「適当に投票する」のが合理的な理由 週刊プレイボーイ連載(496)

アメリカでもヨーロッパでも、20%以上のひとは、地球が太陽の周りを回っている(地動説)のではなく、太陽が地球の周りを回っている(天動説)を思っているそうです。

2001年の同時多発テロを受けて、アメリカはイラクとアフガニスタンに侵攻しましたが、06年の調査では、アメリカ人の63%は地図上のイラクの場所を知らず、88%はアフガニスタンがどこにあるかわかりませんでした。そればかりかこの調査は、過半数のアメリカ人が地図上でニューヨク州の場所を示すことができないという驚くべき事実を明らかにしました。

とはいえ、これは「バカがたくさんいる」ということではありません。賢いひとでも、「生きていくのに差し支えないことについては、正しい知識を積極的に獲得する合理的な理由がない」ことはじゅうぶんあり得るからです。大半のひとは、天文学や地理を知らなくても幸福に生きていくことができるのです。

政治学はずっと、有権者がごく基本的な知識もなく投票しているという「不都合な事実」に困惑してきました。しかしこれも、「合理的な無知」の一種だと考えれば悩む理由はありません。

自民党は「保守」、立憲民主党は「リベラル」とされますが、安倍元首相は「国際標準では私がやっていることはリベラル」と述べ、岸田新首相は自民党のなかの「リベラル派」とされ、立憲民主党の枝野代表は「私はリベラルであり、保守であります」と演説しました。だとしたら。誰が「保守」で誰が「リベラル」なのでしょうか。

「左派ポピュリスト」政党であるれいわ新選組は最低賃金引き上げを強く主張しましたが、「ネオリベ」の菅政権は、「生産性の低い中小企業を淘汰する」という理由で、反対を押し切って最賃引き上げを実行しました。この政策は、「左」か「右」かどちらになるのでしょう。

これはほんの一例ですが、そもそもこんなことを真剣に考える価値があるのか、疑問に思うひとがほとんどではないでしょうか。一人ひとりの人生には、ほかももっと重要なことがいくらでもあるのですから。

民主的な社会では投票は市民の義務とされますが、国政選挙では自分の一票が候補者の当落や政権選択に影響を与える可能性はほぼゼロです。とはいえ、棄権すると「大人としての自覚がない」という烙印を捺されてしまうかもしれません。だったら、候補者についてなにも知らないまま投票し、会社や学校で「選挙行った?」と訊かれたら「行きました!」と堂々とこたえたほうが精神衛生上いいでしょう。

決定すべきことについて知識がないことが、意思決定の質を下げることは間違いありません。しかし近年の政治学は、投票率がそれなりに高いと為政者にプレッシャーを与え、すくなくとも、戦争や飢餓のような「とてつもなくヒドいこと」のリスクを下げると考えます。

ほとんどのひとは(私も含め)「合理的な無知」のまま投票していますが、これは不道徳でも批判されるべきことでもなく、そんな一票にもちゃんと意味があるようです。

参考:イリヤ・ソミン『民主主義と政治的無知 小さな政府の方が賢い理由』信山社

『週刊プレイボーイ』2021年11月1日発売号 禁・無断転載

「今日の仕事は楽しみですか?」と訊かれて怒るのはなぜ? 週刊プレイボーイ連載(495)

品川駅のコンコースに設置された数十台のディスプレイに「今日の仕事は楽しみですか」の大きな文字が表示され、それを「社畜回廊」と名づけたSNSの投稿が拡散・炎上して、広告を出稿した企業が1日で撤回する騒ぎになりました。そのすこし前にはサントリーの新浪剛史社長が「45歳定年制」を提唱し、これもSNSで炎上しています。

「今日の仕事は楽しみですか」の広告は「つらくても仕事を頑張っているひとを傷つける」などと批判されましたが、これはたんなる方便で、多くのサラリーマンの本音は「仕事が楽しみなわけないだろ」でしょう。

OECDをはじめとするあらゆる国際調査において、「日本人は世界でいちばん仕事が嫌いで、会社を憎んでいる」という結果が繰り返し出ています。しかもこれは「ネオリベ改革」のせいではなく、バブル絶頂期の1980年代ですら、日本人よりアメリカの労働者のほうがいまの仕事に満足し、友人に勧めたいと思い、生まれ変わったらもういちど同じ仕事をしたいと考えていました。

日本では右も左もほとんどの知識人が、年功序列・終身雇用の「日本的雇用」が日本人(男だけ)を幸福にしてきたとして「(正社員の)雇用破壊を許すな」と大合唱してきました。しかし現実には、日本的雇用が日本人を不幸にしてきたのです。

なぜこんなことになるかは、きわめてシンプルに説明できます。

そもそも大学卒業時点で、自分がどんな仕事に向いているか、どの会社が自分の希望をかなえてくれるかなどわかるはずがありません。それでもとりあえず就活してどこかに入社しますが、それがベストな選択である確率はきわめて小さなものでしょう。

問題は、日本的雇用では、たまたま入った会社に定年まで40年以上も拘束されてしまうことです。そうなると、ほとんどは「外れくじ」を引いているわけですから、意に添わない仕事を我慢して続けるしかなくなります。

この状況を改善するには、やりがいのある仕事を見つけるまで自由に転職できるようにしなければなりません。しかしそうなると、企業の側もより能力の高い(適性のある)者を受け入れるために、一定の基準に満たない社員を解雇して場所を空けられるようにしなくてはならないでしょう。

ところが日本では、会社への所属意識が(男性)正社員のアイデンティティになってしまっているので、解雇や人員整理がきわめて困難になっています。そこでこの隘路を抜けるために、定年を45歳に早めるという奇策が出てきたのでしょう。

とはいえ、「定年」は労働者個人の意思にかかわらず一定の年齢で強制解雇する制度ですから、いまでは「年齢差別」と見なされるようになり、アメリカ、イギリスをはじめ欧米では定年制を違法とする国が増えています。

だとすればやはり正攻法で、日本も定年を廃止し、その代わり金銭解雇のルールを決めて、仕事内容に応じて正規・非正規にかかわらずすべての労働者を平等に扱うグローバル・スタンダードの働き方に変えていくべきです。

会社や仕事を選択できるようになれば、すくなくとも、「仕事は楽しみですか?」と訊かれて激怒することはなくなるでしょう。

参考:小池和男『日本産業社会の「神話」経済自虐史観をただす』日本経済新聞出版社

『週刊プレイボーイ』2021年10月25日発売号 禁・無断転載

皇族の結婚騒動が示す「地獄とは、他人だ」 週刊プレイボーイ連載(494)

眞子さまの結婚問題で宮内庁は、婚姻届を提出しても皇室伝統の儀式・結婚式・披露宴は行なわず、皇室を離れる際に支給される一時金も辞退するという異例の対応を発表するとともに、眞子さまが「誹謗中傷と感じられる出来事」を長期間繰り返し体験したことで「複雑性PTSD」を患っていると説明しました。

これについて押さえておくべきは、そもそも憲法で、婚姻は「両性の合意のみに基いて成立」すると明記されていることです。「皇族は憲法の適用外」という規定はなく、母親の借金を子どもが解決しなければ結婚は認められない、などということがあり得るわけがありません。

それにもかかわらず、メディアは一貫して「親の不始末は子どもの責任」という奇怪な論理でこの結婚に反対し、それに加えて新郎となる男性の“態度”が悪く、このままで幸福になれないなどと主張しました。当事者同士の合意を否定し、自分たち(なんの関係もない第三者)が気に入った相手との結婚しか許さないというのは常軌を逸していますが、「リベラル」なメディア(やその関連会社の媒体)ですら、こうした記事・番組を平然とつくりつづけたことはきびしく批判されるべきです。

それに輪をかけて不思議なのは、ふだんは「人権問題」に素早く反応し、ときに国会前でデモを行なったりする「人権派」が、婚姻の自由を全否定され、法を犯したわけでもない私人がさらし者にされる異様な事態に対してずっと沈黙していることです。この明白な人権侵害に抗議できないとしたら、これまでの立派な活動はいったい何だったのでしょう。

さらなる疑問は、「皇室を守る」と一貫して主張してきた右翼・保守派が、皇族への理不尽きわまりないバッシングに抗議しないばかりか、批判の先鋒となってメディアやネットに登場していることです。

ここからわかるのは、彼らが守ろうとしてきたのは「理想の家族」としての皇室で、そこから外れるものはいっさい許容しないという偏狭さです。その背後には、(かつては「欠損家庭」といわれた)母子家庭への差別意識も垣間見えます。

今回の事態の現代的な特徴は、結婚問題の記事がネットにあがるたびに、罵詈雑言にちかい膨大なコメントが殺到することです。そこには、「国民の税金で暮らしている」皇族には人権がないとか、「上級国民」としてのすべての“特権”の剥奪を求めるものなど、極端な意見が溢れています。これにもっとも近いのは、生活保護(ナマポ)受給者に対するバッシングでしょう。

これをまとめると、メディアは皇族のスキャンダルで商売したいと考え、あるいは「結婚に反対している高齢者層の反感を買いたくない」と身動きがとれなくなり、リベラルは「天皇制に触れると面倒くさい」と傍観し、右翼・保守派はネット民といっしょになって「皇室の破壊」に邁進したということになるでしょう。この状況を見て、将来、皇室の一員になろうと考えるまともな男/女がはたして現われるでしょうか。

フランスの哲学者サルトルは、「地獄とは、他人だ」と述べました。そのことがよくわかる、なんとも後味の悪い事態になりました。

『週刊プレイボーイ』2021年10月18日発売号 禁・無断転載