1940年代の日本とイラク・アフガニスタンは同じじゃないのに 週刊プレイボーイ連載(490)

米軍がアフガニスタンから撤退し、イスラーム原理主義組織タリバンが全土を掌握したことで、2001年10月の空爆以来20年続いた戦争はアメリカの「敗北」に終わりました。

米大学の試算では、アメリカがこの戦争に投じた費用の総額は2兆2600億ドル(約250兆円)で、20年間、毎日3億ドル(約330億円)を費やしたことになります。これをアフガニスタンの人口4000万人で割れば、1人当たりGDPがわずか500ドル(約5万5000円)ほどのこの国で、1人5万6000ドル(約600万円)を配ることができました。

それに加えて、これまで2500人の米国軍人、4000人ちかくの米国民間人、10万人を超えるアフガニスタンの軍・警察関係者や民間人が死亡しています。このとてつもない損害に対し、得たものはさらなる混乱だけなのですから、すべてが最初から間違っていたと考えるほかありません。

なぜアメリカは、ベトナム戦争以降つねに失敗しているのか? それは日本占領の成功体験が大きすぎるからでしょう。

9.11同時多発テロのあと、ニューヨークに滞在していて、毎日ニュース番組でブッシュ(子)大統領の演説を聞きながら不思議に思ったことがあります。大統領は米国民に向かって、日本を引き合いに出し、「かつての敵国がいまでは最良の友人になったように、アメリカの介入によって、イラクもアフガニスタンもリベラルデモクラシー(自由民主政)の国に生まれ変わる」と力説していたのです。

しかし、1940年代の日本と、イラク、アフガニスタンでは条件があまりにもちがいます。

日本が近代化に成功して欧米と並ぶ「帝国」になったのは、明治時代に国民国家(「日本民族」という想像の共同体)の確立に成功したからです。日本社会にもマイノリティとして排除される集団は存在したものの、ほとんどの国民は、自分が「日本人」だと当たり前のように考えていました。

それに対して、イラクはイスラームのスンニ派とシーア派が対立し、それにクルドという民族問題が加わって、「国民(イラク人)」という意識は希薄でした。山岳地帯のアフガニスタンは多数の部族に分かれており、それを植民地時代のイギリスが、ロシアの南下を抑えるために便宜的に「国」の体裁を整えただけです。

さらに戦前の日本では、1910~20年代にかけて「大正デモクラシー」と呼ばれるリベラルな文化・政治運動が盛り上がりました。敗戦は45年ですから、30代以上の国民はこの体験を覚えていて、占領軍がなにを求めているかをすぐに理解できたでしょう。自由主義や民主政は、当時の日本人にとってけっして奇異なものではなかったのです。

前提となる条件がこれほどちがえば、軍事的な占領が自動的に同じ結果を生み出すと考える方がどうかしています。この程度のことは、日本なら歴史に興味がある高校生だってわかるでしょう。

現在の無残な事態は、ブッシュ以降の政権の失政というより、歴史学者や軍事専門家を含むアメリカのエリート層の無知と傲慢によってあらかじめ運命づけられていたのです。

参考:「アフガン戦争のコストは20年間で「250兆円」、米大学が試算」Forbes Japan2021年8月17日

『週刊プレイボーイ』2021年9月13日発売号 禁・無断転載

第98回 待ってもタクシーは来ないのに(橘玲の世界は損得勘定)

ずいぶん前の話だが、那覇から東京に戻る最終便が大幅に遅れて、羽田空港に着いたときは公共交通機関の終電はとうに終わっていた。しかたがないのでタクシー乗り場に行くと、案の定、長蛇の列ができている。

列の先頭で拡声器をもった係員が、「ここで待っていても車は来ません。自分で手配してください」と叫んでいた。そのとき不思議に思ったのは、列に並んでいたひとたちがまったく動こうとしないことだ。

たまたまタクシーの共通チケットをもっていたので、そこに載っている番号に順に電話してみた。2件目の会社で運よく空港に向かっている車が見つかって、10分ほどで乗ることができた。その間、タクシー乗り場に車は1台も来なかった。

そのとき思ったのは、私のようにタクシー会社に電話する者がいれば、空港に向かう車はすべて押さえられてしまうのではないかということだった。だとしたら、列に並んでいるひとたちはいつまで待つことになるのだろうか。

近所のスーパーに自動レジができたときも、似たような体験をした。

最初の頃は自動レジはがらがらなのに、数を減らされた対面レジには長い列ができていた。自動レジにはスタッフが待機していて、使い方がわからなければ親切に教えてくれるのだから、なぜわざわざ時間のかかる対面レジに並ぶのだろうか。

そのスーパーでは1階が雑貨、地下が食料品で、どちらでも精算できるようになっていた。あるとき、雑貨を買いにいったらレジスターが故障したらしく、1つのレジに長い列ができていた。そこでエスカレーターで地下に降りて、がらがらの自動レジで精算し、1階に戻ったら列はさらに長く伸びていた。

この奇妙な現象について考えてみると、多くのひとはそもそも問題解決に興味がないのではないだろうか。なぜなら、自分で判断することにはコストとリスクがともなうから。

近年の脳科学では、認知的資源はきわめて貴重なので、ひとは無意識にそれを節約しようとしていると考える。なにか問題が発生したときに、もっとも確実でコストが低いのは、ほかのひとを真似ることだ。なぜなら、たくさんのひとが同じ問題に直面して考えた結果だから。

これは一種の集合知で、たしかに理にかなっている。個人の乏しい知識と情報で思いついた解決策よりも、多くのひとが試行錯誤してたどり着いた解答の方が正しいことは間違いない。

これなら、タクシーの来ない乗り場に長い行列ができる理由も説明がつく。並ぶのはみんながそうしているからで、自分からタクシー会社に電話しないのは、誰もそんなことをやっていないからだ。そのうえ「みんなと一緒にいる」ことに安心感があるのかもしれない。

だがこの原則をすべてに適用すると、簡単に解決できることに膨大なコストをかける事態にならないだろうか。まあ、行列することをコストと感じないひともいるだろうから、私がとやかくいう話ではないだろうが。

橘玲の世界は損得勘定 Vol.98『日経ヴェリタス』2021年9月4日号掲載
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ファクターXが消え失せて日本は「ふつうの国」になった 週刊プレイボーイ連載(489)

*8月25日執筆のコラムです。現在は感染者数が減少していますが、記録として執筆時点の数字のままとします。

東京オリンピックが開幕して以降、新型コロナの感染者は増えつづけ、緊急事態宣言の対象地域が全国に拡大しています。1日あたりの新規感染者数(1週間平均)は、昨年4月の第一波が500人超、8月の第二波が1300人超、今年1月の第三波と5月の第四波が6000人超なのに対して、8月22日現在で2万2500人と桁違いの状況になっています。

人口10万人あたりの新規感染者数では日本は17.8人で、感染拡大が続くイギリス(48.6人)やアメリカ(44.6人)よりは少ないものの、イタリア(10.4人)やドイツ(8.2人)をすでに上回っており、日本がいまや「ふつうの国」になったことがわかります。

新型コロナのウイルスが世界的に広がるなか、強い社会統制をしているわけでもない日本は感染者・死者ともに欧米より圧倒的に少なく、「ファクターX」が話題になりました。この謎についてはいまだに議論が続いていますが、ひとつだけはっきりしていることがあります。感染力の強い変異種に対しては、ファクターXの効果は消え失せたということです。

感染拡大で医療機関が逼迫し、救急搬送できずに自宅療養中に死亡するケースが相次いでいます。感染した妊婦の入院先がなく、自宅で出産した新生児が死亡したことは日本じゅうに大きな衝撃を与え、全国知事会はロックダウンを検討するよう政府に求めました。

とはいえ、感染者1名でロックダウンに入ったニュージーランドは、それにもかかわらず1週間の感染者が100人を超えました。ホーチミンで感染が拡大するベトナムでは、生活必需品の購入すら公安やボランティアに依頼する強力な外出禁止措置を実施していますが、それでも感染抑制に苦労しています。

ここからわかるのは、変異種の感染を抑えるのがきわめて困難なことです。日本が同じことをやろうとすれば、感染初期に中国が武漢で行なったように、数カ月にわたって社会・経済活動をすべて止めるしかないでしょうが、こんなことはもちろん不可能です。

だったらどうすればいいのか。ウイルスに国境がない以上、もはや「ふつうの国」として、欧米諸国と同様に、ワクチン接種を進めながら感染症と共存する以外の選択肢はなくなりました。これによって感染者はさらに増えるかもしれませんが、重症化を抑えることができれば、子どもを学校や保育園に通わせながら経済活動を徐々に再開できるはずです。

そのために重要なのは、医療機関の受け入れ態勢の強化です。英米の状況を見れば、今冬の感染者はいまの2~3倍に増えるおそれがあり、このままでは治療を受けずに自宅で死亡する悲劇が常態化してしまいます。

医療機関をいたずらに批判することは避けなければなりませんが、厚労省がコロナ病床の拡充に1兆円以上の補助金を注ぎ込んでもほとんど効果がなく、欧米に比べて日本の医療がきわめて脆弱なのは明らかです。野党やメディアも、「言葉づかいが気に入らない」などと首相を批判してすませるのではなく、この現実を受け入れたうえで「国難」に立ち向かってほしいと思います。

『週刊プレイボーイ』2021年9月6日発売号 禁・無断転載