスクは、「アイデアのイノベーション」を守るためにツイッターを買収したのでしょう。ただしその場合は、必然的に、陰謀論者の言論・表現の自由も大幅に認められることになりますが。

参考:Jim Rutt”Musk and Moderation”Quilette(2022.04.27)

『週刊プレイボーイ』2022年5月23日発売号 禁・無断転載

中国のコロナ対策の失敗は大きすぎる成功の代償 週刊プレイボーイ連載(521)

中国では、新型コロナウイルス(オミクロン型)の感染拡大で3月末に始まった上海のロックダウン(都市封鎖)が、1カ月を超えても解除の目途が立たず、住民の不満が高まっています(その後、6月中の全面解除の方針が示されました)。北京でも連日感染者が確認され、市民がスーパーの食料品を買い占めるなど緊張が高まっているようです。

それに対してヨーロッパでは、イギリスや北欧、ベネルクス三国などを先頭に、コロナ規制の大半が解除されています。レストランに入る時にワクチン接種証明やPCRの陰性証明を提出する必要もなく、公共の場でのマスク着用義務もなくなり、大規模イベントの制限も撤廃されました。サッカースタジアムでは満員の観客が大声援をあげていて、手拍子のみの日本と比べても別世界です。

ここで確認しておく必要があるのは、だからといって「コロナ対策で欧米が成功し、中国が失敗した」とは単純にいえないことです。

コロナによる累計死者(5月5日時点)は、アメリカが99万人、イギリスが17万5000人、日本が2万9700人に対し、中国は5100人です。人口10万にあたりで見ると、英米が260~300人に対し、中国はわずか0.37人です(日本は23.6人)。「中国のデータは信用できない」というかもしれませんが、それでも人口あたりで中国の死者数がアメリカの800分の1という大きな差が覆ることはないでしょう。

ほとんどのひとが、「政治にとって、国民の生命を守ることほど大切なものはない」という主張に同意するでしょう。だとしたら、経済活動をさほど犠牲にせずに死者数をきわめて低い水準に抑え込んだ中国は、圧倒的に成功しています。逆にいえば、欧米諸国は感染拡大を(結果的に)許したことで、高齢者や持病のあるひとなどの大量の犠牲のうえに「集団免疫」を達成したともいえるのです。

中国にとっての問題は、欧米や日本で接種されているメッセンジャーRNAを使ったワクチンに比べ、中国製ワクチンの有効性が低いことです。医療体制も整備されているとはいえないため、弱毒化したオミクロン株でも、ひとたび感染が拡大すると大きな被害と社会の混乱を招く恐れがあります。

中国と同様に強い規制で感染を抑制してきたオーストラリアやニュージーランドは、段階的に規制解除へとシフトしました。欧米と同じワクチンを使っていて、感染が拡大してもその影響を予測できるからですが、14億の人口を抱える中国は同じことができません。

もうひとつの問題は、あまりに成功しすぎると、これまでやってきたことを続けるしかなくなることです。前例を変えて失敗すると、「改革」を主導した者がすべての責任を負うことになってしまいます。習近平は今年秋の党大会で3期目を目指すようですが、だとしたらなおのことリスクは取れないでしょう。

とはいえこれは、「だから独裁はダメなんだ」という話でもありません。日本もまた、戦後の高度経済成長という大きすぎる成功体験のあとで、既存の社会・経済制度をほとんど変えられず、いまも「失われた30年」の低迷にあえいでいるわけですから。

『週刊プレイボーイ』2022年5月16日発売号 禁・無断転載