遺伝と環境から「幸福」を考えるということ 【書評】『遺伝マインド』

『遺伝マインド』は、日本における行動遺伝学の第一人者である安藤寿康氏が、「遺伝子」についての正しい理解の重要性を初心者にもわかりやすく書いた本だ。

「遺伝マインド」とは、「人間の心や行動、そして社会の成り立ちや人間と自然の関係について考えるとき、そこにつねに遺伝の影響があることをふまえて考えようとする姿勢や態度のこと」だ。ここで述べられているのは人間観や社会観(世界観)のコペルニクス的転換で、今日、遺伝の影響を無視して哲学や道徳、人間や社会について語ることはできない。

安藤氏によると、「遺伝マインド」は次の3点にまとめられる。

  1. 遺伝現象は個々の「遺伝子」の単独プレイによるのではなく、多数の「遺伝子たち」の協同プレイによる現象である。
  2. 遺伝現象は環境を介してあぶり出されてくる。
  3. 社会は多様な遺伝子たちによってつくられている。

これらは、すこし考えてみれば当たり前のことばかりだ。

「エースストライカーの遺伝子」や「ものづくりの遺伝子」のような、ある特性(特徴)に対応する固有の遺伝子があるわけではない。多数の遺伝子の相互作用(複雑系)から、遺伝現象は生まれる。

遺伝と環境は独立しているわけではなく、相互に影響を与えあう。特定の環境に対して特定の遺伝現象が発現すると同時に、発現した遺伝的傾向によって環境が改変されていく。

両性生殖は遺伝子を多様化する仕組みであり、こうして生まれたひとびとによって構成される社会が多様な遺伝子を持つのは当たり前だ。

行動遺伝学は、以下の3つのメッセージを私たちに伝えている。

  1. 遺伝の影響はあらゆる側面に見られる。
  2. 共有環境の影響はまったくないか、あっても相対的に小さい場合が多い。
  3. 非共有環境の影響が大きい。

遺伝の影響が普遍的なことは、以前のエントリーでも紹介した。共有環境と非共有環境についても何度か書いたが、共有環境というのはかんたんにいえば家族(子育て)のことだ。

性格は遺伝と環境の影響で決まる(氏が半分、育ちが半分)が、家庭で共有する環境は子どもたちを類似させるよるもむしろばらばらにする。

この矛盾を体系的に説明したのが、ジュディス・リッチ・ハリスの「集団社会化説」だ。しかし安藤氏は、これは「人格形成にとって家庭環境は重要でない」ということではないという(このあたりの細かな議論は本書を読んでいただきたい)。

私の理解では、共有環境とは外的に操作可能な環境で、非共有環境は操作不可能な環境のことだ。家庭環境(子育て)は親の意思で設計できるが、子どもがどのような友だち集団を選び、そのなかでどのようなキャラを演じるかに親が干渉することはできない。そしてこの非共有環境(友だち関係)が子どもの人格や性格を決めるのだ。

『遺伝マインド』によれば、人間は生まれつき等しいわけではない。「遺伝的に等しくない人々がともに生きる社会において、遺伝的な差異が理由で、能力に差があり、成功の機会に差があり、収入に差があり、社会的地位に差があり、受ける社会的尊敬や自尊心の程度に差があり、衛生や健康の度合いに差があり、寿命に差がある」のは当たり前なのだ。

そのうえで安藤氏は、「社会的不平等の現実が、遺伝ではなく、環境によって、あるいは本人の心のもち方によってつくられたものだと考えたがる風潮」を批判する。

念のためいっておくが、遺伝マインドは「遺伝がすべてを決める」という優生思想ではなく、遺伝と環境の相互作用で人生が決まるというしごく穏当な主張だ。そのうえで安藤氏は、人格や能力は環境(家庭環境や教育環境)で決まるという「環境マインド」こそが優生思想だと批判する。平等な環境で生じた差異や不平等はすべて本人の責任として正当化されてしまうからだ。

「(社会から脱落してしまう)負の連鎖の原因を遺伝ではなく環境や本人の心構えに帰するのは、それしか解決の方法が思いつかないからである。環境なら設計的改変が可能だ。心構えも気持ちのもちようで何とか変えられる。しかし遺伝といわれたらもうどうしようもない。かつてナチスの優生社会では、社会悪を遺伝のせいにしたために、ユダヤ人虐殺まで正当化してしまったではないか。今またそれを繰り返そうというのか……、と。皮肉なことに、こうして二度と優生社会をつくるまいと遺伝的要因を否定する考え方が、事実上の優生社会をつくりあげることに寄与しているのである。」

これが現代社会の最大のタブーで、それを真正面から指摘したことに本書の最大の価値がある。「子育て」や「教育」や「個人の努力(自己啓発)」で“ひとは変われる”という善意こそが、残酷な優生思想を生み出すのだ。今後、あらゆる哲学や道徳はこの批判にこたえるものでなければならない(これについては、新刊『不愉快なことには理由がある』で書いた)。

ところで、「遺伝マインド」の世界で私たちはどのように生きていけばいいのだろうか? 一般論としてなら、本書にそのこたえが書いてある。

私たちの遺伝的な特性はきわめて多様だ。そのうえ遺伝と環境は相互作用していて、環境が遺伝現象を発現させ、発現した遺伝的現象が環境を変えていく。そう考えれば、ここから導かれる「成功の法則」はものすごくシンプルだ。

第一のステップは、自分の遺伝的な「比較優位」を知ることだ。発現する遺伝現象は環境によって異なるのだから、それを知るためには、できるだけ多様な環境に身を置いてみるほかはない。

遺伝の表われ方には、次のふたつの法則がある。

  1. 環境の自由度が高いほど遺伝の影響が表われる
  2. 環境が厳しいほど遺伝の影響が表われる

これは一見、相反することを述べているようだから、すこし説明が必要だ。

やりたいことをなんでも試してみることができる自由な環境の方が、好きなことを見つけやすいのは当たり前だ。しかしその一方で、制約の厳しい伝統的社会よりも自由な社会の方が、アルコールやドラッグへの耽溺のようなネガティブな遺伝的影響が表われやすいこともわかっている。

その一方で、うつ傾向のあるひとがうつ病を発症するのは、ストレスが著しく大きいときだ。環境が厳しいと、苦痛に敏感に反応する遺伝的素因が発現してくるのだ。しかしこのことは、厳しい環境に追い込むことで発現するポジティブな遺伝的素因があることを示唆している。

「石の上にも3年」というが、嫌なことを我慢しつづけても遺伝的な比較優位を見つけることはできない。これは因果関係が逆で、「3年続けられた」ということが、その仕事に対する遺伝的な適性を示している。遺伝的適性があれば、環境の厳しさがその素因をさらに伸ばすことになるかもしれない。

遺伝的な「比較優位」とは、要するに「好きなこと」「得意なこと」で、それによって(友だち)集団からポジティブなフィードバックが返ってくるもののことだ。それが見つかったら、次は遺伝的特性に合わせてまわりの環境を改変していけばいい。

これはたんに楽しいことだけするのではなく、収益化のモデルをつくっていくことだ。どれほど「好き」で「得意」でも、それを市場で“商品化”できなければ生きていくことができない。

人生における「成功者」とは、億万長者になって豪邸やプライベートジェットを手に入れることではなく、遺伝的な「比較優位」を最大化できる環境を自分のまわりにつくりあげたひとのことだ。そのためには、好きなことだけして生きていけるよう、人生を戦略的に設計しなければならない。

これが、行動遺伝学や進化心理学から導き出された成功の法則だ(より詳しくは、拙著『残酷な世界を生き延びるたったひとつの方法』をお読みください)。

『遺伝マインド』の最後で安藤氏は、遺伝的特性に合わせて環境を選択し、改変していく可能性(生きる希望)を述べると同時に、ヒトの遺伝子そのものの改変は超越的なものによって「禁じられている」と書く。

聖書には、「主たる汝の神を試みてはならぬ」とある。

「遺伝子研究は、遺伝子をもとにあったところに返す旅であり、それを使うために行うのではない」という言葉は重い。

なお、本書の続編として『遺伝子の不都合な真実』がある。

ジコチューはどこで失敗するのか? 週刊プレイボーイ連載(76)

田中真紀子文部科学相が、秋田公立美術大学など3大学の新設を不認可と判断し、批判を受けると一転して「不認可処分はしていない」と強弁して来年春の開設を許可しました。記者団に対して「今回(の騒動が)逆にいい宣伝になって4、5年間はブームになるかもしれない」と述べ、野党から問責を突きつけられてようやく謝罪するという傲慢さです。

独断でものごとを決め、ひとの意見に耳を貸さず、自分の失敗を反省せず、部下に責任を押しつける……ここには、ジコチューな人間のイヤな面がすべて出ています。

ひとは多かれ少なかれ、世界が自分を中心に動いていると錯覚しています。田中文科相には田中角栄の娘としての強烈な自負があり、権力とは相手をちからでもって従わせることだと思っているのでしょう(たぶん)。ジコチューばかりが集まった国会ですら煙たがられるのですから、こんなタイプが会社にいたら部下はたまったものではありません。

ジコチューな人間が失敗するのは、リスクを正しく評価できないからです。

私たちは、自分の言動を客観的に見ることができません。しかしそれでも、相手がどう思うだろうかとか、世間から批判されないだろうかとか、あれこれ思い悩みます。この仮想体験(シミュレーション)が、こころの機能です。

このシミュレーションがあまりに過剰だと、考えすぎてなにも行動できなくなり、引きこもりやうつ病になってしまいます。その反対にシミュレーション機能が働かないと、相手の反応をまったく予測せずに行動してしまいます。“暴走大臣”はこの典型です。

ただしこの欠点は、他人がどれほど注意しても直りません。主観的には暴走しているつもりなどまったくなく、自分は正しいことをしているのに、周囲の無理解によって理不尽に批判されていると感じられるからです。その意味では、「いい宣伝になった」という発言は彼女の素直な気持ちを表わしています。

田中文科相がどのような人格(キャラ)かは外務省の騒動のときからわかっていたのですから、首相の任命責任を問われても仕方がないでしょう。しかし批判はこのくらいにして、よい面にも目を向けてみましょう。

少子化で学生数が大きく減り、将来も回復する見込みがないにもかかわらず、四年生大学の数だけが増え続けるのは異常です。新設の認可を答申する大学設置審議会の委員の大半が大学関係者であることも、大学に多額の助成金が支払われるかわりに官僚の天下り先になっていることも、定員割れの大学が留学生を大量に受け入れ、不法就労などの問題を起こしていることもすべて事実です。このような制度が持続可能なはずはなく、“暴走”したとしても、その方向は正しかったのです。

田中文科相は小泉政権で外務大臣となり、「外務省は伏魔殿」と述べて外務官僚と激しく対立しました。その対応については評価が分かれるでしょうが、官房機密費を横領して競走馬を購入するなど、外務官僚の歪んだ体質は明らかです。

このように、田中文科相の政治家としての「直感」は間違ってはいませんでした。しかし残念なことに、他者への想像力の欠けたジコチューでは、その素晴らしい直感力を活かすことができなかったのです。

 『週刊プレイボーイ』2012年11月19日発売号
禁・無断転載

世界の秘密はすべて解けてしまった

新刊『不愉快なことには理由がある』から、PLOLOGUE「世界の秘密はすべて解けてしまった」の冒頭部分を掲載します。

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私たちの感情は、幸福や哀しみも、愛や憎しみも、歓喜や絶望もすべて科学的に説明できるといわれたらどう思うでしょう?

政治も経済も、独裁や戦争や虐殺ですら、この世界で起きているすべてのことはその理由が解明されていたとしたらどうでしょう。

あるいは、社会学や経済学だけでなく、心理学や哲学、文学に至るまで、人文・社会科学と呼ばれていた学問は、すべて科学の統一原理によってまとめられることを知っていましたか?

じつはこれは、SFの世界の話ではなく、すべて現実に起きていることです。より正確には、「こころとはなにか」が科学によって解明できるようになってきた、ということですが。

もちろんあなたは、こんな与太話を信じようとはしないでしょう。でも、もうすこしつきあってください。

なんでこんなことに気づかなかったのか?

グーテンベルクの印刷機やワットの蒸気機関、ニュートンの万有引力の法則やアインシュタインの相対性理論など、私たちの生活や世界の見方を根本から変えてしまうような発明や発見はいくつもあります。これを「パラダイム(枠組み)転換」といいますが、そのなかでも最大の発見のひとつがチャールズ・ダーウィンの進化論です。

世界には、宗教的な理由から進化論を認めないひとたちがたくさんいますが、一神教の教義から自由な日本人は、多種多様な生き物が40億年前に誕生した単細胞生物から進化したことや、ヒトの祖先とチンパンジーやボノボの祖先が共通していることを常識だと思っています。しかしこれは、進化論の持つ途方もない可能性のごく一部でしかありません。

進化論というのは、「子孫を残すことに成功した遺伝子が次世代に引き継がれる」という理論です。これをもっと簡単にいうと、「生き残ったものが生き残る」というだけのことで、ダーウィンの『種の起源』を読んだ当時の知識人たちが、「なんでこんなことに気づかなかったのか」と愕然としたのもよくわかります。

その後、進化論は個体だけでなく、社会や文明も進化していくという社会進化論に拡張され、それが人種差別を正当化し、ナチス・ドイツによるホロコースト(ユダヤ人虐殺)へとつながったとの反省から、厳しい批判にさらされました。現代の進化論は、そうした批判に一つひとつ科学的にこたえていくことで鍛えられていったのです。

1970年代に、進化論は生物学や遺伝学、ゲーム理論などの最新の研究成果を取り入れた進化生物学(社会生物学)となり、90年代には進化によってひとの感情(こころ)を説明しようとする進化心理学へと発展しました。

こうした現代の進化論の成果を大衆に広めたのがイギリスの動物行動学者リチャード・ドーキンスで、「利己的な遺伝子」は世界的な流行語になりました。

ドーキンスは、進化するのは遺伝子(のプログラム)で、生物は遺伝子のたんなる乗り物(ビークル)に過ぎないと説きます。もちろんこれは、遺伝子に進化への意志があるわけではなく、「生き残ったものが生き残る」という単純な原理によって、より環境に適した遺伝的プログラムが次世代に引き継がれるというだけのことです。

進化論を「利己的Selfish」な遺伝子の立場から説明することは、レトリックとしてはきわめて優れていますが、同時に、遺伝子が人間を支配しているかのような多くの誤解を招きました。ドーキンスは進化の仕組みを「盲目の(意識を持たない)時計職人」とも評していますが、こちらの言葉はまったく流行りませんでした。

進化心理学では、キリンの首が長くなるような身体的特徴だけでなく、人間のこころや感情も、より多くの子孫を残すように進化してきたと考えます。しかしこれも、まったく奇異な主張をしているわけではありません。

母親の子どもへの愛情を考えてみましょう。

子どもを愛さない遺伝的プログラムが突然変異で現われたとしても、このプログラムを搭載した個体はうまく子どもを育てることができませんから、その遺伝子は次世代に引き継がれることなく途絶えてしまいます。それに対して、子どもに対する愛情が強いほど多くの子孫を残せるとしたら、長い進化の過程で母親の愛情は強化されていくにちがいありません。

爬虫類には「家族」という概念がなく、近くに子どもがいるとエサとして食べてしまいます。そのため、タマゴから孵ったばかりの幼い爬虫類は、できるだけ早くその場から逃れるようプログラムされています。

一方、哺乳類や鳥類は、親が自分の子どもを認識して、エサを与えるなどの養育行動をとることで子孫を増やすよう進化してきました。そのなかでもヒトはこころを持っているので、この養育本能を「愛」と解釈するのです。

しかしだからといって、母親の愛が無窮だというわけではありません。遺伝子のプログラムがより多くの子孫を効率的に残すことだとすれば、母親は兄弟姉妹のなかで大きく美しい子どもを愛する(優先的に養育する)でしょう。さらには、生まれたばかりの赤ん坊は世話をしなければ死んでしまいますから、「投資」をムダにしないためには、乳幼児を溺愛し、年上の子どもは邪険に扱う(自力で食料を獲得させる)はずです。

このことから、「現代社会では母性本能がこわれてしまった」などという主張がまったくのデタラメだとわかります。児童虐待が再婚した母子家庭に多いことは統計的に明らかですが、継父が血のつながらない子どもに暴力を振るうのも、母親が新しい夫(愛人)をつなぎとめるために子どもを虐待するのも、すべて進化論的に説明可能です。母親の愛はそもそも完全無欠ではなく、たった1世代や2世代の出来事が40億年の進化の歴史に影響を与えるはずはないのです。

どれほど修行しても解脱できない

進化心理学は超強力な説明原理なので、“こころの問題”を一刀両断に解明してしまいます(それに納得するかどうかは別問題です)。

眠っているとき以外は、ひとはいつもあれこれ思い悩んで暮らしています。じつは私たちは、人生の大半をシミュレーションに費やしています。

学校に行けば、好きな男の子(女の子)の後ろ姿を見て、誕生日にプレゼントを渡したら受け取ってもらえるだろうかと考えます。

会社では、新商品をいくらで販売したらライバルに勝てるかを何時間も議論します。

家庭では、生まれたばかりの赤ん坊を眺めながら、この子にはどんな未来が待っているのだろうかと夫婦で話し合います。

これらはすべて、シミュレーション(ある仮説を立てて、その現実の結果を模擬実験などで予想すること)です。なぜ私たちがいつも思い悩んでばかりいるかというと、新しい事態に遭遇すると、こころという「シミュレーション装置」が無意識に駆動しはじめるからです。

ところで、ヒトはなぜこころなどという奇妙な能力を獲得したのでしょう。それはもちろん、(利己的な遺伝子の)生存にとって有利だったからです。

チンパンジーはヒトと同じ社会的な動物で、その生態を観察すると単純なシミュレーション装置(こころ)を持っていることがわかります。群れを統率するのはアルファオスと呼ばれる第一順位のオスですが、すべてのメスを独占しているわけではなく、下位のオスにも生殖の機会は与えられています。しかし交尾には上位のオスの暗黙の了解が必要で、さもなければこっそり“不倫”するしかありません。

このときチンパンジーは、いまここでメスと交尾しても上位のオスに攻撃されないかどうか、さまざまな方法で知ろうとします。このシミュレーションが上手ければ、身体が大きかったり力が強かったりしなくても子孫を残すことができるのです。

シミュレーションで相手の行動を的確に予想できれば、異性を獲得するだけでなく、狩りをするのも、敵から身を守るのもずっと容易になります。これを「知能」と呼ぶならば、ヒトの祖先は賢ければ賢いほど生き残る確率が上がり、より多くの異性と交尾して子孫を残せたはずです。

孔雀のオスの尾羽根がきらびやかなのは、メスがより美しい(尾羽根の豪華な)オスを選ぶからです。これはもともと、長い尾羽根を持つオスが強健で、なんらかの偶然で、メス(の遺伝子)が尾羽根で交尾の相手を選択するようになったからだと考えられています。いったんこのようなルールができあがると、進化という「盲目の時計職人」の手によって、オスの尾羽根は生存の限界まで派手になっていきます。

長くて重い尾羽根を持つオスは捕食動物に簡単に食べられてしまいますが、たとえそうであっても、短い“人生”のあいだに、より俊敏に動ける尾羽根の短いオスよりもずっと多くの子孫を残すことができます。このように、生存に有利な特徴が非現実的なまでに拡張することを進化のランナウエイ(暴走)効果といいます。

言語の起源については諸説ありますが、ヒトが言葉というコミュニケーション能力を得たことで大脳新皮質を急激に発達させていったことは間違いありません。こころがいかに強力な武器だったかは、食料を求めてアフリカ大陸を出た人類の祖先が、短期間のうちにさまざま種を絶滅させながら地球上に繁殖したことで明らかでしょう。ヒトにとって脳はクジャクの尾羽根であり、進化のランナウエイ効果の結果、不必要なまでに高度の知能(シミュレーション能力)を獲得したのです(クリストファー・ウィルズ『暴走する脳』)。

シミュレーションがこころの本質だとすれば、私たちはそこから逃れることはできません。仏教では、修行による解脱、すなわち悩みからの解放を説きますが、シミュレーション機能を停止させてしまえばひとはもはやヒトでなくなってしまいますから、解脱は人類の理想であっても原理的に不可能なのです。