ジコチューはどこで失敗するのか? 週刊プレイボーイ連載(76)

田中真紀子文部科学相が、秋田公立美術大学など3大学の新設を不認可と判断し、批判を受けると一転して「不認可処分はしていない」と強弁して来年春の開設を許可しました。記者団に対して「今回(の騒動が)逆にいい宣伝になって4、5年間はブームになるかもしれない」と述べ、野党から問責を突きつけられてようやく謝罪するという傲慢さです。

独断でものごとを決め、ひとの意見に耳を貸さず、自分の失敗を反省せず、部下に責任を押しつける……ここには、ジコチューな人間のイヤな面がすべて出ています。

ひとは多かれ少なかれ、世界が自分を中心に動いていると錯覚しています。田中文科相には田中角栄の娘としての強烈な自負があり、権力とは相手をちからでもって従わせることだと思っているのでしょう(たぶん)。ジコチューばかりが集まった国会ですら煙たがられるのですから、こんなタイプが会社にいたら部下はたまったものではありません。

ジコチューな人間が失敗するのは、リスクを正しく評価できないからです。

私たちは、自分の言動を客観的に見ることができません。しかしそれでも、相手がどう思うだろうかとか、世間から批判されないだろうかとか、あれこれ思い悩みます。この仮想体験(シミュレーション)が、こころの機能です。

このシミュレーションがあまりに過剰だと、考えすぎてなにも行動できなくなり、引きこもりやうつ病になってしまいます。その反対にシミュレーション機能が働かないと、相手の反応をまったく予測せずに行動してしまいます。“暴走大臣”はこの典型です。

ただしこの欠点は、他人がどれほど注意しても直りません。主観的には暴走しているつもりなどまったくなく、自分は正しいことをしているのに、周囲の無理解によって理不尽に批判されていると感じられるからです。その意味では、「いい宣伝になった」という発言は彼女の素直な気持ちを表わしています。

田中文科相がどのような人格(キャラ)かは外務省の騒動のときからわかっていたのですから、首相の任命責任を問われても仕方がないでしょう。しかし批判はこのくらいにして、よい面にも目を向けてみましょう。

少子化で学生数が大きく減り、将来も回復する見込みがないにもかかわらず、四年生大学の数だけが増え続けるのは異常です。新設の認可を答申する大学設置審議会の委員の大半が大学関係者であることも、大学に多額の助成金が支払われるかわりに官僚の天下り先になっていることも、定員割れの大学が留学生を大量に受け入れ、不法就労などの問題を起こしていることもすべて事実です。このような制度が持続可能なはずはなく、“暴走”したとしても、その方向は正しかったのです。

田中文科相は小泉政権で外務大臣となり、「外務省は伏魔殿」と述べて外務官僚と激しく対立しました。その対応については評価が分かれるでしょうが、官房機密費を横領して競走馬を購入するなど、外務官僚の歪んだ体質は明らかです。

このように、田中文科相の政治家としての「直感」は間違ってはいませんでした。しかし残念なことに、他者への想像力の欠けたジコチューでは、その素晴らしい直感力を活かすことができなかったのです。

 『週刊プレイボーイ』2012年11月19日発売号
禁・無断転載

世界の秘密はすべて解けてしまった

新刊『不愉快なことには理由がある』から、PLOLOGUE「世界の秘密はすべて解けてしまった」の冒頭部分を掲載します。

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私たちの感情は、幸福や哀しみも、愛や憎しみも、歓喜や絶望もすべて科学的に説明できるといわれたらどう思うでしょう?

政治も経済も、独裁や戦争や虐殺ですら、この世界で起きているすべてのことはその理由が解明されていたとしたらどうでしょう。

あるいは、社会学や経済学だけでなく、心理学や哲学、文学に至るまで、人文・社会科学と呼ばれていた学問は、すべて科学の統一原理によってまとめられることを知っていましたか?

じつはこれは、SFの世界の話ではなく、すべて現実に起きていることです。より正確には、「こころとはなにか」が科学によって解明できるようになってきた、ということですが。

もちろんあなたは、こんな与太話を信じようとはしないでしょう。でも、もうすこしつきあってください。

なんでこんなことに気づかなかったのか?

グーテンベルクの印刷機やワットの蒸気機関、ニュートンの万有引力の法則やアインシュタインの相対性理論など、私たちの生活や世界の見方を根本から変えてしまうような発明や発見はいくつもあります。これを「パラダイム(枠組み)転換」といいますが、そのなかでも最大の発見のひとつがチャールズ・ダーウィンの進化論です。

世界には、宗教的な理由から進化論を認めないひとたちがたくさんいますが、一神教の教義から自由な日本人は、多種多様な生き物が40億年前に誕生した単細胞生物から進化したことや、ヒトの祖先とチンパンジーやボノボの祖先が共通していることを常識だと思っています。しかしこれは、進化論の持つ途方もない可能性のごく一部でしかありません。

進化論というのは、「子孫を残すことに成功した遺伝子が次世代に引き継がれる」という理論です。これをもっと簡単にいうと、「生き残ったものが生き残る」というだけのことで、ダーウィンの『種の起源』を読んだ当時の知識人たちが、「なんでこんなことに気づかなかったのか」と愕然としたのもよくわかります。

その後、進化論は個体だけでなく、社会や文明も進化していくという社会進化論に拡張され、それが人種差別を正当化し、ナチス・ドイツによるホロコースト(ユダヤ人虐殺)へとつながったとの反省から、厳しい批判にさらされました。現代の進化論は、そうした批判に一つひとつ科学的にこたえていくことで鍛えられていったのです。

1970年代に、進化論は生物学や遺伝学、ゲーム理論などの最新の研究成果を取り入れた進化生物学(社会生物学)となり、90年代には進化によってひとの感情(こころ)を説明しようとする進化心理学へと発展しました。

こうした現代の進化論の成果を大衆に広めたのがイギリスの動物行動学者リチャード・ドーキンスで、「利己的な遺伝子」は世界的な流行語になりました。

ドーキンスは、進化するのは遺伝子(のプログラム)で、生物は遺伝子のたんなる乗り物(ビークル)に過ぎないと説きます。もちろんこれは、遺伝子に進化への意志があるわけではなく、「生き残ったものが生き残る」という単純な原理によって、より環境に適した遺伝的プログラムが次世代に引き継がれるというだけのことです。

進化論を「利己的Selfish」な遺伝子の立場から説明することは、レトリックとしてはきわめて優れていますが、同時に、遺伝子が人間を支配しているかのような多くの誤解を招きました。ドーキンスは進化の仕組みを「盲目の(意識を持たない)時計職人」とも評していますが、こちらの言葉はまったく流行りませんでした。

進化心理学では、キリンの首が長くなるような身体的特徴だけでなく、人間のこころや感情も、より多くの子孫を残すように進化してきたと考えます。しかしこれも、まったく奇異な主張をしているわけではありません。

母親の子どもへの愛情を考えてみましょう。

子どもを愛さない遺伝的プログラムが突然変異で現われたとしても、このプログラムを搭載した個体はうまく子どもを育てることができませんから、その遺伝子は次世代に引き継がれることなく途絶えてしまいます。それに対して、子どもに対する愛情が強いほど多くの子孫を残せるとしたら、長い進化の過程で母親の愛情は強化されていくにちがいありません。

爬虫類には「家族」という概念がなく、近くに子どもがいるとエサとして食べてしまいます。そのため、タマゴから孵ったばかりの幼い爬虫類は、できるだけ早くその場から逃れるようプログラムされています。

一方、哺乳類や鳥類は、親が自分の子どもを認識して、エサを与えるなどの養育行動をとることで子孫を増やすよう進化してきました。そのなかでもヒトはこころを持っているので、この養育本能を「愛」と解釈するのです。

しかしだからといって、母親の愛が無窮だというわけではありません。遺伝子のプログラムがより多くの子孫を効率的に残すことだとすれば、母親は兄弟姉妹のなかで大きく美しい子どもを愛する(優先的に養育する)でしょう。さらには、生まれたばかりの赤ん坊は世話をしなければ死んでしまいますから、「投資」をムダにしないためには、乳幼児を溺愛し、年上の子どもは邪険に扱う(自力で食料を獲得させる)はずです。

このことから、「現代社会では母性本能がこわれてしまった」などという主張がまったくのデタラメだとわかります。児童虐待が再婚した母子家庭に多いことは統計的に明らかですが、継父が血のつながらない子どもに暴力を振るうのも、母親が新しい夫(愛人)をつなぎとめるために子どもを虐待するのも、すべて進化論的に説明可能です。母親の愛はそもそも完全無欠ではなく、たった1世代や2世代の出来事が40億年の進化の歴史に影響を与えるはずはないのです。

どれほど修行しても解脱できない

進化心理学は超強力な説明原理なので、“こころの問題”を一刀両断に解明してしまいます(それに納得するかどうかは別問題です)。

眠っているとき以外は、ひとはいつもあれこれ思い悩んで暮らしています。じつは私たちは、人生の大半をシミュレーションに費やしています。

学校に行けば、好きな男の子(女の子)の後ろ姿を見て、誕生日にプレゼントを渡したら受け取ってもらえるだろうかと考えます。

会社では、新商品をいくらで販売したらライバルに勝てるかを何時間も議論します。

家庭では、生まれたばかりの赤ん坊を眺めながら、この子にはどんな未来が待っているのだろうかと夫婦で話し合います。

これらはすべて、シミュレーション(ある仮説を立てて、その現実の結果を模擬実験などで予想すること)です。なぜ私たちがいつも思い悩んでばかりいるかというと、新しい事態に遭遇すると、こころという「シミュレーション装置」が無意識に駆動しはじめるからです。

ところで、ヒトはなぜこころなどという奇妙な能力を獲得したのでしょう。それはもちろん、(利己的な遺伝子の)生存にとって有利だったからです。

チンパンジーはヒトと同じ社会的な動物で、その生態を観察すると単純なシミュレーション装置(こころ)を持っていることがわかります。群れを統率するのはアルファオスと呼ばれる第一順位のオスですが、すべてのメスを独占しているわけではなく、下位のオスにも生殖の機会は与えられています。しかし交尾には上位のオスの暗黙の了解が必要で、さもなければこっそり“不倫”するしかありません。

このときチンパンジーは、いまここでメスと交尾しても上位のオスに攻撃されないかどうか、さまざまな方法で知ろうとします。このシミュレーションが上手ければ、身体が大きかったり力が強かったりしなくても子孫を残すことができるのです。

シミュレーションで相手の行動を的確に予想できれば、異性を獲得するだけでなく、狩りをするのも、敵から身を守るのもずっと容易になります。これを「知能」と呼ぶならば、ヒトの祖先は賢ければ賢いほど生き残る確率が上がり、より多くの異性と交尾して子孫を残せたはずです。

孔雀のオスの尾羽根がきらびやかなのは、メスがより美しい(尾羽根の豪華な)オスを選ぶからです。これはもともと、長い尾羽根を持つオスが強健で、なんらかの偶然で、メス(の遺伝子)が尾羽根で交尾の相手を選択するようになったからだと考えられています。いったんこのようなルールができあがると、進化という「盲目の時計職人」の手によって、オスの尾羽根は生存の限界まで派手になっていきます。

長くて重い尾羽根を持つオスは捕食動物に簡単に食べられてしまいますが、たとえそうであっても、短い“人生”のあいだに、より俊敏に動ける尾羽根の短いオスよりもずっと多くの子孫を残すことができます。このように、生存に有利な特徴が非現実的なまでに拡張することを進化のランナウエイ(暴走)効果といいます。

言語の起源については諸説ありますが、ヒトが言葉というコミュニケーション能力を得たことで大脳新皮質を急激に発達させていったことは間違いありません。こころがいかに強力な武器だったかは、食料を求めてアフリカ大陸を出た人類の祖先が、短期間のうちにさまざま種を絶滅させながら地球上に繁殖したことで明らかでしょう。ヒトにとって脳はクジャクの尾羽根であり、進化のランナウエイ効果の結果、不必要なまでに高度の知能(シミュレーション能力)を獲得したのです(クリストファー・ウィルズ『暴走する脳』)。

シミュレーションがこころの本質だとすれば、私たちはそこから逃れることはできません。仏教では、修行による解脱、すなわち悩みからの解放を説きますが、シミュレーション機能を停止させてしまえばひとはもはやヒトでなくなってしまいますから、解脱は人類の理想であっても原理的に不可能なのです。

たったひとつの正しい主張ではなく、たくさんの風変わりな意見を

新刊『不愉快なことには理由がある』のINTRODUCTION「たったひとつの正しい主張ではなく、たくさんの風変わりな意見を」を掲載します。

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本書では、政治や経済、社会的事件など、私たちのまわりで起きるさまざまな出来事について日々考えたことを綴っていますが、正しい主張が書かれているわけではありません。

いきなりの暴言で驚かれたかもしれませんが、その理由は3つあります。

ひとつは、私が、それぞれの問題についてはただの素人だということ。日本には、政治学や経済学、社会学などの優れた専門家がたくさんいます。彼らと同じ学問的レベルで“正しい”論述をするのは、そもそも素人には不可能です。

ふたつめは、多くの社会問題でなにが正しいのかわからないこと。これは、私たちの世界が不確実で、未来を誰も予想できないからです。複雑で緊密な小さな世界(スモールワールド)の話は次章でしますが、難しい説明がなくても、3・11の前は専門家の大半が原発の絶対安全を信じていたことを思い起こせばじゅうぶんでしょう。専門家が間違っているのなら、専門レベルの正しさを妄信することは破滅への道です。

3つめは、問題には必ず解があるわけではないこと。あるいは、解があってもそれが実現不可能な場合があること。尖閣や竹島は日中・日韓の「問題」ですが、主権国家の集合体である近代世界は領土問題を解決する方法を持っていません。

こうした「不愉快な真実」は、あたりを見回せばいくらでも見つかります。

世界には、1日1.25ドル(100円)未満で暮らす貧困層が12億人(途上国人口の22%)もいます。世界の貧困人口は経済のグローバル化によって大きく減少しましたが、それでも先進国と途上国の「経済格差」は道徳的に容認し得ないものがあります。

理論的には、こうした貧困問題を解決するのは簡単です。アメリカやヨーロッパ、日本などのゆたかな国が国境を開放し、無制限に移民を受け入れるなら、貧困に苦しむ多くのひとたちが所得を得る機会を手に入れ、2世代か3世代経つ頃には、世界の貧困はなくならないにしても劇的に改善していることでしょう。

もちろんほとんどのひとは、こうした“正解”を荒唐無稽なものとして一笑に付すでしょう。そして不愉快な問題から目をそむけるか、あるいは経済援助や債務帳消しのような、より簡便で気分のいい解決策に飛びつくのです。

「中央銀行がマネーを大量に供給すれば不況はたちまち終わる」とか、「国家がすべてのひとに生活最低保障すれば貧困問題は解決する」とか、「太陽光発電や風力発電で原発をゼロにできる」とか、さまざまな“一発逆転”のアイデアが出されています。その一方でこれを真っ向から否定する専門家も多く、学問的な論争は見苦しい罵り合いと化しています。

政策的に重要で、専門家のあいだで合意が成立しない問題は、民主制(デモクラシー)社会では最後は素人が選択するしかありません。

幸いなことに、いまでは素人の集合知が少数の専門家の判断よりも正しいことがわかっています。この不思議な現象は、アメリカのジャーナリスト、ジェームズ・スロウィッキーの『「みんなの意見」は案外正しい 』で広く知られることになりました。

集合知の仕組みはいまだ完全に解明されたわけではありませんが、ウシの体重を予想したり、ビンの中の飴玉の数を当てたりする場合は、不特定多数のなかから誰が真の専門家なのかを発見する機能があるからだとされています。素人は無知なので回答の数字が極端に大きかったり小さかったりしますが、参加者の数がじゅうぶんに多ければこれらの誤答は相殺されて正解へと収斂していくのです。

株式投資の銘柄予想でも素人の集合知が有効なことがわかっていますが、こちらはウシの体重や飴玉の数とはちがって不確実な未来を予測する問題です。

素人の予想が専門家を上回るのは、知っている会社(有名ブランド)にしか投資しないからだと考えられます。株価を予想したひとたちは、投資についてはど素人かもしれませんが、消費者としては圧倒的多数派です。彼ら/彼女たちは、スマホを買うときにそれぞれのメーカーの仕様やスペックを詳細に検討したりなどせず、みんなが持っているというだけでアイフォンを選び、休日に友だちと待ち合わせるときは説明が不要な「駅前のスタバ」にするでしょう。このようにして消費者は強いブランドに集まり、その会社の利益と株価を押し上げるのです。(ゲルト・ギーゲレンツァー『なぜ直感の方が上手くいくのか?』)。

いずれの場合でも、集合知を有効に活かすためには、バイアス(歪み)のない多様な意見が重用です。その一方で、独裁者が理想を追い求めたり、大衆が感情に流されて“最終解決”に飛びつくと、戦争や内乱、虐殺のようなとてつもなくヒドいことが起きることを20世紀の歴史は教えてくれます。だとすれば真に必要なのは、たったひとつの正しい主張ではなく、たくさんの風変わりな意見なのです。

生態系の維持に生物多様性が重要なように、社会の安定にも意見の多様性が不可欠です。

19世紀イギリスの自由主義思想家、ジョン・スチュワート・ミルはこのことに気づいていて、「真理に到達するもっともよい方法は、異なる意見を持つ者の話を聞くことだ」といいました。そればかりか、誰ひとりあなたの意見を批判する者がいない場合は、「自分自身で自分の意見を批判せよ」とまで述べています。

しかしだからといって、いい加減な思いつきを並べても読者は混乱するばかりでしょう。そこで本書では、日本社会や日本人を論じる際にひとつの基準(というか視点)を採用しています。それが、進化論です。

なぜ社会批評に進化論が出てくるのか、不思議に思うかもしれません。そんなひとのためにプロローグで、現代の進化論(進化心理学や進化生物学)が脳科学や遺伝学の研究成果によって急速に発展し、ゲーム理論や行動経済学などの社会科学と融合して、人間と社会の謎を解明する統一的な理論を構築するという、巨大な知のパラダイム転換が起きていることを概観します。本書のアイデアは、こうした知見を政治や経済、社会の出来事に適用して、マスメディア(ワイドショー)とは異なる視点を提供しようというものです。

ところでここで、ふたたび最初の疑問が頭をもたげてくるかもしれません。日本には、進化心理学や脳科学、行動経済学やゲーム理論などの優れた専門家がたくさんいます。だったら、そのひとたちに任せればいいではないか……。

しかし現実には、こうした専門家が議論の沸騰する問題に口を出すことはきわめて稀です。研究の妨げになることはもちろん、専門家は自らの専門分野で間違えることが許されず、専門分野以外への口出しがルール違反(領域侵犯)とされているからでしょう。このようにして、専門が細分化されていくにつれて、優秀なひとほど社会問題についての発言を控えるようになっていきます。

現代では、理系・文系を問わずあらゆる学問で複雑・高度な知の体系が構築されていますから、そのすべてに通暁することは誰にとっても不可能です。人間や社会について学際的に発言しようと思ったら、程度の差はあれ、生半可な知識に頼るほかはありません。「地雷を踏む(@小田嶋隆)」ような社会批評は、“素人”以外にはできなくなっているのです。

読者のなかには、こうした説明を開き直りとか、いい加減と思う方もいるでしょう。その場合は、どうぞ書店の棚に戻してください(お時間をとらせて申し訳ありませんでした)。もしまだ興味があれば、プロローグで本書のフレームワークを示しているので、そこからお読みいただくと、なぜこんな奇妙な主張をするのかがおわかりいただけると思います(「進化心理学のことなんて知っているよ」という方は、そのままPART1にお進みください)。

近代文明は驚くほどの進歩を遂げたので、解決できる問題のあらかたは解決されてしまいました。だとすればいま残っているのは、問題の解決が新たな問題を生むようなやっかいなものばかりでしょう。不愉快なことには、すべて理由があるのです。

そんな世界をすこしでも生きやすい場所にするために、「みんなと違う視点を提供して意見の多様性に貢献する」という本書の目的が上手くいっているかどうか、ご判断いただければ幸いです。