10月25日発売の『鬼畜 青山正明』で、ライターの五庵保典さにインタビューしていただきました。表紙とカバー裏に掲載されていますが、せっかくの機会なので、出版社の許可を得てその全文をアップします。
青山正明さんとは編集者時代におつき合いがあり、何冊か本をつくりました。1990年代はじめの出版業界についても語っています。
『突然変異』で知った、青山正明という才能
─橘さんが青山正明さんを知ったのは、どんなきっかけだったのでしょうか。
◉最初は『突然変異』です。私がギャル雑誌をやっていた23、24歳の頃に見て、「すごい才能だな」と思いました。同人誌なのに洗練された誌面作りで、椎名誠に決闘を申し込むみたいなことも仕掛ける、その感じも含めてね。当時のアンダーグラウンドカルチャーの中でも突出していたんじゃないですか。その後も雑誌などで青山さんの文章を見つけたら、読むようになりました。
─実際に会ったのは、特殊旅行雑誌『エキセントリック』(全英出版)の頃ですか。
◉はい。私が別冊宝島(当時、JICC出版局)の編集者で、東京公司の事務所を訪ねたんです。一番町のマンションにあった頃ですね。なぜ会いに行ったのかは、もうはっきり覚えていないんですけど、青山さんから、『エキセントリック』が廃刊になるという話を聞きました。
─その出会いがヒット企画、別冊宝島の『タイ読本』(JICC出版局)につながったんですね。
◉せっかく海外取材をしたのだから、その経験を生かしてタイの裏情報のムックを作りたいと青山さんから提案があって、それが『タイ読本』になりました。そこから仕事のつきあいが始まり、ドラッグを扱った別冊宝島の『気持ちいいクスリ』などにつながっていきました。ただ、青山さんと二人で一冊を最初から最後まで作ったというより、東京公司のチームに仕事を頼む感覚でしたね。
─東京公司は、実際にはどのような集団だったのでしょうか。
◉会社というより、青山さんを中心に面白い人たちが集まった編集チームに近かったですね。青山さんは、編集の実務を黙々と進めるタイプではなかった。面白いことを見つけてアイデアを出す力は圧倒的にある。でも、自分で全部を仕切って、締め切りまで管理するのはあまり得意ではないので、吉永嘉明さんたちが動いて、企画を実際の本にしていく。青山さんが発想の核で、周囲の人たちがそれを形にすることで、東京公司は成り立っていたと思います。
─橘さんが、仕事で直接やり取りすることが多かったのは吉永さんでしたか。
◉そうですね。吉永さんはこちらが「こういう本を作りたい」と言うと、「だったら、いい人を知っていますよ」と連れてくるんです。普通の出版社の人脈では出会えない人を知っていて、しかも、その人が何をできるのかもわかっている。青山さんが面白いテーマや方向を示し、吉永さんが人を探して編集実務につないでいく。東京公司の強さは、その組み合わせにあったんじゃないでしょうか。
吉永嘉明が連れてきた、SPI問題を作る人
─吉永さんの編集能力が発揮された仕事にはどんなものがありましたか。
◉印象深いのは「SPI攻略本」シリーズですね。当時、就職試験でリクルートのSPI(総合適性検査)が広く使われていましたが、それがどのようなものか、一般にはほとんど知られていなかったんです。そこで吉永さんが、受験情報誌をやっていた頃の知り合いで、試験問題の攻略をやらせたら右に出る者はいないという人を連れてきたんです。それが、今では試験問題研究家として有名になった津田秀樹[つだひでき]さんでした。
─問題をそのまま転載するのではなく、本のために新しく作ったのですね。
◉最初はSPIの問題を本に転載したのですが、リクルートから著作権侵害で訴えらえてしまったので(笑)。それは和解ですんだんですけど、同じことはできないので、津田さんに出題の傾向やパターンを分析して、練習できる問題を一から作ってもらいました。それなら解説も付けられるし、問題集としての完成度も上げられるだろうと。
◉こうしてできたのが『適性検査SPI完全攻略本』で、最初の本は著者が別の方になっていますが、問題作成はすべて津田さんです。これがすごく売れたので、それ以降は津田さんの著作としてシリーズ化し、さまざまな試験攻略本を出すようになっていきます。吉永さんは、独自のネットワークで必要な能力を持っている人を探し出すことができた。編集者としてとても重要な才能ですよね。
─実用書のSPI攻略本と、東京公司のサブカルチャー的な仕事は、一見すると離れているようにも見えます。
◉吉永さんにはサブカルチャーの本を作りたいという気はあまりなくて、もっとビジネスライクに、自分の人脈を使って面白そうな企画をやってみる、という感じだったように思います。そもそも就活の本を作るというのも、学生援護会(パーソルキャリアの前身のひとつ)に面白い人がいるからと紹介されて、そこから始まった話ですし。『タイ読本』も、青山さんの企画を形にするために、自分は裏方で構わないというスタンスだったんじゃないでしょうか。
―悪名高き東京公司との仕事ですから、何かトラブルになったことはありますか?
◉たいしたことではないですが、『タイ読本』に青山さんの書いた記事で抗議が来たことがありました。タイ、ミャンマー、ラオスがメコン川で接する一帯がゴールデン・トライアングルですが、当時、タイのチェンライからメコン川を渡った対岸にミャンマー領の中洲[なかす]があって、そこをカジノとして開発する計画が進んでいたんです。タイの大手財閥が主導する事業ですが、バブル期の海外リゾート開発事業の流れで日本企業も関わっていた。それを青山さんがコラムで、「世界最大の麻薬地帯に進出しようとしているのだから、この企業も裏社会とつながっているにちがいない」と書いたんです。
◉そうしたら、その会社から「自分たちはまっとうな事業をしているのに、ヤクザと同列に扱うのは何事だ」と抗議があったんです。青山さんに聞いたら、とくに裏づけがあるわけではないということだったので、私が謝りにいきました。
◉たしか六本木か西麻布の洒落たビルに入っていて、受付にはキャバ嬢のような派手な女性がいる会社で、出てくる人もどう見ても怪しいんですが、根拠がある記事ではないので、「ミャンマーの経済復興を支援するための事業で、自分たちは貧しい国の復興を手助けしている」という話を神妙な顔で拝聴しました。向こうも弱小出版社を相手にしても仕方ないと思ったのか、謝罪文を渡すだけですみましたが。
◉その後、その会社はやはり大きな暴力団のフロント企業だったという話を聞きました。結局、事業資金を集めることができずに頓挫したようです。ゴールデン・トライアングルのそのカジノはいちおう開業して、2010年頃に旅行で訪れて、小説『タックスヘイヴン』(幻冬舎文庫)の舞台に使いました。
─それ以外には何かトラブルはありましたか?
◉それほど深刻なものはないです。青山さんも吉永さんも、もともと慎重なタイプなので。ただ、『タイ読本』の次に作った、別冊宝島の『裏ハワイ読本』で、吉永さんが担当した記事について、自分の文章が盗用されているという抗議が来たことがありました。読んでみると、たしかに瓜二[うりふた]つです。
◉でも吉永さんに聞いてみると、その人の本は知らないという。それでネタ本を教えてもらったら、そこにまったく同じ文章が載っている。ようするにライターと抗議してきたその人は、同じネタ本から文章を書き写していたわけです。
◉そのことを本人に伝えたら電話で激怒されましたが、はっきりと「あなたの文章を盗用したわけではない」と突っぱねました。あまりほめられたことではありませんが、当時は、翻訳本や古い本であれば、引用だと明示せずに使うことがけっこう行われていたんです。
◉青山さんたちとはドラッグの本も作りましたが(別冊宝島『気持ちいいクスリ』)、そういうときは、こちらも気を使っているので問題は起きないんです。ささいなコラムとか、書き写しても文句は来ないだろうという記述が、思いがけないトラブルになる。といっても、大きな問題にならなかったので、どちらも今となっては懐かしい思い出ですけど。
「訴えられる企画はないの」と言われた時代
─『SPI攻略本』はリクルートから著作権侵害で訴えられたとのことですが、橘さんがいた頃の宝島社は、裁判になってもとくに問題のない会社だったのでしょうか。
◉創業社長をはじめ、幹部全員が学生運動の活動家出身ですからね(笑)。新興宗教団体から訴えられたり、地方の私立学校から出版差し止め訴訟を起こされたり、いろいろありましたが、それで叱られたことはないです。そればかりか営業部長から、「最近、何か面白いことないの」「裁判で訴えられるような企画はないの」と言われましたから。訴えられると話題になって、本が売れると思ってるんです。今考えると、とんでもない話ですけど(笑)。
─若い編集者にとっては、やりやすい環境だったのですね。
◉企画については、どんなことでもやらせてもらえました。1980年代は、社長は海外事業や映画に夢中で、出版部門はそれなりの利益を出していさえすれば、あまり関心がなかったんじゃないでしょうか。予算はないけれど自由はある。大手出版社と同じような本を作っても勝負にならないから、他が手を出さないようなニッチを見つけて、できるだけ目立つことをやろうとする。結果的にそれで本が売れたので、トラブルを気にしていてもしょうがないという雰囲気でした。今と違ってSNSで炎上することもないし、いいか悪いかは別として、名誉毀損で訴えられて敗訴しても、支払うのは微々たる金額というのもあったと思います。
─そうした姿勢だと、大きな問題も起きたでしょうね。
◉私が直接関わっていたわけではないのですが、もっとも大きなトラブルは、『宝島30』という雑誌に皇室の内幕を暴露する記事を掲載して、右翼から会社に銃弾を撃ち込まれたことですね。同時に文藝春秋の社長宅も銃撃されたので大きな事件になったのですが、そのときは、会社に行ったらシャッターに穴が開いていて、警察がたくさん集まっていて、「いったい何が起きたんだろう」という感じでした。
◉でも、誰かが撃たれたわけではないので、あまり深刻には考えていなかったですね。突然、日本中から注目されて面白いというか(笑)。みんな若かったので、映画かドラマの話のようで、銃撃ということをリアルに感じられなかったんです。上の人たちは大変だったみたいですが。
─自由だったというより、危険の大きさを理解していなかったのでしょうか。
◉その方が近いと思います。何をやっても許された理想的な時代だった、という話ではないんです。若い編集者には社会の常識がなく、会社にも明確なルールがなかった。出版業界にもまだ余裕があったから、バカげた失敗も笑い話になった。そもそも出版なんて、一部の大手を除けば、ドロップアウトした人間の集まりですから。自由と無知、勢いと危うさが、全部一緒にあったんだと思います。
─ムチャな企画を成立させるために、編集者がライターの原稿に深く手を入れることも多かったのでしょうか。
◉別冊宝島は毎回テーマが違うので、政治家、大学教授からヤクザや風俗嬢まで、いろんな人に会うことができた。有名な著者から原稿をもらえば終わりではなく、まず取材できる相手を探して、話を聞かせてもらう。そうしてできてきた原稿が特集の意図と合わなければ、編集者が書き直していました。私もムックの原稿の8割くらいリライトしたことがありましたが、それが当たり前でしたね。編集者が「こういう本を作りたい」というビジョンを持っているんだから、原稿はそれに合うように直せばいい、という発想です。
─その経験は、現在の作家活動にもつながっていますか。
◉はい。私はいちおう「作家」を名乗っていますが、自分の感覚としては「橘玲というキャラクターを編集している」に近い。興味のあることを調べ、橘玲というキャラをどのように使えば、読者にいちばん届くかを考える。別冊宝島で身につけた編集者の発想は、今も変わっていません。
─自由な出版界の空気が変わったのは、いつ頃からでしょうか。
◉1995年頃でしょうね。バブルが崩壊し、サブカルチャーのブームも終わって、本の売り上げも落ちていった。サブカル雑誌だった『宝島』はヘアヌード雑誌になり、それまで自分たちは若者文化の最先端だと思っていた編集者にとっては大きな転換でした。会社は「文化」よりも「儲かるかどうか」を優先するようになり、ストリートファッション誌を主体に復活しますから、経営としては正しいんだけど、私はもういいかなと思いました。
『危ない1号』のヒットで、可能性が閉ざされた
─1995年には『危ない1号』が創刊され、青山さんは「鬼畜系」の中心人物として知られるようになります。橘さんは、その現場を近くで見ていたのでしょうか。
◉いや、その頃は『宝島30』の編集長で、1995年にオウム真理教事件があり、その取材で手いっぱいだったので、吉永さんたちから話は聞いていたものの、『危ない1号』の現場を見ていたわけではないです。
◉『宝島30』は「オウムを擁護している」と叩かれましたが、それによって山梨県のサティアンや南青山(東京・港区)の教団本部を訪れ、信者や幹部に直接、話を聞くという、編集者としてめったにない経験をすることができました。それを半年くらいやって、「自分の編集者人生で、これ以上の出来事はもうないだろう」と思いました。私にとっては、オウム事件が一つの時代の終わりになっています。
─同じ1995年に、橘さんはオウム事件を追い、青山さんは『危ない1号』で注目を集めたのですね。
◉そうですね。お互いの場所は少し離れていますが、どちらも1990年代前半までのサブカルチャーが、ひとつの極点に達したということだったのかもしれません。オウム事件によって、それまで面白がっていた精神世界の危うさが、現実の犯罪として突きつけられた。一方で『危ない1号』は、タブーを破る表現をさらに先に進めた。同じ時代の終わりに対して、別々の方向へ進んだようにも思えます。
─青山さんの私生活やドラッグ仲間についても、ある程度は知っていたのですか。
◉噂は聞いていましたけど、私生活はほとんど知りませんでした。私はあくまで仕事を通して青山さんを見ていたし、少し距離もあった。だから話せるのは、自分が一緒に仕事をしたときのことと、周囲の人から聞いたことです。この区別はしておいた方がいいと思います。
─仕事で見ていた橘さんには、「鬼畜系」という呼び方はどう映りましたか。
◉青山さんは、最初から「鬼畜系のカリスマ」になろうとしたわけではなかったと思うんです。ドラッグ、精神世界だけでなく、トランスミュージックから現代思想、能科学まで、関心の領域はものすごく広かった。ところがドラッグ関係の本が売れ、『危ない1号』が人気になると、周囲は「過激で狂った青山正明」を期待するようになる。それについて本人から聞いたことがあるわけではないですが、半ば「鬼畜」を演じながら、そのキャラクターから逃れたいという気持ちもあったんじゃないでしょうか。
─晩年は、精神世界への関心が強くなっていたのでしょうか。
◉そういう話はしていました。ドラッグと精神世界は、意識を変えるという点ではつながっていますから、青山さんのなかでは突然の方向転換ではなかったのでしょう。ただ、「鬼畜系」のイメージがあまりに強すぎて、一種のカルトヒーローになったことで、次のテーマに移る足場を作りにくくなった面はあったと思います。
─あり余る才能を、作品として形にし続ける難しさもあったのでしょうね。
◉そうですね。青山さんは、面白いことを見つけて、そのアイデアを膨らませる才能はものすごくあったんですが、それをなかなか書こうとしない。編集者の間でも、「話は面白いのに本にならない」著者が話題になることがありますが、正直、そういうところはあったのかなと思います。完璧主義なのかもしれないし、目の病気で失明するんじゃないかと気にしていた時期もありました。
─東京公司の崩壊過程について、橘さんが憶えていることはありますか。
◉東京公司を離れるとき、メンバーの一人が挨拶に来たことがあります。青山さんの妄想がひどくなったので、「これ以上、一緒にいるのは怖い」という話でした。薬物との関係はわかりませんが、その頃からあまりいい話を聞かなくなりました。青山さんがアイデアを出し、まわりが動くことで成り立っていた集団だから、人間関係が崩れると制作の仕組みそのものも動かなくなる。あの頃から、東京公司は少しずつ壊れていったんだと思います。
「鬼畜系」だけで、青山を説明できない
─青山さんが亡くなったのは2001年です。橘さんが作家として独立していく時期とも重なります。
◉青山さんが亡くなった翌年に『マネーロンダリング』(幻冬舎)で作家デビューしました。私にとっては、編集者としての時代が終わり、別の生き方に移った時期と重なっています。その意味で、青山さんの死はすごく象徴的でした。
─さまざまな書き手や編集者に会った橘さんから見ても、青山さんは特別な存在でしたか。
◉とても魅力的でした。話し始めると発想が次々に出てきて、まわりを夢中にさせる。編集者として見れば、これだけの素材があれば、いくらでも本ができると思う。でも、才能があることと、その才能を安定して作品に変え続けることは別の能力です。青山さんの場合は、本人の発想だけでなく、それを受け取って動く人たちまで含めて、一つの編集システムになっていた。そこが面白さであり、難しさでもあったのでしょうね。
─今、若い世代が「鬼畜系」を研究したり、同人誌を作ったりしています。同じ時代を生きた者として、どこに目を向けてほしいですか。
◉刺激の強い誌面だけを見れば、1990年代の鬼畜系は文化として面白いでしょう。でも「鬼畜系」という言葉だけで青山さんを理解すると、彼が持っていた好奇心の広さや、みんなを巻き込んで場を作る力が抜け落ちてしまう。『突然変異』から『タイ読本』、東京公司の仕事、ドラッグ、精神世界まで、青山さんはいくつもの可能性を持っていたと思います。
─青山正明を語るうえで重要なことは何でしょうか。
◉過激なものを作った人、というだけで終わらせないことじゃないですか。青山さんが何を面白いと思い、それをどう話し、誰が動いて本になったのか。吉永さんたちも含めた人間関係や編集の仕組みまで見ないと、あの時代に青山さんのような人物がなぜ現れたのかはわからない。刺激の強い誌面だけを並べると、青山さんを大きく扱っているようで、かえって矮小化してしまう。作品だけでなく、それが生まれ、商業出版として成立するまでの過程も記録して初めて、青山正明と1990年代の出版文化の全体像に近づけるんじゃないでしょうか。
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