第42回 中国社会に根を張る朋友の絆(橘玲の世界は損得勘定)

飛行機が予定より2時間遅れ、中国・河南省の省都・鄭州の空港に着いたのは夜の8時を回っていた。到着ロビーに出ると、身なりのいい女性がさかんに手を振っている。外車ディーラーとして成功した潘さんの奥さんで、定刻の2時間前、夕方4時から空港で私たちを待っていたのだという。

駐車場で待機していたワゴンに乗り込むと、宮殿のようなレストランに案内された。個室では潘さんと親戚一同が待っていて、円卓には鄭州名産の珍味がずらりと並んでいる。

なぜこんな歓待を受けることになったかというと、今回の旅に通訳として同行してくれた張さんのお父さんが、潘さんの友人だからだ。しかしその接待は、上海の知り合いの娘が外国人を連れてやって来た、というレベルとはまったくちがう。

その翌日は鄭州郊外に行くことになっていたのだが、潘さんは「列車の切符はキャンセルすればいい」といって運転手付きの車を用意してくれた。その夜は潘夫人から地元で大人気の羊鍋の店に招待され、翌日は潘さんの車で少林寺を訪れたあと、空港まで送ってもらった。まさにVIPの扱いで、予約していたホテル代を除けば、鄭州滞在で1銭のお金も使わなかった。

張さんの説明によると、彼女のお父さんと潘さんは文革の頃に軍隊で出会い、苦労した仲だ。潘さんの息子が米国留学する際にビザの件でなんども上海に来る必要があり、そのとき張さんが世話したことから、今回はそのお返しだという。

彼らの話を聞いていて、中国人の人間関係がなんとなくわかった。

潘さんと張さんのお父さんは「朋友」だ。論語では「同門の友」の意味だが、その関係にいちばん近いのはヤクザの義兄弟だ。二人は軍隊で血よりも濃い契り結び、生涯の友となったのだ。
いったん朋友になれば、その誓いは言葉ではなく態度や行動で示さなければならない。

朋友やその家族が訪れたときは、自分にできる最高のもてなしをする。潘夫人が空港で4時間も待っていたのは、到着の時に迎えが来ていないという無礼が許されないからだ。歓待の席は地元で最高のレストランで、物見有山を含めあらゆる便宜を図る。それが、自分の思いがいまも変わらないという友への証しなのだ。

日本ではヤクザですら廃れてしまった古い人間関係が中国にはまだ残っている。これは彼らが、巨大な人口と流動性の高い社会に生きているからだろう。

いつ誰に裏切られるかわからない社会では、信用できる相手を見つけるためのさまざまな工夫が必要になる。華僑は同じ苗字を共有する宗族でつながっており、宗教結社や秘密結社も健在だ。だがそのなかでもっとも大切なのが朋友で、共に死地に赴くことを誓った彼らこそが最後の命綱なのだ。

中国でいう「関係(グワンシ)」とは、家族と朋友を中核とした人的ネットワークのことだ。豪華な河南料理や少林寺観光よりも、その一端が垣間見えたことがいちばん興味深かった。

橘玲の世界は損得勘定 Vol.42:『日経ヴェリタス』2014年6月1日号掲載
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「表現の自由」でエイズの似非科学を擁護した代償 週刊プレイボーイ連載(149)

「自分に甘く他人に厳しい」というのは人間の本性でしょうが、それが目に余るのは似非科学を振りかざすひとたちです。

彼らはまず、相手に対して厳密な証明を求め、すこしのミスも許しません。そして、自分の主張が非科学的だと批判されると「表現の自由」だと言い張ります。

似非科学が流布する背景には、それを支持する知識人(と呼ばれるひとたち)がいます。彼らは、あらゆる意見には発言の場が与えられるべきであり、国家権力がそれを制限するのは不当だといいます。

これは一見、正論のようですが、だとしたら「朝鮮人を殺せ」と叫ぶ集団の表現の自由も命がけで守らなければなりません。しかし彼らは、そんなことをする気はまったくないでしょう。「表現の自由」は、自分の気に入った意見にだけ適用されるのです。

マンガ『美味しんぼ』では、福島第一原発を取材した主人公の鼻血と放射能の関係が問題になりました。マンガを掲載した編集部は「ご批判とご意見」と題した特集を掲載しましたが、そこに似非科学擁護の典型を見ることができます。

長年、反原発の活動を続けてきた原子核工学の専門家は、「私は医者でも生物学者でもない」と断わりつつ、「現在までの科学的な知見では立証できないことであっても、可能性がないとは言えません」と述べます。また疫学の専門家は、「(放射線と鼻血のあいだに)『因果関係がある』という証明はあっても、『因果関係がない』という証明はされていません」として、福島の風評被害は『美味しんぼ』問題を過剰に煽ったせいだといいます。

こうした少数の擁護派を探してきて、「福島県内で被爆を原因とする鼻出血(鼻血)が起こることは絶対にありません」(放射線防護学の専門家)という正論(科学の常識)と並べれば、賛否両論を公平に扱っているように見えて「非科学的」との批判をごまかせるのです。

“トンデモ科学”はエンタテインメントとして楽しめますが、専門家(らしきひと)が似非科学を擁護するようになると被害はとめどもなく拡大します。

アメリカでは、「エイズの原因はHIVウイルスではない」という似非科学が問題になっています。その中心にいるのはトンデモ科学者ではなく、がん遺伝子の研究で大きな成果をあげ、米国科学アカデミー会員に選ばれた超一流の分子生物学者です。「エイズはドラッグの使用や貧困が原因だ」という彼の説は専門家にはまったく相手にされませんが、「異説を述べるのは表現の自由だ」と(自称)知識人が擁護し、「エイズはゲイや黒人を絶滅させるためにつくられた」という陰謀論と融合して広まっていきます。

エイズ否認主義に共感したのが南アフリカのムベキ大統領で、2000年の大統領エイズ諮問委員会に否認主義の学者を加えて、HIVウイルス説と「公平に」扱いました。その結果保健相は、抗レトロウイルス薬を毒物だとしてエイズ患者の治療に使うことを許可せず、似非科学がエイズ治療薬とするビタミン剤を勧めました。ムベキがエイズ否認主義に傾斜したのは無知だからではなく、「エイズはアフリカへの偏見だ」という(彼の考える)正義に合致していたからです。

南アフリカではいま、1日にほぼ800人がエイズで死亡し、1000人が新たにHIVに感染し、産婦人科を訪れた妊婦の3割がHIV検査で陽性と診断されています。これが、表現の自由を守って似非科学を擁護した代償なのです。

参考文献:セス・C・カリッチマン『エイズを弄ぶ人々』

『週刊プレイボーイ』2014年6月2日発売号
禁・無断転載

反原発派こそが似非科学を批判すべきだ 週刊プレイボーイ連載(148)

人気マンガ「美味しんぼ」の主人公・山岡士郎は、福島第一原発を訪れた後に鼻血を流します。実名で登場する被災地の前町長は、「私が思うに、福島に鼻血が出たり、ひどい疲労感で苦しむ人が大勢いるのは、被ばくしたからですよ」と断言します。これでは個人的な感想をもとに「福島にはもう住めない」といっているようなものですから、風評被害との抗議が殺到するのは当たり前です。

この騒動については、「表現の自由」として擁護する声もあります。これをどう考えればいいのでしょうか。

前提として、私たちの社会ではあらゆる主張に科学的データが求められるわけではありません。
「ふくらはぎをもめば長生きできる」という本が売れていますが、こうした健康本の多くはその効果が医学的に証明されているわけではありません。それでも社会問題にならないのは、みんなが1日5分ふくらはぎをもむようになってもさしたる悪影響がないからでしょう。

厚生労働省は薬事法によって、投薬などの効果を宣伝に使うことをきびしく制限しています。臨床実験もなく製薬会社が「がんの特効薬」を売り出せば大問題になりますが、その一方で、「キノコを食べたらがんが治った」というような情報が巷にあふれています。なぜこれが許されるかというと、それが(すくなくとも)体験的事実で、個人の体験を述べることは自由だからです。

キノコを食べたあとにがん細胞が消えたとしても、そこに因果関係があるかどうかを知るには膨大な実験が必要です。そんなことは個人には不可能ですから、厳密な証明を要求すると、私的な体験を公表することまで禁じてしまうのです。

しかしこれは、体験に基づけばどのような一般化も許される、ということではありません。

借金を踏み倒された相手がたまたまユダヤ人だったとしても、「すべてのユダヤ人はウソつきだ」と差別する理由にならないのはいうまでもありません。“キノコでがんが治った”ことを理由に「抗がん剤はいますぐやめなさい」と煽れば、それを信じた患者が適切な治療を放棄するかもしれません。そう考えれば、表現の自由にも社会的な許容範囲があることがわかります。

福島第一原発の事故現場では1日4000人もの作業員が復旧作業に従事しています。福島の住人に被ばくによる鼻血の症状が出ているのなら、放射線量の高い場所で作業する彼らの被害ははるかに深刻なはずですが、そのような事実は報じられていません。こうした明らかな矛盾に反論できなければ、似非科学といわれても仕方ないでしょう。

今回の事件で気になるのは、「国や東京電力を批判するためなら多少の行き過ぎも許される」という論調が一部にあることです。しかしこんなことでは、原発に反対する主張はすべて似非科学と見なされてしまいます。

「美味しんぼ」の描写は政府関係者をはじめ、原発推進の側から強く批判されています。それだからこそ反原発派は、動機を理由に似非科学を擁護するのではなく、より徹底して批判しなければならないのです。

『週刊プレイボーイ』2014年5月26日発売号
禁・無断転載