文庫版『国家破産はこわくない』まえがき

文庫版『国家破産はこわくない』のまえがきを、出版社の許可を得て掲載します。

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本書は2013年3月に発売された『日本の国家破産に備える資産防衛マニュアル』(ダイヤモンド社)を文庫化したものです。

親本の発売当時はギリシアが国家破産寸前に追い込まれ、地中海の島国キプロスはそのギリシアに多額の融資をしていたことで財政破綻し、実質的な「金融封鎖」に追い込まれました。島内の銀行は2週間にわたって閉鎖され、顧客は預金を引き出すことができなくなり、EUによる支援の条件として10万ユーロ超の預金に9.9%、それ以下の金額に6.7%が課税されることが発表されて大騒動になりました(その後、修正のうえ大口預金者のみが負担)。

その一方日本では、アベノミクスによる大規模な金融緩和がはじまっており、「このままではギリシアやキプロスと同じことになるのではないか」との不安が広がっていました。そのため「資産防衛」を前面に出したタイトルにしたのですが、文庫化にあたって、当初予定していた『国家破産はこわくない』に戻すことにしました。お読みになっていただければわかるように、本書は「国家破産」をいたずらに煽るものではなく、私の主張は「個人の努力ではどうしようもない戦争や内乱とちがって、経済的混乱は適切な対応によって乗り越えられる」ということだからです。

一般的に資産運用関係の書籍は、株式や為替市場の変化によって文庫化に適さないのですが、本書は親本の記述をほぼそのまま踏襲しています。これは私に先見の明があるということではなく(そうだったらよかったのですが)、本書が前提としている経済条件がほとんど変わっていないからです。

この本では、近未来に起きることを次の3つのシナリオで検討しています。

(1)楽観シナリオ アベノミクスが成功して高度経済成長がふたたびはじまる
(2)悲観シナリオ 金融緩和は効果がなく、デフレ不況がこれからもつづく
(3)破滅シナリオ 国債価格の暴落(金利の急騰)と高インフレで財政は破綻し、大規模な金融危機が起きて日本経済は大混乱に陥る

日銀の黒田東彦総裁は「2年で2%の物価上昇」をコミットメントし、大規模な金融緩和に乗り出しましたが、5年ちかくたった現在(2017年12月)でも物価が上昇する兆しはなく、リフレ派が強硬に主張していた金融緩和政策ではインフレを起こすことができないことが事実によって証明されました。

コミットメントとは「結果がともなわなければ責任をとる」ことで、リフレ派の経済学者は白川方明日銀前総裁を「デフレ脱却にコミットしない」と罵倒していましたが、黒田総裁はもちろん「リフレ派の首領」と呼ばれて副総裁に就任した経済学者も、自身のコミットメントが達成できなくても責任をとる気配は毛頭なく、任期をまっとうするつもりのようです。近年の心理学は、「高い知能は現実を客観的に認識して正しい判断をするのに役立つのではなく、そのもっとも重要な機能は自己正当化である」ことを明らかにしましたが、これはそのことがとてもよくわかるケースでしょう。

その一方で、幸いなことに、一部の経済学者や財政学者が警告していたような国債の暴落や財政破綻も起きていません。そればかりか少子高齢化による人手不足もあって、失業率は2.8%とほぼ完全雇用の状態で、求人倍率は1.52倍でバブル最盛期を上回り、大学生の就職内定率も9月時点で9割を超えています。その結果、内閣府の調査(2017年8月)では、現在の生活に「満足」とこたえたひとが73.9%と過去最高になりました。

アベノミクスの5年後の評価は、「金融緩和は効果なかったものの、それなりの成果はあった」ということになるでしょう。

そうはいっても、このまま将来もずっと安泰とはとうていいえません。

リフレ派が妄想していたような「日本経済大復活」は難しそうで、1000兆円を超える日本国の借金は増えつづけています。超高齢社会で社会保障費が膨れ上がっていくにもかかわらず消費税増税は先延ばしされ、増税してもその財源は借金返済に使わないというのですから、今後も日本国債への高い信頼が維持できると考える(まともな)経済学者はほとんどいないでしょう。

それに加えて、「金融緩和に効果がないなら政府債務をさらに拡大して無理矢理インフレにしろ」という、マッドサイエンティストのような主張をする学者も出てきました。私たちはいまだに、いつ日本国の財政が行き詰まり、国債が暴落し急速な円安が進むかわからない崖っぷちの狭い道をおそるおそる歩んでいるのです。

そんな不確実な未来に不安を感じているひとにとって、本書の提案はいまも役に立つはずです。

2017年12月   橘玲

文庫版『国家破産はこわくない』発売のお知らせ

2013年3月に発売された『日本の国家破産に備える資産防衛マニュアル』(ダイヤモンド社)が、『国家破産はこわくない』と改題されて講談社+α文庫から発売されます。

発売日は1月18日ですが、Amazonでは予約可能です。また文庫化にともなって、これまでの電子書籍も『国家破産はこわくない  –日本の国家破産に備える資産防衛マニュアル 改訂版–』として、ダイヤモンド社より情報を更新したものが発売されます(1月26日発売予定)。

日銀の大規模な金融緩和(リフレ政策)にもかかわらず物価が一向の上がらないため、親本と論旨は変わりませんが、紹介している金融商品の情報を最新のものに改めました。

ご興味のある方はぜひ。

第73回 働き方改革、「身分制」打破から(橘玲の世界は損得勘定)

安倍政権の進める働き方改革では、残業時間を減らして生産性を高めることが強調されている。しかしその前に、「なぜ日本の(男女の)サラリーマンは残業時間が長いのに、先進国でいちばん生産性が低いのか」をちゃんと考える必要がある。

世界の労働者のエンゲージメント(会社や仕事に対するかかわり方)の度合いを調べると、日本のサラリーマンは最低レベルだ。それもひとつの調査ではなく、OECDを含む10の機関でほぼ同じ結果が出ている。

これを手短に要約すると、「日本のサラリーマンはものすごく長い時間働いているものの、生産性がものすごく低く、世界でいちばん会社を憎んでいる」ということになる。なぜこんなヒドいことになるのだろうか。

家庭に目を転じてみると、日本では若い女性の3割が「将来は専業主婦になりたい」と思っているという。しかし不思議なことに、家庭生活に満足している女性の割合を国際比較すると、共働きが当たり前のアメリカやイギリスでは7割が「満足」と答えるのに、日本の女性は4割ちょっとしかない。専業主婦になりたくて、実際に専業主婦になったにもかかわらず、彼女たちの幸福度はものすごく低い。

じつは、この問題はコインの裏表だ。専業主婦の家庭には、家事育児を妻に丸投げして会社に滅私奉公する夫がいる。

男が外で働き女が家で子育てをするモデルは、アメリカに憧れて戦後の高度成長期に定着したものだ。しかし不思議なことに、「輸入」から50年もたっていないこのライフスタイルが「日本の伝統」といわれている。これは専業主婦モデルが、日本社会の根幹にある「身分制」に見事にフィットしたからだろう。

日本では、男は会社という「イエ」に、女は家庭という「イエ」に所属する。女性が出産を機に会社から排除されるのは、会社と家庭というふたつのイエに同時に属することができないからだ。子育てが一段落してもパートなどの仕事にしかつけないことが、女性管理職がきわめて少ない理由になっている。

ジェンダーギャップだけでなく、「正規」と「非正規」、「親会社」と「子会社」、「本社採用」と「現地採用」などあらゆるところに「身分」が顔を出す。日本は先進国のふりをしているが、その実態は江戸時代の身分制社会に近い。日本人同士が出会うと、まず相手の所属=身分を確認しようとするが、こんな「風習」は欧米ではもはや存在しない。

近代の理想は、自由な個人が自らの可能性を社会の中で最大化できることだ。こうした価値観は日本人も共有しているが、実際には男は会社、女は家庭というイエに押し込められて身動きがとれなくなってしまう。理想と現実のこのとてつもない落差が、日本人の幸福度を大きく引き下げているのだろう。

だとしたら、残業時間を減らしたところで収入が減るだけでなにも変わらない。「保守」の安倍首相だからこそ、日本社会の桎梏(しっこく)である「身分制」を打破し、国民が自由に生きられる社会を実現してほしい。

橘玲の世界は損得勘定 Vol.73『日経ヴェリタス』2017年12月31日号掲載
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