ブラック企業問題は市場原理が解決する 週刊プレイボーイ連載(157)

知り合いの大学教授から、「居酒屋でアルバイトをする学生の退学が増えて困っている」という話を聞きました。原因は、日本経済の大きな問題になってきた人手不足です。

居酒屋や牛丼の大手チェーンが次々と店舗の閉鎖に追い込まれているように、サービス業ではアルバイトの確保に四苦八苦しています。学生はイメージのいいカフェなどで働きたがり、“ブラック企業”のレッテルを張られるようなところには来てくれないのです。

これは、居酒屋の運営に責任を持つ店長にとってはきわめて深刻な事態です。そんなとき、優秀な学生がたまたまバイトに応募してきたらどうなるでしょう。

店長はこの千載一遇の機会を逃さないよう、あらゆる手段で学生を引き留めようとするにちがいありません。店を仕切れるスタッフがいなくなれば店舗は閉鎖され、店長の仕事もなくなって家族ともども路頭に迷ってしまうのです。

学生のなかには、いい年をした大人の必死の説得を断れない心根の優しい若者もいます。こうして学業とアルバイトが逆転し、居酒屋が生活の中心になって、単位が取れず退学せざるを得なくなるのです。

美容院を経営している知り合いは、同じ雑居ビルに入っている居酒屋に憤慨していました。なんど注意してもゴミ出しなどのルールを守らないばかりか、客と店員が喧嘩して警察を呼ぶ騒ぎを何度も起こしているのだといいます。

ビルの入居者を代表して彼が居酒屋に苦情をいいにいくと、店長は平謝りするものの、いつまでに改善できるのか具体的な話をいっさいしません。彼が問い詰めると、居酒屋の店長は驚くべきことをいいました。

「私にはアルバイトにはなにもいえないんです。わかってください」

事情を聞いてみると、その店を実質的に支配しているのは路上の呼び込みとアルバイトでした。客とのトラブルのほとんどは「(呼び込みのいったことと)話がちがう」のが原因ですが、客は歩合制の呼び込みが連れてくるので彼らに逆らうようなことはできません。アルバイトを募集しても応募はほとんどなく、厨房やフロアのスタッフを辞めさせることもできません。店長とは名ばかりで、スタッフの機嫌をとるのが仕事なのですから、管理などできるわけがないのです。

「あとはつぶれてくれるのを待つだけですよ」と、知人はあきらめ顔でいいました。

ブラック企業が批判されるのは、新卒の正社員を大量に雇い、残業代を払わずに最低賃金以下で働かせ、使い捨てていくからです。こうした「ビジネスモデル」は、人材が無尽蔵に供給されることを前提にしています。2007年の世界金融危機に端を発した景気低迷で労働市場の需給がゆるんだことで、この「価格破壊」が可能になりました。

ところがアベノミクスによる景気回復で、少子高齢化の日本が今後、労働力の枯渇に悩まされることがはっきりしてきました。

需要と供給の法則では、供給が少なければ少ないほど価値は高くなっていきます。人手不足によってブラック企業のビジネスモデルは崩壊し、やがて市場からの退出を迫られることになるでしょう。

皮肉なことに、道徳的な批判や政府の規制ではなく、市場原理によってブラック企業問題は解決されるのです。

『週刊プレイボーイ』2014年7月28日発売号
禁・無断転載

ワールドカップで日本と韓国が勝てなかった“共通の理由” 週刊プレイボーイ連載(156)

ドイツの4回目の優勝でサッカーワールドカップの幕が閉じました。開幕前はスタジアム建設の遅れや反政府デモが危惧されましたが、「王国」ブラジルの凋落を象徴する7失点の衝撃も含め、今大会も世界じゅうを沸かせたことは間違いありません。

しかしそんななか、これまでになく大きな期待を背負った日本代表は予選リーグで1勝もできずブラジルを去ることになりました。日本がさらに強くなるためにはなにが足りないのでしょうか。

さまざまな提言があるでしょうが、ここで参考になるのはスイス代表です。

かつてヨーロッパの強豪だったスイスは、1970年代から欧州予選での敗退を繰り返す失意の時代を迎えますが、2006年からは3大会連続でワールドカップに出場し、世界ランクも最高6位まで上がりました。今大会はベスト16の激闘でアルゼンチンに延長の末1対0で敗れましたが、サッカー強国として復活したことは誰もが認めるところです。

人口800万人のスイスは世界でもっともゆたかな国のひとつで、サッカー以外に貧困からはいあがる術のないアフリカや中南米とはちがいます。スイス代表は、屈強なディフェンダーはいるものの鈍重なチーム、という印象でした。

そんなサッカーが変貌するきっかけは冷戦の終焉でした。

ベルリンの壁が崩壊して東西ドイツが統一されると、東欧の共産諸国が次々と民主化してヨーロッパは動乱の時代を迎えます。そんななか、歴史的に複雑な民族問題を抱えるユーゴスラビアの統治が崩壊し、ボスニアやコソボで凄惨な内戦が勃発しました。こうして1990年代から、多くのひとびとが故郷を捨ててヨーロッパ諸国へと逃げ延びることを余儀なくされます。

スイスも積極的に難民を受け入れた国のひとつで、これが鈍重なサッカーを劇的に変えました。

スイス代表のメンバーを見ると、ジャカ、シャチリ、セフェロヴィッチなどの名前が並んでいます。アルゼンチン戦のスターティング・イレブンにはスイス以外にルーツを持つ選手が8人もおり、そのうち4人は旧ユーゴスラビア出身の移民1世です。彼らは子どもの頃に紛争を逃れてスイスに渡り、異国の地でサッカー選手としての才能を開花させたのです。

現在のスイス代表はスイス系と移民の混成チームで、中盤と前線は「東欧のブラジル」と呼ばれた旧ユーゴスラビア勢が担っています。このようにして屈強なディフェンスと俊敏な攻撃陣をあわせ持つ理想的なチームが生まれ、2000年代に入ってからの快進撃が始まりました。

それに対して日本代表は、ほぼ全員が日系日本人で構成されています。やはり1勝もできずに敗退した韓国代表のメンバーも韓国系韓国人ばかりです。

シリコンバレーには世界じゅうから文化的な背景の異なる優秀な若者たちが集まり、その多様性からさまざまなイノベーションが生まれています。優勝したドイツをはじめ、オランダやベルギーなどヨーロッパの強豪国は移民に支えられています。

これが強さの秘密ならば、日本の敗退の理由は“純血”にあるのかもしれません。

『週刊プレイボーイ』2014年7月22日発売号
禁・無断転載

第43回 北欧は福祉だけではない(橘玲の世界は損得勘定)

「君はスウェーデンははじめてかい。だったら最初に説明しておかなきゃならないことがあるんだ。この国では、タクシー料金は自由化されているんだよ」

フライトが遅れ、空港から高速バスでストックホルム中央駅に着いたのは午後8時前だった。ホテルに寄っていてはレストランの予約に間に合わなくなるので、スーツケースを引きずったまま駅を出ると、ちょうどタクシーが1台停まっていた。若い運転手がボンネットにもたれてスマートフォンをいじっている。

声をかけると、運転手は驚いた顔をして、いきなりスウェーデンのタクシー事情を講釈しはじめた。

「近距離はどれもメーター制だから、とくに気にする必要はない。でも長距離には固定料金とメーターの2種類があるんだ」

そういって後部座席の窓に張られた料金表を指さす。

「固定制のタクシーはゾーンによって運賃が決まっていて、それを顧客に提示しなきゃいけない。なんの表示もないのがメータータクシーだ。

たとえば君が空港までタクシーで行こうとするだろ。そのとき固定制のタクシーを使えば、会社によって料金は違うけど600クローネ(約9000円)くらいだ。それがメーター制だと3000クローネ(約4万5000円)や4000クローネ(約6万円)になるかもしれない。

でもこれはぼったくりじゃなくて、この国の法律ではメーターの金額を請求するのは合法で、乗客には支払義務があるんだよ。だから僕のいったことをちゃんと覚えておいて、長距離のタクシーでは必ずドアの料金表を見るんだよ」

あとで調べてみると、スウェーデンのタクシー事業は1990年に大胆な規制改革が行なわれ、参入自由化、営業地域の規制撤廃、営業時間規制の撤廃などに加えて運賃まで自由化された。

ストックホルム市民は駅から自宅までのルートでもっとも安いタクシー会社を予約しているから、流しのタクシーは使わない。駅前に停まっているタクシーに乗り込んでくるのは、私のようなお上りさんだけなのだ。

スウェーデンのタクシー自由化は今年で24年目になり、すっかり定着した。しかしその一方で、メータータクシーの運転手が事情を知らない観光客に高額の料金を請求するトラブルも起きている。こうした苦情が増えると規制強化の声があがるので、自由化を守りたいタクシー会社はネギを背負ったカモ(私のことだ)を見つけると運賃の説明をすることにしているのだ。

北欧諸国は福祉大国と思われているが、実は1980年代半ばから市場原理の活用に大きく舵を切った。その結果、アメリカですらやっていないタクシー業界の完全自由化という社会実験がスウェーデンで行なわれている。そして利用者も業界も、この規制緩和を支持しているのだ。

日本のタクシー業界は運賃値上げと台車制限を要求するばかりで、いつまでたっても不況から抜け出せない。海の外のさまざまな制度を比較検討してみれば、別の解決策が見つかるかもしれないのに。

橘玲の世界は損得勘定 Vol.43:『日経ヴェリタス』2014年7月14日号掲載
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