Back to the 80’s いまでもときどき思い出すこと(3)

カネコさんのアドバイスのおかげで、ぼくは社員10人ほどの小さな出版社に就職することができた。

社長は会社をいくつかつくってはつぶしてきた50代半ばの白髪の紳士で、それ以外の社員はみんな若く、2人の編集長はまだ20代後半だった。ぼくが採用されたのは、たんに彼らと大学が同じだったからだ。

けっきょくこの会社には1年半くらいしかいなかったのだけど、その後のみんなの運命は波乱に富んでいた。

温厚で品のいいおじさんだった社長は、銀行を恐喝したとして10年ほど前に逮捕された。編集長の1人は独立して、一時は六本木交差点ちかくの旧東京日産ビルのワンフロアを借りるまで成功したのだが、賭博罪の疑いで会社を強制捜査されて倒産してしまった(けっきょく起訴猶予になった)。残った1人が会社を継いだのだけど、怪しげなファンドにかかわって会社をつぶし、本人も自己破産した。

このように書くとまるで犯罪者集団みたいだけど、実際はそんなことなくて、みんなごくふつうのひとたちだった。社会の周縁でビジネスをしていると、ちょっとしたきっかけで塀の向こう側に足を踏み外してしまうのだ。

その会社に入ってすぐに、ビジネス雑誌の広告取りをさせられた。ぼくは広告が何なのかぜんぜんわかっていなくて、儲かった会社が趣味でお金を出すんだろうと思っていた。会社も無知な新入社員を教育するような余裕はなく、30分ほど話し方教室のような訓練を受けて、似たような雑誌に広告を出している会社のリストを渡されて、あとは自分でなんとかしろと放り出された。

ぼくが訪ねたのは水道橋の雑居ビルにある小さな会社で、健康食品の代理店ビジネスをやっていた。応対してくれたのは専務の肩書きを持つ、妙に腰の低い気の弱そうなおじさんだった。

ぼくが暗記したての営業トーク(雑誌の部数は10倍くらいに水増しされていた)をしゃべると、驚いたことにそのおじさんはものすごく感心してくれて、いちばん大きな広告を出したい、といった。それはかなりの金額で、その話を報告すると会社じゅうが大騒ぎになった。

そのあとぼくは専務と2回ほど打合せをして、広告の内容や掲載時期などの細かな点を詰めた。あとは社長に直接説明して、了承をもらえばいいという話になった。

やたら暑い日だった。ぼくは社長に会うために水道橋の会社を訪ねた。専務からは、たんなる挨拶みたいなものだといわれていた。

はじめて会う社長は、でっぷりと太った、ちょっとくずれた感じのひとだった。ネクタイを緩め、股を大きく開いてぼくの前に座ると、ちらっと名刺を眺め、ぶっきらぼうに「で、なんの話?」といった。

ぼくは雑誌を取り出して、いちから説明を始めた。隣で専務のおじさんが、青ざめた顔で座っていた。社長はほとんど表情を変えず、汗の浮き出た赤ら顔を扇子で扇ぎながら、退屈そうにぼくの話を聞いていた。

ひととおり説明が終わると、社長は豆粒みたいな目をぼくに向けて、「その広告、なんの役に立つんだ?」と訊いた。

ぼくは慌てた。広告が役に立つかどうかなんて、誰からも教えてもらっていなかったからだ。しどろもどろでなにか話して、言葉が途切れたときだった。「歯医者の予約、どうなってるかなあ」隣にいる専務に、社長が声をかけた。「ちょっと電話して、予約入れてくれよ。歯が痛えんだよ」

雑居ビルを出ると、近くの公衆電話から会社に電話をした。広告部長(20代後半のおとなしいひとだった)は話を聞くと、「よくあることだよ。気にするなよ」と慰めてくれた。

受話器を置くと、しばらくその場で立ち尽くしていた。社長の理不尽な態度に傷ついたこともある。みんなの期待を裏切って申し訳ない、とも思った。でもいちばんショックだったのは、なにが起きたのか見当もつかないことだった。

山手線を降りると、昼下がりの新橋駅前はサラリーマンで溢れていた。このひとたちはみんな、自分の仕事をちゃんとわかっているにちがいない、と思った。それにひきかえぼくは、世の中の仕組みをなにひとつ知らず、自分がなにをしているのかすらわからずに、炎天下をひたすら這いずり回っているだけなのだ。

会社に戻る道すがら、はじめて「このままじゃヤバイ」と思った。

「国家に頼る」ことをみんなで一斉にやめてみませんか?〈『週刊SPA!』2011年4月19日号)

3月29日にインタビューを受けた『週刊SPA!』の「日はまた昇る![日本V字復興計画]16」所収の記事を、出版社の許可を得て掲載します。震災後にこんなことを考えていた、というようにお読みいただければ幸いです。

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目下、最重要項目が「被災地復興」。巨額の復興財源を捻出すべく、法人税減税の見送りや所得税控除の見直しのほか、環境税導入の議論なども出てきている。しかし、「こんな事態だから増税もやむなし」という世論に異議を唱えるのは作家の橘玲氏。

「なぜ国債発行ではなく増税が必要になるかというと、そもそも日本の財政が危機的な状況にあるから。被災地の復興は国の大事な仕事の1つではありますが、国家財政を健全に運営していくことも同様に大事なことなのです」

日本の財政を圧迫する大きな要因となっているのが、高齢化に伴う社会保障費や医療費の増大だ。

「例えば破綻することが目に見えている年金制度もそうだし、歯科医療や過度な延命治療など、海外では保険適用外のものも日本では保険で賄われています。このように、今の日本の社会保障にはムダが多いのも事実。1000兆円以上もの一般債務を抱える今、やみくもな国債発行はできなくなっており、それなら増税より社会保障を見直すほうが賢明です」

さらに、「国民は国に要求するばかりで、『自分たちが何をするか』という視点が抜けている」と橘氏は指摘する。

「今の議論を見ていると、これまで日本人が享受していた既得権を守りつつ、被災者を支援せよというものばかりですが、この機会に『国に保護してもらうのが当然』という考え方をみんなで一斉にやめてみませんか? 家も財産も失って大変な思いをしている人がいるのだから、幸運にも被災を免れた人たちは少しずつ既得権を諦めるべきです。それに社会保障の世代間格差がなくなれば、大きな負担を強いられている若い世代にとって有利になる面もあるのでは」

国家が破産してしまったら、元も子もない。危機的な財政状況のなか、震災復興によるさらなる財政赤字拡大より、今こそ財政健全化へ舵を切るべきかもしれない。

インタビュー/構成:藤村はるな(ライター)

Back to the 80’s いまでもときどき思い出すこと(2)

『残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法』に掲載したマクドナルドの話に、前段を加えたものです。

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年をとることの利点のひとつは、自分がどれほど愚かだったかわかるようになることだ。ぼくもほとんどの若者と同じように、度し難い愚か者だった。

高校2年のとき、たまたま学校の近くの喫茶店にいたら、そこが不良の溜まり場で、いきなり警察官がやってきて彼らといっしょに補導されてしまった。ぼくは自宅謹慎になり、あまりに暇なので、家にあったロシア文学全集を読みはじめた。10日間でドストエフスキーの長編をすべて読んでしまうと、ぼくはその悪夢的世界に完全に洗脳されて、この作家の小説を原文で体験するしかないと思い定めた。

当時もいまもロシア文学を教えている大学はわずかしかなく、書店の大学案内を見て、ぼくはそのなかのひとつを選んだ。それ以外はどこも受験しないというと、担任の教師はそんな生徒がいることが信じられないらしく、なんども進路指導に呼ばれた。そのたびにぼくは、「進むべき道は決まっているのだから、法学部や経済学部を受けるのは時間とお金のムダだ」とこたえた。

そうまで意地をはって入学したものの、東京の一人暮らしに魅了されて、ぼくはそうそうに、語学の勉強はもちろん、大学に通うことも放棄してしまった。その当時は珍しくない話だけれど、けっきょく、大学4年間で授業は数えるほどしか出席していない。

傲慢さは、つねに愚かさの裏返しだ。

大学4年の夏を過ぎ、みんながスーツ姿に着替えて就職活動をするようになっても、ぼくはあいかわらずアルバイトと麻雀の日々を過ごしていた。もちろんつぎつぎと一流企業に内定を決めていく級友たちのことが気にならなかったわけではない。でもぼくは、自分の怠惰を正当化するために、彼らのことを無理矢理見下していた。

ドストエフスキーの『地下生活者の手記』やゴーゴリの『外套』から強い影響を受けていたぼくは、世の中の真実は社会の最底辺にしかないという奇怪な信念を抱いていた。有名企業のサラリーマンになれば安定した生活が手に入るかもしれないけれど、そのかわり彼らは、この世界のもっとも大切なものを知ることなく、小市民的な退屈な日常をえんえんと生きつづけるしかないのだと、本気で思っていたのだ。

その頃ぼくは、荻窪のボロい木造アパートに住んでいた。近くを環八(環状八号線)が走っていて、そこにドライブスルーを併設したマクドナルドの大きな店舗があった。

大学4年の秋から、ぼくはそこで掃除夫兼夜警のアルバイトをすることになった。夜の11時から翌朝6時まで、二人一組で厨房や客席、駐車場などを清掃しながら、暴走族の溜まり場にならないように管理するのが仕事だ。近所で時給が高く、どうせ昼夜逆転の生活なのだから、一石二鳥だと思ったのだ。

いまもむかしも、マクドナルドといえば“青春のアルバイト”の典型だ。更衣室には従業員の交換ノートが置かれ、高校生や大学生の女の子たちが丸文字でお互いの近況を報告しあっていた。壁には合コンの予定やテニス大会の案内がびっしりと貼ってあった。その華やかな世界は、ぼくたちにはまったく縁がなかった。ドブネズミのような夜間清掃人は、太陽の国の住人からは仲間だと思われていなかったのだ。

マクドナルドの仕事は激務で、店長は夜中の1時過ぎまでその日の帳簿をつけていた。その同じ店長が、朝の6時に鍵を受け取りに来るのだから、いったいいつ寝ているのだろうと不思議だった。

ある日、深夜3時頃に真っ赤なフェアレディZが駐車場に滑り込んできた。掃除の相棒がそれを見て、「あっ、カネコさんだ。カッコいいなあ」と感嘆の声をあげた(日産のフェアレディZは、その当時、圧倒的な人気を誇ったスポーツカーだ)。 カネコさんはスーパーバイザーで、担当地域の店舗を管理し、店長を教育する立場だった。

革ジャンにジーンズという軽装のカネコさんは、片手をあげて「ようっ」と挨拶すると、店内をざっと見渡した。革のブーツはぴかぴかに磨きあげられていて、文字盤がいくつもついた黄金色の時計をしていた。

帳簿を点検するカネコさんのテーブルに紙コップのコーラを持っていった相棒は、「あのひと、スゴいんだよ」と興奮気味に語った。「最年少のスーパーバイザーで、ものすごく仕事ができて、大金を稼いでいるんだよ」

店長より上位のスーパーバイザーは、アルバイトにとっては神さまのような存在だ。カネコさんは30歳前後で、青山か六本木の豪華なマンションに住み、年収は1000万円だと噂されていた。風呂なし共同トイレのぼくから見れば、想像を絶する身分であることは間違いない。

そのカネコさんと、いちどだけ話したことがある。12月の終わりで、正月のシフトを確認するために店に呼ばれたのだ。年末年始は学生バイトが減るためやりくりが大変で、そのかわり時給も高くなった。ぼくはなんの予定もなかったので、おカネを稼ぐ格好の機会だった。

たまたま店に来ていたカネコさんが、ぼくの履歴書を見て、「君、就職は?」と訊いた。就活の時期はとっくに終わっていたから、「なんの当てもないけど、卒業だけはするつもりです」とこたえた。漠然と、ウェイターでもやって暮らしていけばいいやと思っていたのだ。まったくの社会不適応者で、いまならネットカフェ難民一直線だ。

カネコさんは首をかしげてしばらく考えていたが、「君、うちに来る気はない?」といった。「特別に推薦してあげるよ」

ぼくはびっくりした。マクドナルドは当時も外食産業の花形で、社員はエリート中のエリートだった。それ以前に、今年の採用はすでに終わっているはずだった。

「そんなのなんとでもなるんだよ」カネコさんは、真っ白な歯を見せて笑った。「君みたいな世間知らずが、あんがい伸びるんだよ」

その話はけっきょくお断りしたのだけど(店長やカネコさんの仕事ぶりがあまりにハードでビビったのだ)、カネコさんは嫌な顔ひとつせず、「とにかくスーツを買いなよ」とアドバイスしてくれた。

「新聞の求人欄を見て面白そうな仕事があったら、面接に行って“一生懸命働きます”っていうんだよ。どうせ、君がなにもできないことくらいみんなわかってるんだからさ」

年明けからぼくはそのとおりのことをして、新橋にある小さな出版社に職を見つけた。