中米エルサルバドルは、マラスと呼ばれるギャング組織の抗争により、2015年には人口10万人あたりの殺人発生率が100件を超え「世界でもっとも危険な地域」と呼ばれていました。国際的には殺人発生率が10万人あたり10件を超えると「深刻な治安問題」とされますから、これは戦争が起きているのと同じで、住民が安心して暮らすのはとうてい不可能でした。
2019年に37歳でエルサルバドルの大統領に選出された起業家のナジブ・ブケレは、わずか3日間で一般市民87人がギャングに殺害される事件が起きると、全国に非常事態を宣言し、突貫工事でテロリスト拘禁センター(CECOT)を建設しました。
中南米のギャングには、顔や全身に刺青を彫って組織への忠誠を誓う文化があります。いったん刺青をいれると、組織を抜けたり、別の組織に所属を変えたりすることができなくなるのです。
ブケレはこれを利用して、刺青をしている者を令状なしで片っ端から逮捕し、開設から3年たらずで2万人をこの巨大刑務所に送り込みました。裁判も判決もないにもかかわらず、現在まで1人の釈放者もいないとされ、「事実上の終身刑」といわれています。
当然のことながらこの暴挙は、誤認逮捕や性的暴行を含む人権侵害として国際社会から強く批判されましたが、これをきっかけにエルサルバドルの犯罪率は大きく低下します。
ブケレが大統領に就任したとき10万人あたり36件だった殺人発生率は、25年末には1.3件と先進国並み(フランスとほぼ同じ。アメリカは5.8件)になり、治安は劇的に改善しました。
これを受けてブケレの支持率は9割を超え、プーチン(支持率65%)などを超えて、世界でもっとも人気のある指導者になりました。この世論調査の結果は、ブケレを批判する欧米の人権団体も認めています。エルサルバドルでは大統領の任期は1期5年に制限されていましたが、ブケレは圧倒的な支持を背景に憲法解釈を変更して24年に再選され、その後、憲法を改正して長期政権を可能にしました。
中南米の国はどこも麻薬の利権をめぐって争うギャングの抗争で治安が悪化し、メキシコでは2014年に、教員養成学校の学生約100人が乗った長距離バスが武装勢力に襲撃され、43人の学生が連行され、そのまま行方不明になるという衝撃的な事件が起きました。しかしこれは氷山の一角で、戦闘員を確保するための若い男性の誘拐が日常的に起きているのです。
ブケレの「実験」は、民主国家の失敗を強権によって解決したとして、移民問題に悩むトランプや、イーロン・マスクなどのテック右派から熱烈に支持されています。この「成功」を見て、コスタリカなど近隣諸国も巨大監獄を建設しはじめました。
日本のメディアの取材に、エルサルバドルの首都サンサルバドルに住む女性は、「以前は危険過ぎて夜に外出しようなどとは夢にも思わなかった。今は夜も外に出られる。それがすべてよ」と話しています。
エルサルバドルは、治安・安全とリベラルの理念(自由・人権)が衝突したとき、なにを優先すべきなのかという重い問いを突きつけているのです。
参考:「エルサルバドル、殺人発生率が急減 ブケレ大統領独裁は安全の代償か」日本経済新聞2026年1月17日
『週刊プレイボーイ』2026年7月13日発売号 禁・無断転載