『上級国民/下級国民』あとがき

出版社の許可を得て、新刊『上級国民/下級国民』の「あとがき」を掲載します。電子版も発売されました。

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知識社会化・リベラル化・グローバル化の巨大な潮流のなかで、現代世界は、国や歴史・文化、宗教などのちがいにかかわらず、ますますよく似てきました。なぜなら、すべてのひとが同じ目標──よりゆたかに、より自分らしく、より自由に、より幸福に──を共有しているからです。

「後期近代」になって人類史にはじめて登場したこの価値観は、今後もますます強まって私たちの生活や人生を支配することになるでしょう。

その結果、欧米や日本などの先進国を中心に、社会の主流層(マジョリティ)が「上級」と「下級」に分断される現象が起こるようになりました。アメリカではグローバル化にともなって白人中流層が崩壊し、日本では1990年代後半からの「就職氷河期」によって若い男性の雇用が破壊され、中高年のひきこもり(8050問題)が深刻化するなど、国によって「分断」の現われ方は異なりますが、その行きつくところは同じです。

このような未来をどのように生き延びていけばいいのか。すべてのひとに向けた万能の処方箋はありませんが、今後のトレンドは大きく2つに分かれていくでしょう。

ひとつは、高度化する知識社会に最適化した人的資本を形成する戦略。エンジニアやデータサイエンティストなどの専門職はいまやアスリートと同じになり、10代で才能を見出され、シリコンバレーのIT企業などに高給で採用され、20代か遅くとも30代前半までに一生生きていけるだけの富を獲得するのが当然とされるようになりました。

こうした生き方をするには、大学でのんびり一般教養を学んでいる暇はありません。いまでは高度なプログラミング技術を教え、「ナノディグリー」という学位を発行するオンライン大学出身の人材がテック業界で争奪戦になっています。

もうひとつは、フェイスブックやツイッター、インスタグラムなどで多くのフォロワーを集め、その「評判資本」をマネタイズしていく戦略で、SNSのインフルエンサーやユーチューバーなどがその典型です。高度化する知識社会では、テクノロジーが提供するプラットフォームを利用して、会社組織に所属することなくフリーエージェントとして自由な働き方をすることが可能になりました。

もちろん、年収数千万円のエンジニアも、有名ブロガーやユーチューバーもごく一部でしょう。しかし、私たちが生きている「とてつもなくゆたかな社会」では、「最先端の技術を理解してわかりやすく説明する」「新商品やサービスなど新しい情報をSNSで発信する」といったスキルでも、それなりの(あるいはひとなみ以上の)収入を得られるようになるでしょう。「知識経済」と「評判経済」は一体となって進化し、地球を覆う巨大な経済圏を形成しつつあるのです。

そうはいっても、この潮流からこぼれ落ちてしまうひとたちが生まれることは避けられません。民主政治では、有権者の総意≒ポピュリズムでこの問題に対処する以外ありません。

それはユートピアなのか、ディストピアなのか、私たちはこれから「近代の行きつく果て」を目にすることになるのです。

本書は2019年4月13日(土)に東京大学・伊藤国際学術研究センター伊藤謝恩ホールで行なわれた日本生物地理学会の市民シンポジウムの講演「リベラル化する社会の分断」をもとに加筆修正し、新書のかたちにまとめたものです。PART1「「下級国民」の誕生」の一部は、「令和の「言ってはいけない」不都合な真実」として、月刊『文藝春秋』2019年6月号に掲載しました。

シンポジウムを主催した日本生物地理学会会長の森中定治さん、司会をしていただいた副会長の三中信宏さん、講演に「論評」していただいた文筆家の吉川浩満さん、哲学者の神戸和佳子さん、生物地理学会会員の春日井治さん、および会場を満席にしていただいた400名を超える参加者のみなさまに感謝いたします。本書の執筆にあたっては、会場で集めた質問や、講演後の懇親会でのご意見なども参考にさせていただきました。

2019年7月 橘 玲

『上級国民/下級国民』まえがき

出版社の許可を得て、新刊『上級国民/下級国民』の「まえがき」を掲載します。発売日は明日ですが、すでに大手書店の店頭には並んでいるところもあるようです。この表紙を見かけたら手に取ってみてください。

 

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2019年4月、東京・池袋の横断歩道で87歳の男性が運転する車が暴走、31歳の母親と3歳の娘がはねられて死亡しました。この事件をめぐってネットに飛び交ったのが「上級国民/下級国民」という奇妙な言葉です。

事故を起こしたのは元高級官僚で、退官後も業界団体会長や大手機械メーカーの取締役などを歴任し、2015年には瑞宝重光章を叙勲していました。たまたまその2日後に神戸市営バスにはねられて2人が死亡する事故が起き、運転手が現行犯逮捕されたことから、「池袋の事故を起こした男性が逮捕されないのも、マスコミが“さん”づけで報道しているのも「上級国民」だからにちがいない」「神戸のバス運転手が逮捕されたのは「下級国民」だからだ」との憶測が急速に広まったのです。

すでに報じられているように、男性が逮捕されなかったのは高齢のうえに事故で骨折して入院していたからで、メディアが“さん”づけにしたのは“容疑者”の表記が逮捕や指名手配された場合にしか使えないためですが、こうした「理屈」はまったく聞き入れられませんでした。

2019年5月には川崎市で51歳の無職の男が登校途中の小学生を襲う事件が起き、その4日後に元農水事務次官の父親が自宅で44歳の長男を刺殺しました。長男はふだんから両親に暴力をふるっており、事件当日は自宅に隣接する区立小学校の運動会の音に腹を立てて「ぶっ殺すぞ」などといったことから、「怒りの矛先が子どもに向いてはいけない」と殺害を決行したと父親は供述しています。

この事件を受けて、こんどはネットに困惑が広がりました。彼らの世界観では、官僚の頂点である事務次官にまでなった父親は「上級国民」で、自宅にひきこもる無職の長男は「下級国民」だからです。

「上級国民」という表現は、2015年に起きた東京オリンピックエンブレム騒動に端を発しているとされます。

このときは著名なグラフィックデザイナーの作品が海外の劇場のロゴに酷似しているとの指摘が出て、その後、過去の作品にも盗用疑惑が噴出し大きな社会問題になりました。その際、日本のグラフィックデザイン界の大御所で、問題のエンブレムを選出した審査委員長が、「専門家のあいだではじゅうぶんわかり合えるんだけれども、一般国民にはわかりにくい、残念ながらわかりにくいですね」などと発言したと伝えられました。

これが「素人は専門家に口答えするな」という「上から目線」として批判され、「一般国民」に対して「上級国民」という表現が急速に広まったとされます(「ニコニコ大百科」「上級国民」の項より)。

このように当初は「専門家/非専門家」を表わすネットスラングだったものがいつの間にか拡張され、池袋の事故をきっかけに、「日本社会は上級国民によって支配されている」「自分たち下級国民は一方的に搾取されている」との怨嗟(ルサンチマン)の声が爆発したのです。

コラムニストのオバタカズユキさんは、令和改元にともなう10連休に対して、ツイッター上に次のような発言があふれたことを報告しています(「「上級国民」というネットスラングの大拡散が示す日本人の心中」NEWSポストセブン)。

〈(羽田空港行きの)モノレールが連休を旅行で過ごす上級国民様で満たされておる〉
〈10連休を取れるのは全体の3割。そんな能天気に生きて居られるのは、上級国民だけってか〉
〈10連休なんて上級国民様の催しでしかないのです、下級国民は労働奉仕なのです(震え)〉
〈給料総額15万、週6日働いて稼働日数月25日。盆正月関係なし。ほとんど奴隷と同じです。きっと公務員や、NHKに勤めてる上級国民の皆さんには理解できないんだろうな〉
〈次、生まれ変わるなら人間じゃなくて蝉が良いな上級国民に×されずに済むし〉

ここでオバタさんが指摘するのは、「上級国民」は「エリート」や「セレブ」「上層(上流)階級」とはニュアンスが異なるということです。

現代社会では、「エリート」や「セレブ」は「努力して実現する目標」です。「上層階級(アッパークラス)/下層階級(アンダークラス)」は貴族と平民のような前近代の身分制を表わしていましたが、その後、階級(クラス)とは移動できる(下流から「なり上がる」)ものへと変わりました。それに対して「上級国民/下級国民」は、個人の努力がなんの役にも立たない冷酷な自然法則のようなものとしてとらえられているというのです。 いったん「下級国民」に落ちてしまえば、「下級国民」として老い、死んでいくしかない。幸福な人生を手に入れられるのは「上級国民」だけだ──。

これが、現代日本社会を生きる多くのひとたちの本音だというのです。

 本書のPART1では、バブル崩壊後の平成の労働市場がどのように「下級国民」を生み出したのかを説明します。「雇用破壊」で日本じゅうが大騒ぎしていた1990年代後半から2000年代前半にかけて、「正社員の雇用は全体としては守られた」など、あまり知られていない事実(ファクト)をデータをもとに紹介していきます。そこから、令和の日本がどのような社会になるのかも見えてくるはずです。

PART2では、「上級国民/下級国民」が「モテ/非モテ」につながることを論じます。「モテ/非モテ」はやはりネット上で広く流通するスラングで、現代日本の若い男性は「モテ(リア充)」と「非モテ(リア終)」に分断されているのだといいます。なぜここで性愛(モテ)が出てくるかというと、ゆたかな社会における幸福とは、究極的には、愛情空間が満たされることだからです。「上級国民」とは「モテる(持てる)者」であり、「下級国民」は「モテない(持たざる)者」なのです。

PART3では、日本だけでなく(先進国を中心に)世界じゅうで「上級国民/下級国民」の分断が進んでいる背景を考えます。アメリカのトランプ大統領選出、イギリスのブレグジット(EU離脱)、フランスの黄色ベスト(ジレジョーヌ)デモなど、欧米社会を揺るがす出来事はどれも「下級国民」による「上級国民」への抗議行動です。「白人」や「男」はこれまで社会の主流(マジョリティ)と見なされていましたが、その中核に深い亀裂が生じたことで社会は大きく動揺しています。

なぜ世界じゅうで同じ現象が起きているかというと、私たちが「知識社会化・リベラル化・グローバル化」という巨大な潮流のなかにいるからです。その結果、世界が総体としてはゆたかになり、ひとびとが全体としては幸福になるのとひきかえに、先進国のマジョリティが「上級国民/下級国民」へと分断されていきます。

これは産業革命(知識革命)によって成立した「近代」が完成へと向かう“進化”の不可逆的な過程なので、「立憲主義」を踏みにじる政権を罵倒したり、「グローバリズムの陰謀」を唱えて貿易戦争を引き起こしたり、中央銀行がお金を刷りまくったりしても「格差拡大」を止めることはできないでしょう。

だとしたら、どこにも希望はないのでしょうか。

そんなことはありません。社会的に解決できない問題も、個人的に解決することは可能です。

私たちがどのような社会に生きており、そこでなにが起きていて、これからどのような世界がやってくるのかを(かなりの精度で)予測できれば、自分と家族が生き延び、幸福な人生を手に入れるのにきっと大きな助けになるでしょう。

最低賃金は引き上げるべきか、引き上げてはいけないのか 週刊プレイボーイ連載(393)

安倍政権は「経済財政運営と改革の基本方針(骨太方針)」で、最低賃金を「年率3%程度を目途として、全国加重平均が1000円となることを目指す」としています。これではぜんぜん物足りないとして、「最低賃金1500円」を掲げる「リベラル派」もいます。

2018年の全国平均の最低賃金は874円で、1日8時間勤務で約7000円、1カ月フルタイム(週5日)で働いて約15万円程度です。それが1000円になれば収入は14%増(月17万円)、1500円なら70%増(月25万円)になる計算です。これなら貯蓄をする余裕もでき、「老後2000万円不足問題」も解消するのではないでしょうか。

しかし、世の中のたいていのことがそうであるように話はそう簡単ではありません。

アルバイトが8人いたとして、最低賃金が1000円になると人件費が月17万円増えるので、売上が変わらなければ1人に辞めてもらわなければなりません。最低賃金1500円なら4~5人を解雇しなければ店はやっていけません。

だったら、最低賃金を上げても従業員を解雇できないようにしたらどうでしょう。その場合は、新規採用が大幅に抑制されることになります。このとき真っ先に犠牲になるのは、学歴が低く仕事の経験のない若者たちでしょう。

フランスは最低賃金が10.03ユーロ(1220円)と先進国でもっとも高いのですが、これが若者の失業率を高止まりさせていると国際機関から指摘されています。経営者にとっては、高い賃金を払うのであれば、仕事をいちから教えなければならない若者より、即戦力になる経験者を雇った方がずっといいのです。――日本でも1990年代末からの「就職氷河期」で同じことが起き、非正規で働くしかなかった当時の若者たちが20年後にひきこもりになっていることがわかり、社会に大きな衝撃を与えました。

都道府県別で見ると、東京の最低賃金は985円でもっとも高く、東北や九州などのもっとも低い県は760円程度です。こうした地域の最低賃金を東京並みに引き上げたらどうでしょう。

全国一律の最低賃金はイタリアが行なっており、経済が好調なミラノなどの北部と、不況に苦しむナポリやシチリアなど南部の賃金は同じです。そして、これが南部の失業率を悪化させていると国際機関から指摘されています。

雇用コストが同じなら、北の企業は南に工場などを建てる理由がないし、南の労働者は他の地域に移動しようとは思いません。こうして南イタリアではひとびとが数少ない仕事を奪いあい、あぶれた若者たちはマフィアに入って非合法な仕事で糊口をしのぐしかないという、新興国のような状況になってしまいました。

隣国の韓国では、短期間に最低賃金を50%以上も引き上げた結果、失業率が上昇し雇用不安が広がっています。なかでも低所得、低学力、低熟練の「3低」の労働者(弱者)がもっとも大きな被害を受けています。

最低賃金を引き上げるとかならずマイナスの効果が生じるわけではなく、経済学者のあいだでもさまざまな議論があります。とはいえ、これが「劇薬」であることは間違いありません。

安易に「夢」をばら撒く前に、まずはこうした貴重な「社会実験」をちゃんと検討してはどうでしょうか?

参考:白川一郎『日本のニート・世界のフリーター 欧米の経験に学ぶ』 (中公新書ラクレ)

『週刊プレイボーイ』2019年7月22日発売号 禁・無断転載