NHK会長に期待する方が間違っている 週刊プレイボーイ連載(192)

プロサッカーでは、チームの成績が振るわないとまずは選手を補強してテコ入れし、それでもうまくいかず降格がちらついてくると監督を解任し、新しい指導者に命運を託します。そのとき、同じ球技だからと野球や卓球の監督を連れてくることはありません。

「なにを当たり前のことを」と思うかもしれませんが、「日本型組織」では常識に反したことがしばしば起こります。

日本の会社も経営が傾けば社長を交替させますが、人材は社内で探し、外部から招聘する発想はありません。監督を解任しても予定調和的にコーチが昇進するだけで、たまに反抗的なコーチ(反主流派の幹部)が抜擢されると「大改革」と大騒ぎになります。

これを誰も不思議に思わないのは、日本の会社が社員の共同体で、社長はその代表だからです。閉鎖的な組織は、外部から異物が混入することをものすごく嫌います。日本のサラリーマンの習性は、社長から平社員まで、ほとんどこれで説明できるでしょう。

それでは、典型的な日本型組織が、社員の代表を経営トップに据えることを禁じられたらどうなるでしょうか? このきわめて興味深い社会実験がいま行なわれています――これはもちろんNHKのことです。

テレビ創生期のNHK会長の職は政治家、官僚、新聞人など名士の持ち回りでしたが、1976年に悲願だった生え抜き会長が誕生すると、その後も紆余曲折はありながら社員からの登用が続きました。ところが2007年に、職員が放送前のニュース原稿で株式を売買するインサイダー取引の不祥事を起こし、ふたたび外部招聘に戻されてしまいます。

欧米で似たようなことが起きたとすると、そのとき真っ先に検討されるのは、同じテレビ業界の経営幹部や元社長を連れてくることでしょう。それで都合が悪いなら、海外のテレビ局(BBCとか)の辣腕経営者をヘッドハンティングしてもいいかもしれません。これは、サッカーの外国人監督と同じです。

ところが日本の会社は社員の共同体ですから、同業他社の社長、すなわち「よその共同体の代表」がトップになることは、乗っ取り(買収)以外ではあり得ません。その結果、NHK会長はテレビ業界とはまったく関係のないところから連れてくるしかなくなってしまいました。

NHK会長の職は、じつはそれほど魅力的ではありません。年俸3000万円で、国会で政治家から吊るし上げられたり、番組内容が偏向しているとマスコミから叩かれたりするのでは、功なり名を遂げたひとはまったく興味を感じないでしょう。

それでも外部招聘した最初の2人は財界の重鎮で、プロの経営者として高い評価を得ました。しかしこの“幸運”も3人目で尽きて、目ぼしい候補者から軒並み断られた結果、大手商社の子会社社長というかなりランクの落ちる人物に任せざるを得なくなったのです。

このように考えると、いまのNHKの混乱は必然で、これまで大過なくやってこれたことの方が不思議です。現会長の“見識”を批判するのは結構ですが、これでますます引き受け手はいなくなるでしょうから、次もその次も同じことを繰り返すことになるだけでしょう。

『週刊プレイボーイ』2015年4月20日発売号
禁・無断転載

過激派テロ組織ISISの戦士を生み出したフランスの「国内問題」

『マネーポスト』2015年春号に掲載された「過激派テロ組織ISISの戦士を生み出したフランスの「国内問題」(連載:セカイの仕組み第14回)」を、編集部の許可を得てアップします。執筆時期は2015年1月です。

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仏紙襲撃事件の実行犯は全員が大規模団地出身

早朝着の便でパリのシャルル・ド・ゴール空港に降り立ち、PER(パリ高速鉄道)B線でパリ市内に向かうと、ル・ブルジェ駅からたくさんの乗客が乗り込んでくる。ほとんどがモロッコ、アルジェリア、チュニジアなど北アフリカの旧フランス植民地(マグレブ地方)出身のひとたちだ。

空港からタクシーで市内に向かうときは、ジョルジュ・ヴァルボン公園の鬱蒼とした森を抜けたあたりで忽然と高層アパート群が現われる。パリ北郊外のラ・クールヌーヴにある典型的な大規模団地(シテ)だ。

パリ中心部は歴史的建造物を保護するために開発がきびしく制限されている。ラ・クールヌーヴの近代的な巨大アパートは、もともとは市内に家を持つことができない中流の都市住民のために1950年代に建てられたが、70年代になると行政の家賃補助などに惹かれてマグレブ出身の低所得者層が集まりはじめた。B線のル・ブルジュ駅は、彼らがパリ市内への通勤に使っているのだ。

今年1月7日、パリにある風刺雑誌の出版社「シャルリー・エブド」を武装したテロリストが襲撃し、編集長やスタッフ、警護にあたっていた警官など12人を殺害した。また2日後の9日には、ユダヤ食品のスーパーマーケットに男が押し入り、居合わせた客を人質にとって立てこもった。突入した警察の特殊部隊に犯人は射殺されたが、店員や客など4人が巻き添えになった。

フランスだけでなくヨーロッパ全土を震撼させた連続テロ事件は、いずれも北アフリカからの移民の家庭に生まれた若いフランス人の犯行だった。彼らはイスラーム原理主義(ジハード唱導主義)のテロ組織ISIS(アイシス/イスラム国)から強い影響を受け、残忍なテロを実行したとされている。犯人たち全員が、ラ・クールヌーヴと同じような大規模団地の出身だった。

フランスでは1990年代からパリやリヨンなどの都市郊外で移民の若者たちによる暴動が頻発するようになった。ラ・クールヌーヴの名を一躍有名にしたのは、「治安回復」を掲げるニコラ・サルコジ内相が2005年6月、この地を訪れ「(犯罪の温床となる)団地をケルヒャーで一掃する」と述べたことだった。ケルヒャーは、隣国ドイツの代表的な高圧洗浄機メーカーだ。

同年10月27日、パリ東郊外で強盗事件を捜査していた警官が容疑者を追跡したところ、逃げ込んだ変電所で北アフリカ出身の若者2人が感電死し、1人が重傷を負った。事件の2日前には、サルコジ内相がパリ北郊外の大規模団地で若者たちを「ラカイユ(くず)」と呼んだ。その“ラカイユ”たちによる抗議行動はたちまち暴動に変わり、全国に広がってフランス政府(ド・ヴィルパン首相)は非常事態を宣言するに至った。この都市暴動をちからによって制圧したことが、2007年の大統領選でのサルコジの勝利につながっていく。

サルコジ政権の徹底した治安強化によって、2010年以降は郊外での暴動はほとんど起こらなくなった。しかしその一方で、郊外の団地で育った若者たちのなかにアル・カーイダやISISの過激な主張に魅了され、シリアやイラクを目指す者たちが相次いでいる。

フランスの都市郊外で、いったいなにが起きたのだろうか。

「ひとが嫌がることをする表現の自由はない」なら、映画を観ることすらできない 週刊プレイボーイ連載(191)

乳腺切除と卵巣・卵管切除で話題となった米女優アンジェリーナ・ジョリーの監督作品『アンブロークン』の日本公開が危ぶまれています。

ベルリンオリンピックに米国代表の陸上選手として参加したルイス・ザンペリーニ氏は、太平洋戦争で搭乗機が洋上に墜落して47日間漂流し、奇跡的に助かったものの日本軍の捕虜となり、収容所で2年半にわたる過酷な日々を過ごします。戦後、ザンペリーニ氏は自分を虐待した日本兵への復讐心に苦しみますが、キリスト教の「救い」と出会って過去を乗り越え、1998年の長野五輪では80歳の聖火ランナーとして日本を訪れることになります。

映画の原作となったノンフィクション作品は全米ベストセラーとなり、アマゾンでは2万3000ちかいレビューが付けられ、そのうちの85%が5つ星ときわめて高い評価を受けています。歴史に埋もれていたヒーローを発掘したことに加え、サバイバルから憎悪の克服、愛と許しの境地へと至る「不屈(アンブロークン)」の物語がアメリカ人のこころをつかんだのでしょう。

報道によると、昨年夏頃から「日本を貶める映画」との批判がネットで上に現われ、アメリカなど50カ国以上で公開されながらも、ボイコット運動の影響で配給会社すら決まらないとのことです。

当たり前の話ですが、読んでもいない本や、観てもいない映画を批判することは誰にもできません。アンジーは、「反日映画ではなく許しの物語だ。映画を見てもらえばわかる」と述べていますが、これは監督としてもっともで、それに対して「観なくてもわかる」というのでは駄々っ子と同じです。こんな理由で映画が上映できないのでは、民度の低さを世界に晒し、かえって日本を「貶める」ことになるでしょう。

より問題だと思うのは、「リベラル」と呼ばれるひとたちが、この露骨な「表現の自由の圧殺」をほとんど取り上げようとしないことです。その理由は明らかで、彼らはフランスの出版社『シャルリー・エブド』襲撃事件の際、「テロは言語道断だが下品な風刺画を載せた方も問題だ」として、「ひとが嫌がるようなことをする表現の自由はない」と主張していたからです。

ムハンマドの顔をモザイクで隠した風刺画を載せた書籍は、日本在住のムスリムの抗議でほとんど書店の店頭に並びませんでした。それについて出版社の社長は、「抗議しているイスラム教徒にも『読んでみてほしい』といったが、『いらない、読みたくない』との答えだった」と述べています*。

『アンブロークン』の上映に反対する会の事務局長は、「映画は見ていないが、事実無根の思い込みや決めつけによる作品で、上映の必要はない。日本人性悪説に基づいた人種差別だ」と語っています**。

両者の態度はまったく同じですから、ムスリムに配慮して風刺画を掲載しなかったリベラルなメディアは、「私が不快だと感じる“反日映画”を上映するな」と叫ぶひとびとを批判することができません。なぜならそれは、尊重すべき正当な「人権」なのですから。

日本は「自由な社会」だそうですが、そこでは「風刺画や映画を見て自分で判断したい」という当たり前の権利すら認められないようです。

表現の自由」を定めた憲法21条は削除したらどうだろう

**「反日?映画、遠い公開 旧日本軍の捕虜虐待描くアンジー作品」『朝日新聞』2015年3月17日朝刊

『週刊プレイボーイ』2015年4月13日発売号
禁・無断転載