ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなったので、このブログで再掲載していくことにします。
今回は2013年5月公開の記事です。(一部改変)
当時は本人の許可を得て実名にしましたが、それからかなり時間がたっているので、入居者はイニシャルに変えました。
その後の10年で状況は様変わりし、いまでは円安で外国人が日本に長期滞在するようになりましたが、以前はこうだったという記録として載せておきます。

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「海外で年金生活」が話題を集めた時期があった。といっても、過去形にするのは間違っている。海外での長期滞在を支援するロングステイ財団が主催するセミナーや相談会はリタイアした団塊の世代でいつも満席で、ロングステイヤー(海外長期滞在者)の生活を取材する雑誌記事やテレビ番組も頻繁に目にする。
だが海外生活への関心は、時代とともに少しずつ変わってきている。
第一次のブームは1997年の金融不安の頃で、「日本の財政はいずれ破綻し円は紙くずになるのだから、日本を脱出して海外で余生を過ごすしかない」と考えるひとたちが現われた。私もこうした最初期の海外脱出組を何人か知っているが、けっきょく日本に帰ってきたひともいれば、現地で家族をつくり根を下ろしたひともいる。
その後、2000年のインターネットバブル崩壊後の円高で、日本とアジアの国々の物価のちがいを利用して年金を有効活用しようと、海を渡る高齢者が増えてきた。タイやマレーシアが長期滞在の定番だが、フィリピンに向かう独身男性もいて、10年を経て「困窮邦人」が大きな問題になってきたことはすでに述べた。
2008年のリーマンショック後の“超円高”によって、リタイアした団塊の世代の関心がふたたび海外に向かった。しかし最近は、年金を頼りに海外に永住するというよりも、日本を生活の拠点としつつ、夏や冬の時期だけ海外の別荘(セカンドハウス)にショートステイするひとたちが増えているという。
こうした傾向は、社会の高齢化が進んだことで富裕な高齢者の絶対数が増えたことと、日本経済が長いデフレに苦しんだ結果、もはやアジアで暮らすことが「割安」ではなくなったことから説明できる。
もちろんいまでもアジアのほとんどの国は日本より貧しいが、バンコクやクアラルンプールといった大都市で外国人向けのコンドミニアムに暮らし、日本料理店に通ったり、日本の食材を定期的に購入すれば、日本よりもずっと生活コストが高くなってしまう。アベノミクスで円安が進んだため、現地通貨で換算した年金が目減りして悲鳴をあげている退職者は多い。
こうしていつのまにか、生活防衛のための海外生活は、富裕な高齢者の「第二の青春」へと変わっていった。
しかし元気な高齢者も、10年後、20年後には介護の問題を抱えることになる。高齢者の増加と社会保障費の膨張を考えれば、そのときに日本の介護保険や医療保険制度が現在のまま維持できるとは限らない。
このようにして、海外で日本人の高齢者に介護サービスを提供するビジネスが模索されるようになった。
スービックの日本人向け介護施設
衛兵の詰所のようなゲートをくぐると、整然とした工業団地が見えてくる。そこを抜ければあとは熱帯雨林の森が広がり、ゴルフ場の先にアーリーアメリカン調の平屋の住宅が並んでいる。芝生の前庭から道路標識まで、なにもかもアメリカ郊外の住宅地にそっくりだが、それもそのはずで、ここはかつて米軍の将校宿舎だった。
米国の戦略転換にともない、1992年、アジア最大規模を誇ったスービック海軍基地とクラーク空軍基地がフィリピンに返還された。マニラの北西100キロ、天然の良港であるスービック湾に面した一帯はその後、経済特別区として開発されることになる。
この地域の最大の特徴は、旧米軍基地のインフラをそのまま利用できることだ。7カ所のゲートを除けば敷地は外界から隔離されていて、関係者以外は立ち入ることができない。その治安の良さは、昼間、どの家も玄関ドアを大きく開け放ち、風通しをよくしていることからもわかる。殺人や強盗が頻繁に報じられるマニラ市街と比べれば、のどかな生活はまるで別世界だ。
トロピカル・パラダイス・ヴィレッジ(TPV)は、スービックの旧将校宿舎27戸を改築した介護付有料老人ホームだ。創設者はN.T.トータルケア社(大阪)の高橋信行社長で、フィリピンで従業員1400人を超える電子部品工場を経営するかたわら、2003年、日本語を話すフィリピン人介護士を養成し、人手不足に悩む日本の老人介護施設に派遣する事業に乗り出した。ヴィレッジは、研修生たちの教育・実習の場でもある。
2010年の夏に私がはじめてヴィレッジを訪れた時は、3組の永住者がここで暮らしていた。
2005年に日本から移住したのは高橋社長の両親で、父親のSさんは当時99歳、母親のIさんは88歳だった。Sさんは2010年12月に天寿を全うされたが、Iさんは90歳を超えても健在で、日々の食事も自分でつくっている。
M・Uさん(86歳)は、2006年にこの地に移ってきた。精神科医だった夫がフィリピン人看護師の日本への派遣に尽力したのが縁で、引退後に夫婦でマニラに渡ることになり、高橋社長の勧めもあり、終の棲家をスービックに定めたのだ。広島で被爆した夫には、気温が下がると喘息をひき起こす後遺症があり、それも熱帯の地への移住を決意した理由だったという。
『死ぬ瞬間』などの著作で知られる米国の精神科医エリザベス・キューブラー=ロスは、ひとはいかに死を受け入れるのかを考察し、ターミナルケア(終末介護)への道を拓いた。M・Uさんの夫はキューブラー=ロスと親交が深く、「死の受容」の哲学を日本に紹介した。肺がんの転移で脳と肝臓を侵されたあとはいっさいの延命治療を断り、2008年、ヴィレッジの自宅で静かに息を引き取った(享年80)M・Uさんは、趣味人だった夫が自ら焼いた陶芸品に囲まれて、この地で穏やかな日々を過ごしている。
ヴィレッジを長期で利用する場合、1年のリースで介護費用込みの利用料は146万円(月額約12万1600円)、10年リースでは1000万円(同約8万3000円)。これに管理費2万5000円と食費や光熱費が加わるから、毎月の生活費は20万円程度になる。特別な介護が必要な場合は別途料金が加算されるが、それでも日本で介護保険適用外のサービスを受けるよりはるかに安いだろう。
ヴィレッジの3組目の住人は、その年の8月に入居したばかりのF・Wさん(当時91歳)だった。彼女は前年12月に末期の肺がんと診断され、もはや治療の方途はないと退院を促された。
大正生まれのF・Wさんは外国大使館や外資系企業で長く働き、流暢に英語を話すモダンガールだった。60歳を過ぎてからも行動力は衰えず、家族を日本に残して世界じゅうを旅して回った。
自宅で療養生活を始めたF・Wさんさんにとって、ホームヘルパーに子供扱いされるのは耐え難い屈辱だった。一人娘のKさんは母とヘルパーとのトラブルに翻弄され、一時は仕事を辞めることまで真剣に考えたという。
そんなときF・Wさんが、「もう日本はいいから、どうせなら最後は大好きな海外で暮らしたい」と言い出した。そこで親子でヴィレッジを訪ね、Fさんはそのまま2カ月ほど体験入居した。
いったん日本に帰ったものの、8月に入ると病状が悪化し、予定を早めてフィリピンに渡ることを決意。医師からは「生きてマニラ空港に降りられる保証はない」と言われたが、片道航空券で日本を後にした。
ヴィレッジでは3人の若い介護士が交代で24時間付き添い、日本人看護師が容態を確認し、週に1、2回医師の往診も受けていた。私が訪れた時は、唯一の不満は新鮮な刺身が食べられないことだけだと元気な様子だったが、それから1カ月半後、安らかに息を引き取った。
現在のヴィレッジの責任者はT・Kさん(65歳)だ。
T・Kさんは大学卒業後、ずっと海外のホテル・旅行業界でキャリアを積み、最後の仕事はシャングリ・ラ ホテルズ&リゾーツの日本地区統括副社長として東京・丸の内のシャングリ・ラ ホテルの開業を指揮することだった。
引退後、腹部に動脈瘤が見つかり、その手術で下半身が完全に麻痺してしまう。車椅子生活を余儀なくされたT・Kさんに、シンガポールのシャングリ・ラ ホテル勤務時代からの友人だった高橋社長が声をかけ、TPVの責任者に就任することになった。今はヴィレッジの経営者(“熱帯楽園村”の村長)でありつつ、同時に介護サービスを受ける立場でもある。
ヴィレッジの新しい住人はY・Mさん(79歳)で、夫の死後、軽井沢の別荘で暮らしていたが、雑誌の記事を読んでヴィレッジを訪れ、そのまま気に入って愛犬のプードルとともに2011年に移住してきた。はじめての海外生活だが、スタッフはみな親切で、日本のいたときよりも毎日がずっと充実しているという。
海外で人生を終えるハードルは高い
フィリピン最大の産業は海外への出稼ぎで、半年の講習と2カ月程度の実習で資格を取得できる介護士が人気を集めている。大卒のフィリピン人はふつうに英語を話すから、言葉の問題がなく、永住権や市民権が取れるアメリカやカナダが彼らの第一目標だ。
しかし最近では、欧米諸国も外国人介護士の受入れを制限しはじめており、フィリピン国内には仕事のない介護士があふれている。派遣会社に依頼しても、その費用は1日8時間勤務で月額7000ペソ(約1万8000円)程度だ。プライベートナースも可能で、月額1万5000ペソ(約3万8000円)も出せばいくらでも応募が来る。月10万円で、自宅で24時間完全看護(介護)が実現するのだ(個人の伝手で探せばもっと安くなる)。
それに対して、日本の介護施設はどこも人手不足に悩んでいる。特別養護老人ホームの待機者は全国で40万人を超え、有料老人ホームに入るには3000万円ちかい入居一時金が必要だ。こうした現状を見れば、フィリピンに日本人高齢者のための介護施設をつくることにビジネスチャンスを見出す起業家が登場するのは当然だろう。
しかし現時点では、こうしたビジネスはどれも厚い壁にぶつかっている。
フィリピンの老人ホームの草分けとされ、一時期は新聞やテレビでもたびたび紹介されたローズ・プリンセス・ホームは、経営の混乱で日本人職員が全員退職してしまい、いまは日本語を話せない介護士しかいない(昨年12月にはNHK「追跡!真相ファイル」でその実情が取材された)。現在、日本人を受け入れている老人介護施設はTPVを含め数箇所しかなく、いずれも日本人入居者は数名だ。そのうちもっとも規模の大きいTPVでも、すでに述べたように、入居者のほとんどは関係者だ。
ヴィレッジの創設者であるN.T.トータルケア社の高橋社長は、海外での介護事業の難しさをこう述べる。
「ほとんどの方は元気なうちに施設を見学に来て、いずれお世話になりますと言って帰っていきます。実際に介護が必要になっても、家族の反対などでなかなか決心がつきません。逆に若年性認知症など、こちら側で受入れが困難なケースもありました」
海外の介護施設は、介護保険の適用外だ。日本では莫大な自己負担が必要な24時間完全看護・介護がフィリピンでは低料金で実現できるとしても、それを活かせる機会は限られている。人生の最後を海外で終える決心をするハードルは高く、家族の反対もあり、ほとんどのひとが諦めてしまう。
フィリピンから日本に介護士・看護師を送り出す
2006年にEPA(経済連携協定)が締結され、フィリピンやインドネシアから看護師・介護士を受け入れることが決まると、N.T.トータルケア社はフィリピン人介護士の育成業務に進出し、現在はTPVを研修施設として活用している。
日本の施設で働く外国人介護士は、給与など日本人と同等の労働条件を保障されるものの、3年後に介護福祉士の試験に合格することが継続滞在の条件とされている(その後、一定の条件を満たせば在留期間が1年延長されることになった)。
日本語のほとんど話せない外国人介護士を受け入れて一人前に仕事ができるまで育てても、試験に合格しなければ帰国させなければならず、日本側の受入施設の負担は大きい。そのためN.T.トータルケア社では、フィリピンで看護師資格を持つ優秀な人材を採用し、マニラで1年間日本語を教えた後、TPVで1年間の実習を行ない、日本へと送り出しているのだ。
その結果、介護士試験の合格率は80%(これまで5名受験4名合格)と平均の38%を大きく上回っている。また2010年に来日したフィリピン看護師候補者33名のうち、今年の看護師試験の唯一の合格者も同社の卒業生だった。
今後10年間で、団塊の世代が本格的に医療・介護保険を利用するようになる。特別養護老人ホームは現在ですら入居希望者が列をなしているのだから、早晩、人も施設も足りなくなることは明白だ。介護現場にいるひとたちは、「このままでは認知症の高齢者が街を徘徊するようになる」と真顔で語る。
日本は世界のなかでも“排外的”な国家で、移民を極端に嫌っている。その一方で、少子高齢化は日本の避けられない運命だ。
その現実に目を逸らすことなく、海外の若い労働力を活用する以外に、高齢者の医療・介護問題を解決する方途はない。もしそれが無理だというのなら、あとは1人ひとりが自力で金融資産を増やしていくしかないのかもしれない。
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