ステレオタイプ脅威と偏見・差別のやっかいな関係を考えてみる

ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載していくことにします。

今回は2020年8月27日公開の「「黒人は白人より学力が低い」と意識すると実際に成績が下がる「ステレオタイプ脅威」を解消するには、相手の「ナラティブ(物語)」を変えることが重要」です。本稿は、ステレオタイプ脅威の再現性問題について加筆しました。

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「ステレオタイプ脅威Stereotype threat」は近年の社会科学でもっとも注目されている概念のひとつで、「女は数学が苦手だ」「黒人は白人より学力が低い」などの社会的なステレオタイプ(偏見)を意識させると、それによって実際にテストの点数が下がってしまう現象をいう。

クロード・スティールの『ステレオタイプの科学 「社会の刷り込み」は成果にどう影響し、わたしたちは何ができるのか』(藤原朝子訳、英治出版)は、ステレオタイプ脅威を発見したアメリカの著名な「黒人」社会心理学者が、これがどのようなことなのかを自ら説明したとても興味深い本だ。

著者のスティールは米国科学アカデミー、米国教育アカデミー、アメリカ哲学協会、アメリカ芸術科学アカデミーの会員で、カリフォルニア大学バークレー校副学長、コロンビア大学副学長などを歴任し、現在はスタンフォード大学心理学教授を務めるアメリカを代表する「黒人」知識人だ。――ここでなぜ人種を強調するかというと、少数派(マイノリティ)であることが本書のテーマだからだ。

原書のタイトルは“Whistling Vivaldi:How Stereotypes Affect Us and What We Can Do(ヴィヴァルディを口笛で吹く:ステレオタイプはわたしたちにどう影響し、わたしたちに何ができるのか)”。クラシックのヴィヴァルディを口笛で吹く意味については最後に述べよう。

ステレオタイプ脅威は再現性に失敗している?

「男子生徒といっしょに女子生徒に数学の試験を受けさせ、『女は男より論理・数学能力が劣る』という論文を読ませるなどしてステレオタイプを意識させると、それだけで点数が大きく下がる。これは、社会的な偏見によって女子生徒が数学の実力を発揮できないことを示している」

これが「ステレオタイプ脅威」だが、この理論が広く受け入れられた背景には、リベラルなイデオロギーときわめて相性がいいことがある。一部の(あるいはものすごくたくさんの)メディアや知識人は、「女は数学が苦手だ」とか「黒人(アフリカ系アメリカ人)は白人より学力が低い」などの偏見はすべてステレオタイプ脅威で説明できる(本来は両者になんのちがいもない)と主張した。

ここであらかじめ述べておかなくてはならないのだが、「ステレオタイプ脅威」は再現性についてはげしい論争の渦中にある。多くの再現実験を集めて検証したメタアナリシスでははっきりとした傾向は確認できておらず(多くの実験は、人種差よりも設定が容易な性差で行なわれた)、2008年から16年にかけて発表された5つの主要なメタアナリシスでは、ステレオタイプ脅威の効果量はごくわずかで、研究者の政治的な立場によって、それを「ステレオタイプ脅威だ」とする者(リベラル)と「出版バイアスだ」とする者(保守)に分かれた。

出版バイアスは「目立つ研究結果は学術誌に掲載されやすい」ことで、「ステレオタイプ脅威がない」という研究よりも「ある」という研究の方が好まれるので査読を通りやすくなる。このバイアスを調整すると、一般に思われているようなステレオタイプによる大きな心理効果は存在しないらしい( Charles Murray (2020) Human Diversity: The Biology of Gender, Race, and Class, Twelve )。

それにもかかわらずなぜここで取り上げるかというと、スティールの本を読むかぎり、「性差や人種差はすべてステレオタイプの影響だ」などということはいっていないからだ。スティールは、「ステレオタイプ脅威とはアイデンティティへの脅威だ」と述べている 。

「同じ能力なのになぜ結果がちがってしまうのか」を説明する理論

男子生徒といっしょに女子生徒に数学の試験を受けさせ、「女が男より論理・数学能力が劣る」という論文を読ませるなどしてステレオタイプを意識させると、それだけで点数が大きく下がる。――これがステレオタイプ脅威だが、(多くのひとが誤解しているように)「男女の数学能力にはなんのちがいもない」ことを証明したわけではない。スティールは、「脅威(ストレス)を加えなければ同じ結果になることがわかっている2つの集団」を比較したときに、ステレオタイプがどのように結果に影響するかを調べたのだ。

このことをよく示しているのが、プリンストン大学の研究者が行なった、白人と黒人の大学生に10ホールのミニチュアゴルフをさせる実験だ。このとき、「運動神経を測定する」といわれた白人学生は、そういわれなかった白人学生よりずっとスコアが悪かった(黒人学生にこの効果はなかった)。ところが、「これはスポーツ・インテリジェンス(運動知能)を測定する実験だ」と告げると、こんどは黒人学生のスコアが悪くなった(白人学生にこの効果はなかった)。黒人学生のスコアは、白人学生よりも平均4打以上多くなったのだ。

なぜこんなことになるかというと、「運動神経を測定する」といわれた白人学生は「白人は黒人と比べて運動神経が鈍い」というステレオタイプ脅威にさらされ、「運動知能を測定する」といわれた黒人学生は、「黒人は白人と比べてインテリジェンス(知能)が劣る」というステレオタイプ脅威にさらされたからだ。

この実験が高い説得力をもつのは、なんの脅威にもさらされていない場合、白人学生と黒人学生のゴルフの成績にちがいがないことをあらかじめ確認しているからだ。つまり、「本来なら同じ結果になることがわかっている2つの集団」に異なるステレオタイプ脅威を与えて比較しているのだ。

同様に、スティールがミシガン大学で女子学生へのステレオタイプ脅威を調べたときは、「数学が得意な男子学生と女子学生」を集めて実験を行なった。スタンフォード大学で黒人学生のステレオタイプ脅威を調べた研究では、入学時のSAT(大学進学適性試験)で得点を標準化している。男性と女性、白人と黒人をランダムサンプリングしたのではなく、ゴルフの実験と同様に、もともと両者の成績が同じになる(と想定される)サンプルで実験を行なったのだ。

当然のことながら、ここから「男と女の数学能力に性差はない」とか、「白人と黒人の学力≒知能にはなんのちがいもない」などの一般則が導けるわけではない。ステレオタイプ脅威で集団間のちがいの一部を説明できるとしても、あくまでも「同じ能力なのになぜ結果がちがってしまうのか」を説明する理論なのだ。

人種が統合された学校は、人種によって分断されている

教育者としてスティールが関心をもったのは、アメリカの大学で黒人学生の成績がなぜかんばしくないのかだった。黒人学生の成績不振は英語から数学、心理学まであらゆる科目に共通して見られ、「大学から医科大学院、法科大学院、経営大学院、さらには、しばしば幼稚園から高校まで、つまり教育システム全体で見られる現象だった」 。

ここで、「アメリカではアファーマティブアクション(積極的差別是正措置)によってマイノリティの学生が優遇されており、そもそも基礎学力が低い学生が入学しているのではないか」と思うひともいるだろう。これは保守派の主張の定番で、そういうことはあるかもしれないが、スティールが問題にしているのは、SATの点数を人種別にグループ化しても、大学入学後の黒人学生の成績が、同じ点数グループの他の学生の成績を一貫して下回っていることだった。

そこでスティールは、ミシガン大学の黒人学生たちに大学生活について訊いてみた。学生たちは口々に、大学という小さな社会でもマイノリティであると実感していることや、「教員や助手や他の学生、そして教授陣までもが自分のことを「学力が乏しい」と思うのではないか」という不安、教室の外での生活が人種、民族、社会階級によって分断されていることを訴えた。

黒人学生たちは、「(人種)分断を超えた親しい友達はほとんどおらず、黒人のスタイルや好みや関心は、キャンパスで無視されるか、ダサいと思われている気がするといった。黒人などマイノリティの教授陣が少ないことも指摘していた」。黒人学生は、自分が(名門の)ミシガン大学にふさわしくないのではないかと心配していたのだ。

事実、スティールが調べたところ、黒人学生も白人学生も、もっとも親しい友人6人中、異なる人種は平均1人未満だった。黒人学生の場合、6人のうち白人の友人は平均0.6人だった。「人種が統合されている」はずの大学ですら、黒人学生の2人に1人は白人の友だちがいない。

大学と同様に、アメリカの高校も人種によって分断されている。「人種が統合された」高校のカフェテリアでは、白人生徒が黒人生徒と同じテーブルに座ると、「クールになろうと必死すぎ」とか「わざとらしい」「人種に鈍感」などと思われる。黒人生徒が白人生徒と同じテーブルに座れば、他の黒人生徒から裏切り者だとか、白人になりたがっていると見なされる。高校生たちの日常生活にも、アメリカの人種の歴史が投影されているのだ。

だとすればこれは、大学当局にとって深刻な問題になる。たんに「基礎学力の低い生徒は成績が悪い」だけなら「仕方ない」で済ませることができるかもしれないが、「同じ学力であるにもかかわらず、特定の人種グループだけ成績が悪い」ということになれば、なんらかの説明が必要だ。ことのとき真っ先に思い浮かぶのは、大学当局がぜったいに避けなければならないもの、すなわち「組織的な人種差別」だろう。

部屋の隅で炎が上がっている

スティールは、「アメリカ北東部にある、小規模だが名門に数えられるリベラルアーツ大学」に講師として招かれ、黒人学生が抱える問題について教職員と話し合いをしたときの体験を書いている。

「そのミーティング中、わたしはあるものの存在を感じていた。まるで部屋の隅で炎があがっているような感覚だ。それは、人種差別とみなされる対応を取ってしまうのではないか、あるいはそうした行為を大目に見てしまうのではないかという教職員たちの強烈な不安だった。それは彼らが決して近づきたくない、焼け付くような炎だった」

いまのアメリカのアカデミズムでは、「レイシズム(人種主義)」のレッテルを貼られることは死刑宣告されるのと同じだ。だからこそ白人の教員たちは、「黒人」の心理学者であるスティールにどうすればいいのか教えを乞うたのだ。

ステレオタイプ脅威は、この現象をうまく説明できるように見える。アメリカ社会には黒人に対するさまざまなネガティブなステレオタイプがあり、黒人学生はそれと格闘しつつ、いつしか人種的な偏見を内面化してしまう。そうなると、予言が自己実現するように、恐れていた結果を招き寄せてしまうのだ。

この理屈が都合がいいのは、黒人学生の成績が悪いのはアメリカ社会に広範に広がっている「人種主義(黒人への差別・偏見)」のためであり、大学当局が意図的に「人種差別」的な対応をとっているからではない、という免責を与えてくれるからだろう。だがその代償として、アメリカのアカデミズムは社会の先頭に立って「暗黙のレイシズム」と闘わなくてはならなくなった。キャンパスを席捲する「キャンセルカルチャー(レイシズムの疑いのある教員の辞任や“反動的”な知識人の講演中止=キャンセルを求める運動)などはその象徴だろう。

だがスティールは、アメリカ社会には黒人への強い偏見=ステレオタイプがあることを指摘しつつも、だからといってステレオタイプ脅威が人種差別に直結するわけではないという。先ほどのゴルフの実験でもわかるように、白人学生も「白人は運動が苦手だ」というステレオタイプ脅威の影響を受けるからだ。ステレオタイプ脅威は状況依存的で、多数派の集団がつねに「支配階級」、少数派の集団がつねに「犠牲者」になるわけではない。

だとすれば、なにがステレオタイプ脅威を生み出すのか? それは「アイデンティティ」だとスティールはいう。

「ここは場違いで、このままだと殺されてしまう!」

ステレオタイプ脅威の背景には「人種の分断」があるが、スティールはこれは「差別」ではなく「アイデンティティ」の問題だとする。以下はあくまでも私の理解だが、「場違い」をキーワードにこれを説明してみたい。

ヒトは徹底的に社会化された動物で、共同体(コミュニティ)に属していないと生きていくことができない。旧石器時代から何百万年もこのような環境で暮らしていれば、自分が正しい共同体に属しているのか、それとも属していないのかの鋭敏な感覚が脳に組み込まれたことは間違いない。わたしたちは無意識のうちに、つねに自分が「場違い」でないかどうかを検証している。

アイデンティティは「集団への帰属意識」と説明されるが、それは「正しい共同体に所属している(場違いでない)」という感覚(安心感)のことだ。それに対して、自分が正しい共同体に所属していないと、脳=無意識は全力で警報を鳴らす。人類が生きてきた歴史の大半において、場違いな共同体に紛れ込んでしまうことは、トラやライオンのような肉食動物に遭遇するのと同じように、生存への重大な脅威だった。

だが、自分が少数派(マイノリティ)であることがつねに脅威になるわけではない。多数派(マジョリティ)に対して自分に優位性があるのなら、生存への脅威はなくなるはずだ。そのことをよく示すのが、スラム街の子どもを遠く離れた土地に転居させるプログラムに選ばれた、ニューヨークの治安の悪い地区(サウスブロンクス)に住む高校中退の黒人高校生のケースだろう。彼が転校したのは中流階級の白人しかいない西部の高校で、そこでは圧倒的な少数派だったが、2年後にはバスケットボールチームのエースになり、成績もAとBばかりで大学進学を目指していた(ジュディス・リッチ・ハリス『子育ての大誤解 重要なのは親じゃない』石田理恵訳、ハヤカワNF文庫)。こんな”奇跡”が起きたのは、彼がスポーツで「ヒーロー」になれたからだろう。

このように考えると、ステレオタイプ脅威がシンプルに説明できる。はげしく警告のアラームが鳴るのは、自分が少数派で、なおかつ優位性がない(劣っている)と無意識が感じる場合なのだ。

理系の女子学生は大学では少数派で、「女は男より数学の成績が悪い」というステレオタイプの影響を受ける。黒人学生も少数派で、「黒人は白人より知能が低い」というステレオタイプに影響を受けている。それはいわば、「ここは場違いで、このままだと殺されてしまう!」という強烈な不安だ。ステレオタイプ脅威とは「アイデンティティへの脅威」のことで、それは生存の危機に直結するのだ。

このような状況に追い込まれると、脳=無意識は全力で状況に対処しようとする。生き延びるために必死になれば、それによって脳のリソースは大量に消費されてしまうだろう。ステレオタイプ脅威で成績が下がるのは脳のワーキングメモリーの活動が妨げられるためだされるが、テストよりもはるかに重要なこと(生存)が賭けられているのだとすればこれは当然だ。

意志のちからで不安を抑えつけると健康を害する

このやっかいなステレオタイプ脅威に対処するにはどうすればいいのだろうか。最初に思いつくのは「意志のちからで不安を抑えつける」だろうが、これはうまくいかないとスティールはいう。

プリンストン大学医学部の難関科目(有機化学)をクリアするには、科目を履修登録せず一度受講して、二度目に正式な履修手続きをして成績をつけてもらうとか、夏学期にレベルの低い他大学で履修し、その単位をプリンストンに移してもらうなどの裏ワザがある。

白人学生やアジア系学生のほとんどはこのアドバイスに従って合格点をもらうが、黒人学生は拒絶することが多く、医科大学院に進む可能性をみすみす危険にさらしている。この「過剰努力」をスティールは、「ステレオタイプが誤りであることを証明するため、意地になって授業に出席しつづけているかのように見えた」と述べる。

試験中の学生の血圧を測る実験では、「人種的に対等」と告げられたテストでは、黒人学生の血圧は白人学生と同様にテストに集中するとともに下がっていった。だが「知的能力を測定する」と告げられると、白人学生の血圧が同じように下がったのに対して、黒人学生の血圧は劇的に上昇した。

ステレオタイプ脅威に対処することで血圧が上がるなら、それは健康にも影響を与えるかもしれない。アメリカでは黒人の約3分の1(男性34%、女性31%)が高血圧症とされているが(白人は男性25%、女性21%)、「困難な心理社会的ストレス要因に対処するための長期的かつ高度な努力は、(黒人を含む貧困層に高血圧症が多いことの)最も簡潔な説明かもしれない」とスティールはいう。「自分の集団が不利な条件に置かれ、差別され、ネガティブなステレオタイプを抱かれている領域で高い能力を示そうとすると、過酷な代償がもたらされる可能性がある」のだ。――ただしこれについては、奴隷船の劣悪な環境で生き延びるには(生得的に)血中の塩分濃度が高くなければならず、それがアメリカ黒人に高血圧が多い理由だ(アフリカの黒人にはこうした傾向は見られない)という医学的な説明が提示されている。

黒人学生の成績が悪いのは、ネガティブなステレオタイプを内面化したため、モチベーションが下がって自己不信に陥っているからだと説明されることがある。だがスティールは、これも正しくないという。スティグマのプレッシャーは、学力不足の学生よりも、学力の高い学生に大きな影響を与えるのだ。

貧困地区の高校で行なわれた調査で、「学校の成績を気にしている」と答えた黒人の生徒は、ネガティブなステレオタイプ(黒人は学力が低い)の脅威を感じると、学力テストで白人の生徒よりずっと低い点数を取った。ところがこの現象は、成績下位グループの黒人生徒には見られなかった。学校の成績など気にしていない生徒たちは、ステレオタイプ脅威に動揺したりしなかったのだ。

ここからスティールは、ステレオタイプ脅威の影響を受けやすいのは成績上位の黒人生徒たちで、それは自尊心の欠如や自己不信のためではなく、むしろ「自分に対する期待が高いから」だという。

「差別」をはねかえそうと意志力をふりしぼって頑張るマイノリティこそがステレオタイプ脅威から大きな影響を受け、その結果としてじゅうぶんな成果を上げられないばかりか、健康まで害してしまう……。オハイオ州立大学コロンバス校の社会心理学博士課程に入学したとき、スティールは唯一の黒人学生だった。「ステレオタイプ脅威」を意思のちからで乗り越えてきた経験があるからこそ、「努力は寿命を縮める」というスティールの指摘は重い。

ステレオタイプ脅威をなくすには、学校を人種別にすればいい?

ステレオタイプのないところでは、当然のことながらステレオタイプ脅威は起きない。第二次世界大戦後、ヨーロッパではアメリカの黒人は「流行の先端」と見なされ歓迎された。これが、黒人ジャズミュージシャンや黒人作家がヨーロッパで活躍した理由だとスティールはいう。

だが、誰もが「ステレオタイプのない国」に移住できるわけではない。そこで注目されるようになったのが「クリティカルマス」だ。

ステレオタイプ脅威は、自分が少数者(マイノリティ)だという意識から生まれるのだから、自分と同じ属性をもつ仲間が増えれば解消する。たとえばオーケストラでは、女性楽団員の割合が40%に達すると「ステレオタイプ」が消え、男女ともに満足度の高い経験を報告するようになるという。

これがクリティカルマスで、人数がほぼ半々の男女であれば現実的だろうが(文系の大学はすでに女子学生のクリティカルマスを達成し、やがて男子学生がマイノリティになるかもしれない)、アメリカの黒人の人口比は13%程度なのだから、学校や職場の人数比を白人と同じにするのは困難だろう。

そうなると、人為的にクリティカルマスをつくることが考えられる。「女は数学はできない」というステレオタイプ脅威は女子校では生じにくい。ヒラリー・クリントンは女子校・女子大で学んだが、それが「女にリーダーシップは向かない」というステレオタイプ脅威に打ち勝つのに役立ったのかもしれない。スティールがいうように、「アイデンティティ別に分けられた環境では、ステレオタイプ脅威を大きく下げられる」のだ。

だがこの方法を黒人のステレオタイプ脅威に適用しようとすると、「人種別の高校や大学をつくればいい」という話になってしまう。当たり前だが、このような提案が社会に受け入れらとはとうてい思えない。――こうした主張は、アメリカでは「人種現実主義」を自称する白人保守派が唱えている。

クリティカルマスを達成できない組織(共同体)では、マイノリティはつねに「脅威」にさらされている。そんな環境で「カラーブラインドネス(肌の色をいっさい考慮せずに個人の幸福を推進する)」や「ジェンダーブラインドネス(性差を考慮せずに社員を扱う)」をいくら唱えても、かえって逆効果にしかならない。――ジェンダーブラインドネスを掲げていても、男性役員・管理職が圧倒的多数派なら、「女はバカだ」といっているのと同じだ。

このように考えると、ステレオタイプ脅威を解消するには、マイノリティでも安心して学んだり働いたりできる「多様性のある社会」をつくるしかない。こうしたリベラルの主張はしばしが「きれごと」と批判されるが(それには一定の説得力があるとも思うが)、だからといってそれ以外の解を提示できるわけではないのだ。

「ヴィヴァルディを口笛で吹く」理由

ステレオタイプ脅威を減ずるのに有効なもうひとつの方法は、「ナラティブを変える」ことだとスティールはいう。ナラティブ(物語)とは黒人が内面化しているネガティブなステレオタイプ(マインドセット)のことで、これをポジティブなものにする「自己肯定化作業」によってステレオタイプ脅威をなくしていくのだ。そのためには、教育機関には「生徒とのポジティブな関係、子どもを主役にした教え方、画一的な戦略ではなく多様性を活用した指導方法、教員のスキル・温かさ・話しやすさなど」が必要だとされる。

それと同時に、「相手(マジョリティ)のナラティブを変える」という戦略がある。

のちにニューヨーク・タイムズのコラムニストとなったブレント・ステープルズは、黒人学生としてシカゴ大学の大学院で心理学を学んでいたとき、夕方になるとラフな格好でキャンパスに近いシカゴのハイドパーク地区(ミシガン湖に面した高級地区)をぶらついていた。

しかしやがて、ステープルズは自分を見た白人たちが一様に同じ反応をすることに気づいた。「カップルはわたしを見ると、腕を組んだり、手をつないだりした。道路の反対側にわたってしまう人もいた。すれ違う人たちは会話をやめ、前方に視線を集中する。まるでわたしと目が合ったら一巻の終わりだとでも言うように……」。

ステープルズは、「自分のことを死ぬほど怖がっている人たち」に「こんばんは」と微笑みかけてもなんの効果もないことを思い知らされる。それでもなんとか無害な存在だとわかってもらいたかった彼は、緊張を解くために口笛を吹くようになった。

ビートルズの曲やヴィヴァルディの『四季』を口笛で吹くと、それを聞いた白人たちの態度が大きく変わった。そればかりか、「暗闇でわたしとすれ違うとき、ほほ笑む人さえいた」のだ。

これが本書に原題になった「ヴィヴァルディを口笛で吹く」だ。口笛でヴィヴァルディを吹くだけで、「暴力沙汰を起こしがちない黒人の若者」から「教養ある洗練された黒人大学生」へと白人のナラティブを変えることができた。

一見奇妙な本書の原題には、白人の差別意識や偏見をいたずらに批判・糾弾するのではなく、それをかわす方法を学ぶべきだという、「成功した穏健な黒人知識人」であるスティールの願いが込められているのだろう。私には、アメリカ社会でこれがどれほど受け入れられるかはわからないが。

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