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ホロコーストを否定する「歴史修正主義」の歴史
ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載していくことにします。
今回は2018年11月公開の記事です。(一部改変)

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アメリカのホロコースト研究者デボラ・E・リップシュタットは、ホロコースト否定論者の系譜を研究した『ホロコーストの真実 大量虐殺否定者たちの嘘ともくろみ』(滝川義人訳/恒友出版)でイギリスの歴史家、デイヴィッド・アーヴィングの名誉を棄損したとして訴えられ、4年に及ぶ裁判闘争を余儀なくされた。その顛末を描いた映画『否定と肯定』については前回書いた。
リップシュタットが歴史家として注目されたのはホロコーストを研究したからではなく(これはユダヤ人を中心に多くの学者がいる)、ホロコースト否認を歴史学のテーマとして取り上げたからだ(こちらは研究者がほとんどいない)。
1993年4月、アメリカ、ワシントンD.C.のホロコースト記念博物館開館に合わせて行なわれた世論調査で、「ホロコーストが起きなかったという話はあり得るか」との質問に、アメリカの成人の22%、高校生の20%が「イエス」とこたえた。同時期のギャロップの世論調査では、成人の38%、高校生の53%が、ホロコーストの意味をまったく知らないか、あいまいにしか説明できず、成人の22%、高校生の24%が、ドイツでナチスが権力の座についたあとに起こったことを知らなかった。
こうした状況に危機感を抱いたことで、ホロコースト否認の主張を「真面目に扱う」ことを決意したのだとリップシュタットはいう。なぜなら、否認論者の主張は無知を栄養分にして広がっていくのだから。
冷戦後に発掘されたソ連の新資料でガス室の存在は証明された
漠然としか知らないことについて、一見筋の通った説明をされると、「そういうこともあるかも」と思ってしまう。とりわけホロコーストのような、人間の想像力超えるような出来事についてはなおさらだ。
第二次世界大戦前、ヨーロッパ(現在のウクライナやベラルーシなどソ連西部を含む)には総計950万人のユダヤ人が住んでいた。それが、戦争が終わると300万人ほどしか生き残っていなかった。アメリカやパレスチナなどに移住した者を除いても、その差はおよそ600万人になる。これは千葉県(620万人)や兵庫県(550万人)に匹敵する数だ。それが1939年のドイツ軍によるポーランド侵攻から45年の終戦までの6年間(実際には1941年のソ連侵攻からわずか4年間)に殺されたなどということがあり得るだろうか。
アウシュヴィッツと隣接するビルケナウの強制収容所では、120万人を超える収容者(その大半はユダヤ人)が死亡したとされている。これは岩手県(125万人)や大分県(115万人)に匹敵する数だ。しかもそのほとんどはガス室で青酸ガス(チクロンB)によって組織的に殺され、遺体は焼却されたとのだという。
「こんな荒唐無稽なことがほんとうに起きたのだろうか」と思っているところに、否定論者はささやく。「そんなわけないよね。じつはこれはぜんぶ陰謀なんだよ」
このプロパガンダはとりわけ、ホロコーストが起きてほしくなかったひとたちに対して有効だ。これが、第二次世界大戦で「罪人」の立場に立たされているドイツ人や、ドイツ系アメリカ人のあいだで否定論が広がる理由だろうが、それ以外の国にも否定論者はいる。リップシュタットを訴えたアーヴィングはイギリス人で、対独戦に従軍した海軍士官を父にもつが、それにもかかわらずドイツとの戦争に突き進んだチャーチルを批判し、ヒトラーを擁護した。
こうした否定論者の系譜について述べる前に、しばしば議論になるガス室について、現在ではすでに決着がついていることを確認しておこう。
ホロコーストの検証が困難だった理由のひとつに、ナチス・ドイツが建設した絶滅収容所が東ヨーロッパにあり、ソ連の侵攻でナチスが証拠の多くを焼却処分し、わずかに残った資料の多くもモスクワに運ばれ、西側の研究者が利用できなかったことがある。冷戦下のソ連では、ドイツ民族主義とはまったく異なる理由から、ホロコーストは否定されていた。
ソ連の歴史観では、第二次世界大戦は「善」である共産主義者が「悪」のファシストを打ち倒す物語だった。この枠組みでは、ファシスト=ナチスによって殺されたのは人民=共産主義者であって、犠牲者がユダヤ人ばかりでは都合が悪い。そしてこの物語は、スターリンによる粛清を隠蔽し、“同胞”の東ドイツをホロコーストから免責にするのにも都合がよかった。
だが冷戦が終わると、多くの歴史研究者がモスクワ国立中央特別文書館の関係資料を自由に利用できるようになった。そこにはガス室や焼却施設の作業指示書、補給要請書、就業記録、技術指図書などの報告書が含まれており、シャワー本体が水道管に接続されていない部屋にガス密閉ドアが取り付けられていたり、親衛隊(SS)の監督官や民間労働者などが報告書や日記に「ガス室」と記載していることなど(本来は「死体置場」の隠語が使われた)、決定的な証拠が多く見つかっている。新たに発見された証拠は収容所からの生存者(サバイバー)の証言や従来の研究とも一致しており、もはや異論を差しはさむ余地はない(芝健介『ホロコースト ナチスによるユダヤ人大量殺戮の全貌 』〈中公新書〉、ティル・バスティアン『アウシュヴィッツと〈アウシュヴィッツの嘘〉』〈石田勇治他訳/白水Uブックス〉も参照)。
「ホロコースト否定説の父」は強制収容所のサバイバーだった
リップシュタットによると、最初期の否定論者はポール・ラシニエというフランス人で、早くも1948年に『一線を越えて』という本で、「収容所からのサバイバーの証言は信用できない」と書いた。なぜこのように主張できるかというと、ラシニエ自身が収容所を体験していたからだ。
16歳で共産党員になり、その後離党して社会主義政党に入っていたラシニエは、戦争が始まるとレジスタンス運動に加わり、逮捕されブーヘンヴァルト強制収容所に送られた。解放とともにフランスへ戻り、社会党から立候補して1年だけ議員生活を送ったのち、著作活動に入った。著書の多くはナチス擁護論で、「残虐行為は大きな誇張であり、その罪をナチスに着せるのは不公平」という主旨のものだという。
この当時は(労働を目的とした)強制収容所と、(抹殺を目的とした)絶滅収容所の区別はついておらず、ラシニエが送られたドイツ国内(ヴァイマール近郊)にあるブーヘンヴァルト強制収容所にガス室はなかった。だがブーヘンヴァルト収容所も環境は劣悪で、総計23万3800人の収容者のうち5万5000人が飢えや病気のために死亡したとされている。そんな”地獄”から生還した体験をもっているからこそ、アウシュヴィッツのサバイバーの証言が「嘘」としか思えなかったのだろう。
元レジスタンスであり、強制収容所に送られ、戦後は国会議員にもなったラシニエの主張は徐々に大きな影響力をもつようになり、やがて「ホロコースト否定説の父」と呼ばれるようになる。1960年代にはアメリカのホロコースト否認派と交友をもつようになり、77年に主要著作を1冊にまとめた『ジェノサイド神話をあばく』がアメリカで出版されている(ラシニエ本人は67年没)。
ラシニエは、「生き残りの証言は誇張」であり、「収容所内で残虐行為をやったのはSSではなく、運営を任せられた収容者」だったと主張した。「数字に関して、目撃者と称する連中は、とうていあり得ぬことを言ったり書いたりしている。殺害手段の道具についても然りである」としてガスによる殺害に疑問を呈し、後年はガス室の存在そのものを完全に否定するようになった。
ここにはすでにホロコースト否定論の要素が出そろっているが、ラシニエの主張がすべて間違っているというわけではない。当初、「アウシュヴィッツでは400万人のユダヤ人がガス殺された」といわれていたが、これは明らかに過大で、いまでは約120万人に訂正されている。生存者のなかには、ありもしないことを述べたてた者もいただろうし、収容所の極限状況のなかでは同房の者たちが弱い者を搾取して生き延びようとしたことは、ヴィクトール・フランクルの『夜と霧』(池田香代子訳/みすず書房)やプリーモ・レーヴィの『これが人間か アウシュヴィッツは終わらない』(竹山博英訳/朝日選書)などにも書かれている。
リップシュタットは、ホロコースト否定の背景には反ユダヤ主義があるとしており、たしかにそうかもしれないが、たんなる正義感(私は収容所を体験したが、ユダヤ人の生存者が語っているのはウソばかりだ)からでも、ラシニエの否定説は生まれるのではないか。その後、主張が過激化していったのは、著述家として生きていくことに決めたラシニエが、そこに大きなマーケットがあることに気がついたからだろう。ホロコーストを否定すると、ヨーロッパだけでなくアメリカからも、熱烈なファンが現われるのだから。
当たり前の話だが、著述業のビジネスは読者がいないと成立しない。本が売れるということは、たんに収入が増えるだけでなく、著者にとっては自己実現でもある。フランス人のラシニエやイギリス人のアーヴィングがホロコースト否定へと過激化していったのは、これで(ある程度)説明できるのではないだろうか。
読者の期待にこたえようとするなかで、ホロコーストの嘘を暴く作業は、必然的に反ユダヤ主義へと落ち込んでいく。ラシニエはやがて、「ユダヤ人は不誠実であり、彼らが公式、非公式に所属するユダヤ系組織も、いかがわしい。その裏にあるのはユダヤの伝統的な悪であり、金銭欲が支配している」と主張するようになった。
第一次世界大戦は英仏の「謀略」だった
第二次世界大戦後のフランスのホロコースト否定論が元レジスタンスの強制収容所体験から生まれたとすれば、アメリカでは第一次世界大戦の開戦の経緯をめぐるまっとうな歴史論争がホロコースト否定へとつながっていく。
1919年1月に開会されたパリ講和会議では、第一次世界大戦の戦争責任は敗戦国であるドイツとオーストリア=ハンガリー帝国にあるとして、巨額の賠償や帝国の解体が課せられた。だが早くも1920年に、アメリカの歴史家シドニー・フェイがこれ異を唱え、大戦後に公開された資料を駆使して、アメリカで通説になっていたドイツ主戦論とは反対に、「ドイツに開戦の意志はなかった」と主張した。「大戦前夜、平和のための努力を最後まで放棄しなかったのは、ヨーロッパの指導者のなかではドイツの政治家であり、すべての選択肢がなくなってはじめて、軍の動員を開始した」というのだ。
これがアメリカの「第一次大戦修正主義」で、その先頭に立ったのが新進気鋭の歴史家ハリー・バーンズだった。バーンズらはドイツを免罪しただけでなく、アメリカを戦争に引きずりこむために謀略を使ったとして英仏を断罪したが、これは荒唐無稽な批判ではなかった。
実際に、イギリスは非戦闘員に対するドイツの残虐行為なるものをでっちあげてさかんに宣伝した。ドイツ人が毒ガスを使って非戦闘員を虐殺しているとか、幼児を射撃練習の的にしているとか、ベルギー人女性の手足を切断して遊んでいるというつくり話がアメリカで大きく報じられ、国民感情を煽った(この宣伝があまりに成功したため、アメリカに宣伝産業が生まれたという)。
20年後、ナチス・ドイツがガスでユダヤ人を殺しているという話をメディアが報じたとき、アメリカ国民が容易に信じなかった理由のひとつは、第一次大戦中の残虐行為のでっちあげの記憶が残っていたからだとリップシュタットはいう。
第一次世界大戦の歴史修正主義がアメリカで大きな成功を収めた理由は、それが史料にもとづくまっとうな歴史論争だったからだが、それ以上に「修正主義者」がウッドロウ・ウィルソン大統領を批判したことも大きかった。ウィルソンは民主党出身の大統領だが、当時のアメリカは現在のように保守とリベラルで分断されていたのではなく、孤立派(モンロー主義)と国際派が対立していた。
孤立派は、アメリカがヨーロッパの戦争に巻き込まれたのは大失策で、巨額の戦費と多数の死傷者の代償として得るものはなにもなかったと主張した。そんな彼らにとって、第一次世界大戦は英仏の「陰謀」で、それをウィルソンが利用してアメリカ国民をだましたのだという「修正主義」は、自分たちの思いを見事に代弁してくれたのだ。
この構図が第二次世界大戦にも引き継がれたことで、アメリカ型のホロコースト否認が誕生したのだとリップシュタットは分析する。
第二次世界大戦も「謀略」で、アウシュヴィッツは日系アメリカ人の強制収容所と同じ
多大の犠牲を出しながらも第二次世界大戦が連合国の勝利に終わったあと、バーンズなどの「修正主義者」は、これは第一次世界大戦の完全な焼き直しだと考えた。なぜなら、英米仏とドイツが戦争をする構図も、民主党出身のフランクリン・ルーズベルトが孤立派の反対を押し切って参戦したのも、すべて同じ出来事を再現しているだけだから。
しかしそうなると、開戦責任がナチス・ドイツ=ヒトラーにあるのでは辻褄が合わない。ナチス=絶対悪という通説は修正されなくてはならないし、残虐行為にしても、「ドレスデンの空襲で連合国は同じことをやった」と相対化されなくてはならない。これはまさしく、リップシュタットを訴えたアーヴィングの歴史観そのものだ。
ナチスが絶対悪でないならば、ホロコーストもきわめて不都合になる。それは戦時下における不幸な出来事だったとしても、特定の民族を絶滅させようとして何百万人も殺戮する途方もないものであってはならないのだ。こうして「修正主義者」にとって、アウシュヴィッツは日系アメリカ人の強制収容所と同じものになった。
より興味深いのはアメリカが参戦した理由で、修正主義者は、第一次世界大戦では、民主党のウィルソン大統領がイギリスの宣伝(でっちあげ)を利用してアメリカ国民を戦争に引きずり込んだと考えた。だとしたら第二次世界大戦でも、同じ民主党のルーズベルト大統領が同じ手を使わないはずはない。
このようにして、「ルーズベルトは真珠湾攻撃を知っていた」という謀略説が登場する。日本にもこうした主張をするひとがたくさんいるが、アメリカでは戦後すぐに『シカゴ・トリビューン』紙が「日本の攻撃を知っていながら放置したことで数千人のアメリカ兵の生命を犠牲にした」とルーズベルトを批判し、ジャーナリスト、平和主義者、孤立派の政治家や評論家などがこれに同調した。――ちなみに近年のアメリカの歴史学では、この「ルーズベルト謀略説」はさまざまな資料から否定されている(クレイグ・ネルソン『パール・ハーバー 恥辱から超大国へ』平賀秀明訳/白水社)。
アメリカの孤立派は保守主義者でもあり、彼らにとっての最大の敵は共産主義だった。ルーズベルトが許しがたいのは、アメリカを無用な戦争に引きずり込んだだけでなく、第二次世界大戦が共産主義者を利することになったからだ。戦前は、中央ヨーロッパや東ヨーロッパは中立地帯だったが、いまやそこはソ連の支配下に収まっている。「アメリカは戦争に勝利し、リベラルデモクラシーを守った」などというのは大嘘で、現実には共産主義に敗北したのだ……。
リップシュタットによれば、アメリカに特異なホロコースト否認は、孤立派=反共主義者によるルーズベルト批判と、ドイツ系アメリカ人の民族主義が共鳴して生まれたものだという。どちらの側にとっても、「ホロコーストは極端に誇張されており、ガス室はなかった」ほうが都合がよかったのだ。
その後、アメリカのホロコースト否認派はIHR(The Institute for Historical Review/歴史見直し協会)を中心に極右団体を集結させ、過激な反ユダヤ主義を唱えるようになる。第一次世界大戦の歴史修正主義者で、攻撃的なホロコースト否認論者に転身した歴史学者のハリー・バーンズをはじめとして、イギリス人のデイヴィッド・アーヴィング(歴史家)、フランス人のロベール・フォーリンソン(リヨン大学元文学部教授)、ドイツ人のエルンスト・ツンデル(出版業者)、アウシュヴィツのガス室を「検証」したフレッド・ロイヒター(アメリカの刑務所に処刑施設を販売する業者だが、化学の専門教育はまったく受けていなかった)など著名なホロコースト否認論者はすべてIHRと関係している。もちろん、これが商業主義(確実なマーケット)と結びついていることはいうまでもない。
歴史修正主義とポストモダン
リップシュタットは、ホロコースト否認の背景に「1960年代後半に出現した風潮」があるという。「その頃、さまざまな学者が、原典(テキスト)は固定した意味を持たない、と主張しはじめた。つまり、著者の意図ではなく、読む人の解釈が意味を決めるという」
ここからわかるようにリップシュタットは、日本でも文系アカデミズムで一世を風靡したポストモダンについて述べている。「すべての概念システムはほかと同じ傾向を有する」なら、「ホロコーストは起きた」という概念と同様に、「ホロコーストはなかった」という概念にも耳を傾けるべきなにものかがあることになる。もちろん、これでポストモダンの方法論をすべてを否定すべきだとはならないが、「歴史修正主義」とは歴史の「脱構築」でもある。こうしてパンドラの箱が開けられたのではないだろか。
「非構造主義(註:ポストモダン哲学)は、経験は相対的なものであり、確固たる不同なものは何もないと論じるがゆえに、歴史事象の意味を疑問視することに対し、これを寛大に見る雰囲気をつくりだし、この懐疑的アプローチに“枠”があると主張するのは、難しくなった」というリップシュタットの告発は、日本の文系アカデミズムにも向けられている。
アメリカでは、文化相対主義のもと、学問分野における白人の優越を批判し、「ヨーロッパ文明の形成に果たしたアフリカの役割があまりに無視されてきた」と主張する一派がいる。これはもちろんそのとおりなのだが、あるアフロ・アメリカ学教授は「黒人は太陽の民、白人は氷の民」とする説を唱え、「暖かく共同的で、希望にみちあふれた事柄はすべて前者に由来し、抑圧的で冷たく硬直したものは後者からくる」とする。こうしたアメリカの大学(知的コミュニティ)の雰囲気をリップシュタットは、「学者たちは、この種の風変わりな見方を、かつては一笑に付したであろうが、今では何だか信頼性のある説として扱わざるを得ない気持ちに襲われている」と慨嘆している。
最後にもう一点。リップシュタットは「ホロコースト否認=反ユダヤ主義」としているが、これですべてが説明できるわけではない。なぜなら、代表的な「ホロコースト否認論者」としてノーム・チョムスキーを挙げているものの、生成文法で知られるこの著名な言語学者はユダヤ人だからだ。「極左」であるチョムスキーがフォーリソンなどホロコースト否定論者の「表現の自由」を擁護する背景にはパレスチナ問題があるのだが、リップシュタットは(おそらく)意図的にこのことに言及していない。これははたして、「知的に誠実」な態度といえるのだろうか。
禁・無断転載
SNS規制のやっかいな問題(週刊プレイボーイ連載656)
2024年11月、オーストラリア議会が16歳未満のSNSを禁止する世界初の法案を可決しました。対象となるのはFacebook、Instagram、X、TikTok、Snapchatで、その後YouTubeが加えられ、今年12月から施行の予定です。
こうした流れは世界的に広がっており、日本でも愛知県豊明市が、「「余暇時間」でのスマホ使用は1日2時間以内」「小学生以下のスマホ使用は午後9時まで、中学生以上18歳未満は午後10時まで」を目安とする条例を市議会に提出しました。
アメリカでは2010年頃から10代の女子のうつ病が急激に増え、自傷行為や自殺が大きな社会問題になっています。この現象がSNSが広まった時期と一致していることから、「IT企業が子どもたちをスマホ依存症にして金儲けしている」との批判が高まったのです。
決定的なのは、2021年にFacebook(現Meta)の機密文書が内部告発者によって公開されたことです。自社が運営するInstagramについて、すでに19年に「10代の少女3人に1人に対し、我々は身体イメージの問題を悪化させている」との調査結果を得ていながら、なんの対応もとっていなかったことが暴露され、マーク・ザッカーバーグが上院の公聴会で自殺した若者の遺族に謝罪する事態になりました。
しかしその一方で、こうした規制を批判する専門家もいます。ひとつは実効性がないことで、今年7月に「オンライン安全法」が施行され、アダルトサイトの閲覧にきびしい年齢制限が課されたイギリスでは、VPN(仮想プライベートネットワーク)を使ってイギリス国外からアクセスしているように見せて、規制を逃れる動きが急増しています。
それよりも困惑させられるのは、研究者がどれほど調べても、SNSが若者のメンタルヘルスに悪影響を及ぼしているという確たる証拠が見つからないことです。SNSの使用がうつ病と強い相関関係をもつことは間違いありませんが、これは因果関係を示しているわけではありません。もともと抑うつ傾向が強い若者が、SNSに依存しているのかもしれないからです。
現在では、「SNSの影響は個人ごとに異なる」と考えられています。
自傷や自死のおそれから精神科に入院中のティーンエイジャ―へのインタビュー調査では、SNSにアップされた「リア充」の同世代を見て、自分を「ゴミのように」感じたという証言がある一方で、「(SNSを)使ってると幸せな気分になれるんだ」と語る若者もいました。その結果、全体の平均を調べると、ポジティブな効果とネガティブな効果が相殺されて「影響なし」になってしまうのでしょう。
このような「多様性」があるのなら、一律の規制は、これまでSNSからよい影響を受けていた子どもたちに害を及ぼすことになってしまいます。かといって悪影響を放置するわけにもいかないので、「一人ひとりの個性に合わせたSNSの使い方を教えるべきだ」というのが科学的に正しい提言になります。
とはいえ、これは不可能といわないまでもものすごく大変なので、「どうにかしろ」と責められる政治家は規制の誘惑に勝てなくなるのでしょう。
参考:エミリー・ワインスタイン、キャリー・ジェームズ『スマホの中の子どもたち デジタル社会で生き抜くために大人ができること』豊福晋平・訳、水野一成・解説/日経BP
『週刊プレイボーイ』2025年9月8日発売号 禁・無断転載
ホロコースト否定論者と戦うということ
ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載していくことにします。
今回は2018年11月8日公開の「映画『否定と肯定』でわかった ホロコースト否定論者と戦うことの難しさ」です。(一部改変)

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2017年に日本で公開されたイギリス・アメリカ合作映画『否定と肯定』は、イギリスの歴史学者デイヴィッド・アーヴィングから訴えられたアメリカのホロコースト研究者デボラ・E・リップシュタットと弁護士たちの法廷闘争を描いている。
この映画が注目される背景に、トランプ大統領誕生があることは間違いない。トランプを熱烈に支持する白人至上主義者の多くはフェイクニュースを信じる「陰謀論者」で、(ユダヤ系の支配する)マスメディアはウソばかり報じ、ネットに流通する偏向した主張こそが真実だと思っている。そのうえ、どれほどそれが事実に反していると説明してもいっさい気にしない―ーとされている。
そしてこうした態度は、ホロコースト否定論者ととてもよく似ているのだ。
問題は歴史を修正することではなく、否定すること
映画『否定と肯定』の邦題には問題がある。原題の“Denial(否定)”にどういうわけか「肯定」を加えているのだ。なぜこのようにしたのかはわからないが、これによって映画のテーマが大きく損なわれている。
映画の原作となったのはリップシュタット自身が裁判体験を記録した“DENIAL Holocaust History on Trial(否定 裁判にかけられたホロコーストの歴史)”だが、この邦訳本も(映画に合わせての発売だから仕方のないことだが)『否定と肯定 ホロコーストの真実をめぐる闘い』(山本やよい訳/ハーパーBOOKS)とされている。
裁判の原因となったのはリップシュタットが1993年に発表した“Denying The Holocaust(ホロコーストを否定する)”の記述で、こちらは『ホロコーストの真実 大量虐殺否定者たちの嘘ともくろみ』(滝川義人訳/恒友出版)のタイトルで邦訳されている。このいずれにも“Deny”が使われていることからわかるように、この言葉には著者の強い主張が込められている。
「アウシュヴィッツにガス室はなかった」というような主張は、一般に「歴史修正主義(Historical revisionism)」と呼ばれるが、リップシュタットは、歴史家の仕事は通説を見直す=修正することにあるのだから、この呼称は適切ではないとする。
エルヴィス・プレスリーは1977年に42歳の若さで世を去ったが、その死因については過食やドラッグの乱用、心臓病などさまざまな説がある。しかしその一方で、あまりに若すぎる死を受け入れられない熱烈なファンがおり、1990年代の世論調査によると、「エルヴィスはどこかでひっそりと生きている」という伝説を信じているアメリカ人は2割もいるという。
この例では、エルヴィスの死因をドラッグ乱用とする通説に対して、毛髪などのDNA解析によって遺伝性の心臓病が原因だとするのが「歴史の修正」だ。それが正しいかどうかは別として、新たな知見によって歴史は更新され、修正されていく。
それに対して、「エルヴィスは生きている」というのは歴史=事実の否定だ。修正論者とは大いに論争すべきだが、否定論者と議論することにはなんの意味もない。彼らはたんに「もういちどエルヴィスに会いたい」という夢を見ているだけで、死亡の証拠をいくら並べたところで見たいものを見るだけだ。
自由な社会では、事実であるかどうかにかかわらず、どのような主張をするのも自由だ。「エルヴィスは生きている」という夢を見るファンの権利を他者が侵害することはできない。
そしてこれは、ホロコースト否定論者についても同じだと、自身がユダヤ人であるリップシュタットはいう。「ドイツのようにホロコースト否定を法で禁じているところもあるが、言論の自由が憲法で保障されたアメリカでは、「ホロコーストはなかった」と主張する者たちの活動を公権力が規制することはできないし、そうすべきはない」というのが彼女の立場だ。
だったら何が問題なのかというと、歴史の修正と否定を同列に並べて、「否定派にもホロコーストについて議論する権利がある」とするひとたちがいることだ。彼らはネオナチや極右というよりも、多くの場合リベラルなマスメディアだ。
メディア関係者は視聴率目当てに、リップシュタットとホロコースト否定論者を対決させる企画を持ち込んでくる。そのときの根拠が、「異説を拒絶するのではなく、事実でもって誤りを指摘すべきだ」になる。
これは一見正論だが、否定論者は自説を撤回するつもりはなく、こうした番組やイベントを自分たちのPRの場としか考えていないのだから、歴史家がそのようなところに出ていく理由はない。リップシュタットは「ホロコースト否定論者を批判するが論争はしない」を原則としており、だからこそアーヴィングに訴えられて、裁判の場に引きずり出されることになった。その映画の邦題を『否定と肯定』にしてしまっては、「否定に肯定を対置してはならない」というリップシュタットの主張を、それこそ否定してしまうのだ。
期間3年4カ月、弁護士費用請求1憶8000万円
リップシュタットと対立するデイヴィッド・アーヴィングはイギリスの歴史家で、1963年に25歳で発表した『ドレスデンの破壊』で高い評価を得た。この本でアーヴィングは、連合国を善、ナチスドイツを悪とする戦後の歴史観に異を唱え、ドレスデン市街を灰燼に帰し多数の市民が犠牲になった(死亡者数は2万5000人から15万人まで幅がある)連合国の戦争行為を強く批判している。その後、1977年の『ヒトラーの戦争』( 赤羽龍夫訳/ハヤカワ文庫NF)ではヒトラーの「悪魔化」に異を唱え、ヒトラーがホロコーストを命じた文書が存在しないことから、ユダヤ人の虐殺はヒトラーの知らないところで行なわれたと主張して大論争を巻き起こした。
ここまでなら毀誉褒貶はあるものの、アーヴィングは通説に異を唱える修正主義者であり、一般読者だけでなく歴史家のあいだでも高く評価する声があった。しかしその後、「ヒトラーはホロコーストを知らなかった」という主張は「ホロコーストはなかった」に変わっていく。
ただしリップシュタットは、『ホロコーストの真実』のなかでアーヴィングを代表的な否定論者として扱っているわけではない。アーヴィングが出てくるのは数カ所で、たとえばこんな感じだ。
ナチ総統の熱烈な崇拝者であるアービングは、机の上にヒトラーの肖像画を飾り、ヒトラー山荘の訪問を聖地巡礼と称し、ヒトラーは繰り返しユダヤ人に救いの手を差しのべた、と主張した。
1981年、“穏健ファシスト”を自称するアービングは、将来イギリスの指導者になるとの信念にもとづき、自分で右翼政党をつくった。イギリスがナチスドイツに戦争を仕掛ける愚を犯したため、転落の一途をたどっていると確信する超国家主義者であり、英独間の戦争をストップしようとした行為により、ルドルフ・ヘスにノーベル平和賞を与えるべしと提唱する男である。ヒトラー遺産の継承者をもって自任しているふしもある。
それぞれの指摘には出典も示されているが、アーヴィングはこれを重大な名誉棄損と考え、イギリスの裁判所にリップシュタットを訴えた。アメリカでは、名誉棄損の立証責任が原告側にあるが、イギリスでは逆に被告側が原告の主張は事実無根だと証明しなければならない。こうしてリップシュタットは困難な裁判に巻き込まれていくことになる。
アーヴィングはけっきょくこの訴訟に負けるのだが、それでも大きな威嚇効果をもったことは間違いない。
裁判が始まったのが2000年1月、判決が言い渡されたのが同年4月11日だから裁判そのものは迅速に行なわれたものの、リップシュタットのもとに訴状が届いたのが1996年9月で、法廷に出るまでの準備に3年4カ月が費やされている。
リップシュタット側の事務弁護士はダイアナ妃の離婚を担当した著名なアンソニー・ジュリアスで、ノーベル文学賞を受賞した詩人T.S.エリオットの反ユダヤ主義についての著作もあり、自ら無償で弁護を買って出た。だがその後、裁判が「ホロコーストの嘘」を全面的に法廷で争うという前代未聞のものになるにつれ、専門家やリサーチ担当者、その他のスタッフへの支払いが必要になり、費用を請求しなければ弁護団を維持できなくなった。「特別料金」で大幅に値引きされたものの、リップシュタットに届いた第一回の請求金額は160万ドル(約1億8000万円)だった。
この裁判費用はアメリカのユダヤ団体などが負担したが、誰もがこうした支援を受けられるわけではない。それに対してアーヴィングは、「自分以上に自分を弁護できる者はいない」という理由で弁護士を雇わず本人が法廷に立った。イギリスの名誉棄損裁判では、原告は立証責任を負う被告の質問に答えればいいので、こうしたことも可能なのだ。そのためリップシュタット側から協力を求められたホロコーストの専門家のなかには、アーヴィングからの訴訟を懸念して協力を断る者もいたという。
映画の演出はどこまで許されるのか
映画『否定と肯定』は、原告であるアーヴィングを演じたティモシー・スポール(『ターナー、光に愛を求めて』で第67回カンヌ国際映画祭・男優賞)の名演もあって、ホロコースト否定をめぐる“世紀の裁判”が緊迫感をもって描かれている。だがそこで気になったのは、制作側の演出だ。
映画の冒頭、リップシュタットがホロコーストについて講演している場にアーヴィングが現われ、「議論もしないで否定論者を侮辱するのか」と会場から大声で抗議し、宣戦布告する場面がある。予告編にも使われている印象的なシーンだが、原作を読むとこのような事実はない。リップシュタットがアーヴィングにはじめて会ったのはロンドンの法廷だ。
もちろん娯楽映画なのだから、多少の演出が必要なのは理解できる。冒頭に敵役のアーヴィングを登場させなければ、そもそも物語が始まらない。それに加えてこの映画は、最初から大きな制約を課せられていた。
裁判ものの定石として、そのクライマックスは「正義」のリップシュタットと「悪」のアーヴィングの法廷での対決シーンだと誰もが思うだろうが、この作品ではそれが禁じられている。アーヴィングは法廷で自説を開陳するために、自分で自分を弁護する本人訴訟を選んだ。そのアーヴィングとリップシュタットが法廷で議論するようなことになれば、まさに「否定と肯定」の図式で、相手の思うつぼにはまるだけだ。そのため弁護側は最初から、リップシュッタットは法廷には出るもののいっさい発言しないことに決めていた。
法廷戦術としてこれは当然だが、そのため法廷場面をドラマティックに演出することがきわめて難しくなってしまった。娯楽作品にするためには、ドラマは裁判外の出来事でつくるしかないのだ。
イギリスの裁判では、裁判前に原告と被告が必要な証拠を開示することになっている。アーヴィングは1500件近い膨大な開示リストを提出したが、そこには娘の誕生を録画したビデオなど、事件とはなんの関係もないものも含まれていた。弁護側はそうした開示資料をすべて精査しつつ、それ以外の必要な証拠を請求しなければならない。
リップシュタット側は、書簡とともに個人的な日記の閲覧も請求した。アーヴィングは抵抗したものの、裁判所が認めたため、プライベートな記録を弁護側に開示せざるを得なくなった。
こうして映画では、弁護士事務所の若いスタッフがアーヴィングの自宅を訪れ、日記を「押収」する。私はこの場面を見て、イギリスではほんとうにこんなプライバシーの侵害が行なわれているのか驚いたのだが、原作の『否定と肯定』を読むとこれも演出だ。アーヴィングは、裁判所の決定に従って自主的に日記を提供している。
“実話”を謳う映画が演出ばかりでは主題までもフェイクと言われかねない
映画『否定と肯定』では、アウシュヴィッツの生存者(サバイバー)である老女が裁判の傍聴に来ていて、腕に刺青された番号を見せて「自分に証言させてほしい」と迫る場面がある。
リップシュタットは弁護士たちに「生存者を証人に呼ぶべきだ」と力説するが、アーヴィングを利するだけだと一蹴される。著名な否定論者の一人であるドイツの出版業者エルンスト・ツンデルの裁判ですでに生存者との対決が行なわれており、裁判官が止めないのをいいことに、被告側は証人がほとんど知らない細々とした質問をして好きなようにいたぶった。生存者を法廷に立たせたら、アーヴィングは嬉々として同じことをするだろう、というのだ。
リップシュタットの正義感と挫折を描く印象的な場面だが、じつはこれも演出で、ホロコーストの専門家である彼女は、当然のことながら否定論者の“蛮行”を知っており、弁護側の方針として、生存者には証言させないことがあらかじめ決まっていた。そのうえこれは、ガス室があったかどうかの裁判だから、一般の生存者には証言することができない。――ガス室を見た者は、ゾンダーコマンドという特殊作業員のわずかな生き残りを除いて、みんな死んでいるのだ。
もちろん、映画のすべてが演出というわけではない。
裁判の初日が終わったとき、リップシュタットは法廷を出たところで小柄な老婦人に腕をつかまれた。彼女は片腕を突き出し、袖を肘までまくりあげ、前腕に刺青をされた数字を指さしていった。
「あなたはわたしたちのために戦ってくれている。わたしたちの証人よ」
リップシュタットはこの言葉を、激励だけでなく警告とも受け取った。“勇気を出してがんばって。でも、何をするにしても、わたしたちを落胆させないで”。
この実話だけでじゅうぶん印象的だと思うのだが、娯楽映画にする以上、やはりさらなる演出が必要だったのだ。
誤解のないようにいっておくと、私は「実話に基づいた映画」に演出を加えてはならないといっているのではない。だがやはり気になるのは、『否定と肯定』がフェイクをテーマにしているからだ。
リップシュタットが弁護士たちとともにアウシュヴィッツを訪れ、ヘブライ語で追悼の祈りを唱える印象的な場面は実話だが、それ以外は、冒頭のアーヴィングからの宣戦布告も、アーヴィングの自宅に日記を「押収」に行くことも、サバイバーから証言を迫られる場面も、法廷外の記憶の残るシーンの多くは演出だ。これは事実ではないのだから、すなわち「フェイク」ということになる。
もちろん制作者は、法廷場面には手を加えていないというだろう。実際、アーヴィングと法廷弁護士であるリチャード・ランプトン(イギリスでは事務弁護士と、法廷に立つ弁護士が分かれている)のやりとりはリップシュタットの原作に書かれているとおりだ。法廷外の出来事まで事実しか描けないのなら、娯楽映画ではなくドキュメンタリーになってしまうし、それでは多くのひとに観てもらえないというのもその通りだろう。
だが否定論者は、この映画に対して次のようにいわないだろうか。
「あれも演出、これも演出、“実話”をうたっているがウソばかりだ。当然、リップシュタットが裁判で勝ったというのも演出だ」
この主張には一部の事実(ファクト)が含まれている。そして「陰謀」は、こうした事実の上につくられていくのだ。
映画では描かれていない事実
原作の『否定と肯定』には、映画では描かれていない印象的な場面がある。
身体に障がいを持つアーヴィングの娘が、裁判の2、3カ月前に38歳で亡くなった。新聞には自殺と出ていた。葬儀のあとで家族のもとに白薔薇と百合の豪華な花束が届いた。添えられたカードに、“まことに慈悲深き死”と書かれ、“フィリップ・ボウラーと友人たち”という署名が入っていた。ボウラーは、心身に障がいのあるドイツ人を安楽死させる計画の監督を任せられていたナチスの医師の名前だ――。
アーヴィングは、リップシュタットの著書によって被った影響として法廷でこの話をし、自分こそがユダヤ社会から憎悪を向けられた被害者だと訴えた。それを聞いてリップシュタットは、添え状の件はあまりに出来すぎていて、アーヴィングのつくり話ではないかと疑う。
だがその直後、実の娘を悲劇的な状況で亡くしたばかりの相手をそんなふうに思う自分にやましさも感じる。そして、アーヴィングへの怒りが憎悪に変わるのを抑える努力をしなければならないと思う。被害者が加害者に憎悪を向けるのは当然だが、多くの場合、それはかえって被害者を苦しめることになる。加害者は被害者のことなどまったく気にしていないからだ。
これは「加害と被害の非対称性」を考える重要な場面だと思うが、うまく映像化はできなかったようだ。
映画に出てこないスリリングな出来事としては、イスラエル政府から「門外不出」とされていたアドルフ・アイヒマンの手記を入手する場面がある。
親衛隊中佐としてユダヤ人の強制収容所への大量移送を指揮し、戦後はアルゼンチンに逃れたアイヒマンはイスラエルの諜報機関モサドによって拘束され、エルサレムで裁判にかけられる。これが世界の注目を集めた「アイヒマン裁判」だが、死刑に処せられる前にアイヒマンは独房で手記を書いていた。
裁判後、イスラエル政府は、アイヒマンの証言が裁判記録としてすべて残されているのだから、これ以上その主張を公表する義務はないとして手記を封印した。そのため関係者以外は誰も読んだことがなかったのだが、たまたまリップシュタットの友人夫妻と3人の子どもがロンドンを訪れていて、アイヒマンの手記が証拠になるかもしれないという話を聞いた子どもの一人が、「イスラエルに手記の閲覧を申請すればいいんじゃないの」といった。驚いたことに、これまで誰もそれを試した人間はいなかった。
そこでリップシュタットが、知人の伝手を使って、裁判の証拠として請求したところ、イスラエル政府から手記が送られてきたのだ。
これほどドラマに相応しい話はないと思うのだが、残念なことに、リップシュタットの原作にも、アイヒマンの手記になにが書かれていたのかは出てこない。これはイスラエル政府から、手記の利用は裁判目的に限るとされたからのようで、そのため映画にも使えなかったのかもしれない。なおアーヴィングは、裁判の当事者としてこの貴重な手記を入手している。
裁判は勝利に終わったものの……
2000年4月11日、ホロコースト否定論を徹底的に検証したこの裁判の判決で、裁判官は「証拠に関する客観的検証から導きだされる結果を大幅に偽って伝えている」としてアーヴィングの主張をことごとく退け、リップシュタットの全面的な勝利を宣言した。この判決をイギリスの新聞は、「アーヴィング、嘘つきの人種差別主義者として歴史に名を残す」(ガーディアン)、「歴史家としてのデイヴィッド・アーヴィングの評判が打ち砕かれる」(ロンドン・タイムズ)と報じ、アーヴィングの声望は地に堕ち、社会的に葬られることになった。これ以降、西欧社会では「知識人」を自称する者がガス室を疑うことはできなくなった。
この判決でアーヴィングは、訴訟費用200万ポンド(約3億円)を支払うように命じられてもいる。アーヴィングは破産し、弁護側は売却できそうな歴史資料のコレクションまで差し押さえたが、日本と同じくイギリスでも債権回収は困難なようで、破産関係の専門家と相談した結果、それ以上の追及に時間と労力をつぎ込むのはやめたとういう。
こうして裁判は勝利で終わったものの、リップシュタットも認めるように、だからといってホロコースト否定論者がいなくなったわけではない。そもそも彼らは、「ホロコーストはなかった」という“夢”を見ていたいだけだから、事実を突きつけることだけでは限界があるのだ。――彼らがなぜこのような主張をするのかは、あらためて考えてみることにしたい。
アーヴィグは2005年に、1989年に行なった演説がホロコースト否認を禁じる法に違反したとしてオーストリアで逮捕され、(リップシュタットを訴える前の)1991年から考えを変えたと主張し、「ナチスはたしかに数百万のユダヤ人を殺害した」と抗弁したが認められず、2006年に3年間の服役という判決を受けた。
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