日本的雇用からブラック企業が生まれた 週刊プレイボーイ連載(85)

2008年12月末、東京・日比谷公園の一角に突如、巨大なテント村が姿を現わしました。

世界金融危機に端を発した景気後退で製造業を中心に多くの派遣社員が職を失い、社員寮からも追い出されてしまいました。彼らが路上で年を越すのは政府の責任だとして、NPO法人が厚生労働省の目の前に「年越し派遣村」を開設したのです。

これをきっかけに、マスメディアは派遣社員の過酷な労働環境を連日のように報道し、経済格差が大きな社会問題になっていきます。そこでの論調は、「派遣社員はかわいそうだから正社員にするべきだ」というものばかりでした。こうして、年功序列、終身雇用を理想とする“正社員神話”が蔓延していきます。

解雇がきびしく制限されている日本では、新卒で正社員として就職すれば定年までの約40年間「終身雇用」が保証されると考えられています。これは一見すると、労働者にとって法外に有利な契約です。だからこそ企業は派遣などの非正規雇用を増やそうとし、正社員の地位はますます稀少になって、宝くじに当たったように扱われることになります。

しかし、正社員が労働者にとって一方的に有利な契約なら、企業はなぜそんな不利な雇用形態をいまだに続けているのでしょうか? 正社員として採用するかどうかは企業の自由なのですから、全員を「非正規」にすることもできるはずです。

もちろん正社員で募集しないと優秀な人材が採れないからでしょうが、日本的雇用が生き残る理由はそれだけではありません。日本の会社は、終身雇用と引き換えに、正社員に対して絶対的な権力を持つことができるのです。

日本の裁判所は、解雇については労働者の味方ですが、転勤や配置転換などを不服とした訴えにはきわめて厳しい態度で臨みます。「生活の面倒を見てもらっているのだから、多少理不尽なことをされてもガマンしなさい」というわけです。最低賃金や有給など、法に定められた最低限の労働条件を満たしていれば、会社は正社員に対してどんな無理な要求をしても許されるのです。

ところがここ数年、会社と正社員のこの歪な関係を利用した新しいビジネスモデルが登場してきました。飲食やアパレルなど多数の働き手を必要とする業界で、新卒を大量に正社員で採用し、最低賃金とサービス残業で徹底的に酷使すれば、アルバイトを時給で雇うよりずっと人件費コストが安いことが発見されたのです。もちろんこんな労働条件ではみんな辞めていきますが、「正社員」に憧れる新卒はいくらでもいるので、翌年また大量に採用すればいいのです。

日本的雇用とは、会社と労働者との間で「生活保障」と「会社への従属」を交換することでした。しかしこれはたんなる慣習なので、正社員の形式さえ整っていれば、「会社への従属」だけを要求したとしてもなんの問題もないのです。

いまでは名だたる大企業でも社員が過労死したり、「追い出し部屋」で退職を強要されることが社会問題になっています。このようにして、うるわしき日本的雇用からブラック企業が誕生し、増殖していくのです。

参考文献:今野晴貴『ブラック企業 日本を食いつぶす妖怪』

 『週刊プレイボーイ』2013年2月5日発売号
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累進課税は才能への懲罰? 週刊プレイボーイ連載(84)

民主政治の本質はポピュリズムですが、それでもなんとかやっていけているのは、大衆受けのする政策はヒドい結果をもたらすだけ、ということが繰り返し証明されているからです。それも、日本だけでなく世界じゅうの国が同じような失敗をしているので、これを冷静に評価すると、なにをしてはいけないかがわかります。

フランスでは昨年5月、新自由主義的な改革を目指していたサルコジを破って、格差是正を掲げたオランドが大統領に就任しました。オランド政権は富裕層への所得税増税を選挙の公約にしていましたが、年収100万ユーロ(約1億1500万円)を超える個人の所得税率を40%から75%へと大幅に引き上げようとしたため大混乱を引き起こします。反発の大きさに驚いた新政権は増税を2年間の時限措置にすることで理解を得ようとしますが、高級ブランドを展開するモエヘネシー・ルイヴィトンの最高経営責任者(CEO)がベルギー国籍を申請するなど、富裕層の国外脱出が止まりません。

もっとも過激なのは、カンヌやヴェネチアの映画祭で男優賞に輝いたフランスを代表する映画俳優ジェラール・ドパルデューで、「フランス政府は成功を収めたひとや、才能があるひとを罰しようとしている」として、ロシアのプーチン大統領から直接パスポートを受け取ります。ドパルデューほどの有名人ならスイスやモナコの国籍を取得することも可能でしょうから、これはオランド政権に対する強烈な皮肉です。

ヨーロッパの知識層のあいだでは、19世紀の農奴制以来ロシアははもっとも遅れた国として扱われてきました。冷戦の終焉でロシアは民主化しましたが、プーチン大統領は実質的な独裁者だと思われています。だからこそドパルデューは、オランド大統領に対して「プーチンの方がずっとマシだ」といってみせたのです。

フランスは1789年のバスティーユ襲撃から始まる革命によって誕生した近代国家で、その国是は自由・平等・友愛の三色旗に象徴されています。ドパリュデューの外国籍取得は税金逃れのように見えますが、その批判はより根源的で、「平等とはなにか?」を問いかけています。

そもそも近代の理念は、人種や国籍、宗教、性別にかかわらずすべてのひとは平等に人権を有しているというもので、近代国家には国民を無差別に平等に扱うことが求められます。だからこそ、極端な累進課税で一部の富裕層を「差別」することは建国の理念に反する、という批判が出てくるのです。

オランド政権は、経済格差という不平等を正すために、所得によって国民を「差別」します。ところがEUのような移動の自由な社会でこうした政策を強行すると、国外に脱出することで課税を免れようとするひとたちが出てきます。それも日本と違ってヨーロッパは地続きで、モナコはもちろん、隣国のベルギーやスイスの一部でもフランス語が使われています。

その結果、富裕層に対する懲罰的な課税は国外脱出を誘発するだけだとして、福祉国家として知られるスウェーデンは相続税を廃止してしまいました。こうした国が増えてくれば、富裕層に重税を課す国には貧乏人しか残りません。

改革とは一種の社会実験ですから、フランスにおけるポピュリズムの行方を見れば、日本で同じ失敗をする愚を冒さずにすみます。もっとも、日本の国民や政治家にそれを学習する能力があれば、の話ですが。

 『週刊プレイボーイ』2013年1月28日発売号
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第25回 むかしも今も変わらぬ「幸福」(橘玲の世界は損得勘定)

正月明けに、天気が良かったので七福神めぐりをすることにした。いまや全国的に流行っているようだが、近隣の寺や神社に祀られている七福神をバスや徒歩で回って、専用の色紙に朱印を捺してもらうという趣向だ。いうなれば、ポケモンラリーの神様版である。

色紙の代金は2000円で、バス1日フリー参加券とちょっとしたお土産もついている。興味深いのは、「自分で色紙を用意した場合は御朱印代として各寺300円」という但し書きがあることだ。七福神すべてに押印すると2100円かかるから、専用色紙を買ったほうが得するようになっている。いまでは七福神めぐりも、市場原理に基づいて、コストとベネフィットが均衡するようにできているようだ。

けっきょく、バスは使わずに3時間ほどかけてすべての寺を歩いて回ったのだが、そのうちひとつの疑問が芽生えた。なんで同じような神様ばかりなのだろう?

私は宗教に疎いので、七福神というのは7つの幸福を叶えることだと思っていた。ところが寺社の説明書きを読むと、恵比寿、大黒天、布袋、弁財天は商売繁盛や財福を、福禄寿と寿老人は長寿を司り、毘沙門天だけが知恵の神様だ。

弁財天は琵琶を持つ女性の神様で、もとは音楽と芸能を得意とするヒンドゥー教の女神サラスヴァティーのことだ。そこで「弁才天」の字が当てられたのだが、それがいつのまにか才能が財福に置き換わって「弁財天」になり、霊水でお金を洗うと金持ちになれるという民間信仰と結びついて、銭洗い弁財天になったのだという。

大黒天もその出自はヒンドゥーの神様で、破壊の神シヴァの化身として「大いなる暗黒」を意味するマハーカーラ神のことだ。ところが「大黒」の音が「大国主命」と同じことから、両者が合体して、死と破壊をもたらす神が福々しいお金持ちの神様に変身してしまった。

毘沙門天は仏教の守護神・四天王の一人多聞天のことで、「よく聞く」ことから知恵を司るとされるが、その前身はヒンドゥーのクベーラ神で、地下に眠る財宝の守護神だ。

福禄寿と寿老人は中国の道教の神で、ともに「幸福(子宝に恵まれる)」「封禄(金持ちになる)」「長寿(健康で長生きする)」の3つの願い(三星)を体現している。

布袋は中国の伝説の仏僧で、太鼓腹で大きな袋を背負った姿で描かれたことから、福の神として信仰されることになった。

恵比寿は七福神のなかで唯一日本の神様で、もとは海神として豊漁を祈願された。それが転じて商売繁盛の神となり、広く信仰されるようになった。

こうやって七福神の由来を眺めると、古来ひとびとが何を求めてきたのかがよくわかる。

私たちがなによりも望むのはゆたかに暮らすことと、健康で長生きすること。それにささやかな知恵と、歌舞音曲があればいい。

むかしも今も、幸福の意味はなにひとつ変わっていないのだ。

橘玲の世界は損得勘定 Vol.25:『日経ヴェリタス』2013年1月20日号掲載
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