【書評】石川幹人『生きづらさはどこから来るか』

前回のエントリーで行動遺伝学を紹介したが、ちくまプリマー新書の一冊として刊行された『生きづらさはどこから来るか』は、進化心理学や行動遺伝学を中高生でもわかるように説明したとてもいい本だ。

著者の石川幹人氏は情報工学の専門家で、超心理学の研究でも知られているが、近年は進化論に基づいた新しい心理学の入門書を積極的に執筆している。そのなかでもこの本は、「なぜ生きることはこんなにつらいのか?」という問いに対して、科学的に正確に、かつ誠実にこたえようとしている。

進化と遺伝についての説明をした後、石川氏は、世界が残酷で理不尽である理由を述べる。“残酷”というのは、遺伝の影響は私たちが思っているよりも大きく、神経症や精神疾患を含む性格の半分は遺伝で、能力にいたっては8割ちかくが遺伝によって決まってしまう、ということだ。“理不尽”というのは、高度に文明化した社会では特定の能力を持つひとだけが優遇されるということだ。

下の表は、一卵性双生児と二卵性双生児の比較研究から統計的な手続きによって検証された遺伝の影響だ。双生児研究は反証可能な科学的手法によって厳密に行なわれていて、現時点では有力な反証がなされていないという意味で、これが“事実”もしくは“真実”だ(なお、この表は安藤寿康『遺伝マインド』からの抜粋だ。この画期的な本についてはあらためて書評したい)。

先のエントリーでも述べたように、一卵性双生児は、受精したひとつの卵子が途中でふたつに分かれてそれぞれが1個体になったのだから、2人はまったく同一の遺伝子を持っている。それに対して二卵性双生児はふたつの卵子が別々に受精したものだから、遺伝的にはふつうの兄弟姉妹と変わらない。

一卵性双生児と二卵性双生児は、この世に同時に生を受け、通常は同じ家庭環境で育つから、もし仮に、性格の形成に遺伝がなんの影響も及ぼさないとするならば、(家庭環境は同一なのだから)一卵性であっても二卵性であっても「似ている度合い」はほぼ同じになるはずだ。このようにして、双生児の研究から性格における遺伝の影響を統計的に調べることができる。

表のなかで、「一卵性」「二卵性」の項目が、双子の似ている度合いだ。たとえば「神経症傾向」では、一卵性双生児が46%の割合で似ているのに、二卵性双生児は18%しか似ていない。それ以外の要素も、すぐにわかるように、一卵性双生児の方が二卵性双生児よりもはるかに似ている。

こうして計測した遺伝の影響を表わしたのが「遺伝」の項目で、「神経症傾向」では46%となっている。とりわけ遺伝の影響が強いのが「能力」のブロックで、「音程」「音楽」「執筆」「数学」「スポーツ」などの能力は遺伝の影響が80%を超えている。遺伝的な適性のないものは、努力してもできないのだ。

石川氏は、これが「生きづらさ」の理由で、そのことを認めたうえでどのように生きていくのかを考えるべきだという。「やればできる」という精神論を唱えて科学的事実を否定しても、なんの意味もない(表の「共有環境」と「非共有環境」については前回のエントリーを参照)。

遺伝的な多様性を持つことは、進化の最適戦略でもある。全員が同一の遺伝子のコピーなら、環境が変わったとたんに絶滅してしまう。その意味で、遺伝的な能力に大きなばらつきがあることは不思議でもなんでもない。問題なのは、高度化した文明社会が特定の能力(知能)だけを過剰に高く評価することだ。

私たちの社会には、知識社会に遺伝的に適応できず、生きづらさを感じるひとがかなりの割合でいる。それが道徳的に正当化できるかどうかは別として、まずはこの“残酷な世界”を認めるところから出発しなくてはならない。

進化心理学では、わたしたちの脳(意識や感情)は石器時代に最適化されたままだと考える。進化のスピードは一般に考えられているより速いとはいえ、産業革命以降の劇的な環境の変化に遺伝子が適応できるはずはないからだ。

石器時代の狩猟採集生活では、職業選択は問題にならなかった。食物を得るために努力しなければ餓死してしまうのだから、誰もが自分の得意なことをして集団に貢献するしかない。こうして、集団から認められること(承認)を喜びと感じる一方で、ルールを破って自分だけが得しようとする打算などの行動が生まれた。こうした感情が進化の産物であることは、チンパンジーなど集団で生活をする霊長類にも同様の行動が見られることからも明らかだ。

狩猟採集社会では、働かなければ(食料を手に入れなければ)死ぬだけだ。ところが文明社会では、職業が生死に直結しなくなったために、「すべき」仕事がなくなってしまったと石川氏はいう。職業が生死と切り離されたことによって、私たちは「すべき」仕事をするのではなく、「したい」仕事を探すという人類史的な転換を経験することになった。“自分さがし”は昨今の流行ではなく、文明化がもらたす必然なのだ。

さらに石川氏によると、私たちは情報の選択に関しても進化論的な困難を抱えている。

狩猟採集社会では、ひとびとは100人前後の小さな集団をつくって、濃密な人間関係のなかで暮らしていた。そのような社会では、世間話やゴシップは生き延びるのににきわめて重要だった。私たちが集団のなかでの地位や評判を気にしたり、権力者や有名人の私生活を知りたがるのはそれが理由だ。

その一方で私たちは、情報の真偽を検証するよりも、その情報を正しいものとして即座に(感情的に)行動するよう進化論的にプログラミングされている。猛獣が近くにいるときに、リーダーが「逃げろ」と命令したら、それが本当かどうがいちいち確かめたりせず、恐怖の感情に駆られて一目散に走り出す方が生き延びる可能性が高い。

標的とした家族を次々と洗脳して死に追いやっていく異常な事件が世間を騒がせているが、進化論的に見ればひとは“洗脳”されるのが当然なのであり、批判的な理性などというのは近代以降の特異な現象なのだ。

このようにして私たちは、「やってもできない」という遺伝的な制約のなかで、情報の渦に溺れながら、「したい仕事」を探すという困難に放り込まれることになった。それに対して著者の提示する処方箋は、「自分を変えるのではなく、自分に合った環境を選択すべきだ」というある意味ありきたりのものだ。それを不満に思うひともいるだろうが、そのことで本書の魅力が減ずることはない。

ほんとうに大切なのは、中学や高校で進化論や進化心理学をきちんと学び、こうした“不都合な事実”を前提としたうえで、自分の人生を設計できるようにすることだ。すべての中学生や高校生が(もちろん大人も)この本を読めば、生きづらさはなくならないとしても、無駄な回り道をしなくてもすむようになるだろう。

それだけで、人生はずいぶん変わるはずだ。

遺伝は性格に影響するが、家庭を調べてもなにもわからない 週刊プレイボーイ連載(74)

『週刊朝日』に掲載されたノンフィクション作家・佐野眞一氏の「ハシシタ 奴の本性」が大問題になり、編集部は橋下大阪市長に謝罪のうえ連載の中止に追い込まれました。「橋下徹のDNAをさかのぼり、本性をあぶり出す」という表紙コピーなど、出自が性格を決めるととられかねない表現があったことが批判を浴びた理由です。

これはたいへん微妙な問題ですが、遺伝が知能や性格にどの程度影響を与えるかは、行動遺伝学という学問によって科学的に検証され、ほぼ答えが出ています。こうした研究が可能になるのは、世の中に一卵性双生児と二卵性双生児がいるからです。

一卵性双生児は、受精したひとつの卵子が途中でふたつに分かれてそれぞれが1個体になったのですから、2人はまったく同一の遺伝子を持っています。それに対して二卵性双生児はふたつの卵子が別々に受精したものですから、遺伝的にはふつうの兄弟姉妹と変わりません。

一卵性双生児と二卵性双生児は、この世に同時に生を受け、通常は同じ家庭環境で育ちます。もし仮に、性格の形成に遺伝がなんの影響も及ぼさないとしたならば、(年齢も家庭も同一なのですから)一卵性であっても二卵性であっても「似ている度合い」はほぼ同じになるはずです。このようにして、双生児の研究から性格における遺伝の影響を統計的に調べることができます。

行動遺伝学によれば、神経症傾向や外向性、調和性、固執などの性格的特徴は4~5割が遺伝の影響です。能力ではこの傾向がはるかに顕著で、スポーツはもちろん、音楽や数学、一般知能は8割が遺伝によって決まります。自分が音楽家になれるかどうかは、親を見ればわかるのです。

ところで、性格における遺伝の影響が約半分とすると、残りの半分は環境によるものです。「氏が半分、育ちが半分」という話ですが、「氏(遺伝)」は明確に定義できるとして、「育ち(環境)」とはいったいなんのことでしょう。

ほとんどのひとはこれを家庭環境だと思うでしょうが、驚くべきことに、行動遺伝学によると性格形成に家庭(子育て)はほとんど影響を及ぼしていないようなのです。

なぜこんなことがわかるかというと、一卵性双生児のなかに、一方(もしくは両方)が里子に出されて別々の家庭で育ったケースがかなりあるからです(同じ子どもは2人いらない、というのは世界共通のようです)。こうした双子は、遺伝的にはまったく同じで家庭環境だけが異なりますから、同じ家庭で育った一卵性双生児と比較することで、性格や能力の形成における家庭の影響だけを取り出すことができるのです。

こうして調べた共有環境(家庭)の影響は、統計的にはほとんど検出不能です。性格は子育てではなく、家庭以外の非共有環境で決まります。非共有環境とは、学校などでの友だち関係のことだとされています。

遺伝(氏)はたしかに性格に大きく影響しますが、親や家庭をいくら調べてもそのひとのことはなにもわからないのです。

参考文献:安藤寿康『遺伝マインド』

 『週刊プレイボーイ』2012年11月5日発売号
禁・無断転載

なんだ、“食糧危機”はウソだったのか【書評】

すこし前の本だが、川島博之氏の『「作りすぎ」が日本の農業をダメにする』を紹介したい。 川島氏はシステム分析の専門家で、食糧問題やエネルギー問題など、利害関係者の思惑によって議論が錯綜するやっかいな問題について、マクロのデータを冷静に分析したうえで現状を把握し、未来を予測することの重要性を強調する。本書は、『「食糧危機」をあおってはいけない』『「食料自給率」の罠』とともに、”食糧自給率”や“食糧安全保障”といった言葉に踊らされる日本国内の議論がいかに不毛なのかを、国連食糧農業機関(FAO)や国連人口局、世界銀行などの公開データを基に徹底的に暴いていく。

1950年に25億人だった世界の人口はその後爆発的に増加し、2011年には70億人に増えた。それと同時に、農業における科学技術革命によって1950年頃から米や小麦、トウモロコシなど穀類の単収が急増し、豚肉、鶏肉など食肉の生産量も大幅に伸びている。

マスメディアは、人口爆発によって深刻な食糧不足が遠からず起こると危機を煽るが、川島氏によればこれは因果関係が逆で、食糧の増産が可能になったからこそ人口が増加したのだ。食べるものがなければ、子どもを産んだり育てたりできない。

食糧危機というと私たちはアフリカのやせ衰えた子どもたちの写真を思い浮かべるが、これは内戦などの政治的混乱から土地を追われ、農地が荒廃してしまったからだ。エチオピアは最貧国で、FAOによれば国民の多くが飢餓に苦しんでいることになっているが、実際に農村部を訪ねてみるとまったくそんなことはなく、データによればエチオピア人の摂取カロリーは日本人を上回る(もっとも、内乱や旱魃ですぐに飢饉が起きるから、エチオピアの暮らしが日本よりゆたかだということではない)。

川島氏が挙げるデータを、前掲書からいくつか紹介しておこう。

この図は、農業における科学技術革命によって小麦の単収が1950年頃から大きく上昇したことを示している。灌漑や機械化、品種改良などさまざまなイノベーションのなかで最大のものは化学肥料の発明で、空気中の窒素を固定することが可能になったため、農作物の生育にもっとも不足する窒素を手間のかかる堆肥などで補う必要がなくなり、農業は劇的に変わった。

「農業革命」から10年ほど遅れて、食肉のなかでも豚肉と鶏肉の生産量が大きく増えはじめた。それに対して牛肉と羊肉の生産量があまり変わらないのは、牛や羊が草を食べるのに対して、豚や鶏は穀類で育つからだ。

その結果、人口爆発にもかかわらず食料の価格は下がっている。これは世界の一人当たりGDPに対する鶏肉の価格で、年によって大きく変動することはあるものの、鶏肉が一貫して買いやすくなっていることがわかる(2010年の相対価格は1980年の約7割だ)。これは食料価格の値上がり率が所得の増加率よりも低いためで、私たちは1950年を境に、慢性的な食料不足から食料過剰への“人類史的変化”を体験しているのだ。

川島氏によれば、人口爆発もそれほど長くは続かない。

中国やインドなどアジアの大国では経済発展により人口増加の時期は終わりつつあり、世界の人口は2050年に90億人程度まで増えた後、それ以上は増加しないだろうという。それに対して南米やアフリカには(まだじゅうぶんな肥料の投下されていない)低利用の土地や未利用の土地が大量にあり、森林資源などを伐採しなくても人類が必要とする食料を供給するのになんの問題もない。

食肉のなかでももっとも飼料が必要なのは牛肉(1キロあたり10キロの飼料)だが、豚肉なら4キロ、鶏肉では2キロで済む。食に対する好みはさまざまで、中国人は牛肉より豚肉を好み、ヒンドゥー教徒は牛肉を食べず、インドの富裕層は宗教上の理由からほとんどが菜食主義で、イスラム圏では豚肉は禁忌で鶏肉が好まれる。

このように、経済発展で食肉への需要が大幅に増えたとしても、牛肉の増産のために飼料の奪い合いが起こったりはしない。食肉需要による食糧危機説は、ステーキこそが最高の料理だという欧米人の偏見から生まれたの妄想なのだ。

世界じゅうで、食料は余っている。そしてこれが、先進国を中心に深刻な農業問題を引き起こした。

これもいわれてみれば当たり前なのだが、農産物が稀少で価格も高ければ、農業が経済的に成立しないという意味での「農業問題」は起こらない。農業問題というのは、穀類などの供給が過剰になり、売り先がなくなって価格が低下し、農家の収入が下がって生活が成り立たなくなることをいうからだ。

それに対して食糧問題とは、食料の需要に対して供給が過少になり、必要なひとが食料を手に入れられなくなることをいう。供給過剰(需要過少)による農業問題と、供給過少(需要過剰)による食糧問題は経済学的には正反対で、両者を同一のものとして語ったり、同時に解決することは原理的にできない。

それにもかかわらず日本国内の農業問題についての議論は、いまだに終戦直後の食料不足を前提としており、食料の過剰(作りすぎ)という現実を無視しているため、まったく意味のないものになっている。

「日本の食料自給率はカロリーベースで40%しかない」といわれるが、カロリーベースの自給率を問題にしている国は世界じゅうで日本しかない。豚肉や鶏肉は国内で生産されているが、穀物飼料は輸入しているのだから「自給」とはいえない。このように考えると、農水省の推計でも、日本の食料自給率はどう頑張っても50~60%程度にしかならない。農水省の目標は食料自給率50%だが、40%なら不安で50%だと安心だという根拠などどこにもない。

さらにいえば、日本の食料自給率を引き下げたのはコメに対する長年の過剰な優遇策だ。自民党政権が農村票を確保するためにコメの価格を吊り上げたため、農家は小麦など他の穀類をつくらなくなった。そのため穀物飼料を輸入するほかなくなり、それが食料自給率を引き下げるから、いまでは農家に補助金(すなわち税金)を渡して小麦などの生産を奨励している。しかしこんなことではアメリカの大規模農業に対抗できるわけもなく、いたずらに税金をムダにしているだけだ。

「食料自給率」というのは、過去の農業政策の失敗を糊塗し、個別所得補償制度など票目当ての農家への優遇策を正当化するための、政府や官僚による都合のいいレトリック(ウソ)なのだ。

川島氏によれば、日本の農業の最大の問題は農業人口が“多すぎる”ことだ。

アメリカでは農家1戸あたりの農地は10.8ヘクタールで、1人当たりの穀物生産量は78.1トン、ヨーロッパの農業大国であるフランスでは、1戸あたりの農地は7.1ヘクタールで、1人当たりの穀物生産量は52.8トンだ(フランスでは、アメリカの7~8割の規模で農業生産が行なわれている)。それに対して日本では、1戸あたりの農地は0.7ヘクタールで、1人当たりの穀物生産量は4.0トンと、アメリカやフランスの10~20分の1だ。これほど規模が違っては、「競争」など成立するはずがない。

日本の農業の問題は「担い手不足」ではなく、担い手が“多すぎる”ことだ。農業の競争力をグローバルスタンダードに引き上げるためには、農家の戸数を少なくとも現在の10分の1程度まで減らさなければならない。そうなれば、地方にはほとんどひとはいなくなるだろう。農業の再生と、地方の再生は両立しないのだ。

農業問題の根本は、農業と製造業の生産性に大きな差があることにある。農産物の需要は、原理的に、人口増と同じ程度にしか増えない。ひとはゆたかになれば高級な食材を買い求めるようになるだろうが、米や肉を3倍も4倍も食べるようになるわけではない。

それに対して製造業の生産性は、技術革新や規模の拡大によって大きく上昇した。こうして農村から都市へと人口が流出するが、それでも農地の拡大は進まず農村はどんどん貧しくなっていく。都市と農村の格差の拡大は、日本だけでなく、中国や東南アジアなど世界のどこでも見られる現象だ。

こうした“不都合な事実”を前提として、川島氏は日本の農業の将来について、いくつかの提言をしている。

ひとつは、「食糧危機」や「食料自給率」などという荒唐無稽なつくり話で政策を論ずることをやめること。食料はあり余っており、いつまで経っても食糧危機はやって来ず、食料自給率は無意味だ。

ふたつめは、日本の農業に競争力があるとしたら、規模の経済が必要なコメづくりではなく、広い土地を必要としない畜産や野菜栽培だということ。オランダの食料自給率はわずか18%だが、トマトやチーズをEU諸国に輸出して大きな利益を上げている。日本の農業も、アメリカの大規模農業に対抗するのではなく、オランダのようなニッチ戦略に特化すれば、中国やアジア諸国への輸出を大きく伸ばせるだろう。そのためには、TPPにも早期に参加しなければならない。

三つめは、コメを自由化したとしても「競争力」が生まれたりはしないということ。新世界(北米やオセアニア)の大規模農業はあまりにも強力で、平地が少なく農地の権利関係が複雑な日本でははじめから相手にならない(競争上の優位性がないのだから競争しても仕方がない)。

そう考えれば、現実的には、コメを例外扱いにして農産物を自由化し、あとは政策で調整していくほかはないと川島氏はいう。強引なコメの自由化は農協などの強硬な反対を招き、輸出産業として育つ可能性のある畜産や野菜栽培の芽を摘んでしまうからだ(日本のコメ市場はアメリカにとって魅力的なものではなく、交渉はじゅうぶんに可能だという)。

このように、川島氏の主張はこれまでの食糧問題、農業問題の議論を根底から覆すものだ。私はこの分野の門外漢だが、その論理はシンプルで説得力がある。

農水省はもちろん、今後、食糧(農業)問題を論ずるひとは、川島氏の主張に対して、同じ科学的(学術的)データによって反論すべきだ。そうすればいまの醜い罵り合いも、すこしはマトモになるだろう。